ソレイマニ司令官殺害

一年前に暗殺されるまで、イランのコッズ部隊の司令官としてカセム·ソレイマニは死と破壊の痕跡を残した。しかしながら、ソレイマニの残忍な侵入はいまだに地域を苦しめ続けている

2020年1月3日金曜日の午前1時ごろ、バグダッド国際空港を発った2台の車列が米空軍の無人機MQ-9ヘルファイアの一斉砲火を受けた。攻撃目標とされた、イラン革命防衛隊(IRGC)特殊作戦部コッズ部隊の司令官カセム·ソレイマニ少将62歳を含む10名が死亡した。

イラク、アフガニスタン、イエメン、シリア、レバノンおよびパレスチナにおける、ソレイマニが支持する代理勢力の攻撃を通じ、ソレイマニは無数の人々を死なせてきたことは広く知られていたが、イランの最高指導者に次ぐと広く見られていた人物をアメリカが明らかに暗殺したことは、世界の外交グループが衝撃を受けた。

アメリカや他の国には、トランプ政権が特にアメリカ法では禁じられている行為である、外国政府の関係者の暗殺を禁じる、国際法の暗黙のルールを侵し、行き過ぎたと感じる者もいる。必然的に、ソレイマニ暗殺を「きわめて危険でばかげたエスカレーション」と非難したイラン政府は報復の恐れがある。

多くの専門家は、ソレイマニ殺害の直前に米イランで戦争が勃発する可能性が高いとみていた。ソレイマニ殺害後、それはほとんど不可避と思われた。

当時、イランは、2018年5月のトランプ政権のイラン核合意離脱の決定に端を発した増大する危険な膠着状態にあった。多くの専門家は、ソレイマニ殺害の直前に米イランで戦争が勃発する可能性が高いとみていた。ソレイマニ殺害後、それはほとんど不可避と思われた。

しかし、ソレイマニ殺害に対してイラン政府が断言した報復行動は現実化しなかった。

アメリカの新大統領の就任が迫り、中東地域の地政学的展望が新たな大変動を迎え、「外交に戻る信頼できる道筋」をイラン政府に示そうと努めるバイデン次期政権は、イラン核合意を生き返らせるのは確かなようだ。

中東地域の政府はいまイランの経済制裁を緩和すると、イランは侵略作戦を拡大し、核兵器獲得の目的を新たに追及することになり、制裁緩和は大きな過ちとなるだろうと確信している。

現在、ソレイマニ殺害のドローン攻撃から1年となり、アラブニュースは1979年の革命の信用を損ねる精神を誰よりも多く、広い地域に広げたソレイマニの足跡に焦点を当て、殺害の興味深い状況を検証している。

革命による鍛造

20歳のカセム・ソレイマニが1977年10月にイランの路上で始まったシャーの支配に反対するデモに参加したかどうかは不明です。しかし、1957年3月11日にイラン南部のケルマーン州で貧しい農民の息子として生まれたソレイマニは、その後2年で、中東の地政学的景観を再形成することになる革命に自身を捧げることが使命であると悟りました。

主に影の中にあった人生を垣間見ることができるだけでソレイマニの公式の伝記は無く、時折見られる慎重に管理された公の姿、イラン政府によって発行されたプロパガンダ、そして彼の知性の断片によってのみ、その存在は照らされています。

昔の日付不明の写真でわかるように、カセム・ソレイマニ氏はイランのケルマン州の貧しい農民の息子だった。 (SalamPix / Abaca / Sipa USA)

2011年にアメリカンエンタープライズ公共政策研究所の学者によって発掘された珍しい自伝的メモの中にあるソレイマニ自身の説明によると、彼はわずか5年間の初等教育を終えた後、1970年に学校を卒業しました。 13歳のソレイマニはケルマーン市へ旅し、彼の家族が農場を維持するために捨て身の賭けとして州から借りたローンを返済するために建設現場やその他の劣悪な仕事にその後の9年間を費やしました。

そして1979年、シャーの倒壊とアーヤットラー・ホメイニーの亡命からの復帰によってすべてが変わりました。

ソレイマ二氏は、アヤトラ・ルホラ・ホメイニ師(亡命から戻った直後の1979年2月5日にテヘランで撮影)がシャーを倒したときに成人を迎えた。(AFP通信)

ソレイマニの始まりについてのこの説明は、彼の死のわずか1か月前に、2006年から2008年にかけてイラクでの米国の特殊作戦の責任者であり、元敵であるスタンリー・マクリスタル将軍が2019年12月に書いた記事で再び語られました。

「イランの致命的な人形使いは」と、マクリスタルは「外交政策」で記し、「幼い頃に並外れた頑強さを見せていました…父親が借金を返済することができなかったとき、13歳のソレイマニは自身で借金を返済するために働いたのです。」

若かかりし頃のソレイマニは「重量挙げと、イランの現在の最高指導者であるアーヤットラー・アリ・ハメネイの弟子による説法に出席する」などして自由な時間を過ごした、とマクリスタルは付け加えています。

学者の一部がソレイマニのその後のIRGC内でのコドス軍リーダーへの昇進を認めたのは、ハメネイとのつながりによるものでした。イラン・イラク戦争中に撮影された日付のない珍しい写真には、ソレイマニとその戦闘員グループが、1989年にアーヤットラー・ホメイニからイランの最高指導者を引き継ぐこととなるハメネイと共に座って食事をしている様子が写されています。

ソレイマニはハメネイの右側に座り、これはその後、地域全体に深刻な影響を与えることになる2人の男の関係の始まりとなります。

イラン・イラク戦争中に撮影された珍しい日付不明の写真には、ソレイマニ氏が、1989年にイランの最高指導者としてアヤトラ・ホメイニ師の後を継ぐアリ・ハメネイ師と一緒に食事をしているところが写っている。

イラン系アメリカ人の政治学者であり、イランと米国の外交政策の第一人者であるマジッド・ラフィザデ博士は、ソレイマニについて次のように述べています。「彼がゴドス軍のリーダーであったという理由だけではなく、アーヤットラー・アリ・ハメネイがソレイマニを非常に親しい友人であり側近であると真に見なしたという事実のために、彼はイランで2番目に強力な男となったのです。」

ソレイマニに対するハメネイの愛情と絶対的な信頼は稀なもので、最高指導者は「他の役人に対する疑惑で知られており、権力を握った後には多くの強力な聖職者や政治家を自身の脇に置いていました」とラフィザデ博士は述べています。「しかし、彼はソレイマニに非常に個人的に愛着を持っていました。多くの独裁者と同様に、友情を獲得した人物は法を超えたさらなる力を与えられます。だからこそ、ゴドス軍やIRGCでソレイマニのような力を持った他のリーダーは存在しないのです。」

ソレイマニは「1979年にイラン革命に夢中になり、(そして)わずか22歳で…イラン軍で昇進し始め、伝えられるところによると、イランの西アゼルバイジャン州で初めて戦闘を見る前には、わずか6週間の戦術訓練を受けています。」と、マクリスタルは書いています。

1979年、ソレイマニは革命の保全のためにアーヤットラー・ホメイニーによって設立された、新結成のイスラム革命防衛隊(IRGCとしてよく知られている)に参加しました。ソレイマニが血を流したIRGCの最初の挑戦は、1979年3月にイラン北西部のクルド人地区で勃発した新革命体制に対する反乱でした。

22歳のとき、ソレイマニ氏はIRGCとして知られる新たに結成されたイスラム革命防衛隊に入隊した。(SalamPix / Abaca / Sipa USA)

当初、彼の2011年のIRGCの歴史と経験の浅い防衛隊達の「情熱と熱意」は「クルド人の反乱を乗り越えるには不十分であることがわかった」が彼らは耐え忍んだ、と政治学者のエマヌエーレ・オットレンギは「パスダラン」に記しています。

「死傷者が増えるにつれて政府軍は敗北と撤退を経験しましたが、警備員は…不信者と見なした敵を玉砕することを決意しました。」最終的に「彼らは反乱を残忍な力にさらし、扇動と反逆罪で約5,000人のクルド人戦闘員と1,200人もの民間人を殺害した」と、ワシントンのシンクタンクである民主主義防衛財団の上級研究員であるオットレンギは述べています。

しかし重要なことは、ソレイマニが「その翌年から始まったイラン・イラク戦争の真の申し子」であることだとマクリスタルは書いています。

ソレイマニは「血なまぐさい紛争の中で、イラクの国境を越えて任務を主導したことによる英雄として登場しましたが、さらに重要なことは、彼が自信を持った実績のある主導者として現れたことです。」と、マクリスタルはある種の恨みを持った尊敬の念と共に古い敵を思い出しています。

彼はまた、向かってくるすべてのものに対して革命後のイランがその存在のために戦っていたという確信と共に現れました。CIAの国家外国評価センターは1980年3月の機密報告書で、イラン革命をイデオロギーの一部として輸出するというイランの決意を示しました。イラン人は彼らの革命を他の「抑圧された」人々の例」と見なしましたが、指導リーダー達はまた、「イランが革命を輸出しなかった場合、国家は敵対的な政権の中での好ましくない状況で孤立するだろう」とも信じていました。

サダム・フセインが米国に支持されたイラン・イラク戦争以前でさえ、西側への不信はイランの精神に根付いていました。1953年、イランで民主的に選出された首相であるモハンマド・モサッデクは、後にBPとして知られるようになる、アングロペルシャ石油会社の手に渡ったイランの石油産業の国有化を防ぐためにCIAと英国のMI6によって作られた計画を巡って退位となりました。

イランの西側に対する不信感は、1953年8月にCIAがクーデターを計画してモハンマド・モサッデク首相を失脚させ、君主制を復活させたところまでさかのぼる。(AFP通信)

イランのモハンマド・モサッデク首相(1951年にニューヨークの病院で撮影)は、イランの石油産業の国有化を阻止するために、米国と英国によって倒された。(AFP通信)

このクーデターにより、シャーは全力まで回復し、1979年の革命で終わることとなる、彼の残忍な秘密警察であるサヴァクによって強制された1不人気な改革プログラムが開始されました。

すでに末期ガンを患っていたシャーは1979年1月16日にイランを去りました。ジミー・カーター大統領が1979年10月にニューヨークで手術を受けるための渡米許可を与える以前、彼は多くの国を訪れています。疑惑を持たれていた犯罪の裁判のためにシャーの返還を求めるテヘランの要求をワシントンは拒否し、11月4日には過激派学生のグループがテヘランの米国大使館を占領し、これにより52人のアメリカ人外交官と職員は444日間人質となりました。

イラン革命から逃れた数日後の1979年1月24日、マラケシュでのシャー・レザー・パフラヴィー氏と彼の妻ファラ。(AFP通信)

人質による危機が、今アメリカがイランに対する固有の恨みを抱く理由となっています。1984年4月に実行された米軍による人質救出への試みが屈辱的な失敗で終わったことは米国の精神に刻まれています。ヘリコプターがイランの砂漠のステージングポストで輸送機に衝突し、発火した火の玉によって両機は破壊され、8人の米国軍人が死亡するという失敗でイーグルクロウ作戦は終わりました。

アメリカ政府が裁判を受けるためにシャーをイランへ返すことを拒否した後、1979年11月に過激派の学生たちがテヘランの米国大使館を占領した。学生たちは52人のアメリカの外交官と職員を人質にし、444日間立てこもった。(Getty Images)

イーグルクロウ作戦の大失敗の1か月前に発表されたイランの革命後意図に関する評価においてCIAは、スンニ派が支配するシーア派が大多数のイラクは、テヘランの「アラブ地域で最も有望な破壊すべき標的」であると結論付けました。しかし、同年の9月22日にサダムが隣国へ奇襲攻撃を仕掛けたことによって引き起こされた、最大100万人の命を奪い、ほぼ8年間におよんだ戦争によって、イランによる革命輸出のためのすべての計画は保留となりました。

