一杯のカフワ

サウジコーヒーの味と伝統

サウジアラビアの南西部、緑豊かなサラワト山脈の高地で、素足で座りスキレットで直火にかけ、一握りのコーヒー豆を焙煎している男がいる。

先代が代々行ってきたように、ジャバル・バニ・マリクの段々畑でコーヒー豆を焙煎するジブランおじさん。

ウィズラという山岳民族が好む伝統的な巻きスカートで、頭には赤と白のゴトラを巻いて夏の猛烈な日差しを遮っている。

サラワット山脈の山腹を切り開いて作った段々畑で栽培されているコーヒーの木。

サラワット山脈の山腹を切り開いて作った段々畑で栽培されているコーヒーの木。

標高2,000メートルを超えるジャバル・バニ・マリクを背景に、息を呑むような風景と完全に一体となり、彼は慣れた手つきで豆を回転させていく。

それはこの不思議な場所で、過去数世紀のどの時にも、目撃されていたであろう光景である。

アブ・モハメド氏、この界隈での通称ジブラン小父さんは、コーヒー農家である。彼は、サウジアラビアの山岳地帯にあるジーザーン州で、何世代も前に先祖が築いた伝統を守り続けている数百人のうちの1人である。

サウジアラビアといえば砂漠が有名だが、同地域では緑が主流で、インスタグラムのフィルターで加工したかのような鮮やかな色彩が広がっている。

青々とした刺激的な山の香りと薪の煙が混ざり合い、独特の香りが漂う。もし瓶詰めされるなら、「ジーザーン」とだけ書かれるだろう。

そして、この香りのトップノートは間違いない。何百年も受け継がれてきたスタイルで、植え、育て、収穫し、焙煎し、挽き、抽出したサウジアラビアのコーヒーの香りである。

山で栽培されているのはコーヒーだけではない。これらは、ほぼ自立した地域社会である。自分たちで育てられないものは、下界の商店で購入する。しかし、各家庭は、自分たちの土地の生産品で食卓を満たしている。

ジブラン小父さんの作物には、トウモロコシ、バナナ、パパイヤ、チリペッパー、そしてカカオまである。彼の家庭は伝統的な食事で、主食は米に農場で育てたヤギの肉、自家製のパン、サラダなどである。

ハウラニ種のコーヒー豆:ジーザーンのグリーン・ゴールド。

しかし、この地の段々畑の作物の王者は、昔からそうであったように、ジーザーンの「緑色の黄金」であるハウラニコーヒー豆である。

コーヒーが初めて栽培されたアラビカ種の亜種であるハウラニは、数百年前にこの地で農業を営んでいた山岳民族の共通の祖先であるハウラン・ビン・アミールにちなんで名づけられたものである。

現在、サウジアラビア南西部の近隣3州で、2,500箇所以上の農園でコーヒーが栽培されている。バーハ州とアシール州を合わせると58,000本のコーヒーの木から、年間約58トンのコーヒーが生産されている。

しかし、34万本のコーヒーの木があり、年間340トンの生産量を誇るジーザーン州こそ、この業界の有力な地域である。

ジーザーンは、リヤドとは、ペースも物の見方も、そして距離も離れている。サウジアラビアの他の地域からでさえ、訪問者はわずかである。

11,671平方キロメートルとサウジアラビア13州の中で2番目に小さく、北にあるバーハ州のみが、より小さく1万平方キロメートル以下となる。

ジーザーン州の南端に、サウジアラビアの最南端がある。ここは、サラワト山脈の西側、紅海の海岸平野に位置し、南はイエメンとの国境に接しているムワッサムという村がある。

ムワッサムの北60km、海岸沿いにある州都ジーザーンは、リヤドから1,000キロも離れている。遠くアラビア海に浮かぶオマーンの都市サラーラと同緯度に当たるほど南に位置している。

先代が代々行ってきたように、ジャバル・バニ・マリクの段々畑でコーヒー豆を焙煎するジブランおじさん。

先代が代々行ってきたように、ジャバル・バニ・マリクの段々畑でコーヒー豆を焙煎するジブランおじさん。

ハウラニ種のコーヒー豆:ジーザーンのグリーン・ゴールド。

ハウラニ種のコーヒー豆:ジーザーンのグリーン・ゴールド。

ジーザーンは、美しいだけでなく、辺境の地でもある。西は紅海、東と南はイエメンとの国境に囲まれたこの州は、自然保護区である沖合のサンゴ礁のファラサン諸島(100島以上)、東のサラワト山地など、極めて美しい自然が残っている。

