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サウジアラビアによるアラムコ取得

1970年代初頭には、アラムコはアメリカ資本の会社であったが、70年代末には、完全にサウジアラビア王国の所有となった。 (Alamy)
1970年代初頭には、アラムコはアメリカ資本の会社であったが、70年代末には、完全にサウジアラビア王国の所有となった。 (Alamy)
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10 Jun 2020 09:06:45 GMT9
10 Jun 2020 09:06:45 GMT9

フランク・ケイン

サウジアラビアが1980年までにアラムコを漸進的に国有化したことは、アラムコの将来の成功を保証することとなった

要約

アラムコは1970年代初めにはアメリカ資本の会社であったが、70年代末にはサウジアラビア王国によって完全に国有化され、サウジアラビア経済と世界のエネルギー業界において重要な存在となった。この変化は、他の多くの中東諸国における石油産業国有化とは異なり、動乱を経ずして達成されたが、これは、史上もっとも価値の高い企業となるという成功を収めた、昨年の新規株式公開にいたるプロセスの始まりであった。アラムコの国有化は、サウジ史における決定的な出来事であることが証明された。

ドバイ:当時、主導的立場にあった政策立案者の言葉を借りると、1970年代は、サウジアラビアが「我々の必需品の支配者」、つまり、国の経済発展と国民の福利にとって全てを意味する、その巨大な石油産業の所有者であり管理者、となった10年間であった。

この10年間が始まったときには、4つの米国石油資本の合弁企業であるアラビアン・アメリカン・オイル・カンパニーが、サウジアラビアのもっとも貴重な資源である石油を開発する独占利権をもっていた。そしてこの10年間は、中東と世界のエネルギー市場におけるけん引役として、サウジ政府が所有・管理するサウジアラムコをつくりだす協定で締めくくられた。

昨年、サウジアラビア証券取引所でアラムコの株式が公開された際、株式取引史上最大の取引となったが、1980年までには、アラムコは、約40年後に史上もっとも価値のある企業となる道を歩き始めた。

しかし、1970年代の一連の出来事を理解するのには欠かせないことであるが、サウジアラビア王国がアラムコの所有権を獲得したプロセスは、当時の中東の石油産業において多くとられた対決的なやり方とは異なっていた。

リビア、イラク、イランといった国々が、補償なしに米国資産を接収し、世界のエネルギー供給と地政学に不安定さをもたらしたのに対し、サウジアラビアは、米国の所有者と株式の買取を交渉し、この漸進的なプロセスによって、二国間の良好な関係が保たれた。サウジアラビアの場合、このプロセスは「国有化」ではなく「事業参加」と呼ばれた。

年表:

  • 1

    サウジアラビアは、スタンダード・オイル・カンパニー・オブ・カリフォルニア(SOCAL)に石油利権を与える合意書に調印し、その子会社CASOCが石油採掘調査を始めた。

    Timeline Image 1933年5月:
  • 2

    ダンマンで商業的石油採掘が始まった。

    Timeline Image 1938年3月3日:
  • 3

    CASOCはアラムコ(アラビアン・アメリカン・オイル・カンパニー)に社名を変更した。

  • 4

    アラムコで雑用係から社長にまで登りつめたアリ・ヌアイミが、サウジ人初の最高経営責任者となり、会社はサウジアラムコと社名を変更した。

    Timeline Image 1988年:
  • 5

    上場したサウジアラムコの株式は、新規株式公開価格から10パーセント上昇し、史上最大の価値をもつ企業となった。

    Timeline Image 2019年12月11日:

当時アラムコ組織の期待の星であり、後にサウジ人として初の最高経営責任者となるアリ・ヌアイミは、その自伝『Out of the Desert(砂漠の外へ)』のなかでこの時代を以下のように要約している。「この変化が、他のいくつもの産油国で起きたような資産の急な国有化を含まなかったは、国側と石油会社の所有者たち双方の健全な判断力と交渉への信頼感を示す証拠である」

