壁の崩壊が明らかになったとき、共産主義側の警備兵の多くは(過去30年間に200人ものドイツ人を死に追いやった最も知られている兵士ではない)身元がばれることを恐れて制服を脱ぎ捨てて、広いウンター・デン・リンデン通りを下って逃げていった。皮肉なことに、多くの者がその後拘留され、ドイツの11月の厳しい寒さの中で下着だけを着るよう強要された。
1938年9月、イギリスのネビル・チェンバレン首相は、アドルフ・ヒトラーのスデテンランド併合を「我々が何も知らない他人の、遠く離れた国での口論」と表現した。一年後、イギリスはナチス・ドイツと戦争状態になった。
1961 年 6 月、東ドイツの指導者ウォルター・ウルブリヒトは宣言した「壁を建設する意図はない 」と。これが壁建設を明らかに意図していたことを示す最初の手がかりだった。
ロス・アンダーソン
1989年11月11日、一面の大部分を「遠くの国」であるドイツの出来事に割いていた『アラブニュース』には、そのような偏狭な近視眼はなかった。しかし冷戦が一つの都市で毎日繰り広げられたことは中東と世界全体に深刻な影響を与えていた。
壁の崩壊が避けられなかったとすれば、1961年8月第二次世界大戦後のヨーロッパの分裂の最中に行われたその建設もまた避けられなかっただろう。紛争が終結してから4年以内に、ソ連は東欧全域に傀儡共産主義政府を設置し、その中には新しいドイツ民主共和国(東ドイツ)も含まれていた。
西側の同盟国は、ソ連が支配す地域と同じ場所に並行して政権を置き、それがドイツ連邦共和国(西ドイツ)となった。この冷戦の最前線は、共産主義の東側に囲まれた西側の飛び地である西ベルリンであった。
これは決してうまくいくはずがなかった。西側がアメリカからマーシャル計画の資金の流入により繁栄すると、東側は経済の失敗と硬直した官僚制度により停滞した。
緊張は12年間も続き、東側から西側へ、若者や聡明で野心的な人々の「頭脳流出」によって悪化した。1961年6月、東ドイツの指導者ウォルター・ウルブリヒトは「壁を建設する意図はない 」と宣言した。これが壁建設を明らかに意図していたことを示す最初の手がかりだった。
東ドイツの軍隊と警察は8月12日の真夜中に国境を閉鎖し、その翌日、ドイツではまだ「有刺鉄線の日曜日」として知られているが、西ベルリンを封鎖し始め、これが壁の始まりとなった。1961年、1962年、1965年、1975年と4回の強化を経て完成した壁は、長さ150km以上、高さ4m、監視塔186基、ドッグラン250基以上、貯蔵施設20基を備えていた。
年表 1961年8月12日 1
東ドイツ共産党指導者ウォルター・ウルブリヒトが、東ベルリンと西ベルリンを分離するための壁の建設を命じる。
1961年8月13日 2
ベルリンの壁の建設が始まる。
1963年6月26日 3
ジョン・F・ケネディ米大統領は西ベルリンでの演説で、「今日、この自由な世界において、最も誇り高き言葉は『私はベルリン市民だ』である。」と述べる。
1987年6月12日 4
西ベルリンを訪問中のロナルド・レーガン米大統領は、ソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフに 「この壁を取り壊して」と呼びかけた。
1989年11月9日 5
東ドイツ政府は渡航制限を解除し、群衆は壁の解体を開始。
1990年10月3日 6
西ドイツと東ドイツがドイツ連邦共和国として再度統一。
1991年12月25日 7
ゴルバチョフがソビエト連邦大統領を辞任し、代わりにボリス・エルツィンがロシア新国家の大統領に就任。
ソビエト圏は40年間、壁の目的は市民を閉じ込めることではなく、「ファシストである西側」を締め出すことであると主張してきた。しかしその主張は事実により真実味が薄れている。1961年から1989年までの間に、5,000人以上の東ドイツ人が、壁の下にトンネルを掘ったり、壁の上を飛び越えたり、単純に壁を車で突破したりすることにより、壁を打ち破ってきた。西側から東側に壁を越えた人の数が多いとは考えられない。