ジーザーン州は、内陸の山々から、ファランサン諸島の楽園にまで広がっている。

…海洋保護区に指定され、数十種の保護種が生息する、一群のサンゴ礁島。(Getty Images)

コーヒー栽培に理想的な気候に恵まれた、サラワット山脈の斜面に張り付くように作られた農園。(Getty Images)

澄んだ空気、肥沃な土壌、緑豊かな微気候が揃った標高1,800メートル以上の場所でしか、貴重なハウラニ豆の栽培に必要なすべての要素が揃わないのである。

ジブラン小父さんのレイド・マリヤム農場は、Aal Qotail村の近く、ジーザーン州アド・デイヤー行政区域のジャバル・アル・マリクの側面に張り付いたサラワト山脈の高地に位置する。

東側はイエメンとの国境が7キロほど離れており、ジブラン小父さんがひっそりと豆を焙煎しているので、この地域に軍の検問所が多数あることが理解できるだろう。

農場に行くには、頑丈な四輪駆動車とそれに匹敵する神経が求められる。海岸平野にあるジーザーン地方空港から農場までは、わずか100キロほどである。

最初は平坦な4車線の幹線道路を走ったのち、数時間後、曲がりくねった道が狭くなり、ヘアピンカーブが一つずつ山の中に切り込んでいくので、次第に身の毛がよだつようになるのである。

山での生活は過酷なものもあるが、美しいところもある。空から見ると、コーヒー農園は山の輪郭に沿って曲がりくねった緑のリボンを描いており、まるで風景に注ぎ込まれたようだ。

サウジアラビアのコーヒーは、世界的にはあまり知られていない。これまでサウジアラビアで栽培されるコーヒーは、需要の多い同国内での消費に限定されていた。しかし、ブラジルやコロンビアなどといった国が世界的なコーヒーの名産地として知られているにもかかわらず、ここサラワト山脈がその発祥の地であることは、あまり知られていない。

今日コーヒーは世界で最も人気ある飲み物の一つだが、その正確な起源は不明だ。

グアテマラ、コロンビア、エチオピアなどの生産者や輸出業者と仕事をしてきた米国のコーヒー産業コンサルタント、クリストファー・フェラン氏は「コーヒーの発見には言い伝えがある」と言う。

「史実としてはコーヒーはエチオピアで発見されたはずです。しかし伝承によるとカルディという名のヤギ飼いがいて、山のどこかで行方不明になった自分のヤギを探していると、やがてカルディはヤギが木の実を食べてそこら中で飛び跳ねているのを目にします。カルディ自身もその実をいくつか食べ、すると力がみなぎり、村に走り帰ってそれをみんなに教えたのです。」

そう、チェリーとも呼ばれるベリー類。厳密に言うとコーヒーは豆から作られるのではない。コーヒーの木は果樹であり、その枝に実った果実の種が「豆」なのだ。

コーヒーの木が自生するのはエチオピアだけだ。コーヒーの木は何世紀も前にエチオピアで発見されたが、アラビアで初めて栽培された。(Getty Images)

コーヒーの木が自生するのはエチオピアだけだ。コーヒーの木は何世紀も前にエチオピアで発見されたが、アラビアで初めて栽培された。(Getty Images)

伝承はさておき、世界最高級のコーヒーの原料であるアラビカ種がエチオピアのカファ地方の森にしか自生していないことは確かである。

また、飲み物としてのコーヒーの可能性を見出したのはアラブ人で、14世紀から15世紀のどこかのタイミングで紅海を超えてサラワト山脈のあたりに種や苗木を持ち込み、栽培を始めたというのも事実だ。サラワト山脈はコーヒー栽培には完璧な環境だ。

コーヒーの特性や用途に関する最古の文献は10世紀のペルシャの医師アブ・バクル・アル・ラズィーによって書かれたものが知られている。しかし、ニューヨークの「ティー&コーヒー・トレード・ジャーナル」のウィリアム・ユーカース編集員は1922年に出版したコーヒーの歴史全集「オール・アバウト・コーヒー」の中で次のように書いている。「アラビア人はアビシニア(エチオピア)で発見したコーヒーをイエメンに持ち込んだのだとはいえ、飲み物としてのコーヒーを発見して広めたこと、コーヒーの木の伝播を促進した彼らの功績は認められなければなりません。」

様々な史書やサウジコーヒーのユネスコ無形文化遺産登録を提案する文書では、エチオピアからアラビアにコーヒーを紹介したのは15世紀のアデンの首長ジャマール・アル・ディン・アル・ダブハニの功績とされている。

