許されざる者
湾岸諸国を揺るがした出来事から20年が経った。カタールのアール=グフラン部族の男、女、こども数千人は加担しなかったクーデター未遂の代償を未だ払い続けている

1996年2月14日の夜、カタールの治安部隊は、湾岸諸国の小国での1年で2回目のクーデターを阻止した。
前年6月の無血革命で、44歳の皇太子であるハマド·ビン·ハリーファ·アール=サーニー首長は、63歳の父ハリーファ首長が国外にいる間に権力を掌握した。今度はハリーファ首長の支援者が追放され国外にいる首長の権力回復を試みて失敗したのだ。
クーデターは発砲なしで終わった。ハマド首長はカタールの新指導者としてアメリカおよび広い世界に認められ、4男であるカタール現統治者のタミーム·ビン·ハマド·アール=サーニー首長に権力を継承するまで首長として揺るがないものであった。
しかし転覆未遂はカタールの支配エリート層には忘れられない。追放された首長に忠実なカタールの数部族のメンバーが企てに巻き込まれたが、それに続く長年の間、アール=ムラー部族の一派が特に迫害のために選ばれた。
過去20年間で、クーデター未遂の関与に無実のアール=グフラン部族のメンバー数千人が体系的に権利と市民権を剥奪された。
アラビア語で部族名は「許し」を意味する。しかし、復讐心に燃えたアール=サーニー家にとって、アール=グフラン部族の男女子供は、1996年の出来事からだいぶ経って生まれているのに、許されざる者なのだ。
「過去数カ月にわたり、ポストは政府が国籍を取り消したというカタール国民からレポートを多数受けとっている(参照電文 A)。さまざまな情報筋によると、このような取り消しで最も影響を受けたグループはアール=ムラー部族のアール=グフラン一派である。同部族はサウジアラビアと強いつながりがあり、サウジ由来だ。1996年の現首長に対するクーデター未遂の企ては、アール=グフラン一派に広く支援されていた。カタール政府は、これらのカタール人の国籍の取り消しを余儀なくされたのは、二つ国籍の一つを捨てる長年の要求に従うことを拒否した二重国籍者であるからだと主張した。ポストはこの行為に懸念を公式に表明し、このポリシーのより完全な説明を求めていた…」
「家無し、国無し、権利無し」

失敗した反クーデターの夜、23歳のジャーベル·アール=カーラ氏は、ハマド首長を保護する任務の部隊である精鋭のカタールエミリ守備隊の隊員として、いつものように当直のため出頭を命じられた。クーデターは失敗したが、数日後、アール=カーラ氏は上官の前に呼ばれた。
「上官は『お前はアール=グフラン部族メンバーか?』と尋ねたのでそうですと答えました。彼は部隊内の私の親戚である他の隊員の名前をあげ、彼らも部族に属しているかと聞きました。私ははいと答えました。」
「その後、沙汰があるまで停職だと言われました。」
これが今日まで続いているアール=カーラ氏と彼の多くの同胞の悪夢の始まりであった。
アール=カーラ氏の停職は約8カ月続き、全額支払いでドーハの自宅で過ごした。ある時点で基地に呼び戻され、クーデター未遂の夜の所在を尋問された。「私は部隊本部にいて、同僚がこれを裏付けられると言いました。」同氏は数日間拘留された。
最終的に停職は終わったが、試練は全く終わっていなかった。「その後、サウジアラビアにいる親戚の結婚式に出席したかったので、6日間の休暇を申請しました」と同氏は語った。
休暇は承認され、アール=カーラ氏は車でサウジ東部の州まで妻と子供2人と一緒に車で期日どおりに旅行した。しかし、家族の週が終わり、アブサムラ国境検問所経由でカタールに戻ろうとした際、「私の市民権は取り消され、祖国には戻れないと言われました。」
アール=カーラ氏はちょうど23歳だった。彼はドーハの自宅を諦めることを余儀なくされ、それ以来、サウジアラビアのアール=マニヤで暮らし、失業中である。
「私の休暇は23年に延長されました」と彼は言う。「今私は46歳で12人の子供がおり、その全員が国を奪われたのです。」
こんなことがあって彼の忠誠への中傷に深く傷ついたままである。「私は職務を遂行し、統治者を守っていた一介の軍人です。もし、時を戻れるなら同じこと、祖国の統治者を守ります。」と彼は言う。

