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ハリーリー元首相暗殺

どん底に叩き落とされたレバノン復興に中心的な役割を果たしたハリーリー氏は、1992~98年、2000~04年の2度にわたりレバノン首相を務めた。(Getty Images)
どん底に叩き落とされたレバノン復興に中心的な役割を果たしたハリーリー氏は、1992~98年、2000~04年の2度にわたりレバノン首相を務めた。(Getty Images)
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19 May 2020 09:05:01 GMT9
19 May 2020 09:05:01 GMT9

ファイサル・J・アッバース

元首相を亡き者にした自動車爆弾は、同時にレバノンの繁栄と自由という希望もことごとく消し去った。

【梗概】

2005
214日、ラフィーク・ハリーリー元首相を乗せた6台の車列がベイルートのにぎやかなコルニッシュ通りを通過したとき、駐車中の一台のトラックに仕掛けられた大型爆弾が炸裂、同氏と21人の同行者が殺害された。

ハリーリー氏は199298年、また200004年にかけてもレバノンの首相を務め、荒廃したレバノン再建の中心的な役割を果たしていた。ハリーリー氏は15年にわたるレバノン内戦をサウジの仲介により終わらせたターイフ合意を立案、国内の平和に向け国費を注入していた。中でも特筆されたのが、ベイルートの再建と経済復興だった。

ハリーリー氏の死は世界に衝撃を与えた。と同時に、血で血を洗う時代もようやく終りを告げると期待していたレバノン国民も激昂させた。が、その後の展開は、さながら「死せるハリーリー氏、生けるレバノン国民を走らす」だった。ハリーリー氏暗殺は平和的な国民の抗議活動を呼び起こし、やがてそれは「杉の革命」と呼ばれるようになった。そしてそれが、1976年以来レバノンに駐留していたシリア軍撤退へと結びつくこととなった。

 【ドバイ】2000年代前半の中東は不確実な時期を迎えていた。イラクではサダム・フセイン政権が倒れ、アルカイダとその無数の傘下組織は神出鬼没の狼藉を働いた。テロリストは血に飢え、手当たり次第に殺戮した。まさしく混乱と混迷の巷であった。

私がレバノンのフューチャー・テレビに入局しジャーナリズムの世界に足を踏み入れたのは、まさしくこの不安定きわまりない時代のことだった。その時代の話には事欠かない。多くは、死や破壊、謀略や共謀、復讐や血の抗争といったたぐいの話だ。暴力の連鎖は終わりもなく、度外れた悪意の塊のようにすら映った。

そんな時代にあってレバノンはひとり、ラフィーク・ハリーリー氏の稀代の成功譚を謳歌していた。ハリーリー氏のビジョン、さらにはサウジが仲介し内戦を終結させたターイフ合意もあり、レバノンは「東のスイス」としての地歩を見いだすにいたっていた。

 

ハリーリー氏は首相として1992年から98年、2000年から2004年の都合2回、レバノンの舵を取った。同氏の指導でレバノンは復興、血塗られた内戦でばらばらに引き裂かれたレバノンを新生させた。レバノンにとっては夢のような時代だった。

中東で広く見られる水たばこのたしなめるカフェでは、どこもレバノンの話題で持ちきりとなった。なにしろ、灰燼と化した国土から立ち上がり、自国民のみならず世界の賛嘆も勝ち得ているような国がこの中東にある、というのだから。本来なら他国の手本となっていてもおかしくなかった。この史上稀な歴史的再建をになったのが、誰あろうハリーリー氏だった。

だが、残念なことに、人もいうように、よいことは長続きしないものだ。中東ではむしろ、単に長続きしないだけでは気が済まず、修羅の巷と化してしまう、というべきか。長らく時機を窺っていた邪悪な勢力、死と破壊をもたらす者どもの襲撃は、要するにそうしたいきさつで起こった。襲撃現場はベイルート中心部。その破壊力たるや、1,800kgにもなんなんとする恐るべき爆発物を秘めていた。ハリーリー氏は暗殺されたとき、まだ60歳でしかなかった。