イラクの大多数のシーア派人口とそれを超えて革命が広がることを恐れたサダムは、この宣言によって新しいイスラム国家を不安定にすることを意図していました。しかし、侵略は逆の効果をもたらし、イランの革命後の派閥を団結させてイスラム主義者と革命家の両者を彼らの故郷を守るために結集させることとなりました。

この際に現れた主要な人物の中には革命政府の副首相であり国防相であるモスタファー・チャムラーンがいました。チャムラーンは革命の数年前にパレスチナのファタハ運動で非正規戦技術を研究しており、現在彼はこの訓練を有効に活用してボランティアの形成を援助するだけでなく、自身がこの活動を主導しています。

米軍中央司令部への大西洋評議会のスコウクロフト戦略安全保障センターの上級研究員で、上級政策顧問であるネーダー・ウスコウィの言葉を借りると、この部隊は「革命的な熱意と型破りな戦​​術を組み合わせた」新しいタイプの戦争を行うことですぐに評判を得ました。

ウスコウィが2019年の著書「気温上昇:中東におけるイランの革命防衛隊と戦争」で述べているように、この部隊はゴドス軍の前身でした。

1981年6月、包囲された西イラン国境の町スーサンゲルドの近くでの戦闘でチャムラーンは殺害されました。「しかし、彼がすでに実践した戦争の戦い方は、将来のゴドス軍の特徴となるだろう」とウスコウィは書いています。

ソレイマニは戦争中すでに秘密工作を行っており、サダムに反対するイラク内のシーア派とクルド人のグループを支援していたことを複数の報告が示唆しています。

これはまた、イランでの聖なる防衛として知られている戦争中に「勇気によってその信用を得た」ケルマーンのIRGCユニットの若いリーダーにとって変革的な経験となることを約束しています。ソレイマニはイラン・イラク戦争を第41タララ師団の指揮官として過ごし、一連の主要な作戦に参加して血まみれのバスラ包囲戦でその頂点に立ちました。これは、1987年1月から2月にかけてイラン人がシャットアルアラブでイラクの港湾都市を占領しようとする試みを最終的に阻止し、10万人以上の命を犠牲にした後に戦争と同じくしてこう着状態のまま終焉を迎えました。

ソレイマニは戦争中すでに秘密工作を行っており、サダムに反対するイラク内のシーア派とクルド人のグループを支援していたことを複数の報告が示唆しています。

2020年10月に彼の公式ウェブサイトに掲載された記事の中でハメネイは、1980年に革命の防衛に結集したあらゆる分野のイラン人達の対応を賞賛し、そして特別な1人を選んでいます。

「このような集団的運動のおいては、通常並外れた才能が現れます。例えば、この国のこのような地域の村の若者などと言った具合に。そして例えば、ケルマーンの村の若者が街に行って軍隊に加わると言ったようなことです。」と彼は記しています。

「外交や国際関係などの分野」で「輝かしい」キャリアを積み上げ、また、「聖なる防衛時代に戦争で生み出され、形成されて形作られた人的資源」となったその青年はカセム・ソレイマニであり、彼が秀でた「それらの活動」は終末論的な規模における死と破壊への対処であったと彼はさらに語っています。

昔の日付不明の写真でわかるように、カセム・ソレイマニ氏はイランのケルマン州の貧しい農民の息子だった。 (SalamPix / Abaca / Sipa USA)

昔の日付不明の写真でわかるように、カセム・ソレイマニ氏はイランのケルマン州の貧しい農民の息子だった。 (SalamPix / Abaca / Sipa USA)

ソレイマ二氏は、アヤトラ・ルホラ・ホメイニ師(亡命から戻った直後の1979年2月5日にテヘランで撮影)がシャーを倒したときに成人を迎えた。(AFP通信)

ソレイマ二氏は、アヤトラ・ルホラ・ホメイニ師(亡命から戻った直後の1979年2月5日にテヘランで撮影)がシャーを倒したときに成人を迎えた。(AFP通信)

イラン・イラク戦争中に撮影された珍しい日付不明の写真には、ソレイマニ氏が、1989年にイランの最高指導者としてアヤトラ・ホメイニ師の後を継ぐアリ・ハメネイ師と一緒に食事をしているところが写っている。

イラン・イラク戦争中に撮影された珍しい日付不明の写真には、ソレイマニ氏が、1989年にイランの最高指導者としてアヤトラ・ホメイニ師の後を継ぐアリ・ハメネイ師と一緒に食事をしているところが写っている。

22歳のとき、ソレイマニ氏はIRGCとして知られる新たに結成されたイスラム革命防衛隊に入隊した。(SalamPix / Abaca / Sipa USA)

22歳のとき、ソレイマニ氏はIRGCとして知られる新たに結成されたイスラム革命防衛隊に入隊した。(SalamPix / Abaca / Sipa USA)

イランの西側に対する不信感は、1953年8月にCIAがクーデターを計画してモハンマド・モサッデク首相を失脚させ、君主制を復活させたところまでさかのぼる。(AFP通信)

イランの西側に対する不信感は、1953年8月にCIAがクーデターを計画してモハンマド・モサッデク首相を失脚させ、君主制を復活させたところまでさかのぼる。(AFP通信)

イランのモハンマド・モサッデク首相(1951年にニューヨークの病院で撮影)は、イランの石油産業の国有化を阻止するために、米国と英国によって倒された。(AFP通信)

イランのモハンマド・モサッデク首相(1951年にニューヨークの病院で撮影)は、イランの石油産業の国有化を阻止するために、米国と英国によって倒された。(AFP通信)

イラン革命から逃れた数日後の1979年1月24日、マラケシュでのシャー・レザー・パフラヴィー氏と彼の妻ファラ。(AFP通信)

イラン革命から逃れた数日後の1979年1月24日、マラケシュでのシャー・レザー・パフラヴィー氏と彼の妻ファラ。(AFP通信)

アメリカ政府が裁判を受けるためにシャーをイランへ返すことを拒否した後、1979年11月に過激派の学生たちがテヘランの米国大使館を占領した。学生たちは52人のアメリカの外交官と職員を人質にし、444日間立てこもった。(Getty Images)

アメリカ政府が裁判を受けるためにシャーをイランへ返すことを拒否した後、1979年11月に過激派の学生たちがテヘランの米国大使館を占領した。学生たちは52人のアメリカの外交官と職員を人質にし、444日間立てこもった。(Getty Images)

戦争と革命の時代の中で、カセム・ソレイマニがイスラム革命防衛隊(IRGC)の中で如何に頭角を現したのかをご覧ください。

騒乱を利用する達人

1988年、第41タララ師団はケルマーン州に帰還し、ソレイマニは次の10年間の大半を、同地を本拠に麻薬密売カルテルと戦うことに費やした。麻薬カルテルは、戦争で破壊され混沌とした隣国、アフガニスタンとの間の侵入の容易な国境を越え、イラン国内のスンニ派が支配するシスタン·バルチスタン州やパキスタンを経由してイランに麻薬を密輸していたのだ。

アメリカンエンタープライズ公共政策研究所のアリー·アルフォネ研究員は、2011年に「ソレイマニによる軍事キャンペーンは多くの犠牲者を出したが、最終的には成功を収めた」と記してた。アルフォネが引用したあるイランのニュースサイトは、「ケルマーン州の人々は (…) 国の東部と南東部にカセム·ソレイマニがいた期間を、最も安全な時代だったと今も思っている」と報じている。

ソレイマニの麻薬撲滅活動は、イラン革命防衛隊(IRGC)の上級将校で、1997年9月にハメネイ師により防衛隊総司令官に任命されたヤヒャ·ラヒム·サファビ少将の注意を引いた。その後間もなく、遅くとも1998年初頭までに、サファビはソレイマニをハメネイ師直属のコッズ部隊の司令官に指名している。

ソレイマニがイランの最高指導者ハメネイ師と非常に近い関係にあったことは、イラン政府が長年にわたって公開してきた両者が一緒写っている数多くの写真からも見て取れる。2005年5月に行ったスピーチでは、ハメネイ師はソレイマニを「生きた殉教者」と讃えている。

イランの最高指導者アヤトラ・ハメネイとソレイマニ司令官とは、数年間にわたって何度となく一緒に写真撮影されており、彼らが親密であったことは明らかだった。(Alamy)

新たにコッズ部隊の責任者となったソレイマニの最優先事項は、アフガニスタンだった。アフガニスタンでは、イランとはイデオロギー的に対立するタリバンが前年に権力を掌握し、1998年8月には、北部の都市マザリシャリフを占領した後、11人のイラン外交官とジャーナリストを処刑するに至った。同年11月、軍事力誇示のためイラン軍はシスタン·バルチスタン州のアフガニスタン国境に20万人以上の兵力を集結させた。陸軍の総司令官、アリ·シャーバジ准将は、イランは「イランの敵によるどんな種類の陰謀であろうと、鎮圧する準備ができている」と語った。

革命防衛隊も7万人を同じ地域に派遣し、陸軍の示威行動に協力した。しかし、ソレイマニが革命防衛隊コッズ部隊の司令官として初めて参加したこの重要な軍事行動に際して注力していたのは、後に彼の得意の手法として知られることになる、敵の領土内の代理勢力を支援する秘密作戦の遂行であった。

この時のソレイマニの動きは任務の性格上機密とされていたが、1999年にテヘランタイムズに掲載された短いニュース記事は、タリバンに抵抗するためタジク人を中心として1996年に結成された「アフガニスタン救国イスラム統一戦線」(「北部同盟」の名でも知られる)の支援のため、ソレイマニが舞台裏で動いていたことを伝えている。

1999年1月23日付のテヘランタイムズは、「イラン軍の代表団」が「タジキスタンの高官と防衛問題について話し合うため」また「両国間で締結された防衛協定の実施」のためタジキスタンの首都ドゥシャンベを訪問中、と報じた。その短い記事は、イラン軍の代表団を率いていたのはカセム·ソレイマニ准将だった、と付け加えている。もちろん、ソレイマニは軍隊の一員ではなかったのだが、そもそもコッズ部隊自体が、2011年にシリアで内戦が勃発するまでその存在をイランに公式に認められてはいなかったのだ。

ソレイマニは、イラク、シリア、レバノン、イエメンの騒乱を通じて、イランの影響力をほぼ彼一人で形成し拡大する道を歩み始めた。その過程でソレイマニは、そのルートと目的が紀元前522年から486年までの強大なアケメネス朝の支配者であるペルシアのダレイオス1世の事績にも重なる、陸の回廊を開くことにもなった。

アトランティック·カウンシルのスコウクロフト戦略安全保障センター上級研究員でイラン問題の専門家、ネーダー·ウスコウィは、2018年の著書「TemperatureRising:Iran's Revolutionary Guards and Wars in theMiddleEast」(加熱する思惑:イラン革命防衛隊と中東地域の紛争)の中で、この陸の回廊は「ダレイオス大王によって建設された古代の幹線道路「王の道」の経路をかなり忠実にたどるものだ」と書いている。

ウスコウィは続けて、ダレイオス1世は「彼の大帝国全土にわたり兵站と通信を容易にするための道路を建設した(…)26世紀の時を経て、コッズ部隊とその司令官であるカセム·ソレイマニ将軍は、その古代のルートをほぼたどり、西部の戦線のイランが主導する軍隊とイラン国内の補給基地を結ぶ連絡路を確保したのだ」と記している。その結果、コッズ部隊は「イランからシリア、レバノン、そしてイスラエル北部の前線に陸路で人員と物資を輸送できるようになったのだ」

