Abdel Aziz Aluwaisheg
このペルシャ湾岸地域6カ国による連合は、その設立目標の多くを成し遂げた
概略
1981年5月25日、アブダビで開催された会議において、アラブ諸国のための湾岸協力会議が創設された。アラブ首長国連邦 (UAE)、サウジアラビア、バーレーン、オマーン、カタール、クウェートが「各国間の連携、協力、統合によってアラブ国という荘厳な目標を志向する」という信念のもとに一致団結しようというもの。
加盟6カ国による湾岸協力会議 (GCC)として知られるこの組織は、主に一つの経済ブロックとして創設されたが、同時にイラン革命を発端とする地域の安定と安全に対する不安の高まりも反映していた。
創設から40年、GCC 加盟国は常に見解が一致していたわけではない。例えば2014年には、GCCとカタールの間に亀裂が生じ、他の加盟国は相互安保条約の維持が損なわれたと批難 した。
しかしGCCは、多くの経済・法律・安保・政治上の合意によって、エネルギー、農業、遠距離通信から関税、教育、司法上の協力まで、幅広い分野に渡る協力関係が確立され、創設当初の憲章にあるように、「あらゆる分野における加盟国間の連携と統合を継続的に促進し、団結へと導く」組織としての価値を証明している。
リヤド:1968年1月に、イギリスが1971年までにペルシャ湾岸地域から撤退する意向を発表した際、中東全体にショックが及んだ。そしてより信頼のおける新たな安保構造への模索が急務となった。いくつかの段階を経た結果、1981年5月25日、湾岸協力会議 (GCC) の創設に落ち着いた。
UAE、サウジアラビア、バーレーン、オマーン、カタールおよびクウェートの首脳が、アブダビでの会議で湾岸協力理事会憲章に署名。
GCC首脳が、リヤドでの第2回首脳会議で統一経済協定に署名。
サウジアラビア北東部、ハフル・アルバチンの本部にGCC共同防衛軍「半島の盾」を設置。
GCC関税同盟を創設。
GCC共通市場が発足。
カタールが「集団であると個人であるとを問わず、GCCの安全と安定を脅かす者」を支援しない旨の合意を守らなかったことを非難し、サウジアラビア、UAEおよびバーレーンがドーハから大使を引き上げる。
GCCが、アブダビを拠点とする地域警察隊の編成を年次総会で発表。
カタール政府がイランの支援するテロリスト集団と協力していることを非難し、バーレーン、サウジアラビア、UAEおよびエジプトがカタールとの国交を断絶。
リヤドでの6人の保健大臣全員による臨時会合を経て、GCCが、すべての国境に予防措置を導入するコロナウイルス声明を発表。
その第1歩がアラブ首長国連邦の形成だった。イギリスの間近に迫る撤退の発表から、1971年12月16日の実際の保護及び軍の駐留打ち切りまでの3年間に、6つの首長国がアラブ首長国連邦の形成に成功し、1971年12月2日に正式に樹立した。7番目の首長国ラアス・アル=ハイマがその数ヶ月後に加わった。バーレーンとカタールはしばらくの間連邦への加入を考慮していたが、サウジアラビア、クウェート、イギリスの説得にもかかわらず結局加入を辞退した。
「リヤドでのサミット期間中に湾岸協力会議の審議内容から読み取れる彼らの目標と達成事項について近年見られる楽観論が、湾岸協力会議の存在意義を証明している。」
リヤドにおける第2回GCC サミット後の1981年11月12日付アラブニュース記事より。
6カ国以外の湾岸諸国を加入させるというさらに大きな構想への模索が続いた。クウェートのSheikh Jaber Al-Sabahがこの新たな努力の旗頭となった。1976年5月、彼はUAEを訪問して正式にGCCの創設を要請した。UAEのSheikh Zayed大統領はその考えを強力に支持した。1976年11月、マスカットにてイラクとイランも含めることになっていた安保構想が協議されたが、同会議のコンセプトについて根本的に意見が異なり、特にイランとイラクの間で意見が分かれ、失敗に終わった。
