Randa Takieddine
サウジアラビアの決断がレバノン内戦の終了を手助けした
概要
1989年10月22日、サウジアラビアのリゾート地ターイフで、レバノン議会のイスラム教徒30人とキリスト教徒32人の間で行われた23日間の集中協議が、15年間の内戦を終わらせるための国民和解憲章への合意で終了した。
1923年から1946年までのフランスによる統治期間に確立された、宗教的信条による議席の割り当てについて、イスラム教徒に有利な人口の変化を考慮するための調整が行われなかったことを一因として、1975年、多宗派国家レバノンは悲惨な紛争に陥った。
ターイフ合意として知られるようになったサウジアラビアとアラブ連盟による断固たる外交の成果が、平和への道を切り拓いた。合意に達した日、東ベイルート出身のある国会議員がアラブニュースに喜びながら語った。「私たちは、アラブ世界から腫瘍を取り除き、辛く延々と続いた流血を止めた」楽観的すぎたとわかったのはその後だった。
パリ:ターイフ合意は、サウジアラビアによるレバノン内戦を終わらせようとする協調的取り組みの成果であった。他の関係者には、シリアのハーフィズ・アサド、米国政府、そして戦闘に加わる様々なレバノンの派閥が含まれた。サウジアラビアは、内戦を止め、1943年のレバノン国民協約を改善させるために、そうした関係者全てが関与する解決策を模索した。
国民協約は、当時の大統領ビシャラ・アルフーリーと当時の首相リヤド・アッスルフの間で交わされた口頭合意であり、多宗派国家として独立したレバノンの基礎を作った。それはキリスト教徒とイスラム教徒の間の権力配分についての取り決めで、常に大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派イスラム教徒、国会議長はシーア派とすることが求められた。継承された権力は、レバノンのキリスト教徒に特に有利だった。内戦では、この権力均衡の調整が要求された。また、アサドがレバノンにおいてより大きな影響力と主導権を手に入れようと力を増しつつある中で、レバノンとアラブ世界の関係の調整も要求された。
ターイフ合意は、故サウード・アルファイサル皇太子と当時ビジネスマンだった王国のレバノン人の友人ラフィーク・ハリーリの指導下で、ターイフでサウジアラビアが主催し、当時の国会議長フセイン・エルフセイニが主導した。合意は政治改革を含み、全権力がキリスト教徒の大統領に集中していた従来とは対照的に、閣僚会議が完全な権限と、イスラム教徒の首相がより大きな権限を得た。レバノンとシリアの間の特別な関係と、シリアによるレバノン撤退を開始するための枠組みが確立された。シリアのファルーク・アッシャラ外相はのちに、サウード皇太子にレバノン撤退を約束したことを否定した。シリアがついに撤退したのは、2005年にハリーリ首相が暗殺されてからだった。
「私たちは、アラブ世界から腫瘍を取り除き、辛く延々と続いた流血を止めた」
1989年10月23日、アラブニュースのレバノン国会議員
サウジアラビアは、1970年代後半以降レバノンのスレイマン・フランジェ大統領と次のエリアス・サルキス大統領の下で、レバノンでの内戦を終わらせるためのアラブ全体および世界的な取り組みに参加していた。1989年11月5日にレバノン国民議会がターイフ合意を承認し、それが達成された。次いで、ルネ・ムアウワドが大統領に就任した。
サウジアラビアは、1983年のジェノバと1984年のローザンヌでの平和会議を推し進めたが内戦を止めることはできなかった際、サウード皇太子の下で、アラブ連盟第三者委員会によるレバノンへの関与を仲裁しようとし続けた。モロッコの代表アブデルラティーフ・フィラーリ元外相とアルジェリアの代表シド・アフマド・ゴザーリー元外相に、レバノンへのアラブ連盟特使ラクダール・ブラヒミが加わった。
東ベイルートでPLOと思われる狙撃手らがキリスト教会を襲撃し4人を殺害したことから、マロン派とムスリムの間で戦闘が始まる。ファランヘ党が報復としてバスにいたパレスチナ人30人を殺害し、戦闘が拡大する。
リヤドでのアラブ連盟サミットが内戦の終了と平和維持を行うアラブ平和維持軍の創設を呼びかける。
ベイルートで、キリスト教徒の民兵とアラブ平和維持軍の主にシリア軍の間で百日戦争が始まる。
パレスチナ解放機構による国境での攻撃を止めるため、イスラエルが南レバノンに侵攻する。
レバノン軍団マロン派民兵の指導者でキリスト教ファランヘ党のバシール・ジェマイエルが大統領に選ばれる。
ジェマイエルとその他ファランヘ党高官26人がマロン派キリスト教徒の仕掛けた爆弾によって殺害される。
退任するアミーン・ジェマイエル大統領が、先例に反し、伝統的にイスラム教徒が就任するはずの首相に、仲間のマロン派キリスト教徒のミシェル・アウン将軍を指名する。
アウンがシリアの占領に対し解放戦争を宣言する。
ターイフ合意がなされるが、アウンが反対する。
ターイフ合意が承認され、議会がマロン派キリスト教徒のルネ・ムアウワドを第13代レバノン大統領に選出する。
ムアウワドが何者かに暗殺される。
アウンがシリア軍によりフランスへの亡命に追い込まれる。
シリア軍がついに撤退し、アウンがレバノンに戻る。
アウンがレバノンの大統領に選出される。
1988年のターイフの前のラバトでの最終委員会会議で、これらの3人の大臣がアッシャラを呼び出し、当時のミシェル・アウン首相の軍とサミール・ジャアジャア率いるレバノン軍団の両方にシリアが武器を供与した証拠があることを彼に警告したときだった。アウンは、アサドの命令を受け入れなかった退任するアミーン・ジェマイエル大統領によって暫定首相に任命されていた。アサドの軍は、アーシュラフィーフのキリスト教徒の拠点を攻撃した。アウンは、フランス大使のルネ・アラに保護され、フランスへ行き長い亡命生活を始めた。
(ラフィク・)ハリーリは世界の様々な首都を行き来し、改革への合意と大統領の選出のための王国での会議を準備した
Randa Takieddine
終戦への取り組みは終わらず、サウジアラビアはバンダル・ビン・スルタン・ビン・アブドゥル・アズィズ皇太子とハリーリという2人の交渉者を介して活動した。これはハリーリによるレバノン情勢への政治的関与の始まりだった。ファハド国王は、レバノンでの解決策への取り組みの指揮をバンダル皇太子に委ね、ハリーリは世界の様々な首都を行き来し、改革への合意と大統領の選出のための王国での会議を準備した。
ハリーリはレバノン議員に、サウジアラビアを訪れターイフに招かれるよう説得した。彼らは権力バランスを正し、閣僚会議とイスラム教徒の首相により影響力を与えることに合意した。
1989年10月23日のニュースを示すアラブニュースアーカイブの1ページ。
民兵との和平交渉が決裂したため、サウジアラビアは主導権を執り、レバノン国民議会が活動できるよう助力した。ターイフ合意が締結されたが、アウンは条件を受け入れなかった。ムアウワドの選出と15日後のレバノン独立記念日式典からの帰路での暗殺の後、シリアが支援するザーレ議員のエリアス・ハラウィが大統領に就任した。
レバノンで勤務した優れたフランスの外交官が発した忘れられない一言が、現在そこで広がっている悲惨な状況を鑑みると、未だ真実に思える。「レバノンで内戦を起こした政治階級は今でも権力を握っているが、国の統治には成功できない」