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東から東へ 日本におけるナダ・デブスの感性の進化

レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、すべての家具のデザインや作品にレバントと日本の精神を融合させた。(提供)
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11 Nov 2019 12:11:20 GMT9
11 Nov 2019 12:11:20 GMT9

ダイアナ・ファラー

レバノン人のデザイナー、ナダ・デブスは、日本で育った際に多くのことを学んだ。

しかし、彼女を最も驚かせたのは、彼女自身の中東の起源が、日本人が信じる2つの最も重要な資質であるミニマリズムとシンプルさを欠いていることだった。

彼女の大叔父たちが1917年に日本にやってきて以来、デブスの家族は、ほぼ100年間日本に住んでいる。

デザイナーのデブスは、日本でイスラム教徒のアラブの少女として過ごしたほとんどの間、部外者のように感じたと語る。

「1960年代の日本は、いまほど他の文化を受け入れていませんでした」と彼女は語った。

しかし、時が経つにつれ、デブスはそれに慣れ、さらには日本に関連する美を開発するまでになった。

日本を離れ、最終的にレバノンに行きついたとき、それがさらに明らかになったと彼女は語った。

「中東では、美ははるかに複雑で込み入っています。日本人はとてもシンプルでミニマリストなのです」とデブスは語った。

自身の作り出す家具とインテリアのデザインは「間違いなく日本で育った時間に形作られたもので、日本の文化と調和しています」と彼女は付け加えた。

デブスは『アラブニュース』に、アラブ人と日本人とでは「すべて」が異なっていると主張する。

「すべてが反対なのです」と彼女は言った。「たとえば、性格においては、アラブ人は外向的な人が多いですが、日本人は内向的です。価値観が完全に異なります。世界のこの地域(中東)では、人々は自分のことを話すのが好きです。そこ(日本)では、ほとんどのものが非常に控えめなのです。言わないことがいちばん大事なのです」

デブスは、アラブの人々に日本のビジュアルに親しみを感じてほしいと語った。彼女が自分の会社とデザインのアイデンティティを作ることを決めたのはそのためだ。

日本人はすべてを本質まで引き下げ、美をより純粋なものにすることを好むと彼女は語った。

日本に住んでいた間は、もともとあまりアラブ人がいなかったので、コミュニティに親しみを感じることも、完全に心休まることもなかった。「アラブ人は指で数えることができるくらいしかいませんでした」とデブスは語った。

「インドとパキスタンのコミュニティにいちばん親しみを感じました。彼らの文化は私たちの文化に最も近いからです」と彼女は付け加えた。

自身のアラブのルーツとのつながりを維持することができる唯一の方法は、彼女の肉親を通してであったとデブスは語った。

ナダ・デブスのスタジオとブティックは、レバノンのベイルートのGemmayzeにある。そこには、彼女の多くの作品やコレクションが展示されていて、顧客が家具を購入したり発注したりできる。

彼女のソーシャルメディアは多くの人にフォローされて、Facebookには1万5千人以上、Instagramには4万人以上のフォロワーがいる。

デブスは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインでインテリア建築の高等教育を受けた後、アメリカでキャリアをスタートさせ、その後アメリカの建築会社で働き始めた。それから、彼女はロンドンに移り、自分の会社を設立して、カスタマイズされた家具デザインを設計したり製造したりした。

英国で7年間過ごした後、彼女は母国に移ることに決め、ベイルートで事業を展開し、国際的に仕事をしている。

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