こうした影響力の拡大における遥か昔の栄華の残像は、元駐イラクおよびサウジアラビアの英大使、ジョン·ジェンキンス卿も感じ取っていた。「アケメネス朝以来、地中海地方でイランが存在感を示したことはありませんでした」と彼は言う。 「紀元前330年頃以来の長い不在を経て、イランはついに戻ってきたということになります」

イランの動きの目的は、この地域で唯一の友好国であるシリアを支援することだけではなく、「イランのために戦略的な深みと、経済を活性化するスペースを獲得する、ということです」とジェンキンス卿は言う。これは、イランがレバノンですでに達成し、イラクで今達成しようとしている、「地下経済を創出することにより、イラクを国外における自国経済の「呼吸器官」の1つとして利用する」ことと同じである、とジェンキンス卿は指摘する。

イランは、レバノンのヒズボラ、ハマス、パレスチナのイスラム聖戦機構などの組織を支援したことで、1993年に米国によってテロ支援国家に指定された。その後、米国国務省の世界的なテロに関する年次報告書では、一貫して世界で「最も積極的なテロリズムのスポンサー国家」と呼ばれている。

2019年3月31日、ヒズボラの兵士らがアヤトラ・ホメイニによって制定された国際コッズの日を記念し、ベイルートで行進を行う。イランはヒズボラの軍事訓練、武装、および資金調達に数百万ドルをつぎ込んでいる。(AFP)

しかし皮肉なことに、米国のイラク侵攻の混沌とした余波こそが、ソレイマニにイランからより広い地域への幹線道路を構築する機会を与え、イラク、シリア、レバノンでの軍隊のネットワークを発展させるのを助けた当のものであった。

ソレイマニが最初に米国の注意を引いたのはいつかは明らかではないが、2003年のイラク戦争後の混乱期にはソレイマニは明らかに要注意人物となっていた。

イラクのシーア派コミュニティと常に緊密な関係を維持してきたイラン政府は、米軍の侵攻を、イラクをイランの衛星国に変える機会と見なしていた。ウスコウィの記すところによると、フセイン政権が崩壊した時、「コッズ部隊の上級将校たちは、1980年代のイラン·イラク戦争中にイラン革命防衛隊と共に自国の軍隊と戦ったイラク人亡命者たちの大規模な部隊を連れ、自由に国境を越えて混沌としたイラクに侵入した」

新しく到着したイラク人はすぐにシーア派の若者たちを組織し始め、「間もなく、コッズ部隊および同盟するシーア派民兵グループは、米軍をイラクから追い出そうと、激しい戦闘を開始した」。彼らの目標は、「イランの前例をモデルにしたシーア派主導の政府、ある種のイラクにある種のイスラム共和国を樹立することだった」という。

戦争をきっかけに、イランは、2014年にイラク政府によって設立された民兵の統括組織である国民動員軍(Popular Mobilization Forces: PMF)の有力な構成組織だったいくつかの民兵グループに支援を与えた。イランの支援を受けたグループの中には、カターイブ·ヘズボラがあるが、その指導者アブ·マフディ·アル·ムハンディスは2020年1月にソレイマニと一緒に死亡することになる。

コッズ部隊が支援したイラクのグループには、他にもハラカット·アル·ヌジャバ、バドル旅団、アサイブ·アフル·ハック、カタイブ·イマーム·アリなどがある。

2019年4月、米国防総省は、「イラクの自由」作戦(Operation Iraqi Freedom)の8年間に、コッズ部隊が支援する民兵グループが少なくとも603人の米国軍人の死亡に深く関わっていることを示す調査結果を発表した。これは「 イラン革命防衛隊の代理勢力によって殺害された何千人ものイラク人に加えて」、2003年から2011年までの米国人の全犠牲者の17パーセントに及ぶとのことだ。

ウスコウィの推定によると、米国が2011年に撤退するまでに、「コッズ部隊主導のイラクのシーア派民兵部隊は兵力数万人に達していた。さらに、反乱に伴う戦闘により、彼らは十分に訓練され、武装し、戦闘の経験を積んでいた。バグダッドのイラク政府はシーア派が主導的で、特に首相はイランに近かった。イラクは事実上イランの衛星国になっていたのだ」

長年にわたり、米国の情報機関の報告はイランのテロ活動をイラン革命防衛隊全般の責任としていたが、2007年に米国財務省により「核兵器開発能力とテロ支援へのイランの目論見に対抗するため、そうした危険な活動に関与しているイランの銀行、企業、個人を公表し、米国の金融システムから切り離す」努力の一環として指定されたいくつかの個人や組織の中にソレイマニとコッズ部隊の両方が含まれていたのを機に、ソレイマニという人物が注目されることとなった。

2009年についての報告書の中で、米国のテロ対策調整室(Office of the. Coordinator for Counterterrorism)は、コッズ部隊が「イラン国外でテロリストを育成し支援するための政権の主要なメカニズムである」との認識を示した。

2010年8月に発表された同報告書は、2009年を通じたコッズ部隊の活動内容に重点を置いて紹介している。彼らはハマスや他のパレスチナのテロリストグループに武器、訓練、資金を提供し、レバノンのヒズボラを支援するために再武装と数億ドルの資金提供を行い、イラン国内のキャンプで数千人のヒズボラ兵士を訓練し、またアフガニスタンではタリバンに、小ユニット単位の戦術、小型武器、爆発物、さらに迫撃砲、大砲、ロケットなどの重火器について訓練を行っている。

イラクでは、「コッズ部隊は、イラクの過激派に向けて、イラク軍と多国籍軍、および民間人を殺害したイラン製の最新型ロケット、狙撃銃、自動小銃、迫撃砲の供給を続け」、また「武装車両を破壊できるよう設計された爆発物を組み立てる能力を過激派に提供することによる、米軍への攻撃の殺傷力の強化」に直接責任があったという。

レバノンのヒズボラと協力して、コッズ部隊は「シーア派過激派に、洗練された即席爆発装置技術やその他の高度な兵器の製造と使用について、イラク国外では訓練を行い、イラク国内には顧問を派遣した」とも記されている。

ソレイマニはこうした騒乱の影の中心人物だったが、驚くべきことに、彼の能力は敵の側からも遺恨とともに一種の尊敬を得ていたように思われる。

ソレイマニの敵であったマクリスタル将軍は、後にソレイマニの「静かな賢さと粘り強さ (…) 知性、実行力、そして自国への献身」を称賛している。ソレイマニの友人も敵も「この謙虚な指導者の堅実な有能さは、何十年もの間イランの外交政策を導く力となったし、戦場での彼の成功を否定することなどできない」と見ているということでは一致していた、とマクリスタル将軍は2019年の冬に記している。

ソレイマニは、「今日の中東で、異論はあるかも知れないが、最も強力で制約を受けていないプレイヤーだ。米国の国防当局者たちは、(シリア内のイランの代理勢力を介して)シリア内戦はすべてソレイマニが行っていると報告している」とマクリスタル将軍は結論付けている。

ソレイマニにとって、2011年はなかなか良い形で始まった。 1月24日、ハメネイ師が旧友でもあるソレイマニを大将に昇進させたのだ。大将は、イラン·イラク戦争終結以来の革命防衛隊員に与えられた最高位であった。

ソレイマニの悪名はさらに轟いていった。その年の10月、ソレイマニの名は米国の報告文書の中で再び言及された。当時の駐米サウジアラビア大使、アデル·アル=ジュベイルの暗殺を狙った爆破計画の失敗に関連して、財務省が名指しした革命防衛隊の4人の中の1人が、ソレイマニだったのだ。

しかし、2011年はソレイマニに困難な問題と、また新しい機会をもたらした「アラブの春」の始まりの年でもあった。アルフォネの書くところによれば、運動が広がるにつれ「コッズ部隊は、リビアとイラクの友好的な両政府を、過激化していくスンニ派の反対勢力からる役割を急遽担うこととなった」

アサド政権を守る過程で、ソレイマニは危うく命を落とす経験をしていたと思われる。 2015年11月、アレッポ近郊での戦闘でソレイマニは榴散弾による負傷を負ったと報じられたが、12月1日、イランのタスニム通信はその報道を否定した。ソレイマニは、その「独占的な」インタビューで、「自らの死をめぐる噂に答え、「山や谷で戦いながら、殉教しようとしているのですが、まださせてもらえません」と笑いながら語った」という。

2011年にはまた、後に2015年にはサウジアラビアが主導するアラブ諸国の連合を巻き込むことになるイエメンのシーア派グループ、フーシの勢力拡大を利用する立場にあったソレイマニに、チャンスが訪れた。

フーシは常にイランのイスラム革命の支持者であり、イランは見返りに常にフーシを支援し、訓練し、武器を与えていた。イランが支援する新たな代理勢力の拡大に対抗しようと、アラブ諸国が今回はサウジアラビアの隣国であるイエメンに介入した時には、十分に訓練され、武装し、イデオロギー的に動機付けられた兵士たちによる反撃に直面することとなった。

こうしたイランによるフーシ支援の具体的な証拠は、2013年1月、イエメンの沿岸警備隊がジハンという名の船を臨検した際に発見された ― 船は大量のイラン製の武器と関連素材を運搬していることが判明したのだ。逮捕された13人には、ヒズボラのメンバー2人と革命防衛隊のエージェント3人が含まれていたが、その全員が、2014年9月にフーシがサナアを占領した際に釈放された。

2016年10月3日、イラク人民動員部隊がモースル解放のための攻撃態勢の中、イラクのタル・アル=ザカで戦闘開始前の鬨の声を上げる。(ゲッティイメージズ)

イランからイエメンへの武器の輸送は、サウジアラビア連合とその同盟国が海上警戒を強化しているにもかかわらず、それ以後も続いている模様だ。

2018年8月、米国の誘導ミサイル駆逐艦、ジェイソン·ダンハムは、アデン湾でダウ船を臨検し、フーシに届けられる予定だった2,500丁以上のAK-47突撃ライフルを積み荷として運んでいることを発見した。2015年以来、この地域で輸送中の武器が連合諸国側の軍艦によって押収されたのはこの事件で5回目であり、そのいずれの場合も、武器はイランから運ばれているものだった。

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムが、イランからの不法兵器をイエメンへ向けて輸送する小型ボートを差し押さえた。(Alamy)

しかし、シリアでの「アラブの春」の蜂起の後、脅かされていたバシャール·アル=アサド大統領の政権へのソレイマニからの贈り物は、単なる武器のみにとどまらなかった。コッズ部隊は、レバノン、イラク、アフガニスタン、パキスタンからシリアの戦場に「数万人」の戦闘員を送り込んだのだ。「2016年のアレッポの陥落時の戦闘は、主にコッズ部隊が主導する勢力とスンニ派の対抗グループの間で戦われ、政権派の最終的な勝利を示すものとなった」とウスコウィは書いている。

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムの米国海兵が、イエメンへ向かう途中で差し押さえた大量のAK-47自動小銃の数を数える。(Alamy)

その結果、ウスコウィの言葉によれば「2011年の蜂起から約8年後、アサド政権はますますイランへの依存度を高めている」

2012年、アルカイダから分派したイラクのイスラム国が国境を越えて勢力を拡大、混乱に乗じてシリアとイラクの領土を占領し、イラクとシリアのイスラム国(ダーイシュ)を名乗った。内戦による混迷はさらに深刻になった。

イランの複雑な政治環境の副産物と言うべきか、ソレイマニと彼が率いるコッズ部隊は、今度は米国と共通の敵と戦うこととなった。 2014年6月、ダーイシュはモースルを占領し、さらに南に勢力を拡大。その時にはすでに、イラン国境からわずか30キロのジャルラもダーイシュは陥れていた。