GCC 設立の努力はこの二国を除いた形で継続した。イラクのサダム・フセインがその努力を妨げ、ソビエト連合も異を唱えたが、それでも進展は続いた。特に1979年2月のイラン革命に よって、あからさまに革命というブランドを海外へ波及させて近隣諸国の安全を脅かそうとする聖職者政権が生まれてからは、その動きが一段と進展した。テヘランの新政権がバーレーンとサウジアラビアで武装グループを結成して自分たちの目的を実行させ、この新たな脅威に対抗するために列間を詰めることが不可欠となった。
一部の国は安保と軍の統合に注力することを望んだが、他の国々は新たな組織がソフトパワーと経済上の統合を強化することを望んだ。
Abdel Aziz Aluwaisheg
1979年10月、サウジアラビアのタイフにおける会議で、GCC の基本構想が合意された。しかし一部の問題については意見が分かれたままだった。安保と軍事統合(正式な軍事同盟を含む)に注力したい国もあれば、ソフトパワーと経済統合を強化したい国もあった。1980年、サウジアラビアのPrince Saud Al-Faisal外務相は各国の異なる見解をまとめ、憲章の草案作成を先導する役目を担った。そしてクウェートのSheikh Sabah外務相(現在のクウェート首長)や バーレーンのSheikh Mohammed bin Mubarak外務相などが彼を補佐した。1981年前半数ヶ月に、クウェート、リヤド、マスカットで大臣や専門家たちによる会議が次々と行われ、草案が完成、1981年5月25日にアブダビで開催されたGCC最初の公式会議で各国首相たちによって採択されるに至った。
GCC 憲章は、この新たな組織に関して協議された異なるフォーミュレーションの間をとった妥協案だった。特定の優先事項に特権を与えることはしないが、「あらゆる分野における加盟国間の連携と統合が団結へと導く」ことを求める、としている。目標として一致団結を挙げているのはGCC の任務を方向付けする上で重要だった。「あらゆる分野」という言及によって、政治・経済・安保など、統合体の中の異なる各部門の組織構造の形成に拍車がかかった。
今日、GCC 事務局は加盟6カ国から1,000人以上のスタッフを雇用し、同組織の主なポリシー策定を行っている。その業務はそれぞれ個別の問題を担当する約30の専門企業によって補佐されている。規格、特許、知的財産、投資などの経済組織のほか、軍事や安保関係の組織などがある。
1981年5月の発足以来、GCCは間違いなく40年前に設定した目標事項の多くを成し遂げてきた。1983年に定められた自由貿易地域、関税同盟 (2003年)、共同市場 (2008年)といった経済上の手段は、加盟国間に大きな相乗効果を生み、効率の向上や幅広く活気に満ちた市場がもたらされた。1981年、加盟6カ国の国内総生産 (GDP)の総計は2千億ドル弱で、ほとんどのGCC加盟国は経済的・社会的に低迷していた。当時、ほとんどのGCC 加盟国は、一部の国では200年以上にも及んだイギリスの統治から抜け出たばかりで、経済が落ち込み、政治的・社会的発展も硬直化していた。その結果彼らは経済的に低迷し、他のGCC加盟国の結束とサポートを必要としていた。現在GCC のGDP総計はおよそ1.6兆ドルで、1981年の8倍となっている。他にも、2018年11月の統一軍司令部や2014年のGCC警察の設立といった重要な達成事項がある。
しかし、憲章にしたためられている「団結」という目標に到達するには、まだやるべきことが山積している。第40回サミットが昨年12月にリヤドで開催され、その目標達成のために再度奮起する必要のあるいくつかの分野を特定した。第40回サミットで挙げられた分野のひとつは、GCC 事務局及び30+の他の関連企業をはじめとするGCC の組織の改革だった。さらなる透明性、説明責任、効率を提供するには、特にガバナンスの見直しが徹底的に行われる必要がある。中東が直面する新たな(ほとんどすでに存在しているといえる)問題には新やり方が必要だ。ビジネスだけではいつものことながら事足らない。2015年12月にすべての首相たちに よって採択されたKing Salman のGCCに対するビジョンは、そのプロセスを始めてはいるものの、変化の速度は十分とは言えない。