ディルイーヤ:
過去、現在、そして未来


アラブニュース ディープダイブ特別版
王国発祥の地へ

サウジアラビアの現代の首都リヤドにあるキングダムタワーのわずか10キロ西に、かつて堂々たる都市の一部であった泥レンガ造りの建物群を入念に修復した遺跡がある。

ここは、第一次サウード王国が首都としていたアル・トライフの街であり、18世紀に建てられた王宮、モスク、住宅、側防塔など、考古学的な史跡の宝庫だ。

現在はサウジアラビア発祥の地として崇められており、2010年からはユネスコ世界遺産として保護されている。サウジアラビア史の第1章が綴られた場所だ。

そして、サウジアラビア最大のメガプロジェクトのひとつである「ディルイーヤ・ゲート」という王冠の中の宝石として、アル・トライフは今また、サウジアラビア史の次なる章を綴る一助を担っている。

15世紀にワディ・ハニファ沿いに開拓されたオアシスの入植地ディルイーヤのなかに、現代のサウジアラビア人の祖先が建設したアル・トライフは、独特の「ナジュド建築様式」の見事な現存例として国際的にも認められている。

15世紀にワディ・ハニファ沿いに開拓されたオアシスの入植地ディルイーヤのなかに、現代のサウジアラビア人の祖先たちが建設したアル・トライフは、独特の「ナジュド建築様式」の見事な現存例として国際的にも認められている。

この独特の建築物は、アラビア半島中部では容易に入手できる自然素材が少ないなか、日干しレンガ、ワディ(乾季に干上がる川)の斜面から採石した石灰石、硬いタマリンドの木から切り出した木材などを駆使しながら、過酷な環境に対応しつつ何世紀もかけて進化してきたものだ。

この泥レンガ造りの都市遺跡は、世界で最も過酷な砂漠地帯に繁栄する自立社会を作り上げたのみならず、オスマン帝国という圧倒的な敵に直面するなかでそれを成し遂げた人々の決意を静かに物語っている。

砲弾や破裂弾にまみれたアル・トライフの城壁には、1818年に最終的に占拠されるまで6か月続いた、血まみれの包囲戦の傷跡が残っている。多くの指導者が拷問、処刑、追放の憂き目に遭い、街は取り残された。

しかしアル・トライフの歴史も、サウジアラビアの歴史も、そこで終わりはしなかった。

1980年代以降、アル・トライフは入念に修復され、隣接する歴史的な街ディルイーヤを世界的な歴史、文化、生活スタイルの発信地へと変貌させるべく500憶ドルをかけた野心的計画「ディルイーヤ・ゲート」プロジェクトの、中心かつインスピレーションとなっている。

美術館、ギャラリー、世界クラスのホテル、レストラン、ショップ、住宅、教育・文化施設などを完備した7平方キロメートルの開発事業が進められているが、そこには、伝統的なナジュド建築様式を採用しながらも、サステナブルな都市型生活の最新技術の利点も取り入れている。

「ディルイーヤ・ゲート」が完成すれば、世界中から観光客が訪れ、砂漠の小さな社会で生まれた構想をわずか300年足らずで世界有数の繁栄国家へと進化させたサウジアラビアの歴史と文化に浸ることができる。

過去

国家発祥の地

「サウジアラビアにとってディルイーヤは、ギリシャ人にとってのアクロポリスのような存在」-ディルイーヤ・ゲート開発局最高経営責任者(CEO)のジェリー・インゼリーロ氏。

砲弾は作業員によって、最近アル・トライフのある歴史建造物の定期的な保存作業の際に掘り出された。

「とある基礎の修復作業を行っていた。すると、ある作業員がこの物体に出くわし、すぐに内部の考古学者に伝えた」と、ディルイーヤ・ゲート開発局の遺産文化主任アダム・ウィルキンソン氏が語った。

ウィルキンソン氏によると、砲弾はサルワ宮殿の裏で発見された。「発射された砲弾はかなりの数の建物の上か間を通らなければ、この場所には達しない。」

「英雄王たちの故郷、ディルイーヤからのご挨拶」- ディルイーヤ・ゲート開発局の歴史研究・調査担当副部長、バドラン・アル・ホナイヘン博士。

アル・トライフで出土した砲弾を持つディルイーヤ・ゲート開発局の考古学者、ナワフ・アルメテリ氏。

この砲弾は、200年少し前、アル・トライフに限らず、独立したアラブ国家という概念そのものまで包囲していた大軍の一員たる、オスマン帝国の砲手が砲口から発射したものだ。

アル・トライフを防衛する勢力は5千人ほどで、オスマン帝国軍の3万人と比べて人数でも火力でも絶望的なほど劣っていた。だが、最終的に降伏が避けられなくなるまで、6カ月持ちこたえた。

第一次サウード王国の青春の盛りの多くの若者が、最後の抵抗の際にその命を捧げた。それ以外の者たちは、国外への脱出か捕囚を余儀なくされた。捕虜になった者は拷問を受け、イブラヒム・パシャの命で処刑された。オスマン帝国のエジプト・スーダン総督ムハンマド・アリー・パシャの長男であるイブラヒム・パシャは、父のトルコ・エジプト軍を率いて、6年に及ぶ軍事遠征で、サウジ人と激しい戦闘を交わした。

この仮借なき戦争の間中、パシャの軍は、血塗られた賞金目当てに、犠牲者の頭部や耳を切断してカイロに送り届けた。

最終的に、オスマン帝国は防衛軍を蹂躙できなかった。第一次サウード王国の最後の王イマーム・アブドゥラーは、国民の困窮が長引くのをこれ以上忍べないという思いになった時に、ようやく降伏した。

物々しい警備の下で、イマーム・アブドゥラーは鎖につながれて最初はカイロに、その後オスマン帝国の権力の中心地であるコンスタンティノープルに連れていかれた。その地で、公開処刑で首を刎ねられた。頭部は砕かれ、遺体は帝国の権威に挑戦しようとする者への見せしめとして紐で吊るされた。

アル・トライフで掘り出された砲弾は、サウジアラビア物語の初期の章がインクや油によってでなく、英雄たちの血で記されたものである事実を赤裸々に思い出せてくれる。

アル・トライフのくぼみだらけの壁や破壊された塔や宮殿は1818年に遺棄されたが、この20年間に慎重に復元・保存されてきた。そして、一世代のサウジ人の犠牲と、自らの手で運命を切り開こうとする人々の決意の、記念碑になっている。

ディルイーヤ・ゲート開発局の歴史研究調査アソシエートディレクターであるバドラン・アル・ホナイヘン氏によると、この運命への、そして究極的にはサウジアラビア王国建国への最初のステップを1446年に踏み出したのは、バニ・ハニファのアルドゥル部族のマラダ氏族指導者にして、「サウジ王家の父」であるマニ・アール・ムライディだった。

マラダ氏族は中央アラビア出身だが、アール・ムライディより数世代前に東方に移住して、アラビア湾岸のカティーフ近くに定着した。マラダ氏族はその土地を、部族名アルドゥルにちなんでディルイーヤと命名した。その後、15世紀にアラビアの中心部に戻ってきたときに、その名称も携えてきた。