コッズ部隊は「バグダッドを守るためにすべての部隊を動員した」とウスコウィは書いている。 「ISISの前進を阻止するため、シリアで戦っていたイラクのシーア派民兵をイラクに送り返し、イランの正規軍の機甲·砲撃部隊を国境のイラク側に配備した。結果として、コッズ部隊主導のシーア派民兵は、イラクとクルドの治安部隊、米国主導の連合軍とともに、ISISを押し戻し、失われた領土を奪還した」

しかし、ワシントン研究所のフィリップ·スミス上級研究員は、ソレイマニをダーイシュとの戦いにおける同盟相手と見なすのは間違いだと言う。「ソレイマニの民兵による目立った勝利の多くは、イラク政府の公式部隊への米国の支援を利用し、新たに奪還した地域を支配しようとするものでした」とスミス上級研究員は指摘する。 「ソレイマニの勢力はそうした地域に入り込むと、支配権を奪い、反米主義と彼ら自身の政策を押し付けたのです」

しかし2017年の段階では、ソレイマニの印象は、配慮された写真の撮影と戦場での登場の仕方を通じて慎重に管理されていた。タイム誌の世界で最も影響力のある100人のリストにも入り、元CIAアナリストのケネス·ポラックが紹介文を書いている。

「中東のシーア派の人々にとって、」とポラックは記している。「彼はジェームズ·ボンド、エルヴィン·ロンメル、レディー·ガガをひとつにしたような存在だ。西側にとって、彼は…イランのイスラム革命の輸出、テロリストの支援、親西側政府の転覆、イランの対外戦争の遂行に中心的役割を果たしている人間だ」

西側にとって、彼は…イランのイスラム革命の輸出、テロリストの支援、親西側政府の転覆、イランの対外戦争の遂行に中心的役割を果たしている人間だ

2012年、アサド政権が敗北に直面していた時、「レバノン、イラク、アフガニスタンからシリアにシーア派民兵を連れてきたのはソレイマニであった。さらに2015年にはロシアの介入も実現させている。ISISがイラク北部を制圧したとき、シーア派民兵を武装させバグダッドの防衛を組織したのもソレイマニだった。そのバグダッドでは、ソレイマニの代理勢力が頻繁に米軍に待ち伏せ攻撃を行っていたのだが。」ソレイマニは、「プロパガンダの達人でもあり、各地の戦場で自撮り写真を撮り、混迷する中東情勢における自らの影響力をすべての人に納得させた」とポラックは付け加えている。

ソレイマニにとって、ダーイシュに対する勝利は、イデオロギーの衝突に関するものというよりは、イラクから地中海に至る貴重な兵站の供給路を確保するという意義が大きかった。

特にイラクでは、ソレイマニの影響力は、イランの代理勢力である民兵グループへの訓練、武器、そしてリーダーシップの供給を、遥かに超えるものだった。後に漏洩した、2009年11月にバグダッドの米国大使館からワシントンに送られた機密の通信では、イランが「イラクの選挙政治において支配的な存在となっており (…) シーア派、クルド人、そして一部のスンニ派との密接な関係を利用して1月の選挙でのシーア派勢力の全体勝利に向けた政治情勢を作り出そうとしている」状況が記録されている。

この機密通信は、ソレイマニ氏が「少なくとも2003年」以来、「イラン政府のイラク政策の策定と実施を指揮している、最高指導者のハメネイ師に次ぐ権限を持つ重要人物」であると付け加えていた。

ソレイマニは、イラク内のコッズ部隊将校と代理勢力を通じて、「バグダッドと各州におけるより親イランの体制の構築を目指し、イラクの同盟国と批判国に影響を与えるための包括的な外交、安全保障、諜報、経済ツール」を展開した。

ソレイマニは、中東地域全体に彼の影響力を広げた「純粋な」ゲリラ指導者としての役割と、イランの目的を理解するために敵と同盟国に同様に頼りにされる外交官としての役割との間を行ったり来たりする道に、段々と進んでいった。

2015年7月、プーチン大統領からの指名によるものと報じられているロシアの要請でモスクワに飛んだのはソレイマニであり、この訪問がハメネイとプーチンの同盟関係の確立と、ロシアのシリア介入のための軍事的基盤の構築へとつながった。

イランのファルス通信の報道によれば、同年11月にテヘランで行われたハメネイとプーチンの前例のない会談の後、翌月にはソレイマニは再びロシアを訪問し、「3日間の滞在のうちにプーチン大統領とロシアの軍および治安当局者と会談し、シリア、イラク、イエメン、レバノンの最新の動向について話し合った」という。

貧しい農家出身のソレイマニは、あまりにも多くの害をもたらすことで一定の善を成し遂げた。彼は2019年の春頃までには、自分は恐れるもののない存在なのだと感じるようになっていたのかも知れない。自信に満ち溢れ、紛れもなく大きな権力を持ち、家庭でも、また彼の残酷な力の恩恵を受けた中東地域全体の数多くの過激派グループからも畏敬の的となる中で、ソレイマニは彼のスターとしてのオーラを利用することに熱心な政権がリリースする公式写真に頻繁に登場するなどして、彼の本来の責務に不可欠な、目立たないでいることを加速度的に放棄していった。

2019年3月10日、ソレイマニはイランで最も権威のある称号であるOrder of Zulfaqarのイラン革命以来の最初の受賞者となり、友人でもあり恩師でもあるアヤトラ·ハメネイ師から最大限の称賛を受けた。

2019年3月10日、イランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイがカセム・ソレイマニ司令官に対し、極めて得難い勝利勲章を授与する。(AFP/khamenei.ir)

ソレイマニは「敵の侵略に立ち向かって、神による、神のためのやり方で、そして純粋にアッラーのために、命を幾度も投げ出しました。崇高なるアッラーが彼に報い、祝福し、彼が至福の人生を送るのをお助けになることを、そして彼が殉教によって人生の終わりを刻むことを願っています」とハメネイ師は語っている。

ハメネイ師は付け加えて言った。「もちろん、[ソレイマニの殉教は]早すぎては困ります。我々のイスラム共和制には、彼の働きが今後も長年にわたって必要なのですから」

しかし、シリアとイラク、イエメン、そして湾岸地域での大胆さを増していく行動によって、ソレイマニは殉教へと至る自身の旅路を長年どころか月単位で終わりに近づけてしまったように見える。

「イラン政権による不安定化を狙ったエスカレートする行動」を阻止することは、アメリカ中央軍(CENTCOM)の最優先事項だ。ソレイマニの死後更新されたCENTCOMの綱領では、軍の活動における優先事項が定められているが、その中で、コッズ部隊を率いたソレイマニの早急な殉教を招いた状況が簡潔に要約されている。

「2019年5月以来、イラク国内のイランの支援を受けたグループは、米国の関係施設を何十回も攻撃し、米軍とイラク治安部隊(ISF)の基地の近くでドローン(無人航空システム、UAS)の偵察飛行を何十回も実施してきた」と綱領は述べている。

「イラン政権はペルシャ湾で外国船を攻撃または拿捕し、イエメンからサウジアラビアへのフーシ軍による攻撃を手助けし、イスラエルを攻撃することを目的とするグループを含む地域全体の不安定化を狙うグループに軍事援助を続け、アサド政権の自国民に対する残忍な攻撃を支持し、そして9月にはサウジアラビアの石油施設に対し、前例のない巡航ミサイルとドローンによる攻撃を行い国際的なエネルギー市場を不安定化させたのだ」

つまり、標的になる理由はあまりにも多かったということだ。

イランの最高指導者アヤトラ・ハメネイとソレイマニ司令官とは、数年間にわたって何度となく一緒に写真撮影されており、彼らが親密であったことは明らかだった。(Alamy)

イランの最高指導者アヤトラ・ハメネイとソレイマニ司令官とは、数年間にわたって何度となく一緒に写真撮影されており、彼らが親密であったことは明らかだった。(Alamy)

2019年3月31日、ヒズボラの兵士らがアヤトラ・ホメイニによって制定された国際コッズの日を記念し、ベイルートで行進を行う。イランはヒズボラの軍事訓練、武装、および資金調達に数百万ドルをつぎ込んでいる。(AFP)

2019年3月31日、ヒズボラの兵士らがアヤトラ・ホメイニによって制定された国際コッズの日を記念し、ベイルートで行進を行う。イランはヒズボラの軍事訓練、武装、および資金調達に数百万ドルをつぎ込んでいる。(AFP)

2016年10月3日、イラク人民動員部隊がモースル解放のための攻撃態勢の中、イラクのタル・アル=ザカで戦闘開始前の鬨の声を上げる。(ゲッティイメージズ)

2016年10月3日、イラク人民動員部隊がモースル解放のための攻撃態勢の中、イラクのタル・アル=ザカで戦闘開始前の鬨の声を上げる。(ゲッティイメージズ)

2017年1月3日、新たに参入したフーシ派兵士らがイエメンの首都サヌアで、政府支援軍と戦うための兵士をさらに動員するためにスローガンを叫ぶ。(AFP)

2017年1月3日、新たに参入したフーシ派兵士らがイエメンの首都サヌアで、政府支援軍と戦うための兵士をさらに動員するためにスローガンを叫ぶ。(AFP)

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムが、イランからの不法兵器をイエメンへ向けて輸送する小型ボートを差し押さえた。(Alamy)

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムが、イランからの不法兵器をイエメンへ向けて輸送する小型ボートを差し押さえた。(Alamy)

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムの米国海兵が、イエメンへ向かう途中で差し押さえた大量のAK-47自動小銃の数を数える。(Alamy)

2018年8月、ミサイル駆逐艦USSジェイソン・ダンハムの米国海兵が、イエメンへ向かう途中で差し押さえた大量のAK-47自動小銃の数を数える。(Alamy)

2019年3月10日、イランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイがカセム・ソレイマニ司令官に対し、極めて得難い勝利勲章を授与する。(AFP/khamenei.ir)

2019年3月10日、イランの最高指導者アヤトラ・アリ・ハメネイがカセム・ソレイマニ司令官に対し、極めて得難い勝利勲章を授与する。(AFP/khamenei.ir)

1979年のイラン革命以来、ソレイマニ司令官がイラン軍部の最高栄誉である勝利勲章の初の受賞者となる。(khamenei.ir)

1979年のイラン革命以来、ソレイマニ司令官がイラン軍部の最高栄誉である勝利勲章の初の受賞者となる。(khamenei.ir)

蛇の首

2007年1月の夜の暗闇の中、クルド人街エルビルに向かう護衛車両が、イランとイラク北部の穴だらけの国境をすり抜けた。監視カメラで護送車両が進む様子を見ていたのは米軍極秘の統合特殊作戦コマンドのトップであるマクリスタル大将だった。統合特殊作戦コマンドは、重要な標的を捕獲または殺害することを専門とする対潜掃討部隊である。

この護送車両が米軍統合特殊作戦コマンド(JSOC)の注意を引いたのは、諜報当局が非常に警戒していた人物が車両の乗員にいたからである。その人物とは、イラン革命防衛隊の精鋭部隊「コッズ部隊」のトップであるカセム・ソレイマニ司令官である。米軍のスタンリー・マクリスタル大将は、コッズ部隊を「米国におけるCIAや統合特殊作戦コマンドを組み合わせた組織」と評している。

その夜、しばらくの間ソレイマニ司令官の姿は米軍の視界に入っており、殺害されるかどうかどちらに転ぶか分からない状態であった。

軍統合特殊作戦コマンド元司令官のマクリスタル氏は、「フォーリン・ポリシー」の2019年の記事で「ソレイマニ氏を排除するには十分な理由があった 」と述べている。マクリスタル氏が 「本当の黒幕」と表現したソレイマニ氏はこの記事が発表された数週間後に暗殺された。

