東京:パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は木曜日、1972年にイスラエルのロード空港襲撃に参加し、2000年から亡くなるまでベイルート南部の郊外に住んでいた岡本幸三氏の死去を発表した。
同組織の追悼声明によると、岡本氏は確固たる信念を持ち、世界的な正義を求める闘いにおいて力強い象徴として立ち続けた。数十年にわたり、とりわけロード空港襲撃事件を通じてパレスチナの大義を擁護し、ベイルートで息を引き取った。
同戦線によると、岡本氏は生涯をパレスチナの人々に捧げ、最期まで信念を貫いたという。
岡本氏は1947年12月7日、日本南部の熊本県で生まれた。植物学を学んだ後、1966年に日本赤軍に加わった。同組織は後に、ワディ・ハッダッド率いるパレスチナ解放人民戦線と連携することとなった。
同戦線による訓練を受け、「アフマド」というコードネームを与えられた岡本氏は、イスラエルの占領を終わらせるためのパレスチナ闘争において、最も著名な外国人活動家の一人となった。
岡本は、1972年5月30日に安田康之、奥平剛と共にロード空港(現ベングリオン空港)襲撃事件に参加したことで、世界的にその名を知られるようになった。ローマから到着した3人は、手荷物のなかに自動小銃や手榴弾を隠し持ち、到着ロビーで発砲した。
この襲撃により、イスラエル人と外国人を合わせて26人が死亡、71人が負傷した。これは当時、最も暴力的な作戦の一つとして際立っていた。一部のパレスチナ筋は、死傷者についてイスラエル軍にも一部責任があると指摘した。
作戦の最中、岡本の2人の仲間は死亡し、彼自身は負傷して捕らえられた。
「日本赤軍」によると、岡本は襲撃後に逮捕され、イスラエルの刑務所で約13年間、その大半を独房で過ごした。彼は1985年、「ガリラヤ作戦」または「ジブリル合意」と呼ばれる囚人交換の一環として、1,000人以上のパレスチナ人およびアラブ人囚人とともに釈放された。
釈放後、岡本氏はリビアやシリアを転々とし、最終的にレバノンに亡命を求めました。1997年、レバノン当局は、偽造文書を使用したとして岡本氏を含む日本赤軍メンバー5人を逮捕し、それぞれに懲役刑が言い渡されました。
刑期を終えると、岡本氏の同志たちは日本へ強制送還されました。 2000年、レバノン政府は、本国に送還されれば不当な扱いを受ける恐れがあるとして、岡本に政治亡命を認めた。
ベイルートでは、岡本はパレスチナ解放人民戦線の保護の下、目立たない生活を送り、世間の注目を避け、亡くなるまで政治活動には一切関与しなかった。
数十年経っても、岡本氏は日本当局から依然として逃亡者と見なされていた。米国は、ロード空港襲撃事件への関与を理由に、彼の逮捕につながる情報に対し500万ドルの報奨金を懸けていた。
2022年、作戦から50周年を記念してベイルートのシャティラ難民キャンプで、岡本が珍しく公の場に姿を現したことで、彼の名前が再び脚光を浴びた。
岡本はパレスチナ人や多くのアラブ人から「英雄」と見なされている一方、日本政府は彼を「テロリスト」とみなしている。1997年の逮捕と2000年の政治亡命(レバノンで認められた唯一の事例)以来、日本は繰り返し彼の身柄引き渡しを要求してきた。 レバノン政府は圧力を受け、彼の同志4人を引き渡したが、岡本については「闘争の経歴」を理由に身柄を引き渡さなかった。
岡本氏は2022年、ロード空港襲撃作戦50周年記念式典の際、シャティラ難民キャンプに公の場で姿を現し、襲撃で死亡した2人の同志の慰霊碑に花輪を捧げた。 彼の登場は、日本が「マリアム」として知られる日本赤軍指導者の重信房子を釈放した時期と重なった。日本赤軍には、ロード作戦に関与した岡本氏とその仲間たちが所属していた。
パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は、最終声明の中で「国際主義的闘争の姿勢」へのコミットメントを再確認し、岡本氏の死去はパレスチナ大義の最も著名な支持者の一人を失うことになると指摘した。