1992年から1996年まで就任したエジプトの外交官は、その役職を担った唯一のアラブ人であった。
1991年12月3日、エジプトの政治家であるブトロス・ブトロス=ガーリ(Boutros Boutros-Ghali )が第6代国連総長に任命され、アフリカ大陸出身で初めて就任することになった。彼は、他の14名の候補者との競争を勝ち抜き、安全保障理事会により選出された。
経歴の初期に、ジミー・カーター(Jimmy Carter)アメリカ大統領が画策したキャンプデービッド合意で顕著な交渉役を演じ、1979年、エジプトとイスラエルの間で平和条約の署名に導いた。
しかし、合衆国と衝突を繰り返し、国連事務総長としてのブトロス=ガーリの5年間の任期の主要テーマとなった。これは、主にユーゴスラビア、ルワンダ、ソマリアにおける数多くの課題の危機と一致し、国連組織の有効性に疑いを投げかけた。
ブトロス=ガーリには国連安全保障理事会15か国のうち14か国の支持があり、1996年の再選に反対はなかったが、合衆国の拒否権により2期目が拒否された初の現職事務総長になった。
カイロ:20世紀の後半のエジプト外交官は、ブトロス・ブトロス=ガーリの名声と国際的地位を享受していないだろう。彼は国連事務総長の役目を担った唯一のアラブ人で、任期は1992年から1996年まで続いた。
ブトロス・ブトロス=ガーリの名前は、エジプトでは今日、現在祖国が直面している危機の中で、特に大エチオピア再生ダム(Grand Ethiopian Renaissance Dam)問題に関してしばしば思い出される。エジプト人ならどんな者でも、祖国の歴史でアフリカ諸国に最も関連したエジプトの公務員であることをよく知っている。国連事務総長の任命さえ、アフリカ諸国により主に支持された。
ブトロス・ブトロス=ガーリは、現代エジプトの歴史で最も顕著な政治家の一人である。彼の名声は地元から全世界的なものになった。事務総長任期中、国連は世界的な難題に直面した。それは世界情勢の急激な変化と一致し、ソ連崩壊、冷戦終結、一極時代とアメリカの覇権の開始を伴った。この期間には、湾岸戦争の反響、ユーゴスラビア連邦解体、ルワンダ虐殺もあった。
ブトロス=ガーリは、任期中、平和的手段で衝突を緩和し、紛争を解決する国連組織の動作機構と衝突への干渉の手段を開発することに成功した。ガーリーは、予防的外交と和平努力の概念を発展させ、平和を維持する試みと衝突終了後に平和を維持することも行った。
外務大臣に任命されなかったことが、生涯を通じて彼を塞ぎ込せたことは、彼の側近には知られている。
アブデルラティフ・エル=メナウィ博士
ブトロス・ブトロス=ガーリは、1922年11月4日、カイロでコプト正教会の家に生まれた。名前を取った父系の祖父は、1908年からエジプト首相で、1910年に暗殺された。母方の祖父(Michael Sharobim)は重要な歴史家で、「古代現代エジプトの歴史へのガイド(The Ample Guide to the Ancient and Modern History of Egypt)」の著者である。「私は最初から政府と関係ある家庭に生まれた」と記者とのインタビューで語った。家族の多くは外務省とつながりがあった。
ブトロス・ブトロス=ガーリは、アンワル・アッ=サーダート(Anwar Sadat)大統領のエルサレム和平訪問の後、辞職したイスマイール・ファハミ(Ismail Fahmy)の後任として1977年に外務大臣代理に最初に就任した。彼は、ファハミと同様な理由でサーダートと意見が合わず、キャンプデービッド合意署名の前日に辞任したモハマド・イブラーヒーム・カメル(Mohammed Ibrahim Kamel)の後任として1978~1979年に復職した。
ブトロス・ブトロス=ガーリ、カイロで誕生。
エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートのエルサレムへの歴史的訪問に同行。
エジプトの外務担当大臣を務める。
エジプトとイスラエルで署名された合意の交渉役としてキャンプデービッドサミットに出席。
国連事務総長に任命。
国連事務総長の5年間の任期が開始。
国連が委任したソマリア・モガディシュの「ブラックホーク・ダウン」奇襲で米軍に死者19名発生、合衆国は作戦失敗に対してブトロス・ブトロス=ガーリを非難。
合衆国拒否権により国連事務総長2期目を拒否。
ワシントンとの5年間の戦いを説明し、国連の失敗に対する「偽善的で傲慢な」アメリカを非難した回顧録「打ち負かされず─国連とアメリカのサーガ(Unvanquished: A US-UN Saga)」を出版。
93歳でカイロで死去。
ブトロス・ブトロス=ガーリは、ホスニー・ムバーラク(Hosni Mubarak)政権の元、留任し、アメリカからの強い反対のあった国連事務総長として1期に就任前の数か月、副首相、移民担当大臣、副外務大臣など他の複数の地位を兼務した。
エジプト外務省の経歴にもかかわらず、外務担当大臣の役職だけを担い、外務大臣には任命されなかった。「民間外交の父」というニックネームをエジプト人が与えても、外務大臣に任命されなかったことは、生涯を通じて彼を塞ぎ込せたことは、彼の側近には知られている。