「当時、ソレイマニ氏の部隊により道端に仕掛けられたイラン製爆弾により、イラク全土において米軍の命が犠牲となりました」とマクリスタル氏は付け加えた。

ソレイマニ氏とコッズ部隊が多くの騒乱の背後にいたこと、そして2007年1月ソレイマニ氏がエルビルへ向かったことが、さらなる攻撃の波の前兆となったことに疑いの余地はなかった。しかし今後決して明らかにならないであろう理由により、マクリスタル司令官はその夜、引き金から指を離した。マクリスタル司令官は「すぐに攻撃するのではなく、一行の様子を監視すべきだと判断した」が、護衛隊がエルビルに到着する頃には、「ソレイマニ氏は暗闇の中に逃げた」という。

2019年2月25日にテヘランで、シリアのバシャール・アル・アサド大統領とイランのハサン・ロウハニ大統領との会談に臨む写真。カセム・ソレイマニ氏は最高クラスの外交サークルの中で動いていた。(AFP/SANA)

元CIAの秘密作戦担当官が2020年1月に発表した証言によると、翌年もソレイマニ氏には死がつきまとっていた。現在は警備会社を経営し、米国のテレビ番組のレギュラー司会を務めるマイク・ベイカー氏は15年間CIAで勤務し、1990年代後半に退職した。

1月のソレイマニ氏の殺害から2週間後、ベイカー氏はジョー・ローガン氏の番組の中で、ソレイマニ氏とイランが支援するヒズボラのイマド・ムグニエ副司令官は、2008年にイスラエルから標的にされたことがあると述べた。

「イスラエルにはムグニエ副司令官とソレイマニ司令官を殺害するチャンスがあったが、そうしなかった。その理由は主に、米国がソレイマニ氏を排除するという考えを支持しなかったからだ。その当時、これは一歩踏み込みすぎていた」と述べた。

ソレイマニ氏の命はその後12年続いたものの、ムグニエ副司令官に残された命はわずか数日であった。彼は2008年2月12日にダマスカスで殺害された。イラン革命29周年を記念してイランの駐シリア大使が開催したレセプションをムグニエ副司令官が後にした直後、車に積んでいた爆弾が爆発した。

また2019年10月、イランは、ソレイマニ氏の父がケルマンに建てたモスクの下のトンネルに仕掛けた巨大な爆弾を爆発させ、ソレイマニ氏の殺害を狙う「アラブ・イスラエルの秘密情報機関」による手の込んだ陰謀を阻止したと主張した。

しかし、ソレイマニ氏に残された時間は少なくなっていた。

2019年12月27日、イランの代理勢力である「カタイブ・ヒズボラ」が実施したキルクークにあるイラク軍基地へのロケット弾による攻撃により、下請けの米国人民間業者1人が死亡し、数名が負傷した。その2日後の12月29日、米国のF-15Eストライク・イーグル戦闘機がイラクとシリアのカタイブ・ヒズボラ基地数カ所を空爆し、約25人の過激派が死亡した。この米軍による空爆により、バグダッドで抗議行動が起き、大晦日にはカタイブ・ヒズボラのメンバーを中心とした大群衆が米国大使館に侵入しようとした。

その夜のツイートで、トランプ大統領はイランが攻撃を仕組んだと非難し、イラン政府は 「全責任を問われるだろう」と述べた。その後、トランプ大統領は再びツイートし、イランは「非常に大きな代償を払うだろう。これは警告ではなく、脅しだ」と付け加えた。

その2日後、国防総省は「大統領の指示のもと」ソレイマニ氏を殺害したと発表した。

ソレイマニ氏の最期の数時間については様々な説があり、それぞれ説にはその詳細に若干の違いがある。しかし、全ての人が同意することは、バグダッド空港の接続道路で、1月3日金曜日未明に米国の「MQ-9リーパー無人機」から放たれたミサイルの一斉射撃によりソレイマニ氏の命が終わったことだ。

ソレイマニ氏は、イスラム革命防衛隊(IRGC) の諜報機関の高官2人とボディーガード2人を伴って、バグダッド、エルビル、クウェート、テヘランなど中東全域に就航しているシリアの航空会社であるシャーム・ウィングス航空が運航する定期航空便に搭乗し、ダマスカスからイラクに向かっていた。

一部の報道ではこれらの車両は装甲車であることを示唆していたが、装甲車であるかどうかは無関係であることが証明されている。

2014年、同航空会社は 「シリア政府とシリア・アラブ航空のため金融、物質的、技術的支援、または物品やサービスの提供を物質的に支援、後援、または提供した」として、米国財務省の外国資産管理局から指定されていた。シャーム・ウィングス航空はその以前にも 「イランのイスラム革命防衛隊コッズ部隊のために、またはその代理として行動した」として指定されていた。

また、2016年12月23日に発表された声明の中で、米国財務省は、シャーム・ウィングス航空は「シリア政権の代理として戦う過激派武装集団を輸送するため、シリア政府に協力しました。さらに、シリア政権のため以前に指定されたシリア軍事情報部(SMI)の武器や装備の輸送を支援した」と主張した。

言い換えると、ソレイマニ氏はシャーム・ウィングス航空の航空機では安全に移動できると思っていたのだ。

1月2日夜、ダマスカス時間で午後7時30分に離陸する予定だったダマスカス発バグダッド行き6Q501便は、悪天候のために定刻より出発が約3時間遅延した。

セキュリティ上の理由から、ソレイマニ氏も彼の随行4人も乗客名簿には載っていなかった。エアバスA320にようやく乗り込むと、ソレイマニ氏一行は最前列に座り、1時間強のフライトの後、他の乗客よりも早く降りる準備をしていた。6Q501便は1月3日午前12時32分頃、バグダッドに着陸した。

ロイター通信が1月9日に引用したバグダッド国際空港の関係者の報告によると、ソレイマニ氏一行は「税関を迂回して、航空機から階段で直接駐機場へ降り」、その後2台の待機車、一部の人によるとトヨタのSUV2台、または他の情報によるとヒュンダイ・スターレックスのミニバスとトヨタ・アヴァロンのセダンに向かったようだ。

一部の報道ではこれらの車両は装甲車であることを示唆していたが、装甲車であるかどうかは無関係であることが証明されている。装甲車はある程度、路上爆弾から車の乗員を守ることはできるものの、時速1500km以上で標的に命中し、重装甲戦車を破壊するために設計された9kgの高爆発弾頭を搭載した45kgのレーザー誘導式ヘルファイア・ミサイルに対しては役に立たない。

待機中の車両には、カタイブ・ヒズボラの創始者でイラク人民動員軍(PMF)の副司令官を務めるアブ・マフディ・アル・ムハンディス氏らPMFのメンバー4人が出迎えに来ており、彼らは貨物ゲートから空港内に入った。

日付は不明だが、ソレイマニ氏がカタイブ・ヒズボラの指導者アブ・マハディ・アル・ムハンディス氏と写真に写っている。同氏は2020年1月にソレイマニ氏と共に殺害された。(khamenei.ir)

10人全員が生きている時間はあと数分しか残されていなかった。

誰に聞いても、ソレイマニ氏とアル・ムハンディス氏は2台のうちの1台に乗り込み、もう1台にIRGCの4人が乗り込んだという。車列は貨物ゲートを抜けて空港の外壁に沿って走る接続道路に戻ってきた。ロイター通信によると、午前12時55分に2発のヘルファイア・ミサイルがソレイマニ氏の車を直撃し、その直後に3発目のミサイルがソレイマニ氏のボディーガードを乗せた車を直撃したという。

ソレイマニの車列への攻撃とその余波を見る。

地球上の10cmほどの物体を識別して撮影できるスパイ衛星から、熱センサーや高出力の従来型カメラや赤外線カメラを搭載した無人機の部隊まで、米国の監視技術能力に疑いの余地はない。

しかし、その夜ソレイマニ氏が到着した夜に、米軍が空または宇宙からソレイマニ氏に焦点を当てていたとしても、地上、バグダッド、ダマスカス、そしておそらくイラン、さらには IRGC 内部の信頼できる人間の情報がなければ、この攻撃は考えられなかったことは明らかである。

ロイター通信のバグダッド支局の記者により、攻撃の数時間後と数日後にインタビューを受けたイラク治安当局の情報筋や、バグダッド空港の職員、警察当局者、シリアのシャーム・ウィングス航空の職員2人によると、イラクの治安当局が攻撃後数分以内に開始した調査は、「ダマスカスとバグダッド空港内の疑わしい情報提供者がソレイマニ氏の位置を追跡し特定することについて、どのように米軍に協力したかに焦点を当てていた」ようだ。

殺害を行った米軍の部隊には、そのような情報提供者が数人必要だったのだろう。

まず、ソレイマニ氏がそもそもシリアにいることを知る必要があっただろう。おそらく、シリア政権かIRGCのどちらかに接する者であれば、下位の職位の者であってもそれを知ることはそれほど難しくはなかっただろう。しかし、彼らはソレイマニ氏がいつシリアにいるのか、さらにソレイマニ氏がバグダッドへの渡航を計画していること、そしていつ渡航するのかを事前に知る必要があったはずだ。ソレイマニ氏のスケジュールは、ほんの一握りの側近にしか知られていない慎重に守られた機密情報であっただろうが、それを事前に知らなければ、米軍はバグダッド空港にいる諜報員を確実に配置し、行動に移せるようにすることはできなかったはずだ。コッズ部隊の司令官に非常に近い誰かが彼を裏切ったに違いないと結論づけるのが論理的だろう。

2020年1月3日にバグダッドで、米国のドローンによるミサイル攻撃を受けて亡くなったソレイマニ氏が乗っていた車の燃える残骸。(Foxニュース)

一部の報道によると、空爆を行った無人機「MQ-9リーパー」は、カタールのアル・ウデイド軍事基地から出発し、ネバダ州のクリーチ空軍基地で2人の米軍兵により遠隔操作されたとされている。しかし実際には、この無人機1機、あるいは一部報道によれば最大3機の無人機は、わずか1,850kmの範囲内にあるバグダッドにより近い基地から出発したはずである。アル・ウデイド基地からバグダッドまでは往復2,000km以上の距離がある。

最有力候補はイラク西部のアル・アサド基地で、バグダッドから約180kmしか離れておらず、米軍が使用している。無人機の巡航速度は時速約370kmであり、約30分でバグダッド空港に到着していたはずなので、ソレイマニ氏が搭乗した航空機がダマスカスを離陸し、バグダッドに向かう1時間のフライトを終えたという確認を米軍の空爆部隊が受け取るまでは、無人機は離陸する必要はなかったはずである。

とはいえ、米軍はソレイマニ氏の渡航計画をかなり前もって知っていたはずであり、単にその日に入手した情報に反応しただけではなかったはずだ。もう一度言うが、これはダマスカス空港の情報提供者だけでなく、ソレイマニ氏に極めて近い人物が彼を裏切った可能性があることを示唆している。

ソレイマニ氏が実際に機内に搭乗したことを確認したのは、ダマスカス空港にいた彼を目視で確認でき十分に近づくことができた諜報員か、もしくはシャーム・ウィングス航空の客室乗務員のどちらかであった可能性がある。今回の作戦にとって同様に重要なのは、ソレイマニ氏が搭乗する航空機が実際に離陸したという情報と、何時に離陸したかという情報であっただろう。

殺害担当部隊は、ソレイマニ氏の航空機が現地時間の午後9時半頃にバグダッドに到着する予定という当初の情報に基づき行動していたため、航空機が3時間後実際に着陸する時間まで、無人機は最大で7時間も飛行を続けていたことになる。

