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アゼルバイジャンの国民的指導者ヘイダル・アリエフ氏の命日

アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領(右)、後継者で息子のイルハム・アリエフ氏(左)はカスピ海アゼリ・チラグ・グネシュリ油田のタッピングを祝った。1997年11月12日。
アゼルバイジャンのヘイダル・アリエフ大統領(右)、後継者で息子のイルハム・アリエフ氏(左)はカスピ海アゼリ・チラグ・グネシュリ油田のタッピングを祝った。1997年11月12日。
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12 Dec 2020 01:12:18 GMT9
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  • ソビエト時代の業績そして独立国家の大統領として、同氏は現在のアゼルバイジャン建国の父と言及されていた。
  • 1994年に実行した新しい石油戦略は、アゼルバイジャンを世界経済と一体化する決定的な役割を演じた

シャヒン・アブドラエフ

12月12日はアゼルバイジャンの国民的指導者ヘイダル・アリエフ氏の命日である。

同氏は17年前に死去したが、その人生を祖国の繁栄と健全性のために捧げ、アゼルバイジャンの歴史に特別な位置を占めている。

同氏は才能溢れる政治家かつ著名な人物で、最も困難な時代に祖国の指導者の役割を担ったとき、国民の信頼を獲得し、強力な経済発展で国家の土台を作り、国民的指導者の力量を示した。

1923年5月10日、同氏はアゼルバイジャンのナヒチェヴァン生まれで、ソビエト時代の業績そして独立国家の大統領として、現在のアゼルバイジャン建国の父と言及されていた。同国の現代史の節目を作り、アゼルバイジャンの未来を決める発想と達成された業績を通じて我々とともに永遠に残るだろう。

同氏は、国民に大きな影響を与える地政学的変化を理解し、困難な状況においても自制を失わず、最も複雑かつ相反する歴史的プロセスに参加した。

1964年、同氏はアゼルバイジャン閣僚会議で国家安全委員会の副議長になり、1969年7月、アゼルバイジャン共産党中央委員会総会で、アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記として選出された後、同共和国トップになった。

1982年12月、同氏はソビエト連邦共産党中央委員会政治局員に選出され、ソビエト連邦閣僚会議第一副議長の役職に指名され、ソビエト連邦の指導者の一員となった。

1987年10月、同氏は共産党中央委員会政治局とミハイル・ゴルバチョフ書記長が追及した政策に抗議して役職を辞した。

ソビエト軍により発生した1990年1月20日のバクーの悲劇の後、アリエフ氏はアゼルバイジャン人民に対する犯罪の組織者と実行者の処罰を要求した。ソビエト連邦指導層の偽善的政策とナゴルノ・カラバフで起こった衝突に抗議するため、1991年7月、ソビエト連邦共産党を離党した。

アゼルバイジャン帰国後はバクーの後ナヒチェヴァンで暮らし、同年、アゼルバイジャン最高会議副議長に選出され、ナヒチェヴァン自治共和国最高議会議長とアゼルバイジャン共和国最高会議副議長の役職に1991年から1993年まで就いた。1992年、同氏はナヒチェヴァンで新アゼルバイジャン党の選挙区議会議長に選出された。

1993年3月から6月の政府の危機の結果、アゼルバイジャン国民は同氏の権力復帰を希望し、アゼルバイジャン最高会議議長に選出された。1993年7月24日、議会(ミリー・メジリス)承認で、アゼルバイジャン大統領として権力を得た。1993年10月3日の全国投票において、同氏はアゼルバイジャン大統領として選出された。

任期中、同国の外交政策は再構築されバランスの取れた政策へ変革した。アゼルバイジャンと他の諸国との2国間関係および特にイスラム協力機構(OIC)などの国際機関との協力およびアラブ世界の諸国が強化され始めた。1994年のサウジアラビア訪問では、2国間関係発展の新しい機会を開き、両国は、経済、貿易、投資、技術、文化、青少年とスポーツに関する初の一般協定に署名した。