エミリ守備隊隊員のジャーベル·アール=カーラ氏はカタールに戻れなかった。
失敗に終わったクーデターの3カ月前、別のアール=グフラン部族でエミリ守備隊隊員の同僚サレー·ジャーベル·アール=ハムラン氏は一カ月仕事を休んだ。帰路で同氏は拘留され、「私が出た日に、いわゆるクーデターが発生し、それに参加したと責められました。」彼は基地を離れてドーハの自宅の母を尋ねなければならなかった。
「クーデター後、私に逮捕状が出ていると友人が告げました。」と同氏は思い出す。「私の名前が本当に出ていると確認した空港の友だちに電話し、事態が落ち着くまでクウェイトに旅行することに決めました。」彼はクウェイトに運転し、「それ以来、帰国が禁じられました。」
クーデター後どのような方法でクウェイトに出発したかを語るサレー·ジャーベル·アール=ハムラン氏。
アール=ハムラン氏と家族は、クウェイトに数カ月滞在してから、サウジアラビア東部州のアブカイクに移り、今も滞在している。彼は失業中だ。
彼の国外追放のある時点で、まだドーハで暮らす母親が病気になり、彼は訪問しようとした。クウェイトからドーハのハマド国際空港に彼の子供たちと行った。「しかし私は拘留され、入国を禁止されました」と彼は言う。
つらい体験を語るサレー·ジャーベル·アール=ハムラン氏。
アール=ハムラン氏は重篤な心臓疾患があると説明したのに、「空港当局は私を7時間尋問しました。」クウェイトに送り返すと、そこで病状が悪化した。その後、彼はサウジアラビアに行き、アール=アハサのプリンス·スルタン·ビン·アブドゥルアズィーズ病院で心臓手術を受けた。
「私の祖国が私の権利を否定し、特に母は高齢で旅行できないため、母と兄弟のそばで手術を行うことを拒否したのは悲しいことです。母とは4年間、対面できませんでした。」カタールに残した家族は、サウジアラビアに出国したら再入国できないだろう。
兄弟の埋葬でもカタールへの帰国が許可されなかった様子を語るサレー·ジャーベル·アール=ハムラン氏。
兄弟の一人が亡くなったとき、「市民権や身元を証明する文書がないので、遺体の埋葬を他人は禁じられています。遺体は、カタールが埋葬許可集を得るため介入する日まで、病院に安置されました。」アール=ハムラン氏は、親切な行為がカタール当局に処罰されるのを恐れて、その人の名前を言えないと言う。
市民権を剥奪された別のアール=グフラン部族のメンバーは、カタールの警察官だったラシッド·アール=アマラーフ氏だ。現在60歳を超えているが、反クーデター未遂に至るまで、そしてその直後の日々の混乱を鮮明に覚えていた。
カタールでの軍と警察での経歴を話すラッシュド·アール=アマラーフ氏。
彼が言うには、カタール人の多くは1972年からカタールを統治したハリーファ·ビン·ハマド·アール=サーニー首長のわずか8カ月前の打倒に折り合いをまだつけようとしていた。
「とりわけ息子が父に対してクーデターを起こしたことに何が起きたのか信じない者がいました。」と彼は語る。「父はイスラム教と特に湾岸諸国のコミュニティでは絶大な地位がありました。」
ニューヨークタイムズのコンテンポラリーレポートによると、クーデターは父と息子が「2年以上反目した」「長年鬱積しているお家騒動」の結末である。ロイターによれば、クーデターは、数週間の権力闘争に続いて起きた。ハリーファ首長は、過去3年間湾岸諸国の小さな石油国の日常業務を運営してきた45歳の長男に引き継いだ権力を徐々に取り戻そうとしたのは明らかだと報じた。

ラシッド·アール=アマラーフ氏と同じ名前の孫のラシッド氏。
世界の各紙に報じられた短いテレビ演説で、ハマド新首長は「起こったことには幸せではないが、やらざるを得なく、やったのだ」と語った。
彼の父はジュネーブ訪問で不在時に転覆されたが、「無知な男の異常な行動」と言うものを公然と非難した。
1995年6月28日、イギリスのインデペンデント紙は「支配するアール=サーニー家の上級メンバー約1,500名が首都ドーハに集まり忠誠を誓った」と報じた。それにもかかわらず、「カタールに戻って自らを首長に再就任する噂やハリーファ首長による声明があった」とアール=アマラーフ氏は思い出す。
ジュネーブで出た声明の中で、ハリーファ首長は「私は王家、国民、軍隊いずれのためにもまだ正当な首長で、どんなことがあっても帰国する」と語った。
「人々は混乱した」とアール=アマラーフは言う。「ハマド首長を支援するか、正統な前首長側に立つか?」 カタール人の多くは、ハリーファ首長がカタールの正当な統治者であると主張してクーデターに抗議した。
1996年2月、ハリーファ首長がカタールに戻る予定で、近親者や支援者にドーハ軍空港で出迎えるよう命じたとの噂が広がった。「みなは正当な統治者への復帰に備えていた」とアール=アマラーフ氏はいうが、帰国することはなかった。
計画が発見され失敗した時、ハリーファ首長の飛行機はフランス当局によりフランスでの離陸が阻止されたが、ハマド首長の直接要請だと信じるものがいる。ハリーファ首長は当初、アブダビでの庇護を申し出られ、受け入れたが、最終的にフランスへ移った。2004年、カタールで余生を送るため帰国が許され、当地で2016年に死去した。以前の臣民はそのような同情を示さなかった。
企てには関わっていないが、アール=アマラーフ氏は、サウジアラビアにイードの祝日で旅行し、困難な目にあった。「カタール当局はハリーファ首長を支援する人々を調査し探し始めたのです」と同氏は語る。アル=カービ、アール=シャールジャ、バニー·ハージル、アール=アブドゥッラー、アル=モハンディ、アール=クワリ、およびアール=サーニー、そしてアール=グフランなどの部族メンバーにも嫌疑はかけられた。