マラダ氏族の移住は、アール・ムライディの従兄弟であるイブン・ディルの招きに応じてのものだった。イブン・ディルは、ワディ・ハニファ沿いの低地ナジュドの古代集落地区アル・ヤママにある現在のリヤドの地にあった町ハジュルの支配者だった。友好的な人たちに自らが所有する未使用の肥沃な土地に移住してもらって、土地を生産的に使用することを強く望んでいた。そこで、アール・ムライディに氏族ごと沿岸から戻り、この地に定住することを提案した。アル・ホナイヘン氏によると、「招待状は好評を博した。1446年、アール・ムライディとその氏族は東部の都市旧ディルイーヤから半島中央部に移住し、その地に新ディルイーヤを建設した。」

400キロの旅は容易ではなかったが、一団はついにワディ・ハニファに到着した。

ディルイーヤで最初に撮影されたとされる写真は、1912年にここを訪れていたイギリス人将校ジェラルド・リーチマン中佐によるもの。

ディルイーヤで最初に撮影されたとされる写真は、1912年にここを訪れていたイギリス人将校ジェラルド・リーチマン中佐によるもの。

アル・ホナイヘン氏によると、「イブン・ディルはこれらの人たちを歓迎し、アール・ムライディとの間で先祖の栄光を回復させることに合意した。彼らの先祖はその昔この地域に定住し、交易路・巡礼路の安全を保証していた。」

マラダ氏族はこの地を、交易ルートの十字路という好立地で、ワディ・ハニファの肥沃な土壌が可能にする生産性の高いオアシスに変えた。だが、この定住に待ち構えている偉大な運命を予見できる者は一人もいなかった。実際、前途が明らかになり始めるまでに、300年の歳月が必要だった。

だが、アル・ホナイヘン氏によると、あの時代にあっては「これらはアラビア半島で起こった屈指の出来事」であり、アール・ムライディがやってきたことで、「預言者の国と正統カリフ時代に続く、アラビア半島史上最も偉大な国の建国のための基礎準備が整えられた。」

「アル・トライフへようこそ」 - サウジのツアーガイド、ラハフ・アルハルビ氏が、ディルイーヤを支える300年の歴史について語る。

長年、氏族内の2つの流れであるアル・ムクリンとアル・ワトバンが集落の支配権を争っていたが、1720年ごろにアル・ムクリンのサウード・ビン・ムハンマドが指導権を握った。この重要な権力移行によって、サウード家が創設された。

歴史家は、第一次サウード王国の起源を、サウードの息子ムハンマドが街の統治者となった1727年としている。アル・ホナイヘン氏によると、イマーム・ムハンマド・ビン・サウードはサルマン国王の6代前の直系の祖先に当たる、サウジアラビア物語の「最重要人物の一人」だ。

アル・ホナイヘン氏の説明では、首長になったムハンマドは、「地域の安定化と交易路・巡礼路の安全確保に力点を絞るようになった。」

「ムハンマドの治世で、ディルイーヤ首長国はナジュドの有力な独立首長国になり、地域大国の支配から解放された。」

1765年にイマーム・ムハンマドが亡くなると、後継者であるイマーム・アブドルアジーズは、ムハンマドが作り上げた国家をさらに発展させた。その治世において、1766年ごろにアル・トライフの王宮地区が創られ、サルワ宮殿の建設作業が開始された。同宮殿はこのユネスコ世界遺産において、現在でもその姿を目にすることができる非常に壮麗な建物だ。

1803年に、アブドルアジーズの跡を息子サウードが継いだ。アル・ホナイヘン氏によると、サウードは「その治世に達成された、北はユーフラテス川やレバント地方の境から南はサヌアとマスカットまで、東はアラビア湾沿岸から西は紅海まで勢力範囲が拡大されたサウード王国の偉大さゆえに」サウード大王として知られるようになった。

「イマーム・サウードが統治した時代、王国は豊かで、自信があり、強力」で、現代のサウジアラビアよりも広大な領土を支配した。

だが、驚異的な成功と、そのゆえにオスマン帝国の権威にとって増大しつつある脅威となったがために、没落の種子をはらむことになった。

1804年、メディナと紅海のヤンブー港がサウード王国に組み入れられた。1807年までに、イマーム・サウードはメッカから最後のオスマン軍を追い出した。これによって、イマーム・サウードは二つの聖なる都市の正当なる守護者を主張できるようになった。二聖モスクの守護者であることは、16世紀初頭以来主張されてきた称号であるイスラム教カリフとしてのコンスタンティノープルの地位の根拠になっていた。

1811年、イブラヒム・パシャが指揮を執るオスマン軍が、アラビアの紅海沿岸にあるヤンブーに上陸した。6年に及ぶ血みどろの軍事作戦の始まりだった。この戦争はやがて、ディルイーヤの敗北に終わり、アル・トライフは遺棄されることになる。

1814年のイマーム・サウードの死後、息子のアブドゥラーが王位を継いだ。第一次サウード王国の最後の王となる運命を背負っていたアブドゥラーにとって、その運命に向けて刻々と時が迫ってきていた。

勇敢な戦いを見せたものの、究極的に一方的な戦争となった一連の戦闘を通じて、サウジ人はゆっくりと、しかし確実に後退を強いられ、1818年3月にはディルイーヤの城壁が背後に迫っていた。

その後の6カ月間に起こった出来事は、サウジアラビア物語の中で最も暗い、だが間違いなく感銘深い英雄譚の章に当たっている。

アル・トライフは現在ユネスコによって「顕著な普遍的価値」があると認められているが、とりわけサウジ国民にとって貴重なものだ。なぜなら、サウジアラビア王国誕生の地であり、しかも一見勝ち目のない状況でのサウード家の台頭と究極的な勝利の象徴でもあるためだ。

1818年のディルイーヤでは、防衛軍は数の上で6対1の劣勢だった。パシャは速やかな降伏を予想していたかもしれないが、けっして事態はそのように動かなかった。英雄的な最後の抵抗によって、イマーム・アブドゥラーとその臣下は6カ月持ちこたえた。

何百人もの兵士が、敵に大きな打撃を与えてから亡くなった。いくつかの推定では、戦死した防衛軍の兵士1200人の1人1人につき、パシャの兵士10人がディルイーヤの城壁脇で亡くなっている。

包囲戦が最終的に終わりを告げた時、オスマン軍はナジュドから撤兵したが、帰還前にディルイーヤを破壊し尽した。建物も要塞も破壊した。また、すべてのナツメヤシを切り倒して、長年にわたって忍耐強く栽培してきた人々の努力を無に帰し、広大な地域の住人を餓死に追いやった。

いくつかの激闘の舞台となり激しい破壊を経験したアル・トライフ地区は、二度と完全な形で人が居住することはなかった。敵が引き揚げていってから数カ月も経たないうちに、固く決意したサウジ人生存者の一部がディルイーヤのいくつかの地区の再建を開始した。だが、この地区は1821年に2度目の、そして最後の攻撃を受けた。