国民の要求による権力復帰後には、政治的に安定性が定着した。ナゴルノ・カラバフ紛争では、アゼルバイジャン共和国とアルメニア共和国間で停戦が成立した。大規模な経済改革が始まり、国の財務状況は安定化した。経済に魅力を感じた投資のボリュームは年々増加し、国民福祉の品質改善が達成された。

1993年に権力復帰後、アリエフ氏は、アゼルバイジャン経済の原動力である石油ガス業界再生の関連措置を実行し始めた。

1994年に実行された新しい石油戦略では、アゼルバイジャンを世界経済に融合する決定的な役割を演じ、大統領の断固とした政策により外国資本を引き寄せた。

アゼルバイジャンの世界経済システムと同国エネルギー安全保障への融合は、1994年9月24日、バクーで「世紀の契約」の調印で固めた。「世紀の契約」の下に、サウジアラビアのデルタ石油会社など8カ国の11企業が株主になった。

1996年のバクー・ノヴォロシースク、1999年のバクー・スプサ両パイプラインの利用、バクー・トビリシ・ジェイハンの輸出石油メインパイプライン建設合意の署名、輸出ルートの多様化は、アゼルバイジャンの石油を世界市場に輸出するため実施された。

バクー・トビリシ・ジェイハン輸出石油メインパイプラインは、アリエフ大統領の石油戦略の最大の成功である。アゼルバイジャンのガスを西側市場への確実に輸出するため、同氏のイニシャチブでバクー・トビリシ・エルズルムのガスパイプライン建設が始まった。

インフラ開発は社会経済政策の中で重要な方向の一つである。国際的輸送回廊と道路、地域間、都市、地域道路輸送インフラ開発は、世界通信への国内輸送システムの速やかな融合と同様、輸送政策の焦点であった。国際輸送システムを改善するため、TRACECA(欧州・コーカサス・アジア輸送回廊)、ノース・サウス(南北輸送回廊)、INOGEYTプログラムなどのプロジェクトが実行された。

「グレート・シルクロード」再建に関する国際会議は、1998年9月バクーで、EUの数組織の参加と支援により企画された。このイベントは32カ国の代表を対象にしている。TRASEKA(欧州・コーカサス・アジア輸送回廊)開発に関する国際輸送に関する主要多方面協定が、ヨーロッパとアジア12カ国により1998年9月8日署名され、アゼルバイジャン経由の通過量は大幅に増えた。

アリエフ氏がはじめたプロジェクトは現在、イルハム・アリエフ大統領により実行されている。2018年、TAPとアナトリア横断天然ガスパイプライン(TANAP)は、2つのパイプラインを物理的に接続する最後のゴールデン・ウェルドで接続が完了した。TAPは天然ガスをアゼルバイジャンの巨大なシャー・デニズ II ガス田からヨーロッパに輸送する。長さ878kmのパイプラインは、トルコとギリシャ国境のキポイでTANAPと接続し、ギリシャ、アルバニア、アドリア海を横断して南イタリアの海岸に到達する。

アリエフ氏は12月12日に死去したが、同氏の記憶は今でもまだ生きている。発想と激務を通じて何百万もの愛と尊敬を集めた指導者であった。生活の改善が国民的指導者の名前と先見の明のある政策に直接関連しているので、同氏は人々の記憶と心の中に永遠に残るであろう。

毎年、アゼルバイジャン国民と全世界に暮らすアゼルバイジャン人は全て同氏を追悼している。

アリエフ氏は生き、永遠に生きるだろう。同氏の力と権力の源であった、国民との強力な絆と常に関連しているからだ。

同氏の発想と賢明な政策は、イルハム・アリエフ大統領に引き継がれた。この将来を見据えた政策により、アゼルバイジャンは名声を素早く展開し構築している。ナゴルノ・カラバフ紛争で同氏が始めた交渉プロセスは、イルハム・アリエフ大統領の慎重な政策の結果、完了し、アゼルバイジャンは領土の一貫性を回復した。  

  • シャヒン・アブドラエフ氏は在サウジアラビアのアゼルバイジャン大使である。
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