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インターネットを民主主義にとって安全にするには

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24 Dec 2019 02:12:21 GMT9
24 Dec 2019 02:12:21 GMT9

10月、アメリカ大統領選挙の主要な民主党候補のひとりである上院議員のエリザベス・ウォーレンと、FacebookのCEOマーク・ザッカーバーグとの間で、対立が勃発した。ウォーレンはFacebookの解体を呼びかけた。そして、ザッカーバーグは社内のスピーチで、このことは同社への「実存的な」脅威を表していると話した。

Facebookはそのとき、もうひとりの主要な民主党候補である前副大統領のジョー・バイデンの汚職について非難した、明らかに間違った主張を伝えるドナルド・トランプ大統領の再選キャンペーン広告を掲載した件について批判された。ウォーレンは、わざと間違えた広告を彼女自身が流すことによって、同社をトロールした。

この騒動は、ソーシャルメディアがアメリカの民主主義に――実際、あらゆる民主主義国に――提示している深刻な問題を反映している。インターネットは多くの面で、新聞やテレビのような既存のメディアに代わって、広く知られる出来事についての主要な情報源、そしてそれらの出来事について議論される場所になってきている。

しかしソーシャルメディアには、特定の声を大きくする途方もなく大きな力があり、ロシアのトロールからアメリカの陰謀論者に至るまで、民主主義への敵対勢力によって武器にされている。このことが今度は、民主的な対話それ自体を保全するためにインターネット上のプラットフォームを政府が規制すべきだという声につながっている。

しかし、どんな種類の規制が、合憲的で実現可能なのだろうか? アメリカ合衆国憲法の修正第1条には、非常に強力な言論の自由の保護が含まれている。多くの保守派は、FacebookやGoogleが右派の意見を「検閲している」と非難しているが、修正第1条は政府による言論規制にのみ当てはまるのであって、法律と判例は、インターネット上のプラットフォームのような民間の経済主体がそのコンテンツの議論を管理する権能を保護している。加えて、1996年通信品位法230条は、インターネット上のプラットフォームに対し、コンテンツの流通を防止する責任を免除している。

対照的にアメリカ政府は、例えば中国がやっているような直接なやりかたでインターネット上のコンテンツを検閲する権能が、強力に制限されている。しかしそれにも関わらず、アメリカやその他の先進民主主義国は、より非介入的なやりかたで言論を規制してきた。

これは、旧来からの放送メディアに関して、特にあてはまることだ。政府は旧来からの放送メディアについて、放送チャンネルを認可したり、(テロリスト扇動のような)ある種の言論を禁じたり、信頼できる政治的にバランスのとれた情報を供給するよう義務づけられた公共放送事業者を設立したり、といった権能を通じて公共の議論を形作ってきた。

連邦通信委員会(FCC)の元々の義務は、単純に民間の放送事業者を規制するのではなく、幅広い「公益」を支援するというものだった。これが、FCCの「公平原則」に進化し、テレビやラジオの放送事業者に対し、政治的にバランスのとれた報道や意見を伝えることを課していた。

この私的な言論への介入の合憲性については、1969年のレッドライオン・ブロードキャスティング社対FCC 裁判で争われ、最高裁はラジオ局に保守派のコメンテーターへの反論を放送するよう強制するFCCの権限を支持した。この決定の正当化の根拠は、当時の三大テレビネットワークが保持していた公共の場の議論への寡占的支配にあった。

しかしながら、公平原則に対して保守派が反対しつづけたため、レッドライオン裁判の決定は制定法にはならなかった。共和党の大統領たちは、これを制定法にしようとする民主党による試みに対して繰り返し拒否権を行使し、FCC自身が1987年、政権の決定によって、このドクトリンを廃止した。

公平原則の盛衰は、インターネット時代にそれに相当するものを生み出すことがいかに難しいかを示している。当時と今との間には多くの類似点があるが、それは規模と関係している。今日、Facebook、Google、Twitterは、インターネット言論の大多数を主宰しており、1960年代の三大テレビネットワークと同じような寡占的地位にある。しかし、今日のFCCが公平原則の現代版を示すことを想像するのは不可能だ。