いくつかの激闘の舞台となり激しい破壊を経験したアル・トライフ地区は、二度と完全な形で人が居住することはなかった。

これがサウジの首都としてのディルイーヤの最後だった。だが、不屈のサウジ人は再び立ち上がった。今度は、イマーム・トゥルキ・ビン・アブドゥラー・アール・サウードに率いられてのことだった。1824年に、イマーム・トゥルキはオスマン帝国を永久に追い出した。ディルイーヤとアル・トライフが廃墟になったため、イマーム・トゥルキは近くの無傷の要塞の町リヤドを第二次サウード王国の首都に選んだ。

独立国家を目指す戦いの終焉はまだはるか先のことだった。1834年、イマーム・トゥルキが暗殺され、その後に数年間内戦が繰り広げられた。ファイサルは父親の後にイマームになり、サウジアラビア国家を再建する新しい時代を始めた。オスマン帝国は再びリヤドに来て、サウジアラビアが戻ってくるのを防ぐためにイマーム・ファイサルをエジプトに連れて行った。。 1843年、イマーム・ファイサルはエジプトのオスマン帝国の捕虜から戻り、第二次サウード国家の再建を続けた。

だが、ファイサルが1865年に亡くなり、王国は再び内戦で引き裂かれた。内戦は1891年まで続き、ライバルのイブン・ラシードがリヤドを占拠した。第二次サウード王国の滅亡時に、生き残ったアール・サウード家の人たちとその臣下はクウェートへの亡命を求めた。

サウジの運勢は最低地点まで引き下げられたように見えたが、そのような状況にあっても英雄が登場した。クウェートに移った人たちの中に、16歳のアブドルアジーズ・ビン・アブドル・ラフマン・アール・サウードがいた。この亡命中の第2次サウード王国最後のイマームの息子には、より広い世界において、サウジアラビア王国の建国者イブン・サウードとしていっそう知られる運命が待ち構えていた。

リヤドのマスマク城塞の扉。1902年にアブドルアジーズ王とその家臣たちはここを通って城を攻めた。

1902年のリヤド奪還の際に、アブドルアジーズ王の戦士のひとりが投げた槍の先端が、要塞の扉の大きな閂の右隣りにいまなお突き刺さっているのがこの写真でわかる。

1902年にアブドルアジーズ王子が少人数の一隊を率いて、アル・トライフの南東20キロに位置するマスマク城塞を急襲してリヤドを奪還し、サウード家をサウジ王国の支配者という正当な地位に復帰させた物語は、全サウジ国民の心に刻まれている。

ミッションとそれをやってのけた男の名声は、第一次世界大戦中にイラクに駐在した大胆不敵な英国の植民地駐在外交官ガートルード・ベルが1917年にロンドンの外務省に送信した急送公電により、より広い世界に広まった。

ジェッダに移住し、イブン・サウード王の顧問となった英国の探検家ハリー・セント・ジョン・ブリジャー・フィルビー氏が、1917年に撮影したアル・トライフ遺跡の写真。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

ジェッダに移住し、イブン・サウード王の顧問となった英国の探検家ハリー・セント・ジョン・ブリジャー・フィルビー氏が、1917年に撮影したアル・トライフ遺跡の写真。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

流暢なアラビア語を操ったベルは、1916年11月にバスラでアブドルアジーズと面談している。ベルはアブドルアジーズについて、「優に6フィートを超える立派な体格の男性で、命令に慣れているような雰囲気を湛え」、「威厳と魅力」そして「非情なアラビアの地でも稀な肉体的耐久力」を備えていると記している。

さらに、「非正規軍の指導者として豪胆さは証明されている。また、戦士としての資質と政治を掌握する資質を併せもっており、部族民からは後者に関してより大きな賞賛を受けている」とも記している。

これらの資質は、アブドルアジーズに有利に働いた。リヤドの奪還は始まりに過ぎなかったからだ。その後の数年間、アブドルアジーズとその旗下に結集した部族は支配領域での、最初はオスマン軍による、その後にはヒジャーズのハシェミット家による一連の攻撃を撃退した。

アブドルアジーズは徐々にではあったが支配領域を拡大していき、1924年にはアブドルアジーズ軍はメッカを奪い、ハシェミテ・シャリーフ・フセインをその地から追い出した。

1911年3月、英国特使キャプテン・シェイクスピア氏がタージ付近で撮影した進軍中のアブドルアジーズ軍の貴重な写真。(ゲッティイメージズ)

1911年3月、英国特使キャプテン・シェイクスピア氏がタージ付近で撮影した進軍中のアブドルアジーズ軍の貴重な写真。(ゲッティイメージズ)

アブドルアジーズはナジュド王国とヒジャーズ王国を統一して、1932年9月23日に近代サウジアラビア王国の建国を宣言した。

リヤドは新生サウジ王国の首都として繁栄し、1970年代には、その前身に相当するディルイーヤが再び興隆を見るようになった。今度は、急拡大する首都の郊外に位置する新たな街としてだ。

アル・トライフは、第一次サウード王国の滅亡後150年以上を経て、1818年に遺棄された地区の歴史的重要性と、サウジアラビア物語にとってのこの地区の重要性を認識させるべく国民を覚醒する、アブドルアジーズ国王の息子の1人となることが運命づけられた。

アル・トライフで出土した砲弾を持つディルイーヤ・ゲート開発局の考古学者、ナワフ・アルメテリ氏。

アル・トライフで出土した砲弾を持つディルイーヤ・ゲート開発局の考古学者、ナワフ・アルメテリ氏。

リヤドのマスマク城塞の扉。1902年にアブドルアジーズ王とその家臣たちはここを通って城を攻めた。

リヤドのマスマク城塞の扉。1902年にアブドルアジーズ王とその家臣たちはここを通って城を攻めた。

1902年のリヤド奪還の際に、アブドルアジーズ王の戦士のひとりが投げた槍の先端が、要塞の扉の大きな閂の右隣りにいまなお突き刺さっているのがこの写真でわかる。

1902年のリヤド奪還の際に、アブドルアジーズ王の戦士のひとりが投げた槍の先端が、要塞の扉の大きな閂の右隣りにいまなお突き刺さっているのがこの写真でわかる。

現在

愛と名誉の結晶

定義によれば、泥で作られたレンガは、土、水、干し草という最も基本的な材料から作られた質素なものであり、形を整えられた後、アラビアの砂漠の太陽熱で焼かれる。

しかし、ワディ・ハニファを見下ろす石灰岩の台地にあるアル・トライフの、ナジュドの職人たちが建てた泥レンガの建物には、質素さなど微塵も感じられない。2世紀以上の時を経て、これらの建物は、この地で進められているディルイーヤ・ゲート開発の歴史的中心となっている。

荘厳な宮殿都市アル・トライフは、最もシンプルな素材である泥で作られている。

荘厳な宮殿都市アル・トライフは、最もシンプルな素材である泥で作られている。

ナジュドの建築家たちは、第一次サウード王国の支配者にふさわしい堂々とした宮殿を作っただけでなく、200年にもわたり、戦争や天候の変化にも耐えられるようにした。

アル・ホナイヘン氏は「第一次サウード王国の歴史的・文化的首都であるディルイーヤの英雄的な王たちの本拠地」であったこの都市で「アラビア湾岸から紅海まで、レバントやイラクの端からイエメンやオマーンの端まで広がる、アラビア半島の統一性、安全性、治安の良さが生まれた」と述べている。