ラシッド·アール=アマラーフの息子の一人、モハメッドのカタールのパスポートは出生地をカタールと明記している。
治安部隊または軍にいたアール=グフラン部族の多くのメンバーは、他の部族のメンバー同様、逮捕され投獄された。数十人以上がクーデターに加担したとして死刑判決を受けたが、最終的に全員が恩赦を受け、判決が減刑された。
「イードの後、カタールに戻ろうとしているアール=グフラン部族の全メンバーに逮捕投獄する命令が出ていることをみんなが知っていました」とアール=アマラーフ氏は思い出す。「私は自分と家族のことを恐れ、情勢が明らかになるまで帰国しないことにしました。また、カタール国外にいるカタール人で、起こることを恐れて帰国できない者は、迎えてくれるアブダビのハリーファ首長のところへ行くことができました。」
追放された首長は、当時のUAE大統領であるザーイド·ビン=スルターン·アール=ナヒヤーン首長にアブダビでの庇護を申し出られた。「私はアブダビに向かい、そこでインターコンチネンタルホテルに住み、ハリーファ首長から給料を受け取りました」とアール=アマラフ氏は言う。「アブダビには4年間滞在しました。」その後、同氏はサウジの首都リヤドに移った。
カタールに残った同部族メンバーの生活は次第に耐えられなくなったと、ラシッド氏の息子ジャーベル·アール=アマラーフ氏は思い出す。
「カタールのアミリ·ディワンはカタールの全政府機関にアール=グフラン部族のメンバーと対応しないように書簡を発行し、部族メンバーは水道/電気の契約を拒まれました。また、チャリティから支援を与えることも禁止され、保健省はアール=グフラン部族出身の患者の受け入れを妨げました。」
このようなポリシーの結果の悲劇は避けられない。「いわゆるクーデター容疑者の一人の兄弟は病気になり発作がありました」とジャーベル·アール=アマラーフ氏は言う。「病院に行ったとき、受け取りを拒否され、ピックアップトラックの後部座席に一日中いて亡くなりました。」
モルグの外で何日か待った後、支配するアール=サーニー部族の一員の人道的介入でしか家族は埋葬できなかった。
ジャーベル·アール=アマラーフ氏はカタール生まれで、反クーデターが失敗した時は11歳だった。「私には何が起こったかわかりませんでした。」と彼は回想した。イードの祝日の間、家族とサウジアラビアを旅行した後、アブダビで父と共に亡命した。
故郷に帰ることができず育つことはどんなものかを語るジャーベル·アール=アマラーフ氏。
「私はカタールの故郷、学校、友人のところで戻ることができませんでした。第2の国に移りそこで6年間暮らし、その首長国を離れてサウジアラビアに向かいました。」
まだ彼は、ドーハの産院で生まれたことを証明するカタールの出生証明書を持っている。「そして私の名前は母のカタールパスポートにカタール市民として加えられました。しかし、父がカタールを去った後、私の母、父、兄弟姉妹すべての市民権は取り消されました。」
必要に迫られて、ジャーベル·アール=アマラーフ氏は自分で新しい人生を作った。4年間、彼と兄弟はアブダビでスクーリングを続け、その後サウジアラビアに住む親せきと暮らすために帰り、今日まで滞在している。現在33歳で結婚し3児と暮らし、リヤドで政府関係の仕事についている。当時はリヤドの知事であった後のサルーマン国王の介入のおかげで、ジャーベル·アール=アマラーフ氏と家族はサウジ市民権を与えられた。
いつも彼はこれには感謝しているが、カタール市民として当然与えられるべき権利を失ったことは許せない。「1996年に起こったことへの責任はありません。私は誰が首長や皇太子でクーデターの意味さえ知りませんでした。市民権が取り消され、権利が侵害された時は子供で、勉強と正常な生活を続けることを止められたのです。」
このすべては一人の男の気紛れの結果としてだと彼が信じている。「カタールの統治者ハマド·ビン·ハリーファ首長は家無し、国無し、権利無しで私に生きろと決断したのです」と彼は言う。
アール=グフラン部族の許されざる者の多くは彼らに降りかかった不正義に対して、ハマド首長だけを責めている。「ハマド·ビン·ハリーファ·アール=サーニーが犯した過ちに対して、アール=サーニー家全員を責めることはできません」とジャーベル·アール=カーラ氏は言う。「彼らはいつでも国民を最善の方法で取り扱ってきました。」
「私たちの衝突は、6,000人以上がいるアール=グフラン部族の権利を侵害している不公平な統治者に対してです。今ではこの数字はもっと大きなものです。市民権を取り消すことにより、最も基本的な権利を剥奪されたのです。」
「もしアール=グフラン部族の一員だったら、市民権がないので、携帯電話のSIMカードさえ持てません。これに反対することもできず、あなたの権利を保護する法律に頼ることができないのです。」