コーヒーの生育に十分な水があるサラワト山脈の斜面でよく育つことがわかり、15世紀後半にはこの地域だけでなく各地でもコーヒーが一般的な作物となり、よく飲まれるようになり、アラブの文化的伝統の中心とまで言われるようになった。

イエメンのモカ港は何百年も前から世界の主要なコーヒー出荷港だった。(Getty Images)

イエメンのモカ港は何百年も前から世界の主要なコーヒー出荷港だった。(Getty Images)

後にコーヒーの代名詞となる紅海に面した「モカ」港は、しばらくの間、世界唯一のコーヒー産地だった。輸出は厳重に管理され、貴重な種子を含むコーヒーの実はまず煮て発芽できなくしないとアラビアから持ち出すことは許されなかった。しかし「毎年何千人もの巡礼者がメッカに出入りしており、すべての交通手段を監視することは不可能だった。」

アラビア半島外で最初にコーヒー栽培が伝わったのはインドだという伝承がある。1600年頃にメッカから帰ってきたイスラム教徒の巡礼者が種を数粒持ち帰ったとされている。

アラビアのコーヒー独占を17世紀に終わらせたオランダ東インド会社の船。(Alamy)

アラビアのコーヒー独占を17世紀に終わらせたオランダ東インド会社の船。(Alamy)

確かなこととしてわかっているのは、コーヒーがヨーロッパで人気になり儲かる商品になると1616年にオランダ東インド会社がモカからコーヒーを密かに持ち出すことに成功したことだ。

これがアラブによるコーヒー市場の支配が比較的短期間で終わるきっかけとなった。アラビカ種のプランテーションが世界中に広がるにつれてモカの重要性が低下した。最初のプランテーションはオランダ植民地のセイロン島やジャワとスマトラ島で、後にカリブ海やラテンアメリカに広がった。

サウジコーヒーの伝統はサウジアラビアの歴史とは切っても切れない関係にある。ジーザーン州とアシール州、そしてその近くにあるナジュラーン州は1932年のサウジアラビア建国以来の正式な領土だ。

歴史的にサウジアラビアで生産されるコーヒーのほとんどは国内で消費されており、サウジアラビア人は一人当たりのコーヒー消費量が世界で最も多い。

しかしサウジアラビア政府は「サウジコーヒーの年」と題して、これまで家内工業的に行われてきたコーヒーの生産を拡大するようコーヒー農家に積極的に働きかけている。また、サウジアラビア産のコーヒーを国の象徴的な伝統製品として、また価値ある輸出品として推進し、農家の生活水準を向上させ、若者が先達のあとを継ぐことを奨励することも狙っている。

自分たちの農園でハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、アフマド・アル・マルキさんと息子のマンスール君(11)。サウジアラビア、ジーザーン州の山岳地帯。(AFP)

サウジアラビアのコーヒー栽培は何百年もの間ほとんど変わっていない。必然的に、世界最高級のコーヒーの生産は山にある段々畑を耕す各家庭の男性・女性・子供たちが長時間働く、労働集約的なビジネスのままだ。

家系で代々行ってきたようにハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、ファラー・アル・マルキさん(90)と孫のマンスール君。(AFP)

サウジアラビアのユネスコへの提出資料には次のように書かれている。「コーヒーの木の栽培やコーヒー豆の加工に必要な技術やノウハウを身につけるまで、家族は若者たちに地元で働くよう勧めます。男子は父親に付き従って植え付け、収穫、脱水、剪定、段々畑の修繕を行い、女子は母親を手伝って摘み取り、皮むき、粉砕の工程を行います。」

熟したコーヒー豆は収穫されると、太陽の熱で乾燥させるために広げられる。(AFP)

こうした全てによって「ノウハウが代々受け継がれていき、若者たちは将来、自分の農場を運営するのに十分な知識と技術を身につけることができるのです。」

コーヒー農家に求められるスキルの中で最も大事なのは恐らく「忍耐力」だ。コーヒーは急いで栽培できるようなものではない。

ジーザーン州は、内陸の山々から、ファランサン諸島の楽園にまで広がっている。

ジーザーン州は、内陸の山々から、ファランサン諸島の楽園にまで広がっている。

…海洋保護区に指定され、数十種の保護種が生息する、一群のサンゴ礁島。(Getty Images)

…海洋保護区に指定され、数十種の保護種が生息する、一群のサンゴ礁島。(Getty Images)

コーヒー栽培に理想的な気候に恵まれた、サラワット山脈の斜面に張り付くように作られた農園。(Getty Images)

コーヒー栽培に理想的な気候に恵まれた、サラワット山脈の斜面に張り付くように作られた農園。(Getty Images)

