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アル・ハラム・モスク占拠事件

イスラム教最大の聖域アル・ハラム・モスクは、260人の武装した狂信者集団に占拠された。(ゲッティイメージズ)
イスラム教最大の聖域アル・ハラム・モスクは、260人の武装した狂信者集団に占拠された。(ゲッティイメージズ)
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12 Jun 2020 09:06:14 GMT9
12 Jun 2020 09:06:14 GMT9

Rawan Radwan

長年タブーとされたジュハイマーン・アル=ウタイビーによるアル・ハラム・モスク襲撃の影響が、数十年を経てようやく明るみに出た

概要

イスラム暦1400年の初日である1979年11月20日、新しい世紀の始まりをイスラム最大の聖地で過ごす一生に一度の機会のために、メッカのアル・ハラム・モスクには数万人もの参拝者が集まっていた。

しかし、その日の最初の礼拝であるファジルが終わろうとしていた時、中庭中に銃声が響き渡り、喜びは恐怖へと変わった。イスラム教最大の聖域アル・ハラム・モスクは、260人の武装した狂信者集団に占拠された。これは2週間にわたる流血の占拠の始まりであった。イラン革命に続いて起こったこの事件により近代化から後退したサウジアラビア社会は、今ようやく回復しつつある。

ジッダ:1979年のアル・ハラム・モスク占拠事件は秘密に包まれ滅多に話題にならないが、それでもサウジアラビアに深刻な影響を与えた。私の世代の多くは、あの過激派による攻撃のために払っている大きな代償にほとんど気づかず育ってきた。

タイムライン:

  • 1

    サウジ国家警備隊元伍長のジュハイマーン・アル=ウタイビー率いる宗教過激派集団がメッカのアル・ハラム・モスクを占拠する。

  • 2

    数世紀で初めて、アル・ハラム・モスクでの金曜礼拝が行われなかった。ウラマーが、「降参し武器を下す」機会を拒否した場合、聖地での武装勢力に対する武力行使を許可するファトワーを出す。

  • 3

    数時間の激しい戦闘の末、部隊がサファー・マルワの回廊を取り戻し、アル=ウタイビーと残った暴徒らは、モスク地下の迷路のように通路でつながった部屋に逃げ込む。

  • 4

    最後の攻撃の始めに、中庭の床に開けられた穴から地下迷路にガスがまかれる。その後18時間の困難な戦闘の末、占拠開始から15日後、最後の砦が破られる。

    Timeline Image 12月3日:
  • 5

    ハーリド国王が国民に向け、「冒涜的な扇動行為」の制圧の助けに対しアラーに感謝を述べて演説する。

    Timeline Image 12月5日:
  • 6

    3週間ぶりにモスクでの正午の礼拝に数千人の参拝者が集まる。他のイスラム国家にも報道された歴史的式典のために、多くの人が野宿で一晩を過ごした。

    Timeline Image 12月7日:
  • 7

    内務省が捕らえられていた過激派63人が8都市で処刑されたことを発表する。アル=ウタイビーはメッカで処刑された15人の内の1人である。

    Timeline Image 1980年1月9日:

早朝の礼拝と共に新年を迎えた、一生に一度の巡礼の最中の参拝者らに、銃声と自称マフディへの忠誠の要求がショックを与えた。この人物は、預言者の言行録ハディースの複数の箇所で救世主と呼ばれているが、イスラム学者の間ではその意味について意見が分かれている。

私は、2002年、高校3年目の16歳のときまで、この占拠事件について聞いたことがなかった。襲撃から23年目のとき、私は国内紙オカーズ新聞の金曜版を開き、ミナレットから煙を出すモスクの白黒写真と鋭い目とぼさぼさの身なりをした男性の写真を掲載した2面にわたる記事を見た。このとき私はこの恐ろしい襲撃を首謀した過激派ジュハイマーン・アル=ウタイビーの名前を知ったのだ。好奇心旺盛な私の興味は大きくなっていった。

長年、サウジアラビアではアル・ハラム・モスク占拠事件についての情報はほとんど得られなかった。しかし、インターネットが登場し、検索エンジンのおかげで、より多くを知ることができるようになった。それでも、十分ではなかった。

2019年9月、待望のCBS「60 Minutes」でのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子のインタビューにおいて、やっとさらに多くのことが明らかになった。ノラ・オドネル氏に対し、皇太子は1979年の2つの出来事、イラン革命とアル・ハラム・モスク占拠事件がサウジアラビアの発展を停滞させたことを説明した。

「1979年以降、私たちは確かに被害者であり、特に私の世代はそれによってかなり苦しみました。」と皇太子は述べた。「私たちは他の湾岸諸国のように極めて普通の生活を送っていました。サウジアラビアでは女性が車を運転し、映画館がありました」