アル・トライフには数多くの宮殿などの遺構が残っており、その中でも最も古いものは、ワディ・ハニファを見下ろす地区の中央という戦略的な場所に建てられた、サルワ宮殿だ。

「国のアンバサダー」 - ディルイーヤのツアーガイドたちがその仕事に情熱を注ぐ理由を語る。

アル・ホナイヘン氏は「この宮殿に住んでいた英雄には、偉大なサウード国王やアブドゥラー・ビン・サウードに加え、アル・トライフ地区の創設者である2代目イマームのアブドルアジーズ・ビン・ムハンマドなどがいました」と語る。

「言うなれば当地は『王冠の宝石』です。サルワ宮殿の一番高い部分は20メートルを超えます。驚くべきことは、この宮殿は250年前に、そこにあった泥で作られた建築物だということです」

ディルイーヤ・ゲート開発局の遺産・文化担当のウィルキンソン氏は、アル・トライフが形を保ち続けているのは、ある重要な要因によると述べている。それは「オリジナルの建築作業の質です。ここには厚さ3メートルもの泥レンガの壁がありますが、その泥レンガ自体が非常に高品質で、特殊な技術で作られているためとても強く、1818年の包囲戦で発射された多くの大砲の弾にも耐えることができました。アル・トライフが今残っているということは、最初の建築家たちが持っていた技術の証なのです」

幸いなことに、この国の過去からの貴重な贈り物であるナジュド王朝時代の建築物は、これを保存する立場にあった、ある一人の人物の興味を引いた。

リヤド総督を50年近く務めたサルマン・ビン・アブドルアジーズ・アール・サウード王子はその後、サルマン国王として、アル・トライフとワディ・ハニファの修復に尽力した。

リヤド州知事であった頃のサルマン国王がアル・トライフの建物を視察する。

リヤド州知事であった頃のサルマン国王がアル・トライフの建物を視察する。

リヤド市王立委員会、サウジアラビア観光・国家遺産委員会、およびディルイーヤ県の後援のもと、1998年に「ディルイーヤ歴史地区開発プログラム」が開始され、長い間放置されていたアル・トライフ建築物の10年にわたる修復が本格的に開始された。

アル・トライフの多くの宮殿が1818年の包囲戦で大きな損傷を受けた。

アル・トライフの多くの宮殿が1818年の包囲戦で大きな損傷を受けた。

その結果、2010年にアル・トライフは「顕著な普遍的価値」を持つユネスコ世界遺産に認定された。開発は、2017年に新たに設立されたディルイーヤ・ゲート開発局に引き継がれた。

2008年、サウジアラビア北西部にあるナバテア文明の古代岩窟都市へグラの遺跡が登録されたのに続き、アル・トライフは国内で2番目にユネスコに登録された場所となった。以来11年の間に、さらに4つのサウジアラビアの遺跡が登録された。ジェッダ歴史地区、ハイール地方のロック・アート、アル・アハサー・オアシス、そしてヒマ文化圏である。

これら6つの遺跡は1万年の歴史を持つが、現在のサウジアラビア王国誕生の物語における本質を最もよく表しているのは、第一次サウジ王国の発祥の地であるアル・トライフであろう。

その重要性と、修復・保存に取り組んだ人々の苦労の大きさは、サウジアラビアに4年間滞在した英国人作家ロバート・レイシー氏が40年前に執筆した書籍『The Kingdom』の一節からも伝わってくる。

1970年代後半に現地を訪れた彼は、1981年に「サウジの首都だった頃の、粉々になった壁や壊された家々は、1世紀半前に破壊された当時とほぼ同じ状態で今も残っている」と書いている。

「モスク、店、監視塔、家、大都市全体の賑やかな建物が、すべて空に向かって開かれており、砂に埋もれたポンペイのような、不気味な空虚さが漂っている」

1818年の出来事(オスマン・サウジ戦争)の後、サウード家はディルイーヤを再建しようとはせず「可能性の限界を示す永遠の記憶として、古い首都の殻をそのまま残した」とレイシー氏は付け加えた。

もちろんユネスコは、歴史的建造物の感情的な重要性よりも、遺産の具体的な価値を示す要素を重視している。

アル・トライフが世界的に重要な文化遺産として登録されるきっかけとなった推薦書には「石灰岩の土台に泥レンガを敷き詰めた質の高い土の建築物の傑出した例……砂漠環境における伝統的な人間の居住地であり、景観、天然資源、そしてその土地に定住しようとする人間の努力の密接なつながりを反映している」と書かれている。

建材と建築技術の組み合わせは「アル・トライフの名工たちの伝統的なノウハウの独自の発展を反映している」と付け加えられている。

18世紀のサウード家の宮殿は「泥レンガによる石積みの質の高さが特に際立っており、宮殿の遺構はナジュド建築の様式的特徴の完全なカタログとして保存されている」とし「世界の文化的多様性の記録に貢献している」と記載されている。

長年の修復プロジェクトの中で、アル・トライフを作り上げたナジュドの名工たちの技術やノウハウは、新しい世代の職人たちによって研究され、再び習得されてきた。

長年の修復プロジェクトの中で、アル・トライフを作り上げたナジュドの名工たちの技術やノウハウは、新しい世代の職人たちによって研究され、再び習得されてきた。

アル・ホナイヘン氏は「アル・トライフの泥レンガの建物は、250年以上前からそこにあり、浸食やオスマン帝国による残忍な侵略など、さまざまな困難を乗り越えてきました」と語る。

このことは、地元の環境から採取された材料に頼る持続可能性(サステナビリティ)の原則の実例です、と彼は付け加えた。そして「泥レンガを使って仕事をし、持続可能性を重視するために、ワディ(涸れ川)から採取した石や土を使ったり、サルワ宮殿のような高い建物を作るために使われた地元の草木を使ったりすること」を職人たち訓練し、学び直している。

ディルイーヤ・ゲート開発局の建築家であり、シニア・デザイン・マネージャーであるリーム・アルカルディ氏は、アル・トライフ開発を手がけるだけでなく、新しい世代が評価し、理解できるように遺跡を紹介する機会を得たことは、夢のようだと語っている。

「開発局が設立される前、私の修士論文のテーマはアル・トライフと、どうすれば人々がそこに戻り、私たちの歴史をもっと理解できるようになるかということでした」と彼女は言う。2018年、同地が開発局の管理下に置かれた際「一般の人々に紹介できる形にして欲しい、と私達は依頼を受けました」と彼女は付け加えた。

その年の12月には、電動レーシングカーによるフォーミュラE選手権レース「ディルイーヤE-Prix」が開催され、サウジアラビアをはじめとする各国から何千人ものファンが訪れることが予想されていたため、その方法を試す絶好の機会と考えられたのだ。

