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アルメニア人は自分たちの土地を求め、アラブ諸国の中に聖域を見出した

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23 Dec 2021 03:12:02 GMT9
23 Dec 2021 03:12:02 GMT9
  • アルメニア人には長い歴史がある。中東で最も古来から続く洗練された社会の1つなのである
  • 1915年の虐殺を逃れた人々はレバントの国際都市で温かく歓迎された

ジェームズ・ドラモンド

ロンドン:今年10月、アルメニア大統領アルメン・サルキシャン氏がリヤドで飛行機から降りたとき、氏は旧ソ連構成共和国だった小国からサウジアラビアを訪問した最初の大統領となった。

1991年に旧ソビエト連邦からの独立を宣言して以来、アルメニアは30年近くもの間、一部のイスラム諸国とは実質的に外交関係がなかった。

外交関係がなかった理由の1つは、長期に渡るナゴルノ・カラバフ紛争である。この紛争は表面上は、キリスト教徒のアルメニアをイスラム教徒のアゼルバイジャンに対して戦わせるものである。このことが、1915年のオスマントルコによるアルメニア人ジェノサイドと併せて、アルメニア政府と多くの中東諸国との関係に大きな影響を与えている。

地政学的には、アルメニアに駐留を続けている数千人のロシア兵士がアルメニアをロシア圏の影響下に断固としてとどまらせ続けており、政府は立ち回る余地がほとんどないまま歴代続いている。

しかし政治を越えて、アルメニア人とアラブ人の関係は、特に個人的なレベルでは大いに緊密なものとなってきている。実際、何世紀もの間アルメニア人は自分たちの土地を探し求め、アラブ諸国の中で聖域を見出し、その大部分は調和的であった。コミュニティの目立たないメンバーだったことが多いのではあるが。

アルメニアは人口300万人を擁する内陸の小国である。地震に苦しめられており、西はトルコ、北はジョージア、東はアゼルバイジャンに囲まれている。首都のエレバンはソビエトの装飾と印象的なモダニズムに覆われた帝政ロシアの宝石だ。

中世の大都市アニの遺跡は、第一次世界大戦前に、アルメニア人がトルコ東部の大部分に渡るアララト山西部に居住していた事実を証言している。しかし1915年(と、それ以前)の事件で、数10万人ではないとしても数万人のアルメニア人が南部へ離散させられることとなった。

レバントの国際的な都市には同胞のコミュニティがあり、彼らは温かく迎えられた。

アルメニア人は建築家として有名である。実際、オスマン帝国の偉大な建築家シナン・パシャ氏はアルメニア人の血を引いていると言われている。離散したアルメニア人の多くは仲介者、翻訳者、銀行家、商人といった隙間市場で活躍した。そうしたキャラクターの1人がユークミアン氏である。1930年代の小説化されたエチオピアを舞台とするイーヴリン・ウォー氏の娯楽小説「黒いいたずら」のアンチヒーローだ。

アルメニア人は自分たちのアイデンティティをオスマン帝国のミレット制や、後には植民地の委任統治を通して保ってきた。こうした制度の下で、税の支払いや、誕生、死亡、婚姻、相続に関する個人的な立場の係争解決は宗教的指導者に権限委譲されていた。

そのため、アルメニアの司教と大司教がコミュニティの活動に責任を持っていた。アレッポからカイロに至るまで、バスラからベイルートに至るまで、教会は当時も今もアルメニア人の生活の中心となっており、困窮者への福祉や、若者への教育を提供している。

この結果、コミュニティとアイデンティティに強い帰属意識をもたらすこととなった。慈善活動によって育まれ、支えられたものである。たとえばカルースト・グルベンキアン氏は、アルメニア人の石油産業の初期の先駆者だ。氏は大富豪となり、中東全土の数多くのアルメニア人の学校、孤児院、教会に自分の財団を通して資金提供した。

アルメニア人のコミュニティは政治的には無関心層が多い。その例外はヌバル・パシャ氏の経歴だ。19世紀末期のエジプトの著名な首相である。氏は3期の任期を務め、その期間の長さは様々だが、スエズ運河建設の取引の交渉を助け、宗主国が司法制度を2重にしていた領事裁判制度を改革し、活動的だが浪費的でもあったイスマーイール・パシャ氏のような移り気な統治者に対応した。

ヌバル・パシャ氏のパトロンだったボゴス・ベイ氏は、近代エジプトの創設者であるムハンマド・アリー・パシャ氏の秘書官となったアルメニア人である。アラー・アル・アスワーニー氏が傑作小説「ヤコービエン・ビルディング」の題名を決める際、カイロに対するアルメニア人の貢献に敬意を払った。

地中海東部、ベイルートのブルジュ・ハムードはレバノンの首都にあるアルメニア人地域として見られることが多い。この地は最初、第一次世界大戦後の難民キャンプとして形成され、トルコ東部とシリア北部の大虐殺から逃れてきた数千人を迎え入れた。

内陸部では、ベイルートとダマスカス間の主要路上にあるアンジャルもアルメニア人の町だ。美しい考古学遺跡で有名であり、シリア軍のレバノンにおける元諜報本部でもある。

レバノンの宗派制度の下で、アルメニア人には議会の128議席中の6議席が保証されているが、政治的な立場は低いままとなっている。

南部では、エルサレム旧市街の4つの割り当て区画のうち最小のアルメニア人地区の中心に聖ヤコブ主教座聖堂がある。

アルメニア人はエルサレム旧市街のイエス・キリストの磔刑の地に建てられたと言われている聖墳墓教会の3大管理者の1人である。特徴的な黒頭巾を身につけた聖職者が、アルメニア自体にソビエトの無神論が何十年も続いた中でアルメニア教会の伝統を守り続けてきた。

シリアでは、アレッポがアルメニア人住民の中心地となっていた。アレッポにある有名なバロンホテルはマズロミアン家によって所有・管理されていた。その地での比較的裕福なマイノリティとして、アルメニア人はアサド政権を大きく支えてきたと考えられている。

その結果、アレッポ旧市街の外にある歴史的な地域であり、アルメニア人と最も関係の深い場所であるジュダイド(新市街)は内戦の過程で深刻な被害を受けている。

爆撃を受けた古代の宮殿や博物館の痛ましい画像がインターネットで広まった。

そしてイランは、近代のアルメニアが大部分のエネルギー供給を受けている地域であり、ヴァーンク教会とも呼ばれる有名な聖救世主大聖堂がエスファハーンの新ジョルファ地区に建っている。

17世紀初頭、トルコ軍を食い止めるための焦土作戦の一環として、ペルシャのシャー・アッバース氏が何千人ものアルメニア人をエスファハーンを流れるザーヤンデ川の南側に強制移住させた。多くのアルメニア人がマイノリティとしてイランに残留している。

今日、世界中に有名なアルメニア人の末裔があり、ほんの少し例を挙げるだけでもカーダシアン家の人々、シェール氏、アンドレ・アガシ氏、シャルル・アズナヴール氏などがいる。しかし、彼らの故郷に目を向けて見れば、アルメニア人は中東で最も古来から続く成功したコミュニティの1つとして、長い歴史を持っているのである。

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