滞空時間が約14時間で、カタールへの帰路に1時間のフェイルセーフ時間があることを考慮すると、空爆時には3時間強の滞空時間が残っていたことになる。十分な時間が残されていたものの、 ニューヨークタイムズが1月11日に報じたように、「航空機は遅延していたため殺害部隊は懸念していた。時間は刻々と過ぎ、 作戦に関与した一部の者は作戦を中止すべきなのではないかと思っていた。」

しかし作戦は中止にはならなかった。

空爆の数時間後に発表された声明で米国防総省は、「米軍は、大統領の指示のもと、米国指定の外国テロ組織イラン革命防衛隊コッズ部隊の司令官であるカセム・ソレイマニ氏を殺害することで、在外米国人を守るための断固たる防衛措置をとりました」と述べた。

さらに国防総省は、ソレイマニ氏は「イラクや中東全域で米外交官や米軍要員を襲撃する計画を積極的に進めていました」と加え、さらに「同司令官とコッズ部隊は、米軍や有志連合の要員数百人の殺害、数千人以上の負傷に関与しました」と主張した。

「ソレイマニ司令官はここ数ヶ月間、イラクにおける有志連合基地への相次ぐ襲撃はソレイマニ司令官が画策していました。12月27日の攻撃では、米国やイラクの要員に死傷者が出ています。また、ソレイマニ司令官は、今週行われたバグダッドの在イラク米大使館への襲撃も承認した。」

ドナルド・トランプ米大統領が翌日の記者会見でソレイマニの車列への攻撃について語る。

米国がイラクに何の相談もなく、かつ事前警告すらもせずに空爆を実行したこと、さらに空港を封鎖し、その日夜勤で空爆の協力者の可能性がある者を取り囲むなど瞬時に行動したことに対し、イラク治安当局側が激怒したことが様々な報道で報じられている。空港の警備員や地上係員などの空港の従業員は何時間も取材を受け、携帯電話を没収され、詮索された。

ある警備関係者は匿名でロイター通信に対し、「イラクの調査チームによる最初の調査結果は、ソレイマニ氏に関する最初の情報がダマスカス空港から来たことを示唆しています。(そして)バグダッド空港における協力者らの仕事は、ソレイマニ氏の到着と彼の護送車の詳細を確認することでした」と語った。容疑者にはバグダッド空港の警備担当者2人とシャーム・ウィングス航空の従業員2人が含まれており、「ダマスカス空港のスパイ1名とソレイマニ氏が搭乗した航空機の乗務員1名 」と言われている。

シリアの諜報機関がダマスカスで同様の調査を開始したとされている。イランにあるイスラム・アザド大学の元客員教授であるロバート・チャルダ氏は、1 月 3 日に発表されたシンクタンク「大西洋評議会」の解説記事の中で、イランの防諜活動はこの質問に対し答えを見出さなければならない」と主張している。「ソレイマニ氏を裏切ったのは誰か。彼の側近の一人だろうか。それともヒズボラの誰かなのか。また、イラクが自国を長く支配していたイラン司令官を追い出すため米国に協力したことも否定できない。」そして、イラン内政の濁流の中でイランの一部の人々が、予測不可能なトランプ大統領のもとでソレイマニ氏の米国に対する挑発行為が行き過ぎたのではないかと危惧するようになり、ソレイマニ氏のせいでイランは勝利を望むことのできない米国との開戦に向かって無常にも滑り出しているのではないかと考えるようになっていたのではないだろうか。

シャーム・ウィングス航空の関係者はもちろん、ダマスカスやバグダッドの空港の従業員でさえも、米国に協力しソレイマニ氏を裏切るという大きなリスクを背負っている可能性は低いと思われる。可能性のある容疑者の数はほんの一握りであるため、IRGC、シリア政府、イラクの親イラン派民兵が犯人を特定し、復讐を果たすのに時間はかからなかっただろう。

しかし、イラクでもシリアでもソレイマニ氏の死に関連した逮捕や殺害の報告は今のところ出ていない。これは両国におけるIRGCの影響力の及ぶ範囲を考えると異常に思える。

ソーシャルメディアの時代には当然のことながら、陰謀論者たちは、ソレイマニ氏は今回の空爆で死亡しなかったのではないかとすぐに示唆した。ヘルファイア・ミサイルの直撃は、人体を木っ端みじんに引き裂くことができ、直撃後に残る識別可能な部位は非常に少ない。しかし、空爆後に現場の様子を写した写真がすぐに拡散され、その中にはソレイマニ氏の切断された腕と手の3本目の指に赤い宝石のついた大きな銀の指輪が見える写真も含まれていた。

広く報道されたこの写真により、その遺体はソレイマニ氏のものであると特定されたものの、その主張には問題があった。何年にも渡り撮影されたソレイマニ氏の写真には、似たようなものを身に着けているが、全く同じではない指輪が写っている。ソレイマニ氏の車両が攻撃された際、ソレイマニ氏と行動を共にしていたアル・ムハンディス氏も同様の指輪をしているところを撮影されている。一部のシーア派イスラム教徒にとっては、預言者ムハンマドがカーネリアンの瑪瑙を身に着けていたという節もあることから、このような瑪瑙の指輪は宗教的な意味合いを持っている。また、瑪瑙の指輪はつける者を悪から守ると信じられている。

フォックス・ニュースは1月11日に放送された「独占」番組の中で、米軍特殊部隊は空港を出発するソレイマニ氏の護衛車を追跡し、ミサイル空爆の「現場から1~2分以内の場所にいた」と報じた。その場所から「米軍特殊部隊はいわゆる『爆撃効果判定』を行い、現場の写真を撮影し、無人機が正しい車両を選んだことを確認し、ソレイマニ氏が死亡したことを確認した」と報じた。

フォックス・ニュースは、「米国政府の職員から」数枚の写真を入手したと述べ、その中には「フォックス・ニュースが放送しない生々しい、手足が欠損しているクローズアップ撮影されたソレイマニ氏の体の写真」も含まれていると述べた。フォックス・ニュースが放送した部分的に詳細が編集された写真には、「ソレイマニ氏の体が、彼が乗っていた車両の横で燃えている」様子が映し出されている。

フォックス・ニュースは「米軍はソレイマニ氏の遺体を現場から引きずり出し、遺体の火を消化し、その遺体がソレイマニ氏のものであると正式に特定した」と伝えた。米軍は詩集や現金、携帯電話などのソレイマニ氏の所持品の写真を撮影したものの、分析するには損傷がひどすぎると言われている。ピストルとアサルト・ライフルも彼の車両の残骸から発見された。

現場にいた米特殊部隊により発見されたとされるソレイマニ氏の所有物。分析不能なほど損傷を受けた携帯電話が左上に見える。(Foxニュース)

しかし、この報道では米軍がどのようにソレイマニ氏を特定できたのかは明らかにされなかった。これはミサイル空爆から2日後の日曜日、1月5日、ソレイマニ氏とアル・ムハンディス氏の遺体がイラン南西部の都市アフヴァズに運ばれる前のことである。

国旗で覆われたソレイマニ氏の棺はトラックの荷台に積み込まれ、「米国に死を」と唱える何千人もの喪服姿の参列者で埋め尽くされた通りを通過した。同日のテレビ放送された議会でイランの国会議員も「米国に死を」という言葉を唱えた。3日間の国家的な喪に服した後、ソレイマニ氏は1月7日(火)、ケルマンの殉教者墓地に葬られた。

2020年1月7日、故郷ケルマンでの葬列で、ソレイマニ氏の棺を乗せたトラックを取り囲む哀悼者たち。(AFP)

ソレイマニ氏の死後も死亡者は続いた。イランのテレビ番組の報道によると、彼の葬儀に参列するため何十万人もの大群衆がケルマンのアザディ広場に押し寄せ、将棋倒しとなり50人以上が死亡し、200人が負傷した。

葬儀でイラン革命防衛隊のホセイン・サラミ総司令官は、参列者らにこう語った。「私たちは、激しく決定的な復讐を行うでしょう…殉教者カセム・ソレイマニ氏は死んだ今こそますます強力です。」

この葬儀の前日、ソレイマニ氏の娘であるゼイナブ氏がテレビに出演し、同様の脅迫をした。「シリア、イラク、レバノン、アフガニスタン、イエメン、パレスチナにおける米国の残酷な戦争を目の当たりにした西アジアの米軍兵の家族は、自身の子供たちの死を知らせるニュースを聞くことになるでしょう」と彼女は語った。

2020年1月6日、テヘランでのソレイマニ氏の葬列で、公の場に姿を現すのは珍しい娘のゼイナブ氏が、父親の死は必ず復讐されると誓った。(AFP)

同様の復讐の誓いのようなものが次々とイランの指導者たちの間で急速に起きた。攻撃のわずか数時間後に、IRGC地上部隊の司令官であるモハンマド・パクプール准将は、次のように述べた。「米国のテロリストとその臣下らは、痛烈な対応と厳しい復讐にあうでしょう。」

多くの観測筋は、以前より数ヶ月間に渡り緊張が高まっており、その後のソレイマニ氏への空爆により米国とイランの公然とした対立に傾くのではないかと危惧していた。ソレイマニ氏が殺害された翌日、トランプ大統領はイランの武力による脅しを受けて、「イランとイランの文化にとってきわめて高レベルで大事な」イラン国内の52カ所の施設を標的として「非常に素早く、かつ非常に強力に」攻撃すると脅す一連のツイートを投稿した。

しかし、広く予測されていたイランからの「痛烈な対応」は実際に起きなかった。それどころか、1月8日、イランはイラクの2つの米軍基地への単なる象徴的な攻撃としか言いようのない攻撃を開始した。殉教者ソレイマニ作戦と呼ばれる作戦では、IRGCは20発以上の弾道ミサイルを発射し、そのほとんどがイラクのアンバル州にあるアル・アサド空軍基地を攻撃した。当時は、誰も死者や負傷者さえ出なかったことが奇跡のように思えた。(とはいえ、1ヶ月後米軍は、100人以上の米軍兵がその後「外傷性脳損傷」と診断されたと主張することになる。)しかし、これら攻撃はイランのメンツを保つため入念に調整された演習にすぎないことがすぐに明らかになった。

イランは、最初のミサイル攻撃の約8時間前にイラクに対し攻撃を事前に警告し、最初のミサイル攻撃時には、基地にいる米軍とイラク軍の部隊と航空機は既に安全に隠れ、危険から逃れていたことが分かった。その直後、イランのモハメド・ジャヴァド・ザリフ外相は、イランは「エスカレーションや戦争を望んでいない」とツイートし、報復を「完了した」とした。

だがこの数時間後、悲劇が迫っていた。多くの人が恐れていた戦争という形ではなく、テヘラン空港から離陸した直後に民間旅客機が撃墜されたのである。ウクライナ国際航空752便に搭乗していたイラン人82人、カナダ人63人を含む176人全員が死亡した。

ソレイマニ氏の死から5日後、厳戒態勢のイラン軍が、テヘランを離陸したウクライナの民間機を誤って撃墜し、乗っていた176人全員が死亡した。(AFP)

イランが厳戒態勢にあるIRGCのミサイル部隊がこの航空機を敵機と誤認したことを認めるまでに3日経過した。ソレイマニ氏は死後もなお、これまで彼が奪った命の数を更新したのだ。

2019年2月25日にテヘランで、シリアのバシャール・アル・アサド大統領とイランのハサン・ロウハニ大統領との会談に臨む写真。カセム・ソレイマニ氏は最高クラスの外交サークルの中で動いていた。(AFP/SANA)

2019年2月25日にテヘランで、シリアのバシャール・アル・アサド大統領とイランのハサン・ロウハニ大統領との会談に臨む写真。カセム・ソレイマニ氏は最高クラスの外交サークルの中で動いていた。(AFP/SANA)

