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アイラン・クルディの溺死

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08 May 2020 02:05:27 GMT9
08 May 2020 02:05:27 GMT9

Emina Osmandzikovic

  • トルコの海岸に男の子が死んで横たわっている画像によって、難民の窮状に対する注目が集まる

要旨:

2015年9月2日早朝、ブドゥーラ・クルディとその家族は、ギリシャのコス島に無事到着することを願いながらトルコの海岸で小さなボートに乗り込んだ。しかしそのボートはボドルム出発後およそ5分で転覆した。

3歳のアイラン・クルディは兄と母親共々、溺死した。クルディ一家はシリアのクルド族で、2015年の難民危機の時にヨーロッパへ避難しようとしていた。先祖代々暮らしていたコバニはクルド軍とダーイシュとの戦闘で壊滅していた。ダーイシュはすでにシリアとイラクの国境に及ぶ原始国家を立ち上げていた。

トルコの海岸でうつ伏せになったアイランの遺骸の画像は、激化する難民危機に対する世界中の注目を集め、その窮状の度合い、破壊された人間生活、苦難に満ちた命がけの逃避行を知らしめた。その瞬間は何百万もの人々の心を動かし、広がりつつある人道上の災難に対するヨーロッパ一般市民の認識を大きく変えるきっかけとなった。ドイツだけでも5万人の難民を引き受けることに同意した。

しかしその政策変更も長続きはしなかった。2015年の難民越境のピーク以来、安全で合法的な方法による地中海渡航手段がなく、さらに1万の難民が溺死する結果となった。

バッシャード・アサド政権に対する大規模な反乱勃発から9年以上経った現在、鎮静した緊張感が国中に蔓延している。しかし2015年には市民戦争が激しさを一段と増し、市街地全体が焼け落ち、ダーイシュはすでにシリアとイラクの国境に及ぶ原始国家を立ち上げていた。戦闘で住む場所を追われたシリア市民は、群れをなしてガタついた船でヨーロッパを目指し、地中海にはそうした船が溢れかえった。そして何千人もの難民が到着できずに終わったのだった。

この時期を象徴する難民たちの死に物狂いと悲哀が、トルコの海岸でうつ伏せなった3歳のシリア人-クルド族男児アイラン・クルディの遺骸の画像によって永久に映し出された。この写真はトルコ人ジャーナリストによって撮影され、あっという間に世界中に拡散し、世界の人々の良心を揺さぶり、戦争勃発以来のいかなる出来事にも増して難民たちに対する国際的な認識を高めることになった。

クルディ一家の悲劇は、ヨーロッパのごく普通の人々と公的知的階級双方の間にあまりにも強大な衝撃を与えたため、欧州連合はシリア難民に対して、一時的とはいえ、その国境越えを緩和することを決めた。トルコ内で難民としてその日その日を生き延びるための苦労が限界に達した時、アイランの父親アブドゥーラ・クルディとその5人家族は、ヨーロッパなら安全だと信じ、先の見えない逃避行をする決心をしたのだった。

彼らの最終的な目的地はカナダで、バンクーバーにいる親戚を頼ろうとしていた。アイランの叔母のティマ・クルディはカナダの移民制度のもとで親族のために難民の身元引受人となるための申請をしていたと報道されている。

 

主要な日付

  • 1

    シリアで政治的反乱が始まった数ヶ月後、難民危機が勃発、21世紀最大の人道危機の一つとなる。

    Timeline Image 2011年3月15日
  • 2

    ヨーロッパにおける難民危機が激化、4隻のゴムボートがリビア沖で沈没し、少なくとも300人の移民が溺死した模様。

    Timeline Image 2015年2月9日
  • 3

    : 3歳のアイラン・クルディとその家族を乗せてギリシャへ向かっていたボートがトルコ沖で転覆し、アイランが溺死。

    Timeline Image 2015年9月2日
  • 4

    アイランの父親と叔母がクルディ基金を設立し、栄養のある食事、服、医薬品を難民キャンプの子供達に援助する資金集めを行っている。

    Timeline Image 2018
  • 5

    シリア北西部のイドリブ郡における政府軍の攻撃で、トルコからヨーロッパへ向かう難民の波が新たに起こり、ギリシャ沖で4歳の男児が溺死。

    Timeline Image 2020年3月2日

9月2日早朝、長年コバニの町に居住していたクルディ一家は密入国斡旋業者によるゴム ボートに乗り込んだが、トルコのボドルムから出発後5分ほどで転覆したのだった。

8人乗りのボートには12人以上が乗船していた。彼らはエーゲ海に浮かぶギリシャのコス島へ向かっていた。アブドゥーラによれば、乗船していた人々は機能する救命胴着も与えられず、身を守る方法は何もなかったという。

