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キャンプデービッド協定、中東和平への不完全な道のり

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14 Jun 2020 09:06:27 GMT9
14 Jun 2020 09:06:27 GMT9

レイ・ハナニア

エジプトとイスラエルの間で締結されたキャンプデービッド協定はノーベル賞にはつながったかもしれないが、その効力が完全に発揮されることはなく、過激主義に油を注ぐこととなった

要旨

1978917日、米国大統領別荘キャンプデービッドにおける10間の激しい議論の末、エジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエルのメナヘム・ベギン首相が二つの歴史的文書に調印した。これによって両国の30年に及ぶ対立関係に終止符が打たれ、中東に初めて現実的な和平の可能性が生まれたように思われた。

アラブニュースの当時の報道によると、この会談は最後の瞬間まで「結果については未決で見通しがついていない」という電報が発せられていた。しかし、ジミー・カーター米大統領の尽力により、ベギン首相とサダト大統領はついにキャンプデービッド協定に合意し、中東和平への構想と、エジプトイスラエル間の条約が成立した。

その1ヶ月後、サダト大統領とベギン首相はノーベル平和賞を受賞し、翌年3月にはエジプト・イスラエル平和条約に調印した。しかし、アラブ諸国の多くがこれをパレスチナ人への裏切り行為とみなしていた。エジプトはアラブ連盟を脱退し、1981年にサダト大統領は同条約に反対する過激派によって暗殺された。この二国間には危うげな和平が維持されているものの、この条約によるパレスチナ問題の解決という希望は未だに達成されていない。

シカゴ:エジプトのアンワル・サダト大統領が、将来的な戦争を防止しアラブ・イスラエル間の対立を話し合いによって解決しようという願いをもってエルサレムを訪れたのは、包括的和平協定にエジプト、ヨルダン、シリア、レバノンを含めることのみならず、イスラエルが占領地区から撤退してパレスチナ国を承認することが最重要事項だと確信してのことであった。

イスラエル議会での長いスピーチの中で、サダト大統領はこう語った:「私がここへ来たのはエジプトとイスラエル間の合意のためだけではありません。たとえ対立諸国とイスラエル間の和平が達成されたとしても、パレスチナ問題の解決がなければ、現在世界中が強く望んでいる恒久的かつ公正な和平は決して成就されないでしょう。」

タイムライン:

  • 1

    ジミー・カーター米大統領がエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエルのイツハク・ラビン首相に書簡を送り、「中東の永続的和睦」の実現に対する彼の熱意を伝えた。

  • 2

    手書きの書簡の中で、カーター大統領はサダト大統領に支援を要請:「前へ進み出す時がきました。我々の働きかけに対してあなたが早急に支援を公式発表していただくことが極めて重要、おそらく不可欠です。」

  • 3

    サダト大統領がイスラエル訪問の意向を発表し、イスラエルのメナヘム・ベギン新首相がエルサレムからエジプト国民に対して「戦争も流血も、もう終わりにしよう」と訴える。

    Timeline Image 1977年11月11日:
  • 4

    カーター大統領がサダト大統領とベギン首相宛てに私信を送り、三者会談を提案。

  • 5

    サダト大統領とベギン首相が10日間の会談のためにキャンプデービッドを訪問。

  • 6

    午前9時37分、カーター、ベギン、サダト三首相がヘリコプター「マリーン1」に同乗し、メリーランド州からホワイトハウスへ飛ぶ。午後10時31分、ベギン首相とサダト大統領が和平構想に調印。

    Timeline Image 1978年9月17日:
  • 7

    サダト大統領とベギン首相がともにノーベル平和賞受賞。

  • 8

    サダト大統領とベギン首相がワシントンDCでエジプト・イスラエル和平条約に調印。

  • 9

    サダト大統領が条約に反対するイスラム過激派によってカイロで暗殺さ れる。

サダト大統領は自分の考えがいかに正論であったか、また、占領地区からのイスラエルの撤退拒否が過激主義の高まりにどれほど油を注ぐことになり、さらなる暴動を生み、自国エジプトを崩壊させ、中東和平を不可能にすることになるか、それを生きているうちに自分の目で確かめることはなかった。イスラエルのベギン首相の唯一の目的は、エジプトの軍事的脅威を排除し、アラブの「対立諸国」を分断し、パレスチナ国家主権を求める動きを阻止することだったのだ。