日付は不明だが、ソレイマニ氏がカタイブ・ヒズボラの指導者アブ・マハディ・アル・ムハンディス氏と写真に写っている。同氏は2020年1月にソレイマニ氏と共に殺害された。(khamenei.ir)

日付は不明だが、ソレイマニ氏がカタイブ・ヒズボラの指導者アブ・マハディ・アル・ムハンディス氏と写真に写っている。同氏は2020年1月にソレイマニ氏と共に殺害された。(khamenei.ir)

2020年1月3日にバグダッドで、米国のドローンによるミサイル攻撃を受けて亡くなったソレイマニ氏が乗っていた車の燃える残骸。(Foxニュース)

2020年1月3日にバグダッドで、米国のドローンによるミサイル攻撃を受けて亡くなったソレイマニ氏が乗っていた車の燃える残骸。(Foxニュース)

現場にいた米特殊部隊により発見されたとされるソレイマニ氏の所有物。分析不能なほど損傷を受けた携帯電話が左上に見える。(Foxニュース)

現場にいた米特殊部隊により発見されたとされるソレイマニ氏の所有物。分析不能なほど損傷を受けた携帯電話が左上に見える。(Foxニュース)

2020年1月7日、故郷ケルマンでの葬列で、ソレイマニ氏の棺を乗せたトラックを取り囲む哀悼者たち。(AFP)

2020年1月7日、故郷ケルマンでの葬列で、ソレイマニ氏の棺を乗せたトラックを取り囲む哀悼者たち。(AFP)

2020年1月6日、テヘランでのソレイマニ氏の葬列で、公の場に姿を現すのは珍しい娘のゼイナブ氏が、父親の死は必ず復讐されると誓った。(AFP)

2020年1月6日、テヘランでのソレイマニ氏の葬列で、公の場に姿を現すのは珍しい娘のゼイナブ氏が、父親の死は必ず復讐されると誓った。(AFP)

ソレイマニ氏の死から5日後、厳戒態勢のイラン軍が、テヘランを離陸したウクライナの民間機を誤って撃墜し、乗っていた176人全員が死亡した。(AFP)

ソレイマニ氏の死から5日後、厳戒態勢のイラン軍が、テヘランを離陸したウクライナの民間機を誤って撃墜し、乗っていた176人全員が死亡した。(AFP)

ソレイマニ司令官亡き後

ソレイマニ司令官は、もういない。だが、その死から一年が経っても、彼が中東で行ってきた非人道的な干渉の傷跡は、任期を終えようとしているトランプ政権の対イラン政策にいまだに影響を与えており、1月20日のバイデン氏大統領就任後の米国の核合意復帰への試みにも影を落とすことは確実だ。

もし、イランが信じられているように、ソレイマニ司令官の暗殺がイランを挑発し、勝つ見込みのない悲惨な戦争を開始させるためであったとすれば、それに続く11月27日金曜日のイランの著名な核科学者の暗殺は、イランを挑発し、バイデン次期大統領のイランとの核合意復帰計画の妨害を狙ったトランプ政権とその協力者による最後の試みだと一部では考えられている。

バイデン陣営は繰り返しイラン核合意、または包括的共同行動計画(JCPOA)復帰を目指す意向を示唆している。これが事実だと示す最もはっきりとした証拠の一つは、11月23日にバイデン氏がアントニー・ブリンケン氏を国務長官に指名したことだ。ブリンケン氏はオバマ政権で国務副長官を務め、核合意を強く支持しており、2018年5月にトランプ大統領が離脱して以来、頻繁にその必要性を主張してきた。

11月24日、ジョー・バイデン次期米国大統領から国務長官候補として紹介された後、演説を行うアントニー・ブリンケン氏。(ゲッティイメージズ)

2019年5月20日のFrance 24でのインタビューで、ブリンケン氏は中東での高まる緊張状態について、「避けられたかもしれない、このような状況になってしまったことは残念だ。米国が核合意から離脱したのは不幸なことだった。イランは我々が望まないことを多く行ってはきたが、核合意には従っていたのだから」と、語った。

一方で、トランプ政権が核合意の代わりにとった「最大限の圧力」の姿勢が功を奏したことを示す証拠もある。

2019年10月、メリーランド州のCenter for International and Security Studiesによってイランで実施された投票調査では、イラン国民の4分の3が、もし米国がJCPOAに復帰した場合、「多国間フォーラムでイラン政府がトランプ政権と対話をすることを支持する」と答えた。

また、米国がJCPOAに復帰した場合、「イラン国民の過半数が、イランの核問題、弾道ミサイルの開発、中東での軍事行動、現在実行中のすべてのイランに対する制裁措置に関わるより幅広い交渉も認める意思がある」

サー・ジョン氏曰く、「最大限の圧力」の政策は「イスラム共和国の崩壊を目的としたものではない。当然、多くの人はこの政策を分析する際、そこから考え始めようとするが。目的はイラン政府の長期的な冒険主義の代償をより大きなものにし、国内の社会的緊張を高めることだ。それにより、特にIRGCの行動の自由がある程度、制限され、イランがイラク、シリア、レバノンなどに行っている行為を続ける代償が大きくなる」

イラン側は明らかにトランプ氏からバイデン氏への政権交代を好機と捉え、すでに米国と再度核合意を結ぶ際の前提条件を設定している。

「米国は悔い改める必要がある」と、イラン外務省報道官は11月に発言した。「つまり、まずはじめに間違いを犯したことを認め、次にイランとの経済戦争を停止する。次に姿勢を改め、責任に全力で取り組み、最後にイランの損失の補償をしてもらう」

12月3日、モハンマド・ザリーフ・イラン外務大臣は、米国の制裁措置は「イラン国民に2,500億ドルの損害を与えた」と、具体的な金額さえ提示した。

だが、サー・ジョン・ジェンキンス氏は、米国がイランへの損害補償に合意する可能性は「政治的にほぼあり得ない」という。

ラフィザデ博士は、バイデン次期政権が制裁措置を撤回し、イランが「脆弱な」核合意に復帰すると信頼したとすれば、それは大きな過ちになると考えている。

「『最大限の圧力』政策は多方面から批判されてきたが、ようやく実を結び始めていたところだった。イランは、長く築き上げてきた代理勢力への資金供給を停止する経済的必要性を感じつつあった」と、ラフィザデ博士。

「トランプ政権が核合意から離脱して以来、テヘランの石油輸出量は250万BPDから約10万BPDにまで縮小した。結果として、政権を握る聖職者たちはこれまでの40年間の歴史で最悪の財政赤字に直面することとなった。イラン政権は現在、週に2億ドルの財政赤字に苦しんでおり、経済的圧力が継続すれば、2021年3月までには赤字額はおよそ100億ドルにまで上昇すると見込まれている。財政赤字はインフレを引き起こし、貨幣の価値はより低くなる」

収益の減少は「イスラム革命防衛隊とその支部に直接、影響を与え」、その結果、「イランの武装集団へのテロ活動を継続するための資金の供給は減っている」。ソレイマニ司令官の終焉がイランの干渉行為の終焉を意味すると考えるのは深刻な間違いだとラフィザデ博士は主張する。「イラン政権は中東での覇権主義的な野望と軍事冒険主義を追求するためにできる限りのことをし続けるだろう」

確かに、イラン政権は速やかにソレイマニ司令官の後釜を指名した。62歳のエスマイル・ガーニ将軍はソレイマニ司令官と同じく、イラン・イラク戦争で戦い、後に新たに編成されたコッズ部隊の一員となった。ソレイマニ司令官の死によって代理武装組織へのイランの影響も失われるという希望は、あまり現実味がなさそうだ。ガーニ将軍はコッズ部隊の代理組織への「資金提供の出金」を管理したとして、2012年に米国債の制裁を受けている。

ソレイマニ氏の後任としてコッズ部隊司令官に任命されたイスマイル・ガアニ氏。(AFP/khameini.ir)

それでも、何らかの形での核合意復帰は避けられないように見える。

12月7日、国家安全保障問題顧問としてバイデン氏が選んだジェイク・サリバン氏は、新政権が核合意に復帰し、制裁措置を軽減、JCPOAへの米国の本来の義務を履行することによって、イランの核問題を「改めて箱に収める」ことは「適切であり、実現可能」であり、その後、イランの他国への干渉の抑制を目的とした交渉を開始すれば良いと発言した。

サー・ジョン氏によれば、これこそが「もともとのJCPOAに欠けていた部分だ。中東でのイランの動向、特にイラク、シリア、レバノンへの干渉と、湾岸諸国を破壊しようという40年以上の試みなどについての様々な問題に言及しなかったのだ」

新たに核合意を結ぶ場合は、イランの「冒険主義」に言及すること、そして湾岸諸国が早急に主張を明確にすることが不可欠だとサー・ジョン氏は語った。

極めて重要なのは、「バイデン次期政権とコミュニケーションをとる必要がある。大統領就任前の時期にそうするのはいつでも難しいが、今回は特に、トランプ大統領がいまだにバイデン氏の勝利を認めることを拒否しているため、より困難だ」と、サー・ジョン氏。

UAE、バーレーン、イスラエルの国交正常化と、他の湾岸諸国もそれに続く見込みがあることは、良い流れだとサー・ジョン氏は主張する。

「湾岸諸国はバイデン政権に対し、意見の有益性と重要性を主張する必要がある。別々にそうするよりも共同での方が主張は通りやすいだろう」

「米国の対イラン政策の作成の際に助言できる立場でありたいはずだ。米国に対し『同じ部屋で同席して助言を求めてもらう必要はないが、我々の意見を参考にしてもらう必要はある。我々にとって非常に重要な関心事項であり、あなたたちの役に立てるからだ』と、伝えるべきだ」。

特に重要になるのは「イランの軍事冒険主義に対する封じ込めと抑止を目的とした単独の制作であり、それが示唆するのは、米軍の駐在の必要性だ」と、サー・ジョン氏は考える。

それに加え、新たな核合意は「トランプ政権がJCPOAを離脱してからのイランのウラン濃縮についても言及する必要がある」。

イラン政権は「とても巧妙にウラン濃縮を行ってきた。ワシントンとブリュッセル両方を意識しつつ、対応を図り、JCPOAで設定された基準を故意に違反しながらも、決定的に合意に背いたとは思わせないやり方をとっている」と、サー・ジョン氏は付け足した。

合意では、ウラン濃縮率は3.67%までに留めることと定められていたが、米国の離脱以来、イランは濃縮率をブーシェフル発電所を稼働させるのに十分な4.5%にまで上昇させている。2019年7月、イランはまた低濃縮ウランと重水の貯蔵量がJCPOAの基準を超えることを発表し、ソレイマニ司令官殺害の2日後である2020年1月5日には合意で定められた稼働可能な遠心分離機数の制限を拒絶した。

どの段階においても、イランは国際原子力機関(IAEA)への協力は継続し、米国が制裁措置を停止すれば合意に再度従うとしてはいるが、かなりの危険な動向を見せている。

2018年5月8日、核合意からの米国の離脱を表明した後、対イラン制裁の再開を指示する覚書を手にするドナルド・トランプ米国大統領。(AFP)

11月16日、米紙ニューヨーク・タイムズは、4日前、イランのウラン貯蔵量がJCPOAによって許可された規定値の12倍にまで増加しているとのIAEAからの報告を受け、トランプ大統領は側近らにイランのナタンズにある核開発施設への攻撃についての意見を求めたと報じた。

トランプ大統領は、テヘランの南270キロに位置するナタンツにある同国の核施設を攻撃する選択肢を提示するよう上級顧問に求めた。(AFP)