エミリ守備隊隊員のジャーベル·アール=カーラ氏はカタールに戻れなかった。
エミリ守備隊隊員のジャーベル·アール=カーラ氏はカタールに戻れなかった。

ラシッド·アール=アマラーフ氏と同じ名前の孫のラシッド氏。
ラシッド·アール=アマラーフ氏と同じ名前の孫のラシッド氏。

ラシッド·アール=アマラーフの息子の一人、モハメッドのカタールのパスポートは出生地をカタールと明記している。
ラシッド·アール=アマラーフの息子の一人、モハメッドのカタールのパスポートは出生地をカタールと明記している。
「ハマド・ビン・ハリファ氏の悪意ある報復行為」














なぜカタールはアルグフラン族を標的にしたのか?「我々が一番戸惑うのがそこです」とジャベル・アル・カハラ氏は言う。「1996年から始まって2019年まで、政府は我々の市民権を剥奪した背後にある本当の理由を述べていない。唯一返ってきた答えは、アルグフラン族のメンバーは二重国籍を保持しているというものです」
「しかし真の理由はこれです。我々は、クーデターに参加したことで非難されているのです」
実際には、「市民権剥奪は、カタールの17の部族から121人ものメンバーが加わったクーデター未遂に、アルグフランのメンバー21人が参加していたことへの反発です。なぜアルグフランだけが標的となって他の部族が同じ扱いを受けないのか」
理由はなんであれ、「21人でしかない少人数が犯した間違いの責任を、6000人の無実の人々が負わされているのです。非難を受けた人々の中には、当時アメリカに留学していた人もいれば、ドイツで治療を受けていた人もいます。彼らもクーデターの責任を負わされています。一番上の子供が6歳という未亡人もです」とサレハ・ジャベル・アル・フムラン氏は言う。
「カタール政府は、私たちが二重国籍であったから市民権を剥奪したのだと言います。しかし、二重国籍の者はすべての部族にいるため、二重国籍が問題なのではありません。これは、ハマド・ビン・ハリファの悪意ある報復行為なのです」
歴史的に、アルグフラン族の母体部族であるアルムラ族は、カタールの西部一体に散らばっていた。ワディジャラル、アルハーラ、アルシャルキなどを含む地域だ。そして、アブカイク、アルフホフ、アルタウィラといった隣接するサウジアラビア東部地域も一部含まれていた。


