サウジアラビアの歴史遺産

王国への訪問者が訪れる多くの観光スポットの中には、ユネスコ世界遺産のリストに記載されている5つの史跡がある。それらすべてが一緒になって、先史時代にまでさかのぼる普遍的な重要な物語を語るのである。

ますます国外に視線を向けたサウジアラビアの国の目標の一つは、野心的なヴィジョン2030文書にあり、より多様でサステイナブルな経済を創造するというその計画とは、歴史遺産観光の目的地として王国を旅行者に開くことである。

世界のほとんどの国から長く閉ざされている観光地の中には、数百もの史跡が含まれる。

そのいくつかは先史時代にさかのぼるもので、人類の進化とアフリカ大陸からの移動の物語において鍵となる章を構成している。ハーイル地方の岩絵は一部が1万年前のもので、「世界でも最も興味深く大きな岩絵」とされている。

また、豊かな緑や湖、川からほとんど乾燥した土地となった、千年間のアラビア半島の変化を示す静かな証拠をもたらしてくれる遺産もある。

世界が未だかつてないスケールで加速する気候変動に直面しているこの時にも、これらの史跡は人類がどのように変化する環境に決意と智慧をもって適応してきたか、非常にタイムリーな話を語ってくれる。

これらの中には、古代ギリシャやローマの歴史家、あるいは18~19世紀の旅行者たちに知られていた史跡があり、その他もサウジアラビアや世界中の現代の学者、考古学者によってつぶさに研究されてきた。

しかしながら、観光客はほとんど訪れず、サウジ市民にすら知られていない史跡もある。

今、サウジアラビアは世界から旅のメジャーな目的地となり、2030年までに国内・国外の旅行者を1億人迎えるという計画をもって、 すべてを変えようとしている。

この計画の一部は、国内で訪れることのできる史跡を241から447に増やすことである。このうち5か所はユネスコによって「突出した普遍的価値がある」と認められたもので、サウジアラビアの歴史において非常に価値の高いものだ。

エジプトのアスワンハイ・ダム建設計画で脅かされたナイル渓谷の数多くの史跡を守る国際的努力が成功したことに後押しされ、ユネスコは1972年、パリで開かれた第17会期総会において世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約を採択した。

サウジアラビアはこの条約を採用した最初の国の一つで、1978年8月のことであった。その後10年に渡り、王国の多くの史跡が認識・保護され、2007年1月、サウジアラビアは世界遺産リストに最初の史跡、アル=ヒジュルの考古遺跡(マダイン・サーレハ)をノミネートさせた。

サウジアラビアはこの条約を採用した最初の国の一つで、1978年8月のことであった。その後10年に渡り、王国の多くの史跡が認識・保護され、2007年1月、サウジアラビアは世界遺産リストに最初の史跡、アル=ヒジュルの考古遺跡(マダイン・サーレハ)をノミネートさせた。

その後4つの史跡がユネスコによって認定され、最も最近のものは世界最古で最大のオアシスであるアハサー・オアシスで、2018年にリスト入りした。さらに多くの史跡をノミネートする作業が今も進行中だ。

預言者ムハンマドが7世紀に神の言葉を受け広めた話、イブン・サウードとして知られるアブドゥルアズィーズ・アール・サウード王が20世紀に対立する種族をまとめて建国した話などは良く知られている叙事詩である。

しかし、それらほど知られていないのは、この国のもっと奥深い土台となっている物語で、今日のサウジアラビアの国はそれに基づいて建てられており、その源は1万年あるいはもっと昔にまでさかのぼるのである。

世界最大のペトログリフコレクション、ミステリアスな岩を掘ってつくられた古代ナバテア人の都市ヘグラ(アル=ヒジュルの考古遺跡)、世界最古にして最大のオアシスであるアハサー・オアシス、今日のサウジの誕生の地である泥レンガの定住地、何世紀もの間聖地メッカへの玄関口だった歴史都市ジッダのユニークな家々――これらサウジアラビアの5つのユネスコ世界遺産がその物語を語るのである。

ハーイル : 岩絵

古代からの伝言

1972 年 3 月 2 日、NASA のパイオニア 10 号宇宙探査機は、ケープカナベラルを飛び立った。木星への束の間の接近を果たし、太陽系の境界、それを超えて無限の彼方への戻ることのない旅路である。

探査機には、わずか 22 × 15 センチメートルの、簡素なアルミニウム板が取り付けられた。宇宙学者カール・セーガンの発案により、そこには簡単な絵によるひと続きの伝言が描かれた。これは、探査機がいつの日か出会うことになるやもしれない知的地球外生命に向けて、人類の宇宙における特徴と位置に関する基本的な詳細について伝えることを意図したものであった。

両者のデザインと意図、金属板と、古代人がサウジアラビアのハーイル地方の岩に刻んだデザインには、驚くような共通点がある。岩絵は、およそ 10,000 年におよぶ人類の歴史を物語る、素晴らしい数千の岩面彫刻群である。