この交渉の難所にいたのは、ファイサル国王の下で政府の高官に出世した若い弁護士であった。アハマド・ザキ・ヤマニは、「我々の必需品の支配者」という引用の著者であるが、石油鉱物資源相であった1968年にベイルートでの石油会議で、アラムコの株式の50パーセントを米国の所有者から手に入れることはサウジアラビアの念願であると述べた。この数字は時代が進むにつれて変わったが、その野心は変わることがなかった。アラムコの支配権を得ること、である。

昨日午前8時の時点で、サウジアラムコは1.7兆ドルの価値をもつ会社であった。その30分後には、リヤドのサウジアラビア証券取引所に上場したこの巨大石油会社の価値は1.9兆ドル近くになった。

2019年12月12日の「アラブ・ニュース」第一面のRashid Hasan(ラシード・ハサン)の記事より

「アラブ・ニュース」のコラムニスト、エレン・ウォールドが「サウジInc.」でアラムコの歴史について最近書いたように、「これは、何がサウジアラビアにとって利益になるか、という問題であると同時に、彼(ヤマニ)が何がアメリカ人たちにとって利益になると彼らを納得させられるかという問題でもあった」

1970年代初頭には、サウジアラビアは世界のエネルギーのバランスにおいて重要な位置を占めていた。石油の需要は高まり、米国の油田はそれを満たすことができなかった。サウジアラビアは、石油産業の転換期において世界の需要を満たす能力と備えをもつ、もっとも重要な産出国、「情勢を左右する」輸出国、として言及されるようになった。

1972年のウィーンでの石油輸出国機構(OPEC)の会議で、ヤマニはアメリカ側から、彼の要求する半分にはだいぶ足りないアラムコの20パーセントを譲渡するオファーを提示された。しかし、交渉の結果、サウジアラビアは25パーセントを購入するという協定になり、最終的には51パーセントになった。会社の支配権はアメリカから、原則として、譲渡されたのである。

「アラブ・ニュース」のアーカイブの2019年12月12日のニュースより。

翌年のOPECの会議では、このプロセスは外部の出来事によって加速した。1973年のイスラエルとアラブ諸国間の戦争は各国の石油大臣たちがオーストリアに到着する直前に勃発し、会議は緊急事態の中で進められた。石油に関する歴史家ダニエル・ヤーギンがピューリツァー賞を受賞した『石油の世紀(The Prize)』の中で述べたように、「30年に渡る戦後の石油秩序は、完全に死を迎えた」。

最大の産油国であるサウジアラビアに率いられたアラブ諸国は、それまでの1バレル5ドルの倍以上に、原油価格を劇的に引き上げた。さらに重要なことに、石油の生産量を削減し、交戦中のイスラエルに武器を供給している米国を含む国々に禁輸措置をとった。

1970年代初頭までには、サウジアラビアは、世界のエネルギーバランスにおいて強い立場となった。

フランク・ケイン

これによって引き起こされた世界経済とエネルギー市場における大混乱は、全てを変えることとなった。1976年には、権力は、各石油会社からサウジアラビアに率いられた産油国に容赦なく移った。

この年のパナマでの会議で、ヤマニはもはやこれ以上の遅延を許さなかった。サウジアラビアはアメリカ側から、残り全ての株式を売るという確約を欲しがった。3月中旬までには終了した取引は1980年に効力を発し、その8年後には、サウジアラムコは正式に社名を変えた。

サウジアラビアが株式を手に入れるためにいくら払ったのかは、決して明かされなかった。しかし、当時なされた推測は、20億ドルほどが手に渡ったのではないかと示唆している。昨年12月、サウジアラビア証券取引所に上場したアラムコは、そのほぼ千倍の価値を記録した。

ウォールドは「アラブ・ニュース」にこう語った。「アラムコが今日成功することができたのは、サウジの会社になったとき、政府の官僚に対して、石油業者が会社とその資金をコントロールし続けたからです。これは、国営石油会社の例としては珍しいものです」

  • フランク・ケインは、過去15年間、そのうち最近3年間は「アラブ・ニュース」のシニアビジネスコラムニストとして、中東の石油産業について書いている。
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