匿名の情報源によれば、トランプ大統領は攻撃は「あっという間に広範囲に広がり、トランプ大統領の任期最後の数週間に渡る衝突に発展しかねない」という理由で軍事的対応は控えるよう説得されたという。

だが、当局者は、トランプ大統領は「それでもイラクに駐在する武装組織を含むイランの資産や同盟国を攻撃する方法を模索している可能性がある」とタイムズ紙に語った。その10日後、IRGCの准将を務めていた核科学者のモフセン・ファクリザデ氏がテヘラン近郊で暗殺された。

イランでもトップクラスの核科学者であるモフセン・ファクリザデ氏が11月27日、テヘラン近郊で車に乗っていたところを襲撃され、暗殺された。(AFP/khameini.ir)

モフセン・ファクリザデ氏の棺。北東部の町マシュハドで行われた同氏の葬列にて。(AFP/イラン国防省)

ソレイマニ司令官殺害後、予期された混乱や復讐の可能性にもかかわらず、イランはすぐに反応はしなかった。通常であれば、首都を目の前にした人通りの多い往来で日中に堂々と行われたファクリザデ氏の大胆な殺害も報復を求める激しい怒りを呼ぶことが予想されたが、またしても、イランはすぐに引き金を引くことはなかった。

もちろん、必須となる報復の意図の明言は最初に行われた。「イランに敵対するなら、イラン政府と当局は勇敢で熱意に満ちており、犯罪行為を見逃すことはあり得ないと知っておくべきだ」と、国営通信IRNAは11月28日のロウハニ大統領の発言を報じた。「関係当局は適切な時期にこの犯罪に対応するだろう」

イラン大統領選挙が2021年6月に行われる予定で、強硬派がハサン・ロウハニ大統領を猛追している。(ゲッティイメージズ)

だが、ロウハニ大統領は、「イランはシオニストの罠にはまらないだけの賢明さと知性を持つ国だ。シオニストは混沌と反乱の扇動を目指している。我々は彼らの計画に気づいており、その不吉な目的が達成されることはないと知っておくべきだ」とも語った。

イラン政府は核科学者殺害はイスラエルが関わっていると考えており、これはまったく根拠がないものではない。イスラエルの暗殺には形式があるのだ。2010年から2012年の間に、4人の核科学者がイランの公道でイスラエルが派遣したと考えられる工作員により殺害されている。3人は爆発によって、最後の1人は自宅の外で射殺された。トランプ大統領がホワイトハウスを去るまでたった54日となった今、イスラエルはほぼ確実に米国の後押しを受け、イランを挑発し、現米国政権による攻撃を正当化するような、または少なくともバイデン政権が核合意に復帰することを困難にさせるような反応が返ってくることを狙っていると憶測されている。

11月27日、ロンドンのリージェント大学で国際関係学部長を務めるヨッシ・メケルバーグ氏はBBCに「イスラエルが5年前と同じ条件のJCPOAへの米国の復帰を妨害しようとする可能性は非常に高い。もしくは新しく合意を設定したとしてもだ。特にネタニヤフ内閣におけるイスラエルの見解では、どのような内容に同意するのであれ、イランが合意に従うことを信じていないからだ」

「これらの状況を踏まえると―これはイランの見解だが―イスラエルが合意を邪魔しようとするのは驚くことではなく、ドナルド・トランプ氏がホワイトハウスを去ろうとしている今、その機会はどんどん失われつつある」

ラフィザデ博士も、同意する。「この件にイスラエルのモサドが関わっている可能性は高い。ファクリザデシ氏の情報を暴露し、2018年には写真まで公開したのはイスラエルだ。ファクリザデシ氏は非常に注意深くプライバシーを守っており、イスラエルが情報を公開するまでは誰も彼がどんな顔をしているのかすら知らなかった」

ファクリザデシ氏は銃殺された。道端に停めたピックアップトラックに搭載した衛星でコントロールされた自動機関銃によるものと報じられている。イスラエルの工作員はこれまでもイランの街中でターゲットを射殺している。2020年8月、テヘランですれ違ったバイクに乗った狙撃者に男性一名、女性一名が撃たれて殺害された事件が小さく報道された。だが、11月16日、匿名の米国当局者はニューヨーク・タイムズ紙に、殺害された男性はモハンマド・アル・マスリというアルカイダの中心的人物の一人であり、1998年のナイロビとダルエスサラームでの米国大使館爆破事件を指示しており、米国の依頼でイスラエルが殺害したと語った。

ファクリザデシ氏の殺害は、イランの核開発計画に実質的な影響を与えることはないだろうとラフィザデ博士は言う。イランは「ファクリザデシ氏の代わりの核科学者を見つけ、核開発は継続されるだろう」。11月27日、元国務省JCPOAコーディネーターのジャレッド・ブランク氏はファクリザデシ氏の殺害は「イランの核開発計画を妨害するためとは理解しがたい。…たとえどんなに重要な人物であったとしても、イランの近代的官僚主義においてはどの役職でも簡単に代わりを見つけられるはずだ」

「つまり、目的は政治的もしくは外交的なものでしかあり得ない。イランから過剰反応を引き出し、バイデン次期大統領が望むJCPOAの復帰とそれに続くイランとの外交関係を困難にするためだ」

ラフィザデ博士は、トランプ大統領による離脱以前はイランは核合意に従っていたと考えるのはばかげていると主張する。「JCPOAが履行されていた期間ですら、イランは合意に違反していたとする証拠はたくさんある。イランは秘密裏に核活動を行うことで知られており、内密に核開発計画を進めていたことが何度か発覚している。国際法や国際規範、国家間の合意を尊重する意図がもともとないのだ」

「これらの状況を踏まえると―これはイランの見解だが―イスラエルが合意を邪魔しようとするのは驚くことではなく、ドナルド・トランプ氏がホワイトハウスを去ろうとしている今、その機会はどんどん失われつつある」

2018年9月2日の国連総会でのスピーチで、イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフ氏は「イランの秘密の原子力倉庫」と呼ぶ建物の写真を見せた。テヘランのトゥルクザバド地区で、15kgの放射性物質を含む「イランの秘密の核兵器計画で開発された大量の設備や資源」の倉庫として使用されているという。

ラフィザデ博士によれば、当初、「国際原子力機関はその報告に取り合わなかった。そのことはまったく意外ではない。IAEAは長年、イスラム共和国が核合意を順守しているかの判断を誤ったり、不正確な報告をし、イランの不法な核活動についての信憑性のある報告についての調査を拒否することで知られてきた」

最終的に、ネタニヤフ首相の告発から1年後、リークされたIAEAの報告書により、IAEAの調査員が、特定はされていないある現場でウラン粒子を探知したことが明らかになった―場所は、テヘランのトゥルクザバド地区だった。報告書ではまた、イランが2015年の核合意での公約に違反し、ウラン濃縮を再開したことも明らかにされていた。

バイデン次期大統領がイランと再度核合意を結び早期に外交政策の成功を収めることが可能だと考えているのであれば、「米国を支持する湾岸諸国の助言に耳を傾けるのが得策だろう」と、ラフィザデ博士は付け足した。JCPOAの崩壊は「イランの強硬派に(イランの)政権を再度握るという目標を追求するための自信と活力を新たに与えた。これらの人物達は責任に基づいた国家同士のコミュニティーにイランを復帰させることにまったく関心はなく、むしろ国際社会からのさらなる断絶を図ろうとがむしゃらになっているように見える」

「バイデン新政権は、前回よりも容易にJCPOAのバージョン2の復帰を実現させるだろうというのが一般的な見解だ。ヨーロッパの同盟国との緊密な関係性と、ほとんど全員がオバマ政権時代のメンバーからなる外交政策顧問陣が、トランプ大統領がぴしゃりと閉めたイランの形をした扉の鍵を開けるだろうと考えられている」

「だが、この視点は6月にほぼ確実に起こるだろう強硬派の政権奪取を考慮していない」

イランの第13回大統領選挙は2021年6月18日に投票が行われる予定だ。8年間の任期を通じてロウハニ大統領は、少なくとも西欧諸国からは、比較的穏健派の官僚と見なされてきた。だが現在、より保守的な強硬派が彼を追い立てている。「JCPOAがいかに無益な失敗だったかについて声高に責め立て、ロウハニ政権を内側から攻撃する理由として使ってきた強硬派が態度を翻し、政権獲得後すぐの政策の一つとして『大魔王』と合意を結ぶことは考えづらい」

だが、それ以前に重要な日付が二つ待ち受けている。カセム・ソレイマニ司令官殺害から1年となる1月3日と、1月20日のバイデン大統領の就任式だ。前者に対するイランの反応が現実的政治によるものになるか、もしくは報復を求める強硬派の声に従うことになり、ソレイマニ司令官の亡霊がコッズ部隊と彼が中東に築き上げた軍事的勢力の力による混沌と分裂をまたも呼び起こすのか―それは、まだわからないままだ。

11月24日、ジョー・バイデン次期米国大統領から国務長官候補として紹介された後、演説を行うアントニー・ブリンケン氏。(ゲッティイメージズ)

11月24日、ジョー・バイデン次期米国大統領から国務長官候補として紹介された後、演説を行うアントニー・ブリンケン氏。(ゲッティイメージズ)

ソレイマニ氏の後任としてコッズ部隊司令官に任命されたイスマイル・ガアニ氏。(AFP/khameini.ir)

ソレイマニ氏の後任としてコッズ部隊司令官に任命されたイスマイル・ガアニ氏。(AFP/khameini.ir)

2018年5月8日、核合意からの米国の離脱を表明した後、対イラン制裁の再開を指示する覚書を手にするドナルド・トランプ米国大統領。(AFP)

2018年5月8日、核合意からの米国の離脱を表明した後、対イラン制裁の再開を指示する覚書を手にするドナルド・トランプ米国大統領。(AFP)

トランプ大統領は、テヘランの南270キロに位置するナタンツにある同国の核施設を攻撃する選択肢を提示するよう上級顧問に求めた。(AFP)

トランプ大統領は、テヘランの南270キロに位置するナタンツにある同国の核施設を攻撃する選択肢を提示するよう上級顧問に求めた。(AFP)

イランでもトップクラスの核科学者であるモフセン・ファクリザデ氏が11月27日、テヘラン近郊で車に乗っていたところを襲撃され、暗殺された。(AFP/khameini.ir)

イランでもトップクラスの核科学者であるモフセン・ファクリザデ氏が11月27日、テヘラン近郊で車に乗っていたところを襲撃され、暗殺された。(AFP/khameini.ir)

モフセン・ファクリザデ氏の棺。北東部の町マシュハドで行われた同氏の葬列にて。(AFP/イラン国防省)

モフセン・ファクリザデ氏の棺。北東部の町マシュハドで行われた同氏の葬列にて。(AFP/イラン国防省)

イラン大統領選挙が2021年6月に行われる予定で、強硬派がハサン・ロウハニ大統領を猛追している。(ゲッティイメージズ)

イラン大統領選挙が2021年6月に行われる予定で、強硬派がハサン・ロウハニ大統領を猛追している。(ゲッティイメージズ)

米大統領は、対イランに関しては、かなり長い間厳しい言動を繰り返している。

クレジット

エディター: Mo Gannon
クリエイティブディレクター:Simon Khalil
デザイナー:Omar Nashashibi
グラフィック:Douglas Okasaki
ビデオプロデューサー:Eugene Harnan
ビデオエディター:Hasenin Fadhel、Ali Noori、Nisar Illikkottil
研究: Oubai Shahbandar, Jenan Al-Mussawi
ピクチャーリサーチャー:Sheila Mayo 
コピーエディター:Sarah Mills
ソーシャルメディア:Mohammed Qenan, One Carlo Diaz
プロデューサー:Arkan Aladnani
主任エディター:Faisal J. Abbas