私たちの政治は、はるかに二極化している。容認できない言論(例えば、2012年にコネチカット州ニュータウンで起きた学校での大量殺人事件は嘘だというような、アレックス・ジョーンズが提供する様々な陰謀論)とは何かということについて合意に達することは、不可能だろう。したがって、コンテンツの言論管理に対する規制的アプローチは、原則的には行き詰まっていないが、実践上の問題として行き詰まっている。

これが、私たちが規制の代替案として反トラストを考慮する必要がある理由だ。民間の経済主体がコンテンツを自主的に規制する権利は、アメリカでは用心深く保護されてきた。新聞の市場は分散されていて競争的なので、ニューヨーク・タイムスがジョーンズによる論説の掲載を拒んでいることについて、私たちは文句を言わない。インターネット上の対話はFacebookあるいはYouTubeが寡占的に支配しているので、これらが彼の言説を伝えないと決定するならば、それは実に重大なことである。Facebookのような民間企業が握っている力を考えると、そのような企業がそのような決定をすることが正当だと見做されることは滅多に無いだろう。

一方で、もしもFacebookが単純に、何が容認できる言論なのかについて異なる見解を持ったいくつかの競争的なインターネット上のプラットフォームのひとつであるならば、私たちはFacebookがコンテンツの議論を管理してもあまり心配しないだろう。これは、反トラスト法の基礎について大きな再考の必要性を示している。

今日、規制当局と裁判官が反トラストを考える枠組みは、1970-1980年代、自由市場経済学のシカゴ学派の勃興の副産物として確立された。ビンヤミン・アッペルバウムが近著『経済学者たちの時間』に時系列で記述しているように、ジョージ・スティグラー、アーロン・ディレクター、ロバート・ボークといった人物が、あまりに厳しい反トラストの実施に持続的な批判を始めたのだ。彼らの主張の大部分は経済的なものであった。すなわち反トラスト法が用いられたのは、革新的で効率的であることによって大きくなった企業に対してであったというのだ。

彼らは、大企業によってもたらされる経済的な害の唯一正統的な物差しは、価格や質といったもので測られる消費者の福利の減少であると主張した。そして彼らは、競争は究極的には最大の企業すらも律するのだと信じていた。例えば、IBMの命運が衰えていったのは政府による反トラスト行動のせいではなく、パーソナル・コンピュータの勃興のせいであったという。

シカゴ学派はしかし、さらに議論を進めた。1890年シャーマン反トラスト法の枠組みを最初に構築した人は、大規模であることの経済的な影響にのみ関心があり、寡占の政治的な影響には関心がなかったというのだ。政府が行動を起こす唯一の基準は消費者の福利であり、主要プロダクトを無料で提供するGoogleやFacebookのような企業に対して訴訟を起こすのは難しかった。

私たちは、デジタル・テクノロジーがもたらした変化に照らし、受け継がれた法体系を大きく再考している最中にいる。FacebookやGoogleが利用者のデータを販売したり、脅威になるかもしれないスタートアップを買収したりしていることによって、消費者はプライバシーの喪失や既定のイノベーションといったものによって害されているということを、経済学者や法律学者は認識し始めている。

しかし、大規模であることによってもたらされる政治的な害もまた重大な問題なのであり、反トラストの実行は議論されるべきだ。ソーシャルメディアは、悪い情報や陰謀論や誹謗中傷の流れをわざと加速させることによって、民主主義を弱体化させるための武器にされてきた。インターネット上のプラットフォームだけが、このゴミをシステムから除去する力を持っている。しかし政府は、(大部分ひとりの個人によって支配されている)ひとつの民間企業に対して、何が容認できる政治的言論なのかを決定する仕事を任せることはできない。もしもFacebookが、より分散された競争的なプラットフォーム・エコシステムの一部であるならば、私たちがこの問題について憂慮することは、はるかに少なかっただろう。

対策を実施することは、とても難しいだろう。規模に対して報いるのはネットワークの性質であり、そして、Facebookのような企業がどのようにして分割されうるかは明らかでない。しかし私たちは、デジタルな言論がそれを主宰する民間企業によって流通されなければならない一方で、そのような力は競争的な市場で分散されない限り、安全に行使することはできないということを、認識する必要がある。

フランシス・フクヤマは、スタンフォード大学のシニアフェローであり、同大学の「民主主義とインターネットに関するプログラム」の共同責任者である。www.project-syndicate.org

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