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日本のランドマーク「中銀カプセルタワー」のカプセル、博物館寄贈へ

東京にて、銀座のカプセルホテルとして有名な中銀カプセルタワーは、カプセルホテルの一部が解体中で、小さな立方体の部屋というユニークな建築様式を見せている。(File photo/AP)
東京にて、銀座のカプセルホテルとして有名な中銀カプセルタワーは、カプセルホテルの一部が解体中で、小さな立方体の部屋というユニークな建築様式を見せている。(File photo/AP)
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27 May 2022 10:05:30 GMT9
27 May 2022 10:05:30 GMT9

東京の下町の一角にひっそりと佇む、箱を積み重ねたような建物「中銀カプセルタワー」は、SF世代の前衛的なハニカム構造建築の傑作として長く親しまれてきた。

現在、140室のカプセルの一部を保存し、世界各地の博物館に送るなど、慎重に解体作業が進められている。

銀座のランドマークであるこのタワーを安全に解体するため、数か月前から周辺のエリアが整備されてきた。最初のカプセルは、今後数週間のうちに取り出される予定だ。

1972年に建てられた13階建てのこの建物は、建築家・黒川紀章氏の「都市や建築物は、人間の身体と同じリズムで常に変化し、生活を反映する」という思想、いわゆる「メタボリズム」を体現している。

「周囲の人たちの思いから切り離されて存在する人はいない。万物は、原因の集合によって存在する。万物は相互に関連している。この原則に従って、一歩一歩理想的な世界を築いて行くことが、我々の目標である」と、1994年に出版した『共生の哲学』に書いている。

黒川氏は2007年に73歳で亡くなった。

外観もコンセプトも印象的なこの建物であるが、近代建築のガイドラインに沿う形で、解体する必要があった。

近隣には中銀カプセルタワーを凌ぐ超高層ビルが出現している。2021年にデベロッパーがこの物件を引き継いだ。
2010年に中銀カプセルタワーをセカンドハウスとして使い始めた前田達之氏は、あの小さいけれども、子どもの隠れ家のような居心地の良さがある幅2.5メートル(8.2フィート)の空間にいることが単純に好きだったという。そして、創作意欲が湧いてきたという。

「丸窓から見える景色は、とても気持ちの良いものでした。夜、車が通ると、近所の高速道路の光が素敵でした。そして、街並みが綺麗でした」と前田氏。

壁には家電や棚が作り付けになっている。机が飛び出すコーナーもある。ソニー製のオープンリール式テープレコーダーは、1970年代の最新鋭の電子機器だが、今では建物同様に歴史的な記念品となっている。

近年、中銀カプセルタワーの住人のうち、常時住んでいる人は3分の1程度に過ぎない。大部分がオフィスやワークスペースとして利用していた。音楽家、映画製作者、建築家などクリエイティブな人が多く、似たような価値観を持つ人々が集まってくるような場所であった。

広報の仕事をしている前田氏は、主に中銀カプセルタワーの行末についての発言権を得るために、15個のカプセルを所有し、そのうちのいくつかを貸し出していた。入居者同士でパーティーをすることもあった、と同氏は振り返る。

同氏と仲間は中銀カプセルタワーを救うために、まずは崩壊を防いで再建し、最終的にはアート作品として受け継ぐことを目指し、2014年から周囲と協力して活動していた。クラウドファンディングで資金を集め、2022年3月にカプセルの写真を収録した書籍『中銀カプセルタワービル最後の記録』を出版した。

この保存プロジェクトでは、一部のカプセルが別天地で実生活に活かされることが求められている。美術館に展示されるものは、黒川紀章建築都市設計事務所が、人口が過密している銀座で特に困難である、いかに傷をつけずにカプセルを取り外すかを見極め、補修する予定だ。

スワースモア大学のウィリアム・ガードナー教授は、日本のモダニズムを専門としているが、メタボリズム運動は、人口の過密やインフラ不足といった20世紀の東京の都市計画問題に対する有機的なアプローチで、「瞬間的に」評価を受けたという。

それは、日本が第二次世界大戦の荒廃から復興し、急速な経済成長を遂げ、創造的なエネルギーに満ち溢れ、自身を定義しようとしていた時代であった。

しかし、メタボリズムのデザインは、不動産開発業者や建設会社、消費者に広く受け入れられることはなく、より保守的なプレハブ住宅へと流れていったと、「Metabolism of the Imagination: Visions of the City in Postwar Japanese Architecture and Science Fiction(想像のメタボリズム:戦後の日本建築とSFに見る都市のヴィジョン)」を著したガードナー氏は言う。

「この世代は、すべてが破壊された時代に登場した建築家たちです。しかし同時に、ダイナミズムにあふれていて、経済は回復傾向にあり、この大きなビジョンが本当に繁栄しうる瞬間があるように思えたのです」とガードナー氏は言う。

「多くの理由から、現代の日本は全く異なっています」

黒川氏は、1964年の東京オリンピックのために建設された国立代々木競技場を設計した丹下健三氏に大きな影響を受けている。2007年にオープンした東京・六本木のガラスの壁が波打つような国立新美術館や、1999年のアムステルダムのゴッホ美術館新館も黒川氏が設計している。

中銀カプセルタワーは黒川氏の初期の作品の一つである。その反抗的なまでに繰り返されるモチーフには、大量生産への賛美と挑戦の両面があり、個人、特に体制順応的な日本で迷子になった人々に訴えかけるものであった。

黒川氏はコンクリートコアシャフトに4本の高張力ボルトでユニットを取り付ける技術を開発した。このカプセルは25年ごとに取り外し、新しいものに交換したり、リサイクルしたりできるよう設計されている。

しかしそれは実現しなかった。

それどころか、50年後、ばらばらに解体されつつある。

黒川氏はよく、「建物がなくなっても、思想は生き続ける」と言っていた。

黒川氏のデザインは、サステナビリティと社会的説明責任という、今日でも緊急性の高い課題に取り組んでいると、黒川紀章建築都市設計事務所のフジサワトモヒロ氏は語る。

「世界がやっと彼に追いついてきたのかもしれない」とフジサワ氏は言った。

AP

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