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ナギーブ・マフフーズ氏のノーベル文学賞

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話を寓話的に改作した1959年の小説『ゲベラウィの子供たち』は発禁となり、1994年に彼はイスラム教過激派からナイフで攻撃されたが一命はとりとめた。(AFP通信)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話を寓話的に改作した1959年の小説『ゲベラウィの子供たち』は発禁となり、1994年に彼はイスラム教過激派からナイフで攻撃されたが一命はとりとめた。(AFP通信)
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01 Jun 2020 09:06:40 GMT9
01 Jun 2020 09:06:40 GMT9

アブデラティフ・エル・メナウィ

概要

19881013日にエジプト人作家ナギーブ・マフフーズ氏が、エジプト人として、そしてアラビア語圏の作家として初のノーベル文学賞を受賞した。

当時76歳のマフフーズ氏は、それまでに30作以上の小説と350作以上の短編を含む豊かで入り組んだ作品群を創作しており、その多くは映画化された。また、長年にわたりエジプトの有力日刊紙であるアルアハラム紙の週刊コラムも執筆していた。

ノーベル賞の表彰の言葉は、「明確な視野をもつ写実性がありながら、示唆に富む不明瞭さをも併せ持つ、ニュアンス豊かな作品を通して」マフフーズ氏は、「人類すべてに通用するアラビア語の物語アートを創作してきた」というものだった。

彼の作品は論争も巻き起こした。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話を寓話的に改作した1959年の小説『ゲベラウィの子供たち』は発禁となり、1994年に宗教過激派からナイフで攻撃されたが一命はとりとめた。

2006年にマフフーズ氏が死去した際に、ホスニ・ムバラク・エジプト大統領は、作家としてのマフフーズ氏の「啓蒙と寛容の価値」を称え、彼は「アラブ文学を世界にもたらした文化的偉人」として記憶されるだろうと述べた。

カイロ:1901年、最初のノーベル文学賞がフランスの詩人シュリ・プリュドムに授与された。それから80年以上を経た1988年10月13日にスウェーデン・アカデミーは、エジプト人作家ナギーブ・マフフーズ氏に賞を授与した。エジプト人初の受賞であると同時に、アラビア語圏作家の受賞という意味でも初めてのことだった。同アカデミーは声明で、「今日までマフフーズ氏は約50年間執筆してきました。彼は今なお疲れを知りません」と述べた。

そしてこう続けた。「マフフーズ氏の偉大かつ明白な業績は、小説と短編の執筆者としてのものです。彼の作品は小説というジャンルを、そしてアラビア語文化圏の文語の発展を力強く盛り上げてきました。しかしその領域のみに留まりません。彼の作品は我々すべてに語り掛けてくるのです」

「市場のコーヒーショップをよく訪れる控えめな76歳は、貧困を鮮明に描いてチャールズ・ディケンズになぞらえられている」

1988年10月14日のアラブニュース第1面のAP記事より

私は午前中にアルアゴウザにある彼の家の前を通り、いっしょにタハリール広場まで歩いていって『アリババ』という名の小さなカフェのテーブルに着いたものだ。そしてふたりで次の記事の話題を決めるのだ。彼がその話題についての見解や感じ方を提示し、私がノートをとった。その後に私がそれらの見解や構想をまとめ上げて次の話し合いで彼に示して承認を得るのだった。

彼と過ごした時間は特別な価値があった。それはアラビア文学や世界文学における重要人物の考え方に触れることのできる機会だった。しかし私は彼を深く知っていると言うつもりはない。彼はもともと控えめな人物であり、私は彼のことを限定的にしか知らなかった。マフフーズ氏がなぜ自身の個人生活を公にすることを望まず、スポットライトから離れていることを好んだのか私には理解できる。彼は1952年の革命後、執筆を中断していた期間にようやく結婚した。そして結婚を10年間隠しおおせた。

マフフーズ氏は7人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄とは10歳離れていたためにひとりっ子のような扱いを受けた。1919年の革命が起きたときには7歳を過ぎたばかりで、これが彼に深い影響を及ぼした。多くの小説で彼はこれを描いており、『カイロ三部作』の最初の作品である『バイナル・カスライン(Palace Walk)』ではそれが顕著だ。

 

Key Dates

  • 1

    ナギーブ・マフフーズ氏がカイロ旧市街で、公務員をしていたアブドゥル・アジズ・イブラヒム氏の7人の子供たちの末子として誕生

  • 2

    最初の長編小説『運命の嘲り』を出版した。この作品は2003年に『Khufu’s Wisdom(クフの英知)』として英語に翻訳される。

  • 3

    彼の最も有名な作品である『カイロ三部作』の最初の書籍『バイナル・カスライン(Palace Walk)』を出版する。この三部作は1919年の革命時代から3代にわたるカイリーン家の運命を追ったもの。続いて『カスル・アル・シャウク(Palace of Desire)』と『アル・スカリイヤ(Sugar Street)』が1957年に出版される。

    Timeline Image 1956年
  • 4

    ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の話を寓話的に改作した小説『ゲベラウィの子供たち』が宗教当局の反感を招きエジプトで発禁となる。