しかし、1971年9月にカタールが独立国となると、部族は2つに分断された。クーデター後、カタールに住んでいた部族メンバーは、強制的にサウジアラビアへ移住させられた。カタールが国家となるずっと以前から代々カタールに住んでいたのであっても、彼らは国民として見なされないとされたのだ。
ジャベル・アル・カハラ氏は、新たな首長が面目を保つためのスケープゴートとして、アルグフランが選ばれたのだと考えている。「私の見解としては、当時はシェイフ・ハマドが父親から政権を奪取してから7、8カ月しか経っておらず、カタール国民の大多数が彼を拒否しており、17部族がクーデターに参加したという事実を世界に公開するのはイメージが良くありませんでした。そこで彼は、アルグフラン族を咎めたのです」
人権と市民の自由を擁護する英国在住の弁護士であるアムジャド・サルフィティ氏は、アルグフランの迫害が続くのは、2013年に父親ハマド・ビン・ハルファの退任後に首長の座に就いたシェイフ・タミム・ビン・ハマド氏の意向ではなく、「父親の代理を務める古い取り巻きの意向であり、彼がいまだに国民を罰することに熱を上げている」のだと考えている。
アムジャド・サルフィティ弁護士がこの件を説明する。
シェイフ・タミム首長のこの件に関する意向がどのようなものであろうと、また彼にこのような執念深い行為を抑える力があるかどうかに関わらず、何万人ものカタール国民への執拗な迫害は、国際社会の分別ある一員として自国を提示しようとするこの国の取り組みとは、全く相容れないものだ。世界陸上競技選手権大会や2020年FIFAワールドカップで世界中の人々をドーハで歓迎しながら、その一方で自国民を生まれた土地から締め出しているのは、不快といえるほど矛盾している。
アルグフランが特別にターゲットにされたという疑惑については、2004年から2007年にかけて在カタールの米国特使を務めたチェイス・アンターマイヤー氏も抱いていた。2005年5月に米政府に送信した極秘電報の中で(後にウィキリークスを通して公開された米国の極秘外交文書の一部として明らかになった)、彼は「この部族がサウジアラビアと強いつながりを持ち、メンバーにはサウジアラビアの起源がある」という事実に敵意を抱いているのだと示唆した。
市民権剥奪行為は、「カタールの政治にサウジアラビアが介入することを懸念し、政府の次期選挙の準備の一環として強化されている」との憶測があると彼は記した。
「アルムラ族(アルグフランの母体部族)はカタール最大の部族であり、この部族が新たな議会で大きな投票集団を形成する懸念があるとの見方があるとされている。さらに、この部族へのサウジアラビアの影響力やつながりを考えれば、サウジアラビアがアルムラに対するその影響力を利用して、カタールの内政や政策に介入するのではという懸念もある」
「アルムラ族(アルグフランの母体部族)はカタール最大の部族であり、この部族が新たな議会で大きな投票集団を形成する懸念があるとの見方があるとされている。さらに、この部族へのサウジアラビアの影響力やつながりを考えれば、サウジアラビアがアルムラに対するその影響力を利用して、カタールの内政や政策に介入するのではという懸念もある」
アンターマイヤー氏の極秘電報は、カタール政府の「彼らは2つの国籍のどちらかを放棄するようにという長年の要求を拒否してきた二重国籍者であるため、カタールの国籍を剥奪せざるを得なかったのだ」という主張をあっさりと切り捨てている。
各家族の世帯主の元には、彼らの国籍が剥奪されたこと、そして彼らは「カタールの国籍と市民権に対するすべての権利を放棄する同意書に署名しなければならない」ことを記した書簡が届いた。これに署名することにより、「これらの個人は、もし第二の国籍を所有する場合には国外へ退去するか、カタールに留まるにはカタール人の身元引受人を見つけなければならない。国籍放棄の書類への署名を拒否した者の中には、投獄された者もいる」と電報には書かれていた。
実際、「カタールの法律は二重国籍を禁止しているようには見えないが、しかし、もし『別の国籍を取得』した場合には、『カタール国籍をその保持者から剥奪することができる』と規定している」とアンターマイヤー大使は記している。
「しかし多くの情報筋によれば、カタール政府をよく知る何千もの二重国籍のカタール人は、非カタールの国籍を放棄するよう命じられていない。情報筋はさらに、政府が国籍を剥奪したすべての人々が二重国籍であったわけではないとも主張している」
大使館は「この慣行について正式に懸念を表明し、この政策の詳細な説明を求めた」ことを指摘し、アンターマイヤー大使は、何千人ものカタール国民への影響を強調した。
「およそ6000から1万の人々がこの剥奪によりカタール国籍を失ったとされる」と彼は書いている。「公務員であった者は職を失い、その家族全員が、カタール市民であれば受ける資格のあった公務員福利厚生(住居、教育、雇用、保健制度等)を失った。国籍を剥奪された者の多くは、無国籍者(『ビドゥン』)としてカタールに居住しており、国外へ出ることができない」
ドルワリー・ダイク氏が、いかに多くのアルグフラン部族が無国籍のまま放置されたかを説明する。
湾岸諸国やイラン、アフガニスタンの人権に着目する英国のライツ・リアリゼーション・センターのドルワリー・ダイク所長によれば、人々から市民権を剥奪する動きは、政令を受けて2004年10月に熱を帯び始めたという。
この決定の影響は過小評価されるべきではないと彼は言う。「その後まもなく、当局は人々を職から締め出し、教育を剥奪し、学校から追い出し、彼らは医療サービスも受けられなくなり、銀行口座も閉鎖され、不動産の所有も許されなくなりました。彼らは透明人間にされたのです。人間ではなくなったのです」
「彼らは透明人間にされたのです。彼らは人間ではなくなったのです」
何人のアルグフラン部族の人々が無国籍のままでいるのかを正確に把握するのは「非常に難しい」とドルワリー氏は述べる。当初、政令がターゲットとしたのは、927名の世帯主と「約5000人」に上るその扶養者全員であった。しかしそれ以降、「これらのコミュニティーとその家族の自然増加を考えれば」、その数は1万人に増えているとの見方もある。
しかし、人権と自民の自由に着目する英国居住の弁護士であるアムジャド・サルフィティ氏は、それはアルグフラン部族のメンバーだけを考慮した数字である可能性があると言う。カタール市民権を剥奪されたり追放されたりした様々な部族の人々をすべて合わせれば、その数は5万人以上に上るとの見積もりもある。そして「彼らのすべてが非情な措置の下に置かれてきた」のだという。
いかなる国の市民もすべて、「国際法の下に置かれており、それによって市民権を有する彼らの権利は保護されるべきです。そして国家が国民から国籍を剥奪しようとする行為をとれば、それが集団であろうと個人であろうと、その行為はすぐさま国際人権法違反になります」と彼は言う。
「この出来事の中で起きていることは、集団処罰といえるものであり、これも国際法で禁止されています。違反行為が、国家から自国民に対して行われてきたのです」
反撃

