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致命的な攻撃を受けた日本人医師は、アフガニスタンの砂漠を緑化していた

会葬者がある犠牲者のひつぎを運んでいる。この犠牲者は2019年12月4日ジャラーラーバードで、日本人の中村哲医師への攻撃で殺害されていた。(AFP通信)
会葬者がある犠牲者のひつぎを運んでいる。この犠牲者は2019年12月4日ジャラーラーバードで、日本人の中村哲医師への攻撃で殺害されていた。(AFP通信)
05 Dec 2019 08:12:15 GMT9

ロイター通信、東京 12月4日水曜日、アフガニスタンで殺害された日本人支援活動家でもある中村哲医師は、干ばつの多い農村地域にある自らのクリニックで、死んでいく子供たちを見て、アフガニスタンを緑化する気になった。 「待合室で子供が叫んでいる声が聞こえるのたが、そこに着く頃までには、子供たちは死んでしまっているでしょう」と、同医師はNHKテレビの10月に放送された番組で語っていた。

「こんなことはほぼ毎日起きていたのです。子供たちはかなり栄養が不足していたので、下痢のようなものでも死んでしまう可能性があります…この両親たちに清潔な水と十分な量の食糧があれば、子供たちは死なずにすんだでしょうに」 4日の攻撃とは、未確認の武装集団が同医師と同乗していた他5人の車に弾丸を浴びせたものだ。同医師の死により、日本とアフガニスタンの両国は悲嘆にくれたままだ。

西日本で生まれた73歳の中村氏は、医師としての教育を受けた。パキスタンの州都ペシャワールのハンセン病治療クリニックの補充人員を募集した1984年の呼びかけに、同医師は応じた。この地域の荒涼とした美しさに魅かれたのだ。 1978年、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻の後、同医師は国境に溢れ出たアフガン難民の治療を始めた。これにより、1991年同医師はアフガニスタンでクリニックを開設することになった。

「私はアフガンの人々を無視できませんでした」と、同医師は語っていた。 2000年にアフガニスタンを襲った壊滅的な干ばつにより、飢餓や病気に苦しむ多くの人々が自分のクリニックに来るようになっていた後、同医師はまず井戸掘りを手伝った。その後同医師は、日本とアフガンの川が似ていることから発想を得て、かんがい用水路を思いついた。 中村医師がアジアのノーベル賞とも呼ばれることのあるラモン・マグサイサイ賞を受賞した年、2003年に建設は始まった。

手作業が多くを占め、摂氏50度の高温の中での厳しい6年間の労働の後、この用水路はついに完成された。 これ以来、砂漠のうちの約16,000ヘクタール(40,000エーカー)の土地が生き返った。これにより、中村医師はアフガニスタン中でとても幅広く尊敬される人物となったので、今年これまでに、同医師はアフガンの市民権を与えられた初めての外国人となっていた。

「医師として、患者を治し、家に帰す以上のことはありません」、そして砂漠の再緑化により、農業国であるアフガニスタンに対して、まさに同じことをしているのだ、と中村医師はNHKに語った。 「病院は一人ずつ患者を治療しますが、これは一度に村全体を助けています…私は生き返った村を見るのが好きなのです」

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