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イランの敵対行為を引き起こした革命

1979年2月11日、イスラム革命がイランを親西欧的な君主制から反西欧的な神権政治へと変えた。(AFP)
1979年2月11日、イスラム革命がイランを親西欧的な君主制から反西欧的な神権政治へと変えた。(AFP)
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13 Jun 2020 09:06:34 GMT9
13 Jun 2020 09:06:34 GMT9

マジッド・ラフィザデ博士

過激な聖職者によって抗議デモがハイジャックされたあと、イスラム共和国は中東情勢不安定化のキャンペーンを開始した。それは今日まで続いている。

要約

1979年2月11日、イスラム革命がイランを親西欧的な君主制から反西欧的な神権政治へと変えた。モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(パーレビ国王)は常に西側の支援に頼っていたが、パーレビ国王による急速な西欧化推進プログラムを快く思わないイラン国民も大勢いた。最初のデモが1977年の年末近くに勃発すると、その後14か月の間に、国王の権威が少しずつ失墜していき、遂には王朝が崩壊、そして事態はシーア派の宗教指導者アーヤトッラー・ホメイニー師の亡命先からの帰還と展開していった。

タイムライン

  • 1

    イラン各地の都市でデモや暴動が勃発、これがきっかけとなって抗議行動が起こった。抗議行動はその後次第に暴力度を増しながら、数か月続いた。

    Timeline Image 1978年2月18日:
  • 2

    テヘランで治安部隊がジャレー広場のデモ参加者に発砲、これにより80人以上が死亡、数百人が負傷した。この日は「ブラック・フライデー」として記憶される。

  • 3

    フランスに亡命していたアーヤトッラー・ホメイニー師がムハラム抗議を画策、これにより何百万人という国民が街頭に出て国王の失脚とホメイニー師の帰還を訴えた。

    Timeline Image 1978年12月2日:
  • 4

    国王とその家族が国外へ脱出、その後二度と戻ることはなかった。

    Timeline Image 1979年1月16日:
  • 5

    ホメイニー師帰国。何百万人もの支持者から歓喜の歓迎を受ける。数日後、ホメイニー師は暫定革命政府を任命する。

    Timeline Image 1979年2月1日:
  • 6

    軍は武器を捨て、国王によって任命されたシャープール・バフティヤール政権が崩壊。亡命先のフランスからカウンタークーデターを組織しようとしたバフティヤール元首相は後に暗殺された。

  • 7

    米国で癌の治療を受けていた国王を裁判のために帰国させることを米国政府が拒否、これに怒った革命家たちがテヘランの米国大使館を占拠し、米国人52人を444日間拘束した。

革命の最も直接の結果として起こったのが、革命を支持する学生たちがテヘランの米国大使館を占拠し、米国人52人を444日間拘束した事件だった。だが長期的には、革命は親密な同盟国だった米国を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵へと変え、辛辣な対立抗争を引き起こすことになった。その影響は今でも中東全体に響き渡っている。

ロサンゼルス:1979年は現代史において大変に重要な年となる。イランでイスラム革命が起こったためだ。その影響が国境を越えて鳴り響き、中東の政治情勢を根本的に変え、40年経った今でも地政学的な勢力図を左右する事件である。

一部の政治家や政策アナリストがイスラム革命についていまだに誤解を重ねていたり、革命思想の輸出というイスラム共和国の誓約へのこだわりの過小評価を続けていることから、革命が起こった根本的な原因、そしてそれが国内的、地域的、世界的に及ぼしてきた長期的な影響を明らかにすることが重要だと考えられる。

革命以前のイランでは、代表的で民主的な統治制度の構築に国民の多くが四苦八苦していた。国民はモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(パーレビ国王)に不満を抱いていた。政治における腐敗や財政的な汚職の蔓延や人権侵害問題に悩まされていたのだ。イラン国民はまた、米国の外交政策にも不満を抱いていた。1953年に米アイゼンハワー政権と英国のウィンストン・チャーチル首相がナショナリストのモハンマド・モサッデク率いるイランで最初に民主的に選出された政権を転覆させ、米政府や西側諸国と親密な同盟関係を築いていたパーレビ国王の権力を回復させることにしたからだ。