自分たちの農園でハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、アフマド・アル・マルキさんと息子のマンスール君(11)。サウジアラビア、ジーザーン州の山岳地帯。(AFP)

自分たちの農園でハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、アフマド・アル・マルキさんと息子のマンスール君(11)。サウジアラビア、ジーザーン州の山岳地帯。(AFP)

家系で代々行ってきたようにハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、ファラー・アル・マルキさん(90)と孫のマンスール君。(AFP)

家系で代々行ってきたようにハウラニ種のコーヒー豆を収穫する、ファラー・アル・マルキさん(90)と孫のマンスール君。(AFP)

熟したコーヒー豆は収穫されると、太陽の熱で乾燥させるために広げられる。(AFP)

熟したコーヒー豆は収穫されると、太陽の熱で乾燥させるために広げられる。(AFP)

今まではコーヒー栽培とは何百年も前にそのルーツを辿ることができる伝統的なプロセスだった。しかし今、サラワト山脈のコーヒー栽培は投資と近代的なマーケティング手法により21世紀のやり方へと進化を遂げている最中で、ハウラニコーヒー豆は世界最高級のスペシャルティコーヒーに相応しい世界的な認知の獲得を目指している。

スペシャルティコーヒー協会の基準で100点満点中80点以上に審査されたコーヒーはスペシャルティコーヒーとして販売することができる。

「この地域で84点、85点、86点を獲得したスペシャルティコーヒーの生産に成功したことを誇りに思います」とジーザーン州の農家と協力しているジャバリアコーヒー社のCEO兼共同設立者のアリ・シェネマー氏は話す。

自社について語る、コーヒー会社「ジャバリヤ」のCEOで共同創業者のアリ・シェネマー氏。

2022年5月、王国の公的投資基金はサウジコーヒーカンパニーを立ち上げ、10年間にわたって12億リヤル(3 億 1,900 万ドル)の投資を行い国家産業を発展させ、年間 400トン未満の生産量を2,500トンに引き上げる計画を明らかにした。

業界全体で専門知識を習得し、より多くの若者に対しコーヒー栽培を奨励するため、同社は「サウジアラビアの専門家や、起業家、コーヒー農園オーナー、農家たちが自らのビジネスを始めるのに必要な訓練と知識が得られるように」アカデミーの創設を計画している。

国内のコーヒー市場はそれだけでも巨大なものであり、また急速に成長している。グローバルビジネスを分析する ユーロモニター・インターナショナルによる2022年1月のレポートによれば、サウジアラビア国内のコーヒー消費量は 、2016 年から 2021 年の間に年4%のペースで増加した。2026 年まで更に年5%増加し、年間消費量は28,700トンに達すると予測されている。

しかし、サウジコーヒーカンパニーは、サウジアラビアのコーヒーが国内市場でより大きなシェアを獲得できるようにすることだけでなく、「サウジアラビア王国がコーヒー生産業界における世界的リーダーの地位を獲得する」ことも目指している。

ジェッダを本拠地とする企業ジャバリヤは、こ​​のミッションにおける同社の民間部門パートナーの1社であり、ジブランさんや、ジーザーン州のその他農家と協力している。ジャバリヤ社のCEO である アリ・シェネマー氏は家族とともにジェッダに住んでいるが、出身はジーザーンであり、可能な限り頻繁に農場を訪れている。

彼は、コーヒービジネスは家族がすべてだと考えている。

「サウジアラビアのコーヒーは遺産であり文化です。そしてそれは私たちの一部です。コーヒーは私たちが家族としてその周りに集まるものであり、農家にとっては家族の一員です。コーヒーは彼らのルーツの一部です。これは何百年もの間ここにあり続けたものであり、父、祖父、曾祖父といった世代の一部なのです」。彼はこう述べた。

「そして、それはサウジのイメージ、サウジのブランドの一部です。それは寛大さを示すものであり、サウジアラビアの私たちそのものです」

ジャバル・アル・マリクの山陰にある高台で、ジブラン小父さんはシェネマー氏に座ろうと声を掛けた。ジャバリア社長であるこの人物は、この地域の男性だけが身につける、地元の花を使って少年らが作った伝統的な頭飾りをつけている。花には薬効があり、頭痛を防ぐと言われているが、持ち運べて芳香を放つ光輪といった役割も果たしている。