Key Dates

  • 1

    ラフィーク・ハリーリー首相が国連安保理決議1559を支持。シリアおよびその他外国軍のレバノン撤退を求める。

  • 2

    ハリーリー首相、国内のシリアの動きに反発し抗議の辞任。

    Timeline Image 2004年10月20日 
  • 3

    ハリーリー氏、国民会議の選挙運動中、野党勢力に安保理決議1559支援を求める。

  • 4

    ハリーリー氏暗殺。

    Timeline Image 2005年2月14日 
  • 5

    国際世論の圧力や大規模な抗議運動「杉の革命」に押され、シリア軍がついにレバノンから撤退。

    Timeline Image 2005年4月27日 
  • 6

    ハリーリー氏暗殺を究明するため、国連指定の国際法廷「レバノン特別法廷」がハーグで開廷。最終的にヒズボラ所属の4人の容疑者が訴追。1人はその後死亡、3人は逃亡中。

    Timeline Image 2009年3月1日 

当時私は4,000キロ近くも離れたロンドンにいて、『アッ=シャルク・アル=アウサト』紙の一員だった。その日のことは悲痛な記憶とともに今も胸中にある。2005年2月14日の月曜日だった。そのころはまだツイッターもなく、私は突然のSMSの山に埋もれていた。それでオフィスまで駆けつけたのだ。

爆裂する車両を見つめながら、私は全世界が凍りつくさまを目睹した。私にとっては他人事とは言えないニュースだった。私はかつて、ハリーリー氏の創業したフューチャーテレビに在籍していた人間だし、ハリーリー氏のこともじきじきに存じ上げていた。ベイルートの爆破現場にいた多くの人々はかつての私の知己であり仕事仲間でもあった。かつての私の仲間であったカメラマンがむせび泣く姿も映像には収められていた。

だが、残念なことに、人もいうように、よいことは長続きしないものだ。中東ではむしろ、単に長続きしないだけでは気が済まず、修羅の巷と化してしまう、というべきか。

ファイサル・J・アッバース(本紙主筆)

1992年から2005年までの、ハリーリー氏ももっとも脂が乗った時期は「レバノン第2の黄金時代」と俗に称せられ、私もその空気を吸った人間であるだけに、悲嘆と怒りはいや増した。脳裏をいくつもの記憶がフラッシュバックした。

当時のフランス大統領ジャック・シラク氏がハリーリー氏と手を取り合ってレバノンの繁華街にやって来たときの高揚とした記憶がありありと蘇った。それは2000年代前半のうるわしき夏の夜のことだった。街は活気に満ちあふれ、そこにはレバノン市民のみならず、他国からレバノンに逃れた人々や旅行客の姿もあった。復興なったばかりの当時のレバノン首都ベイルート中心部では、あるいは高級料理をたしなむ人々、あるいはショッピングを楽しむ人々、あるいはクラブに繰り出す人々、あるいは水たばこを吹かしている人々の姿がそこここに見られた。

実ににぎにぎしく活気に満ちた雰囲気の中を、私は多くの友人らと着座していたことを思い出す。われわれは、今はなき汎アラブ紙『アル=ハヤート』本社の向かいにあった有名なダウンタウンカフェに落ち着いていた。矢継ぎ早の注文を懸命にさばいているウエイターに気付いてもらうだけで大変な労力を要した。なにしろ、注文の大半は気前よくチップを払う湾岸諸国からの旅行客ばかりで、彼らにしてみればウエイターの気を引くことなど造作もないことだったが、学生にすぎなかったわれわれは店員に気付いてもらうだけで一苦労だったのだ。

そのときだしぬけに、われわれのテーブルのそばにいたサックス奏者が演奏をぱたりと止めた。その場の全員が一斉に立ち上がり、周囲にいた人たちが拍手喝采を始めた。ハリーリー氏が現れたのだ。シラク氏と手を取りながら。