2018年のフォーミュラE世界選手権の開催中、アル・トライフが来訪者に公開された際には、修復済みの建物のいくつかを俳優たちが活き活きと蘇らせた。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

2018年のフォーミュラE世界選手権の開催中、アル・トライフが来訪者に公開された際には、修復済みの建物のいくつかを俳優たちが活き活きと蘇らせた。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

「大きな挑戦でした」とアルカルディ氏は語る。敷地内にある4つの博物館のために大勢のガイドを養成することに加え「アル・トライフの建物の機能や第一次サウード王国の人々の生活を疑似体験できるようにしようと考えました」

開発局に引き渡された物件の中には、外見は修復されているものの、中身は空っぽの泥の家々が13棟あった。

「そこで私たちは、この界隈を300年前の姿に戻し、生きた体験、つまり生きた博物館を作ってはどうかと考えたのです」とアルカルディ氏は言う。

2018年に、アル・トライフは街全体が博物館となり、来訪者は第一次サウード王国時代のディルイーヤの生活を体験した。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

2018年に、アル・トライフは街全体が博物館となり、来訪者は第一次サウード王国時代のディルイーヤの生活を体験した。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

家屋には当時の服や食べ物、家具が用意され、当時の典型的な住民を演じるために俳優が雇われ、訓練された。それぞれの建物は、この地域の歴史の異なる側面に焦点を当てていた。訪れた人は皆、感動的な体験をした。

リヤドのプリンススルタン大学で建築学の学位を取得し、ロンドン芸術大学で歴史的建造物の保存と変更に関する修士号を取得したアルカルディ氏は「以前は、建築が実際に声を上げることができるとは思っていませんでした」と語る。

「でも、初めてアル・トライフを見学したという人も多く、彼らの目を見れば、自国に対する誇りと理解が明らかで、私たちの歴史が第三次サウード王国だけでなく、何百年も前にさかのぼることを実感しました」と述べている。

また、アル・トライフの宮殿のような堂々とした印象的な建物が、泥で作られていることに驚く人も多かったという。

実際、ディルイーヤ・ゲート開発局の保存建築家であるジョウド・アランバリ氏は次のように述べている。「建築の観点から見ると、泥は最も柔軟で有機的な素材であると言えます。保存の観点からも、石や大理石のような素材は作業が非常にデリケートであるのに対し、泥ははるかに簡単です」

「私は皮膚と同じようなものだと考えています。傷がついても体は自然に回復しますが、修理に関しては泥も同じです」と述べている。

しかし、泥レンガは比較的シンプルで耐久性に優れているが、実際には泥レンガとその背後にある科学は驚くほど高度なものであり、レンガの製造には1カ月以上かかることもあると彼女は付け加えた。

粘土、砂、砂利、干し草、水など、レンガに含まれる材料の配合比率は非常に重要である。これは、昔の建築家が本能的に知っていたことだが、現代の建築家たちは、実験を重ねて技術を完成させ、重さや強さの基準を慎重に守ってレンガを作っている。

泥レンガを作るには、まず粘土を掘り出し、それを砂、藁、水と混ぜるところから始まる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

この混ぜ物を30日以上放置して発酵させた後、漆喰やモルタルとして使ったり、木型に詰めてレンガに成形したりすることができる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

成形したレンガは、型に入れたまま屋外に放置し、3週間ほどかけて太陽の熱で焼く。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

完成した製品。戦争による破壊や何世紀にもわたる放置や浸食にも耐え得る強度をもつ。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

アランバリ氏と彼女の部署は、将来の職人や泥の建築家を育成するための建設基準を作成している。また、王国や他の国で行われる泥のレンガを使ったプロジェクトに助言や指導を行う研究所の計画にもそれを活用している。

しかし、最も緊急かつ重要なプロジェクトは、7平方キロメートルの広さを誇るディルイーヤ・ゲートの開発である。ここでは、王室の勅令により、古代の泥レンガ作りの技術が、壮大なスケールで新たな命を吹き込まれている。

ここでは、王室の勅令により、古代の泥レンガ作りの技術が、壮大なスケールで新たな命を吹き込まれている。

「ムハンマド・ビン・サルマン皇太子殿下が、ディルイーヤで使用する泥レンガはすべて本物の伝統的な古い泥レンガでなければならないとおっしゃったのは、本当に嬉しいことでした」とアランバリ氏は語る。

膨大な量の泥と干し草の混合物を生産するために、本来の手作業による生産工程で使用されていた人間の手や足に代わり、近代的な機械が使用されているが、開発局が訓練した職人たちは、約300年前にアル・トライフの建設に使用されたものと全く同じ種類のレンガを何百万個も作成し、作業しているのである。

その結果、ディルイーヤ・ゲートは、第一次サウジ王国の功績と遺産を称える、生きた素晴らしい建築物となっている。

丈夫で弾力性に富み、持続可能性の定義を体現している質素な泥レンガは、決して時代遅れの技術ではなく、サウジアラビアでこれまでに行われた最も野心的なメガプロジェクトのインスピレーションと原材料の両方の役割を担い、ルネッサンスを享受している。

ディルイーヤは、サウジアラビアの首都リヤドの最も古い地区のひとつ。(シャッターストック)

ディルイーヤは、サウジアラビアの首都リヤドの最も古い地区のひとつ。(シャッターストック)

泥レンガを作るには、まず粘土を掘り出し、それを砂、藁、水と混ぜるところから始まる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

泥レンガを作るには、まず粘土を掘り出し、それを砂、藁、水と混ぜるところから始まる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

この混ぜ物を30日以上放置して発酵させた後、漆喰やモルタルとして使ったり、木型に詰めてレンガに成形したりすることができる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

この混ぜ物を30日以上放置して発酵させた後、漆喰やモルタルとして使ったり、木型に詰めてレンガに成形したりすることができる。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

成形したレンガは、型に入れたまま屋外に放置し、3週間ほどかけて太陽の熱で焼く。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

成形したレンガは、型に入れたまま屋外に放置し、3週間ほどかけて太陽の熱で焼く。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

完成した製品。戦争による破壊や何世紀にもわたる放置や浸食にも耐え得る強度をもつ。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

完成した製品。戦争による破壊や何世紀にもわたる放置や浸食にも耐え得る強度をもつ。(ディルイーヤ・ゲート開発局)

未来

世界クラスの目的地

ジェリー・インゼリーロ、グループ最高経営責任者ディルイーヤ・ゲート開発局:2022年初頭、最初のエリア完成

「ディルイーヤ・ゲートは世界最大の文化的センターの一つになるだろう」と、タラール・ケンサラ氏は語った。

野望ともいえる約束だ。だが、ディルイーヤ・ゲート開発プロジェクトの目標をすべて予定通り達成に導く責任のある戦略管理長という立場であるからこそ、ケンサラ氏の発言には深い重みと自信が感じられた。

ディルイーヤ・ゲートは世界人口の80%が8時間以下のフライトで訪れることができる立地で、完成後は年間に推定2500万人の観光客が見込まれる文化的中心地になると考えられている。