シリア難民や他の亡命希望者たちは、今なお安全性に欠けるボートに乗って地中海経由でヨーロッパを目指す危険な逃避行を行っている。

Emina Osmandzikovic

シリアとイラクの間で戦争が勃発して以来、地中海横断の旅によって何百人もの移民や難民の命が奪われてきた。しかし瞬く間に対立抗争と2015年のヨーロッパ難民危機の象徴に なったのはアイランの死だった。

このクルド人家族の悲劇は、ボスニア人である私には個人的に強く心に響いた。1992年から1995年にかけてのボスニア戦争中に亡命を余儀なくされ、私の家族は世界各地に散りぢりとなり、自分たちだけの力で1から人生を立て直すしか方法がなかった。

2015年9月3日付アラブニュースの記事からの1ページ

たった数枚の写真の力の威力を示すものとして、アイラン の画像は何百万人もの人々の心を動かし、ハッシュタグの拡散に火が付き、わずかな間ではあったがヨーロッパ市民の難民危機に対する認識に大きな変化をもたらした。この悲劇の直後、アブドゥーラは警察の護衛付きで自宅まで飛び、住む場所を提供された。ティマは、彼女自身も難民であり、国連と欧州連合で講演をするよう招かれた。

ヨーロッパのニュースメディアには、この危機を表現する言葉にも変化が見られ、「難民」という言葉が「移民」に優先されるようになった。ドイツはすでにヨーロッパ最大の難民受け入れ国であったが、さらに5万人の難民を受け入れることに合意した。 しかしその政策変更も長続きはしなかった。難民危機が激化するにつれて、多くの南欧・東欧諸国がシリア人に対して国境を閉鎖した。

シリア人難民や他の亡命希望者たちは今尚安全性に欠けるボートに乗り込み、地中海経由でヨーロッパへ向かう危険な逃避行を行っている。2015年には合計100万人以上が到着し、3,500 人が海上で死亡している。国連によると、地中海を渡航する安全で合法的な方法がないために、それ以降さらに1万人が溺死しているという。

「ヨーロッパにおける現在の急増難民は主に戦争で国を追われたシリア人で、残念なことにヨーロッパでは罵り合いが高まっている。一部の国々はロシアがシリア内の抗争を煽り、家を失った人々が流れ込む原因をつくっていると非難している。」

2015年9月3日アラブニュース、Bikram Vohra

アイラン の溺死から間も無く、カナダでは政治論争が起こった。カナダの市民権・移民局が、兄弟のアブドゥーラのためのティマが行った身元引受申し込みを、書類不完全として却下していたというニュースが流れたためだった。

2018年、ティマはアイランについて「海岸の少年:私の家族のシリア脱出と、私たちの新たな家への希望」というタイトルの本を出版した。その中で彼女はこう書いている:「皆が もっと頑張ると約束してくれた。でもその善意も長続きはしなかった」

ティマとアブドゥーラは現在クルディ基金を運営し、難民キャンプの子供達に援助を届けている。2019年2月、アブドゥーラはスペインのバレアレス諸島パルマ・デ・マヨルカのドイツ籍避難船に「 アイラン・クルディ」号と名前を変更させて欲しいという申し出を受 けた。

しかし振り返ってみると世界はクルディ一家の悲劇からほとんど何も学んでいない。2月にトルコから水陸両方を経由して新たな難民の波が押し寄せていた時、最初に犠牲者となったのがやはり4歳の男の子で、ギリシャのレスボス島沖でボートが転覆し、溺死している。

  • Emina Osmandzikovicの家族は1992-1995年のボスニア戦争中に亡命を余儀なくされた。アラブニュースの難民問題に関する記者。

ツイッター:@eminaosmnandzik

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