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ブトロス・ブトロス=ガーリが国連総長になった時

ブトロス・ブトロス=ガーリは、経歴の初期に、ジミー・カーター合衆国大統領が画策したキャンプデービッド合意で卓越した交渉役を演じた(Getty Images)。
ブトロス・ブトロス=ガーリは、経歴の初期に、ジミー・カーター合衆国大統領が画策したキャンプデービッド合意で卓越した交渉役を演じた(Getty Images)。
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27 May 2020 09:05:14 GMT9
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アブデルラティフ・エル=メナウィ博士(カイロ)

1992年から1996年まで就任したエジプトの外交官は、その役職を担った唯一のアラブ人であった。 

要約

1991年12月3日、エジプトの政治家であるブトロス・ブトロス=ガーリ(Boutros Boutros-Ghali )が第6代国連総長に任命され、アフリカ大陸出身で初めて就任することになった。彼は、他の14名の候補者との競争を勝ち抜き、安全保障理事会により選出された。

経歴の初期に、ジミー・カーター(Jimmy Carter)アメリカ大統領が画策したキャンプデービッド合意で顕著な交渉役を演じ、1979年、エジプトとイスラエルの間で平和条約の署名に導いた。

しかし、合衆国と衝突を繰り返し、国連事務総長としてのブトロス=ガーリの5年間の任期の主要テーマとなった。これは、主にユーゴスラビア、ルワンダ、ソマリアにおける数多くの課題の危機と一致し、国連組織の有効性に疑いを投げかけた。

ブトロス=ガーリには国連安全保障理事会15か国のうち14か国の支持があり、1996年の再選に反対はなかったが、合衆国の拒否権により2期目が拒否された初の現職事務総長になった。

カイロ:20世紀の後半のエジプト外交官は、ブトロス・ブトロス=ガーリの名声と国際的地位を享受していないだろう。彼は国連事務総長の役目を担った唯一のアラブ人で、任期は1992年から1996年まで続いた。

ブトロス・ブトロス=ガーリの名前は、エジプトでは今日、現在祖国が直面している危機の中で、特に大エチオピア再生ダム(Grand Ethiopian Renaissance Dam)問題に関してしばしば思い出される。エジプト人ならどんな者でも、祖国の歴史でアフリカ諸国に最も関連したエジプトの公務員であることをよく知っている。国連事務総長の任命さえ、アフリカ諸国により主に支持された。

ブトロス・ブトロス=ガーリは、現代エジプトの歴史で最も顕著な政治家の一人である。彼の名声は地元から全世界的なものになった。事務総長任期中、国連は世界的な難題に直面した。それは世界情勢の急激な変化と一致し、ソ連崩壊、冷戦終結、一極時代とアメリカの覇権の開始を伴った。この期間には、湾岸戦争の反響、ユーゴスラビア連邦解体、ルワンダ虐殺もあった。

ブトロス=ガーリは、任期中、平和的手段で衝突を緩和し、紛争を解決する国連組織の動作機構と衝突への干渉の手段を開発することに成功した。ガーリーは、予防的外交と和平努力の概念を発展させ、平和を維持する試みと衝突終了後に平和を維持することも行った。

外務大臣に任命されなかったことが、生涯を通じて彼を塞ぎ込せたことは、彼の側近には知られている。

アブデルラティフ・エル=メナウィ博士

ブトロス・ブトロス=ガーリは、1922年11月4日、カイロでコプト正教会の家に生まれた。名前を取った父系の祖父は、1908年からエジプト首相で、1910年に暗殺された。母方の祖父(Michael Sharobim)は重要な歴史家で、「古代現代エジプトの歴史へのガイド(The Ample Guide to the Ancient and Modern History of Egypt)」の著者である。「私は最初から政府と関係ある家庭に生まれた」と記者とのインタビューで語った。家族の多くは外務省とつながりがあった。

ブトロス・ブトロス=ガーリは、アンワル・アッ=サーダート(Anwar Sadat)大統領のエルサレム和平訪問の後、辞職したイスマイール・ファハミ(Ismail Fahmy)の後任として1977年に外務大臣代理に最初に就任した。彼は、ファハミと同様な理由でサーダートと意見が合わず、キャンプデービッド合意署名の前日に辞任したモハマド・イブラーヒーム・カメル(Mohammed Ibrahim Kamel)の後任として1978~1979年に復職した。

 

Key Dates

  • 1

    ブトロス・ブトロス=ガーリ、カイロで誕生。

  • 2

    エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートのエルサレムへの歴史的訪問に同行。

    Timeline Image 1977年
  • 3

    エジプトの外務担当大臣を務める。

    Timeline Image 1977~1991年
  • 4

    エジプトとイスラエルで署名された合意の交渉役としてキャンプデービッドサミットに出席。

    Timeline Image 1978年9月5~17日
  • 5

    国連事務総長に任命。

  • 6

    国連事務総長の5年間の任期が開始。

    Timeline Image 1992年1月1日
  • 7

    国連が委任したソマリア・モガディシュの「ブラックホーク・ダウン」奇襲で米軍に死者19名発生、合衆国は作戦失敗に対してブトロス・ブトロス=ガーリを非難。

  • 8

    合衆国拒否権により国連事務総長2期目を拒否。

  • 9

    ワシントンとの5年間の戦いを説明し、国連の失敗に対する「偽善的で傲慢な」アメリカを非難した回顧録「打ち負かされず─国連とアメリカのサーガ(Unvanquished: A US-UN Saga)」を出版。