ある意味、ディルイーヤ・ゲートは、サウジアラビアの経済の多様化と成長、そしてより世界に開かれた国をつくることを目指す「ビジョン2030」の主要巨大プロジェクトの1つとして期待されるすべてを兼ね備えたエリアになるだろう。

そう、ディルイーヤ・ゲートには素晴らしいレストランやショップが勢ぞろいし、5つの広場にラグジュアリーホテル、居住用施設、複数のレクリエーションスペース、美術館、ギャラリー、オフィスビルなど、すべてがつくられる。それだけでも、訪れる価値は十分の活気に満ちたコミュニティになるはずだ。

だが、ディルイーヤ・ゲートの最もユニークな点は、サウジアラビアの文化的、社会的遺産に敬意を表し、王国の歴史にスポットライトをあてているところだ。これは、開発地の中心となるアル・トライフが歴史に満ちた宝石のような地であることが大きい。

だが、ディルイーヤ・ゲートの最もユニークな点は、サウジアラビアの文化的、社会的遺産に敬意を表し、王国の歴史にスポットライトをあてているところだ。これは、開発地の中心となるアル・トライフが歴史に満ちた宝石のような地であることが大きい。

「サウジアラビアの伝統や文化、歴史的遺産を世界に披露する良い機会だ」と、ケンサラ氏は話す。

「このエリア基本計画は完全にアル・トライフにインスピレーションを得ている。ディルイーヤ・ゲート全体でナジュド地方独特の伝統的な文化を体験できる。まさに旧市街そのものの街並みと雰囲気を味わえるエリアになるだろう」

ディルイーヤ・ゲート開発エリア全体で歴史的なアル・トライフ地区へのオマージュとして最も明らかなのは、泥レンガなどナジュド地方独特の建築技法を使用している点だろう。

これは決して模倣ではなく、ある時代と場所で生まれ、今では時代を超えた魅力と可能性を持つ建築スタイルを非常に適切な形で蘇らせたものであるとウィルキンソン氏は語る。

ディルイーヤの物語における、アラブ馬の重要性を語るディルイーヤ・ゲート開発局の歴史研究・調査担当副部長バドラン・アル・ホナイヘン博士。

「ナジュドの建築は独特だ」と、ウィルキンソン氏。「そのまったく素晴らしいところは、場所に応じて変化し、環境負荷が少ないところだ――そして今では現代社会にもふさわしい建築となっている。使われている資材がほとんどゼロカーボンだからだ」

このプロジェクトに参加する前、ウィルキンソン氏は12年間、UNESCO世界遺産に指定されたスコットランドの首都である有名なエディンバラの街を守り理解を広めるための団体、エディンバラ・ワールド・ヘリテージのディレクターを務めていた。

外部からの参加者という立場から、ウィルキンソン氏は、ディルイーヤ・ゲートの驚くべき可能性に感銘を受けている。サウジアラビアの人々と彼ら自身が持つ自国の伝統への想い、そして世界各国のサウジアラビアの見方すらも変えるかもしれない。

「私にとってアル・トライフの興味深いところは、サウジアラビア以外の国ではその建立の歴史が知られていないところだ。アラビア半島以外のほとんどの人はサウジアラビアという国がどのようにして生まれたかも知らない。でも、実はサウジアラビアという国に対するイメージが完全に変わってしまうかもしれないくらい素晴らしい物語があるのだ」

「ディルイーヤ・ゲート」は、アル・トライフで見られるものと同じ素材や建築装飾を使って建てられた低層の開発地帯だ。

ワディ(乾季には干上がる川)が街を貫いている。アル・トライフは、防衛上の理由からワディ・ハニファの湾曲部に建設された。

ワディ(乾季には干上がる川)が街を貫いている。アル・トライフは、防衛上の理由からワディ・ハニファの湾曲部に建設された。

ディルイーヤ・ゲートを訪れる人々は様々な体験を通してサウジアラビアの物語を知るとケンサラ氏は話す。「最高のホスピタリティーとホテルでのサービスだけでなく、観光客がサウジアラビアの文化や伝統を楽しめる機会が数多く提供される」

また、アル・トライフでは、自国の歴史や伝統に熱い思いを持つサウジアラビア人の若者が観光客のツアーガイドを務めてもいる。その1人であるマナル・アルカターニ氏は自分の仕事に誇りを感じている。

「自分の国と歴史を代表する仕事です」と、彼女は語る。「ディルイーヤの親善大使になっているんです」

アル・トライフを訪れる来訪者に熱意をもって自国の遺産を伝えるサウジアラビア人ツアーガイドのひとり、マナル・アルカター二氏。

アル・トライフを訪れる来訪者に熱意をもって自国の遺産を伝えるサウジアラビア人ツアーガイドのひとり、マナル・アルカター二氏。

美術館も中心的な役割を担い、サウジ国家の誕生や、馬がアラビア半島の統一に果たした重要な役目についてなど、大きな歴史的、文化的出来事を解説する展示を常設する。サウジアラビアの物語は、1つの施設のみに限定されずに語られる。

アル・トライフの博物館で、3世紀前の第一次サウード王国の生活を体験。

アル・トライフにある軍事博物館は、第一次サウード王国の生活に焦点を当てた施設のひとつ。

アル・トライフにある軍事博物館は、第一次サウード王国の生活に焦点を当てた施設のひとつ。

「100 Stories Museumという美術館がある」と、ケンサラ氏。「ディルイーヤの物語を100集め、それぞれに命を吹き込んだ。そのため、この美術館は一つ屋根の下にはおさまらず、エリア全体で体験するものとなる」

それに加え、「多くの素晴らしい伝統文化体験」が提供されるとケンサラ氏は話す。

たとえば音楽学校ではアラブ音楽にふれる短いクラスを提供し、プラネタリウムではアラブ世界の科学への貢献を考察する。また、アル・トライフを建立した伝統職人のおかげで成り立っているこの地区にふさわしく、ナジュド建築と泥を使った建物づくりの技術に焦点をあてた施設もオープンする。

観光客は他にも書道やナジュド料理、鷹狩など当時の村で行われていた活動を通じて、何世紀も前のディルイーヤでの暮らしを体験できるようになっている。

「ディルイーヤ・ゲート」で来訪者は、カリグラフィーといった昔の技法を学んだり練習したりすることができる。

「ディルイーヤ・ゲート」で来訪者は、カリグラフィーといった昔の技法を学んだり練習したりすることができる。

「ディルイーヤ時代村」では、語り部が伝統的な物語を語り、300年前の生活が再現される。

加えて、ワディ・ハニファには乗馬センターをオープンし、観光客は馬を借りて、古代の川べりに沿って、立ち並ぶヤシの間や大きな公園を抜けて続く曲がりくねった道を散策することができる。

端的に言えば、「ビジョン2030」の重要な構成要素であるこのディルイーヤ・ゲートは、サウジアラビアが何十年も閉ざしてきた扉を世界に向けて開くとともに、国の真実の物語を伝えるという目的に貢献するのだとケンサラ氏は語る。