壁とそれを象徴するものは、歴代のアメリカ大統領の怒りをかうものだった。壁建設から2年足らずで、ジョン・F・ケネディは西ベルリンで45万人の群衆にこう語りかけた。「全ての自由を追求する人々は、どこに暮らしていようとも、皆ベルリン市民なのだ。だからこそ、一人の自由主義者として、私は『Ich bin ein Berliner』(『私はベルリン市民である』)という言葉に誇りを覚える。」知ったかぶる人々(とパン屋)は、ジョン・F・ケネディが自身のことをジャムだらけのドイツ菓子だと宣言していたと指摘したが、その指摘は的中した。
24年後、ブランデンブルク門での演説で、ロナルド・レーガンはソビエトの指導者ミハイル・ゴルバチョフに直接挑発した。「平和を求めるならば、ソ連と東欧の繁栄を求めるのであれば…ゴルバチョフ大統領、この壁を壊しなさい!」
レーガンに長く待つ時間はなかった。その後まもなく、ソ連側の共産主義国が倒れ始めドミノ現象が始まっていた。ポーランドの共産党政権は政権を追われた。ハンガリーはオーストリアとの国境沿いのフェンスを解体し、1万3千人の東ドイツ人がフェンスのルートを通って西に向かった。チェコスロバキアには懸念があった。壁があと100年は存在するだろうと予測していた東ドイツの傀儡指導者であるエーリヒ・ホネカーは、1989年10月に辞任した。彼は、人生の大半がそうであったように、間違っていた。
最終的には、壁は予想よりも早く取り壊された。失敗に終わった東ベルリン共産党幹部による11月9日の記者会見の後、西側への渡航規制が緩和され、何千人もの歓喜に沸く東ドイツ人が壁に集まり、横断ゲートの開放を要求した。より進取的な者は壁の頂上に登り、そこで壁の反対側の兄弟姉妹と合流した。数では圧倒的に劣り、上からの命令もなく(彼らの指揮官も同様に混乱していた)、国境警備兵はただ脇に立っていた。壁は崩壊していた。
「ベルリンの壁により建設された最大規模の刑務所に市民を閉じ込めてから 28 年後、東ドイツ政権は自由への抵抗できない圧力に屈した。」
1989年11月11日のアラブニュースの社説より
ベルリンのテーゲル空港の入国審査カウンターで、金髪の若者は友好的だが毅然とこう述べた。「必要ない」と。
「パスポートにスタンプを押す必要はない! 今日、我々は再び一つの国になった!歴史的な日だ!我々皆が訴えたのだ。しかし、あなたは理解していないが、これこそがパスポートにスタンプを押して欲しい理由だ。」
結局、通貨の補助単位ペニヒは廃止された。ゲルマン的な効率性で到着ラウンジの一角に机が設置され、歴史を知る人が自身のパスポートに、ドイツが再統一された歴史的な日である1990年10月3日を刻印するため列を作った。
ベルリン中心部では、壁の崩壊から1年も経たないうちに、壁があったことを示す唯一の痕跡は、街の中心部を突き通る細い傷である。唯一の痕跡はかつて西側だったところからかつて東側だったところへ渡るまで続いた。
1989年11月11日のニュースを掲載したアラブニュースのアーカイブのページ。
西側は活気に満ち色めき立っており、前年の11月からパーティーが続いていたようだ。一方東側は陰鬱な雰囲気であった 。通りは暗然たる様子で、建物も薄暗く、人々でさえも鬱鬱としていた。彼らの表情は何十年もの貧しい食生活を示し青白く沈んでいた。
それ以来、旧東ドイツは、2兆ユーロ(2.14兆ドル)という目を見張るような再統一費用をかけながらも、かなりの成功を収め西ドイツに追いついてきた。このことはアンゲラ・メルケル首相に最も現れている。生後3ヶ月から東ドイツの都市ライプツィヒで育ち、14歳で共産主義青年同盟の公式運動に参加し、現在はドイツの右派首相を務めている。レーガンも誇りに思うだろう。
ロス・アンダーソンは、アラブニュースの副編集長で、ベルリンの壁が崩壊した夜、ロンドンのトゥデイ紙の上級編集者を務めていた。 翌年にはドイツを訪れ、10月3日の統一記念日にはベルリンにいた。