  • 10

    93歳でカイロで死去。

    Timeline Image 2016年2月16日

ブトロス・ブトロス=ガーリは、ホスニー・ムバーラク(Hosni Mubarak)政権の元、留任し、アメリカからの強い反対のあった国連事務総長として1期に就任前の数か月、副首相、移民担当大臣、副外務大臣など他の複数の地位を兼務した。

エジプト外務省の経歴にもかかわらず、外務担当大臣の役職だけを担い、外務大臣には任命されなかった。「民間外交の父」というニックネームをエジプト人が与えても、外務大臣に任命されなかったことは、生涯を通じて彼を塞ぎ込せたことは、彼の側近には知られている。

「国連総会の演説で、ガーリは中東については特に言及しなかったが、アラブとイスラエルの衝突への解決策を見つける優先度を与えるものと期待されている。」

12月4日付Arab News第1面に関するAP の記事より

ブトロス・ブトロス=ガーリは、1991年、国連事務総長に選ばれ、任期中、大きな困難に直面した。この困難は、彼の著書「ガラス張りの家での5年(Five Years in a Glass House)」で執筆されているが、当時世界を席巻した危機におけるアメリカの役割など、隠された問題の多くが明かされている。

著書では、ワシントンとの悪化する関係も明らかにしている。派手な対外ポジションで満足し、実権や必要な資金を与えずに激化する戦いに国連を駆り立てるものとしてワシントンを描いている。この悪化する関係により最終的には役職を失った。1996年、エジプト、ギニアビサウ、ボツワナを含む委員国連安全保障理事会10か国は、ブトロス・ブトロス=ガーリの任期を5年延長を求める決議を提出した。15か国中14か国は決議を支持したが、アメリカは拒否権を発動し、世界で最重要な国際組織である国連を去らざるを得なかった。

2期目に反対するアメリカの拒否権には、1996年合衆国大統領選に関連した政治的圧力、ボスニア戦争やルワンダ虐殺などの問題に関するアメリカと国連の不一致、そして国連へのアメリカの未払い金に関する緊張など、理由がいくつかあったとブトロス・ブトロス=ガーリは書いた。

国連を去った後、ブトロス・ブトロス=ガーリは、初代事務総長としてフランコフォニー国際機関(Organization Internationale de la Francophonie)を率いた。また、1月25日の出来事の勃発とムバラク辞任の後、2011年2月に辞任するまで、エジプトの人権国民会議(National Council for Human Rights)の議長を務めた。




1991年12月4日付ニュースを示したArab Newsアーカイブ紙面

エジプト政府が2003年に人権国民会議設立を決定した時、組織を主導するに相応しい著名なエジプト人は他にいなかった。彼には求められる資質が全てがあり、創立から2011年まで評議会を率いるべく選出された。2013年には評議会の名誉議長として再任された。

エジプト人が最も記憶しているブトロス・ブトロス=ガーリのスタンスには、ムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)を廃止し、当時の潘基文(Ban Ki-moon)国連事務総長に「ムハンマド・ムルシーの退陣を求める抗議のあった1月30日にエジプトで起きたことは、立派な革命であり、その間に宗教に見せかけたファシスト政権は取り除かれた」と伝えた。

そのメッセージの中で、ブトロス・ブトロス=ガーリは、国連の役割は、国連の機構と構成全てを使って、「国家間の国際的平和と安全と協力を達成すること」であり、国連が生み出すものは「平和、安全、正義に役立ち、テロリズムと戦うための原理と憲章を満たすこと」を追求する必要があると述べた。また、「宗教に見せかけて、一派のために他の人々全てを犠牲にして社会の分断のため働いたファシスト政権を取り除くためエジプトの民衆は反乱を起こした」と書いた。彼は、エジプトの民衆は「差別を深化させた政権を取り除くために」暴動を起こしたとも追加した。

ブトロス・ブトロス=ガーリは、2016年2月16日、闘病の末、93歳でカイロで死去した。治療を行い、緊急手術を行うため、カイロからパリへ輸送するため到着していた 国連救急輸送機で海外移動を準備していた。カイロで亡くなり、息を引き取るまでそこにいた運命は、彼への忠誠心から、そして時代と努力への感謝するため、エジプトが彼の魂を祖国から放さすことを拒んだようだった。彼は幼少のころから人生をエジプトに捧げていた。

エジプト政府は陸軍葬で別れを行い、コプト教会アレクサンドリア総主教タワドロス2世(Tawadros II )が祈りを捧げ、アブドルファッターフ・アッ=シーシー(Abdel Fattah El-Sisi)大統領および他の政府高官たちが参列した。彼は、聖ペテロ教会に埋葬された。

Arab Newsのコラムニスト、アブデルラティフ・エル=メナウィ博士は、1983年に初めてブトロス・ブトロス=ガーリと会った。エル=メナウィは雑誌「Al-Majalla」でジャーナリストを始めたばかりで、ブトロス・ブトロス=ガーリは外務担当大臣だった。会議が終わる頃には、長年に渡る職業上の関係が生まれていた。Twitter: @ALMenawy 

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