「大切なのは、訪れる人が本物のサウジ文化や伝統、歴史を体験できること、それによってサウジアラビアに対するイメージが変わることだ」と、ケンサラ氏は言う。「王国発祥の地であるディルイーヤ以上にその体験にふさわしい場所があるだろうか?」

ディルイーヤ・ゲート・プロジェクトを支えるのに必要な巨大なインフラ基盤を建設する作業はすでにかなり進んでいるが、いまだに、いつ開発が完全に終わりエリアがオープンするのか、はっきりとしたプロジェクト完了期日は発表されていない。

「このプロジェクトはテーマパークの建設とは違い、リボンカットをして『完成です』というわけにはいかない」と、ケンサラ氏。「現在進行形のプロジェクトとして、少しずつ様々な文化的資産や体験を提供していく予定だ」

来年前半、ワディ・ハニファの向こうからアル・トライフを臨むダイニングエリア、アル・ブジャイリ広場の再オープンと同時に、これらの体験の提供は開始する。アル・ブジャイリはリヤドの住人達には既によく知られた広場だが、新たに多くの著名なレストランも加わり、再オープン後は国際的な評価も高まると予想されている。

エリア全体にホテルもオープンし、宿泊可能となる予定の他、壮大なキング・サルマン・スクエアは2024年までに完成予定。その他、周囲には、ハウス・オブ・アール・サウード美術館やホテル、アートエリア、様々な文化施設など、多数のアトラクションや施設もオープンする。

サルマン国王のグランドモスクは、「ディルイーヤ・ゲート」でも最も壮観な風景のひとつとなる。

計画的につくられるアートエリアは「素晴らしいプロジェクトになるだろう」と、ケンサラ氏は語る。「様々なサウジアラビア人アーティストにとって最高のプラットフォームとなるだけでなく、観光客にとってはアートや音楽、演劇、ストリートパフォーマンス、料理など、文化的なアクティビティを体験できる機会となる」

「アート地区」の曲がりくねった通りは、創造力あふれるビジネス、アートショー、文化アカデミーなどが建ち並ぶ街となる。

アーティストや起業家のコミュニティーが、「ディルイーヤ・ゲート」の専用地区に生まれる。

アーティストや起業家のコミュニティーが、「ディルイーヤ・ゲート」の専用地区に生まれる。

キング・サルマン・スクエアのオープン後は、ディルイーヤ・スクエアがオープンする。「ライフスタイル・ショッピングを楽しむ」エリアで、レストランやカフェ、訪れた人たちがリラックスして雰囲気をじっくり味わえるオープンスペースなどがある。

「ディルイーヤ広場」地区には、ホテルやオフィスに加え、高級店舗が建ち並ぶ。

その後、南のディルイーヤ・ガーデンが誕生する。ケンサラ氏は、このガーデンはいろいろな意味でプロジェクトの脈打つハートそのものとなるだろうと語る。

「本物の生きた文化の息づいた観光都市を創造するには、実際に人がそこに住んで働いている必要がある。ディルイーヤ・ガーデンはそれを可能にする」

ここにも約10万人の人口が居住可能なアパートや施設が他の地区と同様に伝統的なナジュド建築で建てられるだけでなく―多数の美術館や昔を再現した村、鷹狩の市場などがつくられる。

伝統的様式のマンション、タウンハウス、中庭付きのヴィラなどが、最高のモダン生活の中で提供される。

東部の地区についてはまた別に計画が立てられており、その詳細は明らかにされていない。

従来の計画全体は「何年もかけて実現していくが、2030年までにはエリア全体が完全に活性化している予定だ」と、ケンサラ氏は付け足した。

このプロジェクトは、発足時の皇太子の言葉を借りれば「我々が皆、限りない誇りを感じるべきサウジアラビア王国の偉大な国家としての地位を確固とする」ことを目的とした国家の未来計画、「サウジ・ビジョン2030」と緊密に関連している。ある意味、ふさわしい目標期日の設定といえるだろう。

サルマン国王が2019年に、「ディルイーヤ・ゲート」の礎石を敷いた。その子息であるムハンマド・ビン・サルマン皇太子が、開発を舵取りする役員会の会長を務める。

サルマン国王が2019年に、「ディルイーヤ・ゲート」の礎石を敷いた。その子息であるムハンマド・ビン・サルマン皇太子が、開発を舵取りする役員会の会長を務める。

以前は経済省の共有サービス副審議官を務めていたケンサラ氏は、大きな組織で重要な役割を務めることは初めてではないが、ディルイーヤ・ゲート計画は彼のキャリアにおいて最大のチャレンジだとためらわずに認めた。

「非常に大きなチャレンジだ」と、ケンサラ氏。「でも、非常にワクワクしている。任務自体についてだけでなく、たとえとても小さな形であっても、サウジアラビアの未来を創っていくことに責任を感じられるからだ」

「私たちのチームは素晴らしく、才能にあふれた人ばかりだ。ディルイーヤ・ゲートという夢が現実になるところを見るのが待ちきれない」

王国が生まれた場所、アル・トライフの肥沃な土に深く根付いたこの夢は確実に生き生きと栄え、花開いていくように見える。それはサウジアラビアが国の伝統が隠されたかつての秘密の花園の門を世界各国からの観光客に開け放つと同時に植えている多くの種の1つなのだ。

「ディルイーヤ・ゲート」は、アル・トライフで見られるものと同じ素材や建築装飾を使って建てられた低層の開発地帯だ。

「ディルイーヤ・ゲート」は、アル・トライフで見られるものと同じ素材や建築装飾を使って建てられた低層の開発地帯だ。

「ディルイーヤ時代村」では、語り部が伝統的な物語を語り、300年前の生活が再現される。

「ディルイーヤ時代村」では、語り部が伝統的な物語を語り、300年前の生活が再現される。

ダイニングエリアの「ブジャイリ・テラス」は、「ディルイーヤ・ゲート」の中でも最初に一般公開される場所だ。

ダイニングエリアの「ブジャイリ・テラス」は、「ディルイーヤ・ゲート」の中でも最初に一般公開される場所だ。

サルマン国王のグランドモスクは、「ディルイーヤ・ゲート」でも最も壮観な風景のひとつとなる。

サルマン国王のグランドモスクは、「ディルイーヤ・ゲート」でも最も壮観な風景のひとつとなる。

「アート地区」の曲がりくねった通りは、創造力あふれるビジネス、アートショー、文化アカデミーなどが建ち並ぶ街となる。

「アート地区」の曲がりくねった通りは、創造力あふれるビジネス、アートショー、文化アカデミーなどが建ち並ぶ街となる。

「ディルイーヤ広場」地区には、ホテルやオフィスに加え、高級店舗が建ち並ぶ。

「ディルイーヤ広場」地区には、ホテルやオフィスに加え、高級店舗が建ち並ぶ。

伝統的様式のマンション、タウンハウス、中庭付きのヴィラなどが、最高のモダン生活の中で提供される。

伝統的様式のマンション、タウンハウス、中庭付きのヴィラなどが、最高のモダン生活の中で提供される。

サウジアラビアがG20 議長国であった2020年11月、サルマン国王がリヤドでオンライン首脳会議の議長を務めた際に、ユネスコ遺産であるディルイーヤのアル・トライフ史跡の背景にG20 のロゴが投影される。(ゲッティイメージズ)