サダト大統領がベギン首相を信頼したのは考えが甘かった。ベギン首相は中東の最も危険なテロリストの一人だ。ベギン首相は1947-1948年のアラブ・イスラエル間の衝突の際に、民間人に対する極悪の残虐行為の幾つかを仕組んだ立役者だ。デイル・ヤシーンというパレスチナの小さな村における100人近い民間人の大虐殺もその一つだった。

その大虐殺では、妊婦らが虐殺されて遺体が村の川に投げ込まれ、パレスチナのアラブ人達を震撼させ、その恐怖から難民が流出した。イスラエル議会でのスピーチの前にサダト大統領はヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館を訪れたが、皮肉にもその記念館はデイル・ヤ シーン大虐殺跡地に建てられている。

サダト大統領はイスラエルと米国から迫られ、イスラエルとの和平を実現させる栄誉ある一大国家の君主のように待遇された。1978年には米国を周り、数カ所の米国主要都市で晩餐会が催され、その内のシカゴでの晩餐会では私も500人の他のアラブ系アメリカ人に混じってサダト大統領の「降伏」を要求していた。

「和平の道具として人道的圧力のみを用いたカーター大統領の試み自体は賞賛に値するが、何の結果も生み出すことはできなかった。中東という複雑な「方程式」の変数の全てを考慮に入れなかったためだ。」

アラブニュース記事、1978年9月18日

キャンプデービッド協定によってサダト大統領とベギン首相は1978年にノーベル平和賞を受賞したが、アラブ諸国では非難と軽蔑の対象となった。アラブ連盟はエジプトを除名し、本拠地をカイロからチュニスへ移動した。

イスラエルの戦略は誰の目にも明らかであった、サダト大統領を除いては。サダト大統領は1978年(9月5〜17日)の12日間にわたる激しい交渉の末、協定に調印した。しかしその数週間前にベギン首相は入植地アリエルを開設していた。ここは今なお続くパレスチナとの戦争の象徴たる場所となり、入植地拡大の中心地にもなっている。

地元での喧々諤々たる現実をよそに、サダト大統領は1979年3月26日、ホワイトハウスでイスラエルとの正式な和平条約に調印し、二国間の対立は表向き終結をみた。

この協定の5つの基本要綱のうち、二つは実際に達成された。エジプトは非武装化を条件にシナイ半島を取り戻し、二国の対戦状況が終わって外交関係が確立された。

しかし残り3つの条件は満たされていない。パレスチナ問題解決のための会合がヨルダンの介入によって先延ばしとなっている。向こう5年で(1983年までに)ウェストバンクとガザ地区にパレスチナ自治政府を導入する計画も達成されていない。そしてイスラエルの入植終結についても一向にその動きがない。

キャンプデービッド協定も、イスラエルが占領地区保持の体制固めをする計画を阻止することはできなかった。ジミー・カーター米大統領が1980年11月4日に再選叶わず、サダト大統領が1981年10月6日に軍のパレード中に暗殺され、ベギン首相はサダト大統領の「夢」への扉を閉じるゴーサインが与えられた。ロナルド・レーガン米大統領はポリシー上の違いはあれど、カーター前大統領の中東和平構想を引き継ぎ、1982年8月、イスラエルの入植「停止」を提案、国家主権への第一歩としてパレスチナの「自治」をイスラエルに承認させようとした。

アラブニュース1978年9月18日掲載記事からの1ページ

ベギン首相の反応は早かった。1982年9月2日、カーター・サダト両大統領の存在が消えたことに乗じ、ベギン首相は議会を先導してウェストバンク、東エルサレム、ゴラン高原地区を合併、ユダヤ人の入植人口を増大させた。そして、キャンプデービッド協定の中で具体的に想起されていたパレスチナの「自治」に関し、イスラエル議会は「5年の移行期間終了後は、イスラエルが領地に自主統治を適用する権利を保有する」と宣言した。

1978年、入植地の人口はたった7万5千人だった。 それが1990年までに3倍の22万8千人となった。同協定は希望と楽観主義に満ちた環境を生み出すはずのものであったが、皮肉にもシナイ半島返還後それらを推し進めることができず、過激主義を加熱させるような運命論が台頭した。

エジプト−イスラエル間の和平は保たれているが、パレスチナとの和平達成の失敗で同協定は公式の休戦条約とほとんど変わらない存在でしかなく、両国関係は軍事協力によって定義されている。

  • レイ・ハナニア(Ray Hanania 1970年代初期にアラブ系アメリカ人向けの新聞『 The Middle Eastern Voice』を出版。パレスチナ人の権利を訴える活動家で、American Congress for Palestineの代表を務める。
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