2018年9月、Al-Ghufranの代表団はジュネーヴで野国連人権理事会の第39回定例セッションで、先住民の人々の権利を守るために国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)の特別報告者の支援を要請した。その際、代表団は「自分たちの国の政府が私たちの訴えを届ける術をすべて遮断し、要請に耳を傾けようとしなかったため、初めて」国際社会に訴えることを決めたと語った。
ジュネーヴで代表団のメンバーの一人、Gaber Saleh Al-Ghufraniはカタールの指導者と仲間の国民に対し、感情を込めて訴えかけた。「名誉あるAl-Thani家の年長者の皆様、カタールの寛容で正義感に満ちた人々、そしてその高潔さと騎士道精神で知られるAl Murra族の人々に私たちは呼びかけます」と、彼は言った。
「あなた方のきょうだいとして我々は呼びかけます。老いも若きも、年長者も子供も、男も女も、カタールに住む人も、国外に住む人も、あなたの誇り高きアラブ人としてのルーツに訴えます。何故なら、カタール政府は私たちを失望させたからです。私たちについての虚偽の事実を主張し、私たちの人権を奪い去ったのです」
あなた方のきょうだいとして我々は呼びかけます。老いも若きも、年長者も子供も、男も女も、カタールに住む人も、国外に住む人も、あなたの誇り高きアラブ人としてのルーツに訴えます。何故なら、カタール政府は私たちを失望させたからです。私たちについての虚偽の事実を主張し、私たちの人権を奪い去ったのです
ジュネーヴでの記者会見で、部族の年長者Jabir bin Saleh Al-Ghufraniはカタール政府は「私たちの社会的、政治的、および経済的人権を奪った…私は1996年に休暇で国を出て、それ以来、入国できなくなってしまった。世界中、どこへだって行けるが、故郷のカタールには帰れないのだ」と、話した。
Al-Ghufranの代表団との会合の後、OHCHRのスタッフはすぐに「カタールの国家人権委員会に懸念を伝えた」と、OHCHRの広報担当者はアラブニュースに語った。
OHCHRの対応は予想外であり、Al-Ghufranの人々を動揺させただろう。高等弁務官への嘆願書には、カタールの国家人権委員会は彼らの権利を認めない政府に協力する機関の一つでしかないという懸念が明確に示されていた。
部族の代表団からの嘆願書には「カタールの首長、首相、司法長官、国家人権委員会会長、治安当局高官、政府の要人などを含むカタールの権力者たちは差別に気づいており…彼ら、要人たちもこの犯罪に深く関わっています」と、書かれている。