サウジアラビアがG20 議長国であった2020年11月、サルマン国王がリヤドでオンライン首脳会議の議長を務めた際に、ユネスコ遺産であるディルイーヤのアル・トライフ史跡の背景にG20 のロゴが投影される。(ゲッティイメージズ)

2018年12月、13レースが行われるフォーミュラE世界選手権の2018-2019年シーズン開幕レースとして、第1回「ディルイーヤEプリックス」が開催された。このレースでは、ポルトガル人ドライバーのアントニオ・フェリックス・ダ・コスタ選手が優勝した。(ゲッティイメージズ)

2018年12月、13レースが行われるフォーミュラE世界選手権の2018-2019年シーズン開幕レースとして、第1回「ディルイーヤEプリックス」が開催された。このレースでは、ポルトガル人ドライバーのアントニオ・フェリックス・ダ・コスタ選手が優勝した。(ゲッティイメージズ)

「ディルイーヤ・テニス・カップ」の決勝戦で活躍するロシアのダニール・メドベージェフ選手。2019年12月に開催されたこの大会は、サウジアラビアで開催される初の国際テニス大会となった。(AFP)

「ディルイーヤ・テニス・カップ」の決勝戦で活躍するロシアのダニール・メドベージェフ選手。2019年12月に開催されたこの大会は、サウジアラビアで開催される初の国際テニス大会となった。(AFP)

この地域の豊かな遺産を紹介するイベント「ディルイーヤ・シーズン」第1弾の目玉として、2019年に期間限定で設置された文化・レクリエーションエリア「ディルイーヤ・オアシス」。(ゲッティイメージズ)

この地域の豊かな遺産を紹介するイベント「ディルイーヤ・シーズン」第1弾の目玉として、2019年に期間限定で設置された文化・レクリエーションエリア「ディルイーヤ・オアシス」。(ゲッティイメージズ)

サウジアラビアが電動レーシングカーによるフォーミュラE世界選手権2018-2019年シーズンの第1戦「2018 ディルイーヤEプリックス」の開催地となった際に、サウジアラビアの伝統工芸品が、街全体が博物館となったアル・トライフに展示された。(シャッターストック)

サウジアラビアが電動レーシングカーによるフォーミュラE世界選手権2018-2019年シーズンの第1戦「2018 ディルイーヤEプリックス」の開催地となった際に、サウジアラビアの伝統工芸品が、街全体が博物館となったアル・トライフに展示された。(シャッターストック)

アル・トライフやディルイーヤの古い地区は、「アルブジャイリ広場」の伝統的な装飾が施されたこれらのドアのように、18世紀の第一次サウード王国時代の建築装飾の宝庫だ。(シャッターストック)

アル・トライフやディルイーヤの古い地区は、「アルブジャイリ広場」の伝統的な装飾が施されたこれらのドアのように、18世紀の第一次サウード王国時代の建築装飾の宝庫だ。(シャッターストック)

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サウジアラビアがG20 議長国であった2020年11月、サルマン国王がリヤドでオンライン首脳会議の議長を務めた際に、ユネスコ遺産であるディルイーヤのアル・トライフ史跡の背景にG20 のロゴが投影される。(ゲッティイメージズ)

サウジアラビアがG20 議長国であった2020年11月、サルマン国王がリヤドでオンライン首脳会議の議長を務めた際に、ユネスコ遺産であるディルイーヤのアル・トライフ史跡の背景にG20 のロゴが投影される。(ゲッティイメージズ)

2018年12月、13レースが行われるフォーミュラE世界選手権の2018-2019年シーズン開幕レースとして、第1回「ディルイーヤEプリックス」が開催された。このレースでは、ポルトガル人ドライバーのアントニオ・フェリックス・ダ・コスタ選手が優勝した。(ゲッティイメージズ)

2018年12月、13レースが行われるフォーミュラE世界選手権の2018-2019年シーズン開幕レースとして、第1回「ディルイーヤEプリックス」が開催された。このレースでは、ポルトガル人ドライバーのアントニオ・フェリックス・ダ・コスタ選手が優勝した。(ゲッティイメージズ)

「ディルイーヤ・テニス・カップ」の決勝戦で活躍するロシアのダニール・メドベージェフ選手。2019年12月に開催されたこの大会は、サウジアラビアで開催される初の国際テニス大会となった。(AFP)

「ディルイーヤ・テニス・カップ」の決勝戦で活躍するロシアのダニール・メドベージェフ選手。2019年12月に開催されたこの大会は、サウジアラビアで開催される初の国際テニス大会となった。(AFP)

この地域の豊かな遺産を紹介するイベント「ディルイーヤ・シーズン」第1弾の目玉として、2019年に期間限定で設置された文化・レクリエーションエリア「ディルイーヤ・オアシス」。(ゲッティイメージズ)

この地域の豊かな遺産を紹介するイベント「ディルイーヤ・シーズン」第1弾の目玉として、2019年に期間限定で設置された文化・レクリエーションエリア「ディルイーヤ・オアシス」。(ゲッティイメージズ)

サウジアラビアが電動レーシングカーによるフォーミュラE世界選手権2018-2019年シーズンの第1戦「2018 ディルイーヤEプリックス」の開催地となった際に、サウジアラビアの伝統工芸品が、街全体が博物館となったアル・トライフに展示された。(シャッターストック)

サウジアラビアが電動レーシングカーによるフォーミュラE世界選手権2018-2019年シーズンの第1戦「2018 ディルイーヤEプリックス」の開催地となった際に、サウジアラビアの伝統工芸品が、街全体が博物館となったアル・トライフに展示された。(シャッターストック)

アル・トライフやディルイーヤの古い地区は、「アルブジャイリ広場」の伝統的な装飾が施されたこれらのドアのように、18世紀の第一次サウード王国時代の建築装飾の宝庫だ。(シャッターストック)

アル・トライフやディルイーヤの古い地区は、「アルブジャイリ広場」の伝統的な装飾が施されたこれらのドアのように、18世紀の第一次サウード王国時代の建築装飾の宝庫だ。(シャッターストック)

クレジット

ライター:Jonathan Gornall, Lama Alhamawi
リサーチャー: Jonathan Gornall, Hanouf Albalawi, Diriyah Gate Development Authority
プロジェクトリーダー: Noor Nugali
日本語版エディター: Diana Farah
英語版エディター: Tarek Ali Ahmed
フランス語版エディター: Zeina Zbibo
クリエイティブディレクター: Simon Khalil
デザイナー: Omar Nashashibi
グラフィック: Douglas Okasaki
ビデオプロデューサー: Mohammed Qenan
ビデオエディター: Abdulrahman Fahad Bin Shulhub, Nisar Illikkottil
ビデオグラファー: Faisal Aldakheel, Abdullah AlJabr
ピクチャーリサーチャー: Sheila Mayo
コピーエディター: Akiko Iwata
ソーシャルメディアJad Bitar
プロデューサー: Arkan Aladnani
チーフエディターFaisal J. Abbas