Since 1975
日本語で読むアラビアのニュース
  • facebook
  • twitter
  • Home
  • 中東
  • ラフィーク・ハリーリーの秘密を墓まで持っていくアサド政権のゴッドファーザー

ラフィーク・ハリーリーの秘密を墓まで持っていくアサド政権のゴッドファーザー

アブドゥル=ハリーム・ハッダームがパリで死去。(ロイター)
アブドゥル=ハリーム・ハッダームがパリで死去。(ロイター)
Short Url:
01 Apr 2020 09:04:13 GMT9
01 Apr 2020 09:04:13 GMT9

パリ発:レバノンのラフィーク・ハリーリーに対するアブドゥル=ハリーム・ハッダームの警告は「これらの狂気の人々に注意せよ。彼らは危害を加えるかもしれない」という明解なものだった。

シリアのハーフィズ・アル=アサド大統領政権、そしてそしてその息子のバッシャール・アル=アサド大統領政権の上層部に30年間携わってきたハッダームには自分の話の意味するところが分かっていた。2005年2月、ハリーリーはシリア政権とつながるテロリストによってベイルートで暗殺された。

火曜日朝、心臓発作によって88歳で亡くなったシリアの前副大統領、ハッダームは、父が暗殺された数カ月後にパリにある自身の自宅を訪れた息子のサード・ハリーリーにこの話を詳しく話して聞かせていた。

2015年5月 ハッダームはヒズボラと、暗殺に関与したシリア政権のメンバーを公然と非難した。ハリーリーの暗殺を調査する裁判所関係者もパリを訪れてハッダームに事情を聞いている。

シリアでは30年にわたり、地中海のリゾート地、バーニヤースの中産階級出身でスンニ派シリアバース党員であるハッダームよりアサドファミリーに近しいものはいなかった。

かつてはハーフィズの後継者候補とも目されていた同氏は、バッシャールが2000年6月に政権につくと、代わりにその権力支配強化を支援した。

父親のアサドの死後数日間、ハッダームはバッシャールの階級を将軍へと引き上げる命令を断行してバッシャールを軍司令官とし、これが不透明な継承プロセスでカギとなる動きとなった。

弁護士の教育を受けているハッダームは1984年の副大統領就任まで外務大臣を14年務めている。同氏はまた、シリアのレバノン政策策定にも参加している。フランスの元駐シリア大使、ジャン=クロード・クスランはアラブニュースに対し、 ハッダームは強硬路線の政治家で、アサドの父親に最も近く、レバノン問題でも強硬路線だったと語っている。多くのレバノン人はシリアによる占領とそのすべての悲劇的な結果を象徴する存在のハッダームを嫌悪している。

また別のフランスの元大使で、フランス外務省中東局長を務めたイブ・オーバン・デ・ラ・メジエールはアラブニュースに対し、バッシャール・アサドをその父の死後にジャック・シラク大統領が招待した2000年のパリ公式訪問時にハッダームが同行していたことを覚えていると語った。

アラブ学者のデ・ラ・メジエールは両大統領が一対一で会合している間、苛立ち怒るハッダームと一緒にエリゼ宮の控えの間で待っていたことを回想していた。「なぜこれほど時間がかかっているのだ。彼らは何をしているのか?」と同氏は大声で聞いてきたという。

2005年、ハッダームはハリーリーの殺害とシリアの外交政策全般の両方を露骨に批判し、バース党を離党した。

ハッダームは治療が必要だとして2005年12月にパリに移住し、高級なフォッシュ通りにフランス警察により24時間警護される居を構えた。

2011年、同氏はバッシャール・アサドとその国民に対する迫害にとって最も知名度の高い敵となった。ハッダームは自身のパリの拠点から反アサド運動における一定の役割を担おうとしたが、バース党での数十年に及ぶ活躍からほかの反体制派の信頼獲得に苦戦した。

ハッダームは反乱が続くなか、シリア人は世界が彼らを守るために介入しない限り、自衛のために武器を取って戦う必要があると語り、宗派の争いを煽動しているとしてアサドとその一族を非難した。

ハッダームがパリにいることは、フランス市民には評判があまり良くなく、レバノン政策に反対する多くのフランス政府関係者は非難していた。それでも、反バッシャール・アサドを声高に唱えることである程度は名誉が回復されていた。

ハッダームはフランス国内に埋葬され、葬儀はパリ市によって執り行われる。息子のジハドはコロナウイルスの世界的流行が原因でトルコに取り残されており、もう一人の息子のジャマールはパリで心臓切開術後の回復途中にある。

特に人気
オススメ

return to top