2018年、ジュネーヴでOHCHRに嘆願書を提出するAl-Ghufranの代表団。
嘆願書にはこうも書かれている。「介入していただくことで、この困難な状況を客観的で公平な視点で判断していただき、それに基づいた正義と人権が達成されることを願っています。どうぞ、カタールの国家人権委員会だけに頼ることはなさらないでください。不幸なことに国家人権委員会は私たちの正義を求める戦いの障害となってしまったからです」
OHCHRは、人権委員会から返答はあったが、「機密情報であるため」公表はできないとアラブニュースに話した。
Al-Ghufranの置かれた窮状についての訴えが国連に持ち込まれたのはこれが初めてではない。2010年のアムネスティ・インターナショナルの国連人権理事会への報告書にはカタールで死刑宣告を受けている20人のうち、17人が1996年のクーデターの試みに関与したとして「公正でない裁判により」有罪判決を受けたと述べられている。最初は終身刑とされていたが、2001年5月にカタールの控訴裁判所がさらに重罪とし、死刑に変更した。
アムネスティ・インターナショナルの報告書には、初期の裁判において「被告とされた者の多くが拷問で『自白』を強要されたと主張している」と書かれている。
スイスに拠点を置く人権団体Alkaramaがカタールにおける人権問題の定期的審査の一環として国連人権理事会に提出した報告書は、1996年から2000年の間にクーデターの企ての捜査の名の下で何十人もが逮捕されていると述べている。カタールで17以上の部族から300人以上の被疑者が逮捕されたとする情報源もある。1997年、Al-Ghufranからも21人を含む121人が裁判にかけられた。裁判は2001年に終わり、2004年、Al-Ghufranの人々をカタール国籍から離脱させる体系的な動きが本格的に始まった。
2010年に人権理事会が発表した提出文書の概要によると、「国籍に関する規約は2005年に公布され(2005年法律第38号)」、それにより「首長はカタール国籍を付与、取り消し、復権できる広範囲な権限」を与えられた。皮肉なことに、内務省内に人権局が設立されたのも同じ2005年のことだ。
アムネスティ・インターナショナルの報告書によれば、この法律は「政敵をターゲットとするために、多くの個人、部族に対して利用され」、そこには「他の国の国籍を持っているという虚偽と考えられる根拠によって糾弾されたAl-Ghufran地域のAl-Murra部族6,000人」が含まれた。