「テレビは捕らえられた170人の犯罪者らがメッカの刑務所の床上に詰め込まれ、薄汚れたみすぼらしい様子でいる写真を映した」

1979年12月5日アラブニュース1面のスタッフの記事より

このインタビューにより、人々が事件を見直すようになるだろうとわかった。襲撃から40年目の2019年、私はアラブニュースで勤務しており、占拠事件を詳細に扱ったオンライン記事Deep Diveの主任記者として、適切な調査を実施できた。この特別記事は、私が持っていた全ての疑問に答える方法だった。

私たちのチームが報告したように、アル=ウタイビーは、アル・ハラム・モスクを占拠した260人の武装狂信者集団の中におり、2週間以上に及ぶサウジ部隊との対立を引き起こした。訓練された容赦ない過激派たちは、モスクの門を閉じ占拠を行い、推定10万人の参拝者らを4時間以上にわたって閉じ込めた。

通常礼拝に用いられる放送システムを介し、自称マフディで、アル=ウタイビーの義理の兄弟であるムハンマド・アル=カフターニーが、世界から悪を取り除き、イスラムを正しい道に戻すために来た、と彼らは閉じ込められた人々に言った。繁栄し近代国家へと発展していた王国を、アル=ウタイビーとアル=カフターニー、そして彼らの信者らは悪とみなした。

こうして、ここ数世紀で最も残虐なメッカのモスクでの戦闘の1つが始まった。繰り広げられた驚くべき事件は、今でも信じがたいものだが、当時サウジ情報機関のトップだったトゥルキ・ビン・ファイサル皇太子や、モスク上空を飛行したサウジ空軍のパイロット、サファー・マルワの回廊の星形窓を通って他の多くの人々と逃げた人質の孫を含む、多くの証言が物語っている。

1979年12月5日のアラブニュースアーカイブからの1ページ。

実際に生きて目撃することはなかったが、メッカ占拠事件はサウジ社会の精神を変え、私の世代の多くに影響を与えた。

Rawan Radwan

最初の数日間、サウジ部隊がモスクに押し入り、戦闘が続いた。アクション映画の1シーンのように、サウジ部隊は宗教過激派らを撃退した。最後の襲撃に遭い、アル=ウタイビーと信者らは地下にバリケードを作り、サウジ部隊による制圧をより困難にした。

戦いの中で、アル=カフターニーは100人以上の過激派らとともに殺された。最後の段階において、サウジ部隊はモスク地下のトンネルの迷路に入る前にガスをまき、アル=ウタイビーと、女性や子供を含む彼の信者らを捕らえた。

占拠事件が終わったとき、モスクの壁は銃弾で穴だらけになり、25人以上の無実の参拝者らの死体が横たわっていた。450人以上の兵士が負傷し、127人が死亡した。アル=ウタイビー側では、117人が殺害され、数百人が逮捕、内63人がのちに処刑された。1980年1月、メッカで、アル=ウタイビーと彼の信者14人が処刑された。

1979年12月5日のアラブニュース記事「メッカの教訓」で、筆者はこうまとめている。「彼らがカーバ神殿を襲撃地に選んだことは、彼らの主張の誤りの最たる証拠であると言っていいだろう。彼らのことは、彼ら曰く『世界に正義をもたらす』『待ち望まれたマフディ』の存在下で、社会のイスラムからの逸脱を信じるよう訓練を受けた、洗脳された狂信者集団としかよべない」

その余波は墓場だった。実際に生きて目撃することはなかったが、メッカ占拠事件はサウジ社会の精神を変え、私の世代の多くに影響を与えた。占拠事件の後、宗教警察が力を増し、王国の順調な近代化は停滞を余儀なくされた。学校のカリキュラムや日々の活動、社会規範は劇的に変化した。

宗教的に保守的だが平和なサウジアラビアはアル=ウタイビーの暴力的な「真のイスラム教への回帰」という主張を拒絶したものの、多くの人が社会で起こっている変化に従うように圧力を感じた。

答えの探求は終わらなかった。ムハンマド・ビン・サルマーン皇太子が、2017年に国家の「穏健派イスラム」への回帰を宣言し、CBSのインタビューにおいて1979年以前のサウジアラビアについて言及したとき、ついにつじつまが合い始めた。

  • Rawan Radwanは、ジッダを拠点とするアラブニュースの地域特派員であり、サウジの歴史に特に関心を寄せている。15年以上、メッカの占拠事件についての調査を行い、40年目となる2019年、事件を詳細に回顧した アラブニュースDeep Dive の主任記者を務めた
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