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世界的に認められた広島のランナーが、1964年東京オリンピックの聖火台に点火

1964年10月10日に撮られた写真には、1964年の東京オリンピック大会の開会式で、聖火台に火を付ける日本の聖火ランナー、坂井義則が写っている。(AFP通信/資料)
1964年10月10日に撮られた写真には、1964年の東京オリンピック大会の開会式で、聖火台に火を付ける日本の聖火ランナー、坂井義則が写っている。(AFP通信/資料)
1964年10月10日に撮られた写真には、1964年の東京オリンピック大会の開会式で、聖火台に火を付ける日本の聖火ランナー、坂井義則が写っている。(AFP通信/資料)
1964年10月10日に撮られた写真には、1964年の東京オリンピック大会の開会式で、聖火台に火を付ける日本の聖火ランナー、坂井義則が写っている。(AFP通信/資料)
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06 Aug 2020 12:08:36 GMT9
06 Aug 2020 12:08:36 GMT9

東京:坂井義則は1945年8月6日、広島で生まれた。8月6日は、アメリカ合衆国がこの広島に原子爆弾を投下した日だった。

それから19年余りが過ぎた後、坂井は聖火を持って国立競技場に走って入って来て、競争用トラックから離れ、花が咲いた長い階段を駆け上がり、最上部に到達した。

胸に日の丸のエンブレムが付いた白いランニングシャツを着て、坂井は右手で聖火を高く掲げ、聖火台に直面し、炎をかざして点火し、炎の塊が表れた。この聖火は、1964年の東京オリンピック開催を伝えるものであり、第二次世界大戦の焼け跡から日本が復興したことを伝えるものでもあった。

坂井はほぼ6年前に亡くなった。そして、世界的に認められたランナーだったが、オリンピックには1度も出場したことはなかった。しかし、彼が聖火を掲げている数千枚にも及ぶ写真の中で、坂井は永久に不滅だ。この写真は、アメリカの雑誌、スポーツイラストレイテッドの表紙を飾っていた。

坂井の写真の上には、「東京1964:オリンピック始まる」という見出しが躍っていた。

1960年のローマ大会と併せて、恐らく東京大会は最初の近代オリンピックだろう。通信衛星を利用して、世界に中継した最初の大会だった。さらにまた、ブルガリアのチームメイトであったニコライ・プロダノフと、ディアナ・ヨルゴヴァがオリンピック中に結婚式を挙げるということもあった。

見どころは、たくさんあった。日本にとっては、「東洋の魔女」として知られ、ソビエト連邦と熱のこもった決勝戦で、金メダルを獲得した女子バレーボールチームだったかもしれない。

アメリカの競泳選手、ドン・ショランダーは4つの金メダルを獲得し、チェコスロバキアの体操選手、ベラ・チャスラフスカは3つのメダルを獲得し、ボブ・ヘイズは競争用トラック100メートル走で、10秒0という世界タイ記録を樹立して、この大会が最後のオリンピックとなった。エチオピアのアベベは、マラソンで2大会を初めて連覇し、ソビエトの体操選手、ラリサ・ラチニナは、生涯で18個のメダルを獲得した。

最大の衝撃は、ビリー・ミルズであったかもしれない。サウスダコタ州のパインリッジインディアン保護区に生まれたミルズは、10,000メートル走で金メダルを獲得したが、今でも10,000メートル走で勝利した唯一のアメリカ人だ。

代々木国立競技場は、東京オリンピック64年大会の最も貴重なものだった。故丹下健三によって建てられたこの傑作は、水泳競技の会場だった。そして、来年の東京大会ではハンドボールの会場として使用されることになっている。丹下が設計したこの貴重な宝石の空にそびえる屋根の輪郭線は、今でも現代建築の手本となっている。この競技場のカーブを描いた屋根は、つり橋のように鋼鉄製ケーブルで地上から支えられており、現代と日本の寺社に見られる伝統形式を融合させている。

コンピューターグラフィックやコンピューターモデリングのない時代に、これは建てられた。丹下は計算尺とイマジネーションしか使わなかった。多くの人々がこの競技場を、20世紀の最も重要な建造物の1つであり、現代建築の頂点であると評してきた。

新幹線

この国で有名な弾丸列車、日本の新幹線以上に、戦後日本の復興を示すものはなかった。このオリンピック開催のわずか数日前に、東京から大阪までの区間が開通し、新幹線の運行が始まった。日本の技術で世界を感心させるために、この高速列車はつくられたのだが、この高速列車は、オリンピックの暗部も示していた。つまり、過度な出費だ

新幹線のプロジェクトは、予想した倍のコストが掛かったと広く報じられている。また、大急ぎで高架高速道路を建設し、東京の近代化を図ったことは、東京中で多くの景色を破壊することにもなった。こうした高架高速道路は、日本橋で明治時代からある橋の上にも建てられた。この高架高速道路は、64年の建設ブームから今でも目障りとなっており、現在建て替えの話がある。

「実際に、物価上昇率が調整されて、アスリート1人当たりにすると、2008年の北京大会が開催されるまで、1964年の東京オリンピックが依然として最も高くついたオリンピックだった、とオリンピック史を研究するビル・マロン博士が語った。

AP通信

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