ジュネーブで会議を行う、アル・グフラン部族のメンバーたち。
そのうち4,000人ほどは最終的にカタール国籍を再度付与されたと考えられているが、「ほとんどの場合、近隣の国で生まれたとして出生地を改変され、カタールでの選挙権をはく奪された」。
2010年、サウジアラビアのアブドラ国王が終身刑を宣告されたAl-Ghufranの21名のためにカタールに介入した。介入は成功し、21名は解放され、サウジアラビアで新しい生活を始められることになった。
多くのAl-Ghufranと同じく市民権を奪われたカタールの元警察官Rashed Al-Amrahによれば、部族の代表団がアブドラ国王に歎願したのだという。「拘留されている人々はただ二重国籍を持っているだけで何も罪を犯していないにもかかわらず、シャイフ・ハマド・ビン・ハリーファ・アール・サーニーは彼のカタールへの帰国の際に殺害を企てた罪で糾弾していると国王に伝えたんだ」
その罪状を立証する証拠はまったくないと代表団は国王に訴え、一年前にも歎願したが、聞き入れてもらえなかったことを思い出させた。「アブドラ国王はシャイフ・ハマドに嘘をつかれていたと説明した」と、Al-Amrahは語る。「『彼は二度、私に嘘をついた。だが、近いうちにあなたたちに良い報せが届くことを願う』と言った」
一ヶ月後、アブドラ国王は息子のムトイブ王子をカタールに派遣した。「国王は王子に、シャイフ・ハマドに『アブドラ国王はご挨拶とともに、Al-Ghufran部族の解放を要請する』と伝えるようにと言った。答えはイエスだった」
サウジアラビアの故アブドラ国王がどのように介入したかを語るRashed Al-Amrah。
後日、解放された人々は荷物をまとめるように言われ、囚人服を着たまま空港に連れていかれたと語った。「空港で彼らが見たのはサウジアラビアの飛行機と、入り口に立つムトイブ王子の姿だった」と、Al-Amrahは話す。「ムトイブ王子は一人ひとりに挨拶し、歓迎の意を示した。飛行機はジッダに着陸し、その晩、彼らはアブドラ国王に謁見した。アブドラ国王が彼らの無実を信じたおかげで、彼らの苦しみはようやく終わったんだ」
終わりは見えてきたのか?
多くの人が2019年こそAl-Ghufranの窮状が終わることを願っている。
ここ数年でAl-Ghufran族は多くの団体から支援を勝ち取ってきた。アラブ人権連盟、エジプト人権団体、マナマのバーレーン人権センター、米国に拠点を置くワールド・エイド人権団体とアムネスティ・インターナショナル、そして5月にはニューヨークのヒューマン・ライツ・ウォッチもAl-Ghufranの現状に対する問題提起をしている。
国籍を持たない部族のメンバーは「まともな仕事を得たり、医療や教育を受ける機会、結婚し家族を持つ権利、不動産を所有したり、自由に移動する権利などを奪われている」とヒューマン・ライツ・ウォッチは報告する。
Al-Ghufranの人々がどのように告訴されたかを説明するRashed Al-Amrah。
「有効な身分証明書を持たないため、彼らは銀行口座の開設や運転免許の取得もままならず、無作為に拘留されるリスクもある。カタール国内に住む者も、政府の仕事や食料、光熱費助成金、無料医療制度などカタール国籍を持つ者には与えられる様々な政府の手当てを受ける権利を否認されている」
有効な身分証明書を持たないため、彼らは銀行口座の開設や運転免許の取得もままならず、無作為に拘留されるリスクもある。カタール国内に住む者も、政府の仕事や食料、光熱費助成金、無料医療制度などカタール国籍を持つ者には与えられる様々な政府の手当てを受ける権利を否認されている
国籍をはく奪されたカタール在住の3家族9名と、サウジアラビアに住む1家族の1名へのインタビューに基づき、ヒューマン・ライツ・ウォッチはカタール政府に「国籍のないまま放置されている人々の苦しみを早急に終わらせ、この間、他国の国籍を取得した者も含め、カタール国籍の再取得を可能にするよう」要請した。
ヒューマン・ライツ・ウォッチはカタール内務省に書面で懸念を伝えたが、返信はなかった。(アラブニュースも同様にカタール内務省と報道室にコメントを求めたが、返答はないままだ)
9月、国連のカタールの人権に関する記録の普遍的定期審査作業部会による報告書が公表された。記録によれば、カタール政府の見解は、Al-Ghufran族の国籍の取り消しは「根拠のない不正な方策ではなく、二重国籍を禁じる法に沿って実行されたもの」だという。
多くの国の所見も含まれる長文の報告書には、「早急にすべての必要な対策を取り、Al-Ghufran族に国籍を再度付与し…押収された一族が所有する土地と財産を返却するよう」求めるサウジアラビアからカタールへの要請も含まれる。
財産を奪われ強制立ち退きをさせられたAl-Ghufran族の多くは、23年間の苦難の終息の希望を10月7日(月)に国連難民評議会によって開催される無国籍状態についてのハイレベル会合に託している。この日は、2024年までに無国籍状態の人を世界からなくそうという国連の「I Belong」キャンペーンのちょうど中間地点となる。国連によれば、国のリーダーや政府の代表は「2014年の11月に『I Belong』キャンペーンが開始して以来、国籍のない人を無くすために達成してきた重要な施策などを明らかにし、今後の5年間でどのように無国籍状態の解決を目指していくか具体的な公約を発表する」ことになっている。
これこそがカタールが正しい方向転換をするための絶好の機会だとThe Rights Realization Centerの会長、ドリューリー・ダイク(Drewery Dyke)は語る。
カタールの人権問題の課題について語るドリューリー・ダイク(Drewery Dyke)。
「カタール政府はこれまでの数年間、『I Belong』キャンペーンに関連して表明または確かに示唆してきた誓約を果たし、カタールに戻りたいと望むAl-Ghufran族全員に対して国籍返還プログラムを実施する義務がある」
2011年に開催された難民と無国籍人口についての国連閣僚レベル政府間会合では、60ヶ国以上が無国籍問題解決に向けての具体的な公約を発表した。だが、カタールは明らかに核心を避けた発言でお茶を濁した。「カタールはUNHCRの高潔な人道主義への献身の姿勢を新たにし、すべての人の尊厳を守るためのUNHCRの様々な活動に必要な支援を提供し続けることを誓う」。
10月7日のジュネーヴでは、「すべての人がカタール政府の言動に注目するだろう」とダイクは語る。
「The Rights Realization CenterやThe Institute of Statelessness and Inclusion、その他の人権団体、そしてもちろん当のAl-Ghufran族の人々は、皆、国際社会の人権基準に違反するやり方で無作為に不正に国籍を奪われたすべての人々に国籍を再度付与して入国を許可し、これまでの不当な扱いを認めて権利と所有財産を返還するようカタールに求めている」

2018年、ジュネーヴでOHCHRに嘆願書を提出するAl-Ghufranの代表団。
2018年、ジュネーヴでOHCHRに嘆願書を提出するAl-Ghufranの代表団。

ジュネーブで会議を行う、アル・グフラン部族のメンバーたち。
ジュネーブで会議を行う、アル・グフラン部族のメンバーたち。
クレジット
制作総責任者: Mohammed Al-Sulami
クリエイティブ・ディレクター: Simon Khalil
文章: Jonathan Gornall
デザイン: Omar Nashashibi
イラスト: Alex Green
グラフィック: Douglas Okasaki
カメラマン: Mohammed Al-Baigan, Seif Almutairi
動画制作: Ali Noori, Yasser Hammad, Rawan Alkhelawi
翻訳: Sarah Sfeir
リサーチ: Sarah Glubb
写真リサーチ: Sheila Mayo
コピー編集: Les Webb
SNS担当: Mohammed Qenan
編集長: Faisal J. Abbas