年下の者が年長者にコーヒーを勧めるのが伝統だが、二人のどちらが年上か定かではなかったため、シェネマー氏はジブラン小父さんのため快くカップにコーヒーを注いだ。

コーヒーはサウジアラビアの文化にしっかりと根ざした伝統であり、もてなしの儀礼と不可分に結びついている。

ジブラン小父さんが静かに座って豆を混ぜ、上方からは飛び回る鳥の囀りが、下の段丘からは山羊の鳴き声が聞こえる中、二人は人生について考えている。

農夫は、暗くなっていく雲が山の上に立ちこめる空模様から目を離さない。突然鳥たちが飛び去ると彼は首を傾げ、屋内に入るよう言った。そろそろ雨が降りそうだ。

コーヒー栽培の過程について語る、農家のジブランさん。

コーヒーの葉にポタポタと降り注ぐ大粒の雨は、山間の農家たちの耳に心地よく響く。ジーザーンはめまぐるしい現代社会から遠く離れているかもしれないが、地球上の他の土地と同様、農地にも気候変動の影響が及び始めており、この地域では季節外れの干ばつに悩まされていた。

何世紀にもわたって安定していた季節の雨が降らないため、コーヒー農家は水の輸送に頼らざるを得なくなった。道路が危険であるため、たくさんの蜘蛛の足のように張り巡らされた黒いパイプとタンクを上まで持って来るのは、困難で危険な作業である。

その上、費用も高く、政府からの補助金では一部しか賄えない。

この地域の農家は互いに知り合いであるが、独立して経営している。多くの者は、祖父母、両親、子どもが一つ屋根の下に住む多世代家族で暮らす。地域のイマーム(指導者)でもあるジブラン小父さんは、1日5回の礼拝を取り仕切っている。彼は、宗教的な務めを行わせるために町の男性陣を集め、彼らはその集まりを利用して互いの様子を確認し合っている。

人里離れたこの集落では、自分たちのことは自分たちでやる。しかし自分達の支配を超えた力に対してはどうしようもない。サウジコーヒー社からの更なる支援は大歓迎であり、伝統にとっての生命線といえる。

農業は、ジブラン小父さんの家系で「遡りすぎて分からないほど」何世代にもわたって受け継がれてきた。幼い頃、父や祖父と一緒に農場に行った良い思い出があるという。だが、若い頃に彼は仕事の安定と収入の向上を求めて別の職業に就くことを決意し、教師になった。

彼は、20年以上にわたり地元の男子校でアラビア語を教えた。しかし農家の生活のリズムが恋しくなり、チャンスを掴んで早期退職し、黒板と引き換えに山の豊かな土壌での生活を手に入れたのだった。

収入は減ったが、好きな物事を身近に置いておくことは何物にも代えがたいという。しかも、教えることを完全に辞めてしまったわけではない。学校に通う子どもたちが遠足で彼の農場を頻繁に訪ねてくる。

サウジコーヒー社が「世界で有数の人気があるコーヒー豆の産地」として、ジーザーンでの農業の振興と発展に力を注いでいることに触発されて、ジブラン小父さんの足跡に続く人もいるにちがいない。

シェネマー氏は、確かにこの企業が、公共投資基金のマーケティングと財務のノウハウに支えられて「大きな変化をもたらす」と信じている。そしてコーヒーを原産地に回帰させるとともに、サウジアラビアのコーヒーを、この国の製品の質、遺産、文化について前向きな世界的イメージを与えるソフトパワーのひとつに変えてくれるとも。

「今日、コーヒーについて人々が語るとき、話に登るのはブラジルやコロンビアなどです。」と彼は言う。「我々の志は、いつの日か、コーヒーについて人々が語るとき、原点に立ち帰って、まずサウジアラビアを思い浮かべるようになることです」

「なぜなら、ここがアラビカ種の原産地なのですから」

クレジット

執筆と調査:ジョナサン・ゴーナル, ジャスミン・バガ―

エディター:ダイアナ・ファラー
英語エディター・タレク・アリ・アフマド, ヌール・ヌガリ
クリエイティブディレクター:オマール・ナシャヒビ、サイモン・カーリル
デザイナー:オマール・ナシャヒビ、ダグラス・オカサキ

リサーチ: リーン・フアド
グラフィック: ダグラス・オカサキ, ファウザ・リズワン

ビデオプロデューサー: フセニン・ファデル
ビデオエディター: アブドルラハム・ シャルーブ
ビデオグラファー:ムハンマド・アルビジャン , アブドゥラー・アルジャベル 
ピクチャーリサーチャー:シーラ・マイヨ 

協力: ジャバリヤ, サウジアラビア文化省
コピーエディター: 岩田明子
プロデューサー:アルカン・アラドナニ
編集長:ファイサル・J・アッバース