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー師はこうした現状を利用し、人々の不満に付け入って権力を奪った。1978年、一般市民とさまざまな反対派勢力 — マルクス主義者、イスラム近代主義者、宗教原理主義者、立憲自由主義者、左翼、改革派など — が結集するなか、定期的なデモや抗議行動が勃発し始めた。だが国際社会はこれらの抗議デモが1979年の革命をもたらすことになるなどとは考えていなかった。その理由として、国王は対外的には自分のイメージ作りが上手く、いかにも西欧諸国が喜びそうな「イラン国民の信頼や支持を受ける王」といったイメージを作り上げていたからだと考えられる。

ホメイニー師の党は、他の政党よりも有利な立場にあった。国王が聖職者を脅威と見なしていなかったからだ。当時はそうした考え方が一般的だったのである。国王は政治力を聖職者などよりもナショナリストやマルクス主義者や左翼といった他の政治制度支持者の弾圧に費やす方を選んだ。そのお蔭で、ホメイニー師の党は勢いを増すことができた。そして国内で最も強力かつ最もまとまったグループの1つとなった。活動にあたってはモスクや宗教団体といった巨大なネットワークを利用できた。

最終的に、ホメイニー師の原理主義組織は1979年2月に革命を徴発した。国王が国外へ追放された後、イラン国民の大多数がイスラム共和国の樹立に投票した。ホメイニー師の宗教党が後に行われるような暴虐行為を実行しかねるなどと当時の国民は考えもしていなかったし、ここまで頑固に権力に渇望した政党になるとも誰も思っていなかった。それどころか国民は、自国がこれで民主主義への道を順調に歩んでいると思っていたのだ。これで国王の時代に戻ることもないだろう、と。

聖職者達により革命がハイジャックされてしまうと、その主な目的は権力の強化へと変わった。これは主に、人質事件とイラン国民に対する残酷な弾圧という2つの重要な政局によって達成された。そしてこれにより、その目的を達成するためには流血も厭わないということを自国民に知らしめる、という政権の意思が極めて明らかになった。

「マッカのモスク世界最高評議会はイラン国民に対し、イスラムの同胞精神と理解の精神をもって自粛するよう訴えた。」

アラブニュースのトップページについてのファルーク・ ルクマンのコメント。1979年2月12日。

最終的に、他の政党や宗教団体に属する国民が何千何万と拷問を受け、処刑された。政権は「死の委員会」と呼ばれる機関を数十という数で設立し、後に大統領候補となるエブラヒム・ライシ氏や、ハサン・ロウハーニー大統領の下で法務大臣を務めたモスタファー・プールモハンマディ氏といった人々に運営させた。人権団体によると、「死の委員会」は1988年の4か月間に行われた政治犯約3万人の死刑執行において、中心的役割を果たしていたという。

イスラム共和国はさらに、米国人52人が444日間拘留され屈辱を受けた1979年の人質事件を扇動することにより、国際法を破る行為も行っている。この事件は米イラン関係のターニングポイントとなり、イランの強硬派、超保守派、原則主義者らに力を与えることになった。これら強硬派らは人質事件により権力固めと国内に残っていた左翼、自由主義者、世俗主義者らの弾圧の基盤を強化し、イスラム共和国の大胆不敵で革命的な性質を世界に知らしめた。

イラン政府の中東政策は、他国への革命輸出、軍事的冒険主義を通じた影響力の増強、非対称戦争、スンニ派に対するシーア派の扇動による宗派利益の追求、イエメンからイラクに至る代理勢力やテロ組織の支援、そして、地域の他の勢力、特にサウジアラビアの目標を阻止することを拠り所にするようになった。イラン政府の外交政策および地域政策に好戦的、独断的、革命的な側面が加わるにつれ、中東には緊張が高まっていった。

1979年2月11日のアラブニュース・アーカイブのページ。

最終的にイスラム共和国は、中東支配だけでなく、イスラム世界におけるリーダーシップの絶対的な権力行使においても張り合うようになった。また、イスラム教の発祥地であり、聖なる2都市マッカとマディーナを擁するサウジアラビアが中東における一大勢力と見なされていることから、イラン政府は、サウジ王国の地域における国家的、地政学的、戦略的権益をなんとしてでも阻害しようと決意した。その結果、サウジアラビアに対する敵対心がムッラーの中東政策の中核的な柱の1つとなった。

  • マジッド・ラフィザデ博士は、アラブニュースのコラムニストであり、イラン系米国人の政治学者である。革命の1年後にイランで生まれ、支配政権のムッラーを批判したとして父親を含む家族の数人が政権によって拷問を受けたという経験を持つ。ツイッター:@Dr_Rafizadeh
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