当時シラク氏はレバノン公式訪問中だった。ハリーリー氏はみずからシラク氏を案内し、レバノン国民がその社会もその実態も進展させた姿を目にしてもらおうと決めたのだ。ハリーリー氏があれほどの労力を払い国民に与えた活気ある暮らしぶりをシラク氏に実地に体感してもらうには、まさにうってつけの方法だったといえる。

ボディーガードの姿は見えなかった。武器も見当たらなかったし、本来あってしかるべき形式的なあれこれも微塵も見えなかった。あろうことか両首脳は気さくに市民にあいさつし握手を交わしてすらいた。とそのとき、何の合図もなくサックスがフランス国歌を奏ではじめた。



2005年2月15日付アラブニュース・ウェブサイトの1ページ。

10年にも満たぬ間にハリーリー氏がともかくレバノンを立ち直らせてしまったその手腕は驚嘆措くあたわざるものだった。新空港も作られたしダウンタウンも新たに作られた。観光業は花盛りだった。レバノンはなにもかもがうまく行っていた。レバノン華の時代、世に言う第2黄金時代だった。

ロンドンの私は瞬時に、レバノンにとってハリーリー氏の暗殺がいかに衝撃となるかを悟った。まず間違いなくよくなることはないし、社会の礎が次から次へと落魄していくさまを頭に描き、それから痛切な思いでその様子を見守った。

レバノンはいまや債務不履行に陥り、人々は職やチャンスもなく、あろうことか終日通電のような基本的な生活条件にすら事欠くていたらくに抗議活動で対している。選挙でどこが政権を取ろうと、今のレバノンを実質的に支配しているのはイランが支援するヒズボラである実態は、案ずるに余りある。

平和で豊かなレバノン。その望みのすべてはハリーリー氏暗殺により潰えた。中東各地には悲愴な物語がかつてあったし今もある。その新たな1ページとなったにすぎなかった。すでに同氏の暗殺から15年の月日が過ぎた。その間私は、レバノン情勢について枚挙にいとまのない記事をしたためてきた。それらを書きながら、ハリーリー氏がレバノンに示した輝かしいビジョンや指導力のことを切なく懐かしく思い出さなかったことはない。が、遺憾ながらそうした時代は去った。もはや戻ることもない。

「爆発により路上には直径10メートルの穴が開いた。少なくとも20台以上の車両が火に包まれ、あのフェニキアホテル正面にも累が及んだ。同ホテルは窓ガラスが粉砕しバルコニーには無数のがれきが散乱した」

2005年2月15日付アラブニュースより、記者=ダニエル・フサリー

ハリーリー氏には先を見据える目があった。が、そのビジョンも彼とともに葬り去られた。ハリーリー氏については、サウジアラビアの傀儡で、レバノンに目下の負債を抱えさせた張本人だ、と反ハリーリー陣営は言う。ハリーリー政権が借金をせねばならなかったのは確かだ。が、同時にレバノンは復興の途上であり、各種数値もそのことを示していた。

同氏がサウジの傀儡であったかどうか――これについては、先にサウジの国防副大臣、ハーリド・ビン・サルマーン王子が『VICE』誌でいみじくもこう述べている。「レバノンへ、サウジアラビアはツーリストを送った。イランが送ったのはテロリストだ(ハリーリー氏殺害の罪を問われたヒズボラなど、ということ)」

ふたつのレバノンの姿のどちらが望ましいか、もし疑う向きがあるなら比べてみるがよい。ひとつは、シラク氏が訪問した時期、ハリーリー氏が先導したベイルートの繁華街。いまひとつは、ヒズボラの武装支配下にある今のベイルートのありさま。ベイルートだけではない。レバノン中がそうだ。政治が引き裂いた結果もはや機能停止し、企業活動は閉鎖、旅行客など那辺にも見当たらない。比べてみるまでもあるまい。

  • アラブニュース主筆ファイサル・J・アッバースは、ジャーナリストとしての歩みをレバノンから始めた。ツイッター:@FaisalJAbbas
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