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ソ連アフガニスタン侵攻

ソ連とアメリカの代理戦争となったこの紛争は、地政学的に劇的な結果をもたらした。(Getty Images)
ソ連とアメリカの代理戦争となったこの紛争は、地政学的に劇的な結果をもたらした。(Getty Images)
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11 Jun 2020 09:06:53 GMT9
11 Jun 2020 09:06:53 GMT9

ラヒムラ・ユスフザイ

冷戦時代の大国同士の長い対立が、国をテロリストの温床にした。

概要

1979年12月24日、ソ連がその前の年、カブールにソ連の傀儡政権の指導者として任命ヌール・ムハンマド・タラキーの暗殺と政権の転覆を受け、ソ連がアフガニスタンに侵攻した。

それは、9年間続いた無意味で血生臭いムジャヒディーン軍のゲリラ部隊との紛争の始まりだった。この紛争により、15,000人のソビエト軍と100万人以上のアフガニスタン人の命が奪われ、ソ連の屈辱的なアフガニスタンからの撤退で終結した。

ソ連とアメリカの代理戦争となったこの紛争は、地政学的に劇的な結果をもたらした。これは間違いなく、それは1991年のソ連崩壊を早めることになった。また、テロの温床を作り出し、ムジャヒディーンと共に戦ったウサマ・ビンラディンの台頭にもつながった。

ペシャワール:軍事介入は冷戦の敵国同士であるソビエト連邦とアフガニスタンを支持した米国との長い対立を煽った。それからの9年間、ソ連軍はアフガニスタンの隣国であるイランやパキスタン、欧米諸国、中国、そしてアラブ世界の大部分の支援を受けたアフガニスタンのムジャヒディーンの戦闘員との闘いで負け戦を繰り広げた。

ソ連軍は1989年2月15日までにジュネーブ協定の下撤退した。これまで共産主義政権を支えてきた重要な軍事・経済支援をソ連が提供できなかったため、1992年4月にムハンマド・ナジブラ大統領は辞任を余儀なくされ、ムジャヒディーンが政権を掌握した。

しかし、ムジャヒディーンが内部紛争により平和と安定を回復できなかったことにより、タリバンに権力を掌握する機会を与えた。アルカイダの創始者であるウサマ・ビンラディンのようなアラブ人を含む外国人戦闘員はソ連軍に対するアフガニスタンの聖戦に加わるためにアフガニスタンに来ていたにもかかわらず、タリバン政権はイデオロギー的な理由で彼らの滞在を許可した。

ソ連侵攻は、アフガニスタン人民民主党のハルク派とパルチャム派の対立により弱体化した共産主義体制を支え、米国がその周辺地域で影響力を持つことを防ぐことを主な目的としていた。この動きは近隣諸国、特にパキスタンを警戒させた。ソ連がパキスタンのバローチスターン州の侵攻を試み、アラビア海の暖かい海に到達しようとする可能性があるため、パキスタンは次にソ連に侵攻されることを恐れていた。一方、1979年2月のイラン革命を確固たるものにしようと模索していたイランは、過去の敵対関係からソ連の意図について危惧していた。

民主主義国からの集中的な圧力により、ソ連がアフガニスタンから軍を撤退させる可能性があると、ムハンマド・アブド・ヤマニ情報相は日曜日、にリヤドでオーストリアの記者に語った。

1980年2月4日、アラブニュースの一面に掲載された配信記事より

中東では、伝統的に米国に近いアラブ諸国がソ連の次の一手を考えていたため、ソ連の侵攻は不確実性をもたらした。ソ連が欧州圏外の国に侵攻し、ソ連拡大主義の新たな侵略的な流れを示唆したのは、これが最初であった。また、アフガニスタンにおけるソ連軍の存在は、この地域の共産主義者や過激派組織を強化する可能性があるという懸念があった。

南イエメン、シリア、アルジェリア、リビア、パレスチナ解放機構などの親ソビエト過激派アラブ諸国を除き、中東のほとんどの国が米国に味方した。サウジアラビアとエジプトは、アフガニスタンのムジャヒディーンを率先して支援し、ソ連との長年の関係を断ち切った。サウジアラビアがソ連と国交をようやく回復できたのは1992年のことである。

年表:

  • 1

    アフガニスタンのモハマド・ダウド・カーン大統領が、近代化共産主義政府を設置したソ連より支援された軍事クーデターにより殺害され、イスラムの反乱を引き起こした。

    Timeline Image 1978年4月27日:
  • 2

    クーデター指導者でアフガニスタン大統領のヌール・ムハンマド・タラキーがソ連との友好条約に調印。

  • 3

    タラキーはかつての同盟者ハフィズラー・アミンに率いられた敵対する共産党派によって退陣させられる。タラキーはその翌月、アミンの命令により殺害された。

    Timeline Image 1979年9月11日 :
  • 4

    ソ連は、アミンがアメリカと交渉中であることを恐れ、アフガニスタンに軍隊を派遣。

  • 5

    ロシアの特殊部隊がカブールの大統領官邸を襲撃し、アミンを殺害。

  • 6

    ソ連は、アフガニスタンのマルクス主義人民民主党の一派の亡命指導者であるバブラク・カルマルを政府の国家元首に任命した。

    Timeline Image 1979年12月29日:
  • 7

    ソ連が9年間の紛争の末、最後の部隊を撤退させる。

  • 8

    サウジアラビアがソ連と国交回復。

  • 9

    ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領が辞任し、民主的なロシア国家の最初の指導者となるボリス・イェルツィンに政権を渡すと同時に、共産主義者の旗がクレムリンの上から下ろされた。

ソ連侵攻は他にも影響をもたらした。冷戦が激化するにつれ、より多くの国が米ソ二つのいずれかに傾いていった。1980年のモスクワ五輪における米国主導のボイコットに参加した65カ国の中には、中東の数カ国も含まれていた。外交関係は断絶され、貿易関係も被害を被った。これらの被害を修復し、関係を正常に近い状態に戻すのに何年もかかった。

中東諸国にとって懸念される展開は、アフガニスタンにおける聖戦の呼びかけに触発された市民が過激化することであった。

1979年、パレスチナのイスラム教の教祖であるシェイク・アブドゥッラー・アッザムは、数人の著名なイスラム学者らとともに、すべてのイスラム教徒の個人の義務としてのジハードを宣言するファトワ(教令)を発布する上で重要な役割を果たした。これは、イスラム国家とその支配者の特権とした、確立されたイスラム法からの逸脱であった。

このファトワは、西側で平和に暮らしているアラブ人を含む多くのアラブ人に対し、ソ連軍との戦争に加わるため、アフガニスタンに向かう途中のパキスタンへの渡航を促した。その中には億万長者のビンラディンがおり、彼は戦いに加わっただけでなく、ムジャヒディーンに資金を提供するため、自身のかなりの資金を捧げた。

中東諸国にとって懸念される展開は、アフガニスタンにおける聖戦の呼びかけに触発された市民が過激化することであった。

ラヒムラ・ユスフザイ ペシャワール

やがて、アフガン・アラブ系という言葉は、アフガニスタンでの戦争に加わったほとんどのアラブ人退役軍人を表すために造語としてつくられた。ソ連軍の撤退後に帰国した人々、または母国の政府に対し戦争するため、他の人々を勧誘し、組織化しようとした人々である。

アフガン・アラブ系の戦闘員は、アルジェリアとエジプトで最大の影響力を持っていた。アルジェリアではジャファル・アル・アフガニが武装キャンペーンを指揮し、エジプトではアイマン・アル・ザワヒリとモハマド・ショーキー・アル・イスランブーリが政府に対する暴力的な攻撃を扇動したためである。

1980年2月4日のニュースを示すアラブニュースのアーカイブのページより。

アブ・ムサブ・アル・ザルカウィや、いわゆる「イスラム国」または「ダーシュ」を代表する過激派もアフガニスタンで訓練を受け戦った。多くの戦争の退役軍人は、イスラム教徒を支援しセルビア人とクロアチア人と戦うため、ボスニア・ヘルツェゴビナへと向かった。これらの反乱はいずれも最終的には崩壊したものの、生命や財産に大きな損害を与え、対象国に厳しい威圧的な措置を取ることを強制し、時には批判を浴びることもあった。

アフガニスタンにおけるソ連の敗北と、それに続く1991年のソ連崩壊により、ジハード主義者の間で、一つの超大国の地位をおとしめることができるのであれば、他の超大国も同じようにそうすることができるという認識が強まった。2001年10月、連合軍がタリバンの支配するアフガニスタンに侵攻し、アルカイダが指示した9・11同時多発テロの報復を行った後、過激派の戦闘員がアメリカとその同盟国を相手にするようになったのは、このような考え方があったからである。

  • ラヒムラ・ユスフザイは、パキスタンの上級政治・安全保障アナリスト。タリバン創設者のムッラー・モハメド・オマルに初めてインタビューし、1998年にはオサマ・ビンラディンに2度インタビューしている。ツイッター @rahimyusufzai1
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