    Timeline Image 1959年
  • 5

    10月13日:ノーベル文学賞を受賞する。

  • 6

    10月14日:彼の作品に反感を抱くイスラム教過激派に首を刺され、神経に永久的損傷を受けて次第に執筆活動が困難になる。

  • 7

    最後の主要作品『第七天国』を出版する。この作品は、「精神性は私にとって非常に重要であって絶えずインスピレーションを与えてくれるものであり、また死後の私に何か良いことが起こると信じたい」ために書いたのだという。

    Timeline Image 2005年
  • 8

    8月30日:94歳でカイロにて死去。

私は午前中にアルアゴウザにある彼の家の前を通り、いっしょにタハリール広場まで歩いていって『アリババ』という名の小さなカフェのテーブルに着いたものだ。そしてふたりで次の記事の話題を決めるのだ。彼がその話題についての見解や感じ方を提示し、私がノートをとった。その後に私がそれらの見解や構想をまとめ上げて次の話し合いで彼に示して承認を得るのだった。

彼と過ごした時間は特別な価値があった。それはアラビア文学や世界文学における重要人物の考え方に触れることのできる機会だった。しかし私は彼を深く知っていると言うつもりはない。彼はもともと控えめな人物であり、私は彼のことを限定的にしか知らなかった。マフフーズ氏がなぜ自身の個人生活を公にすることを望まず、スポットライトから離れていることを好んだのか私には理解できる。彼は1952年の革命後、執筆を中断していた期間にようやく結婚した。そして結婚を10年間隠しおおせた。

マフフーズ氏は7人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄とは10歳離れていたためにひとりっ子のような扱いを受けた。1919年の革命が起きたときには7歳を過ぎたばかりで、これが彼に深い影響を及ぼした。多くの小説で彼はこれを描いており、『カイロ三部作』の最初の作品である『バイナル・カスライン(Palace Walk)』ではそれが顕著だ。

1934年にカイロ大学哲学科を卒業した後、彼は『イスラム哲学における美』についての修士論文を準備し始めたが、考えを変えて文学に焦点を当てることにした。しかし文学は毎月収入が得られる職業ではなく趣味のようなものであったため、いくつかの官公庁でさまざまな地位に就いた。

1930年代半ばに彼は文筆を開始し、短編が雑誌『アルリサラ』に掲載された。1939年に最初の小説『アバス・アル・アクダル(Mockery of the Fate=運命の嘲り)』が出版された。これは歴史の写実主義という彼のコンセプトを提示するもので、後に続く『ラドゥビス(Rhadopis of Nubia=ヌビアのラドピス)』と『キファ・ティバ(Thebes at War=戦争のテーベ)』とでファラオ時代の歴史三部作が完成した。

1945年は、マフフーズ氏の文学経歴のほとんどを占めるようになる写実的な執筆作品の始まりの年となった。『カイロ・モダン』、『ハン・アル・ハリリ』、『ミダック・アリー』、『始まりと終わり』などの小説にそれが反映される。この段階での彼のスタイルは、印象派から超現実主義まで幅広く、示唆に富むボキャブラリーパターンや作品をまとめる比喩的描写を駆使していた。また『ザ・べガー』や『街角の子供たち』に見られるように、意識の流れを集中的に使う彼の手法には説得力があった。彼はまた、『ハラフィッシュ』や『アラビアンナイト後日譚』のように、複数の世代を網羅する小説の執筆にも卓越していた。

1919年の革命が起きたときには7歳を過ぎたばかりで、これが彼に深い影響を及ぼした。

アブデラティフ・エル・メナウィ

多くの人々が、英語で『Children of Gebelawi(ゲベラウィの子供たち)』と訳された作品『街角の子供たち』をマフフーズ氏の最重要作品と捉えている。これは1959年9月にアルアハラム紙で連載が開始されたが、宗教団体の反対により同年12月25日に休止となった。マフフーズ氏をエジプトの宗教当局との確執に陥れたのはこの小説だった。カイロの宗教大学アル・アズハル大学が、アルアハラム紙の連載後にこの作品が書籍化されることに反対したのだ。この書籍がベイルートで出版されるまでにそれから8年がかかった。何年も経た1995年に、この本が動機となって著者であるマフフーズ氏は命を狙われ、首に怪我を負って入院した。これにより彼の右腕に部分的な麻痺が残った。




1988年10月14日のニュースを示すアラブニュース・アーカイブからのページ。

1988年ノーベル賞受賞の裏話として、同氏のいくつかの他の作品とともにこの作品が、当時候補に挙がっていた他の作家たちとの差を決定的にしたのだと言われている。

2004年に出版された『アハラム・ファトラト・アル・ナカハ(Dreams of the Period of Recovery=回復期の夢)』は、友人たちに口述で書き取らせた連作だった。彼は正しく評価された結果として無数の栄誉や賞や賞賛を受けた後、2006年8月30日に息を引き取った。彼の名はエジプトの多くの広場の名として残り、昨年にはその業績を称える博物館が彼の家の近所に開設された。

  • アラブニュースのコラムを執筆するアブデラティフ・エル・メナウィ博士は、エジプト人作家でありジャーナリスト。彼はナギーブ・マフフーズ氏の知人でもあった。ツイッター:@ALMenawy
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