2015 年、「顕著な普遍的価値」を持つ世界遺産として採択された、世界最大で最も印象的な新石器時代のペトログリフ、岩面彫刻群は、サウジアラビアのハーイル州の、300 キロメートルほど離れた 2 ヵ所の遺跡で見ることができる。

一つはジャバル・ウンム・シンマン (Jabal Umm Sinman) にあり、大規模な農業近代都市、ジュッバの西に位置する岩石露頭である。ジュッバは、ハーイル市の北東 90 キロメートルほど、首都リヤドからは 680 キロメートルに位置している。オアシスとしての街の起源は、アラブ文明の黎明期にまで遡る。それは、ウンム・シンマンの丘から新鮮な水を湛えた湖を見渡していた頃のことで、その後、ネフド砂漠を囲む砂の下へと埋もれることとなる。6,000 年ほど昔のことだ。

今日のサウジアラビアの祖先が、「彼らの存在、宗教、そして生と死、形而上学的、宇宙論的観念形態に関する彼らの信念に関する、社会、文化、知的そして哲学的展望の痕跡を残した」のが、これらの丘だった。ユネスコの推薦文書に記された言葉である。

第二の遺跡は、意外なことにわずか 20 年前に発見されたばかりで、ジャバル・アル=マンジュールとジャバル・ラアト (Jabal Al-Manjor and Jabal Raat) にある。ジュッバの南西 220 キロメートル、シュウェイミス村近郊である。

この写真のように、シュウェイミス付近では、今日のアラビア半島では珍しいがかつては半島全体に広く生息していた、ベゾアールと呼ばれる野生のヤギが描かれた岩が多く見つかっている。(サウジアラビア観光局)

ジュッバには、14 の岩面彫刻群が存在し、アラビア半島で最も重要な遺跡とすでに考えられていた。シュウェイミス近郊の隣接する遺跡には、さらに 18 の岩面彫刻群が存在する。この発見は、世界で最も重要な岩絵群の一つがこの地にある、というハーイル地方の主張を後押しするものだった。岩絵は、「世界基準に照らして、人類の創造的天才による視覚的に素晴らしい表現であり、メソアメリカ、あるいはイースター島の潰えた文明の残した伝言に匹敵するものであり、最高に顕著な普遍的価値を持っている。」

2 つの遺跡は共に、狩猟についての初期の絵画記録から、筆記や宗教の発達、そして牛、馬、ラクダを含む動物を家畜化する、9,000 年を超える人類の歴史を物語る。

ユネスコの文書が記録するように、これらの遺跡が世界遺産リストに加えられるのは、それだけの理由がある。「砂漠の只中の注目に値する環境状況」だけでなく、「人類の歴史の 6,000 年から 9,000 年の間に並外れた特色を添える岩面彫刻が多数存在するからだ。直近 3,000 年には、ベドウィン文化を反映する筆記の発展の初期段階が見受けられ、最終的には、コーランの韻文に至るのである。」

その上、ジュッバとシュウェイミスの遺跡には、他の多くの岩絵や考古学的遺産の中で、「現在残っている新石器時代の岩面彫刻群のうち世界で最も大きく、最も見事なもの」、があるのだ。

新石器時代の岩絵は、ユーラシアや北アフリカの多くの場所で目にすることができる。「しかし、これほど多く集まり、これほど一貫して見栄えの良い場所は他に類を見ない。」

岩絵は、筆記前の時代に描かれ、同地域の砂岩を骨身を惜しむことなく石を穿って、刻み、彫刻された、単純ではあるけれども人間存在の鮮明な記録である。セーガンの金属板が異星人にとってそうであったように、その時点の地球上の生命の基本的な詳細を伝えている。

マジッド・カーン (Majid Khan) 博士は、サウジアラビアの岩絵に関し、世界を牽引する専門家の一人であり、2 遺跡に対する推薦をユネスコが評価することにおいて、主要な役割を果たした。岩面彫刻は、数千年にわたって劇的に変化した環境において生存し続けるという試練に、人類がどのように適応したかを綴った日記のようなものだ、と彼は話した。

「ジュッバの岩絵には、新石器時代、今から 10,000 万年前から近年までの人間の存在に関するあらゆる段階が描かれています」、とカーンは話した。彼は、このテーマについての著書や論文を数多く執筆しており、サウジアラビア文化省の古代部門顧問である。

「描かれた動物の種類からは、気候や環境の変化が示唆されます。例えば大きな雄牛の絵は、冷涼で高湿度の気候が示唆され、一方雄牛の絵がなく、ラクダの彫刻がされていることからは、高温で乾燥した状況が示唆されます。」

100 万年にわたって、紀元前 3,000 年頃まで、アラブの中心は、ライオンが闊歩し川が流れるサバンナのような湿地から変容してきた。現在よく目にする不毛の砂漠へと変化し、ワジ、井戸、そして点在する貴重なオアシスが、生存のためには重要となった。

今日のアラブの祖先は、彼らを取り囲む気候や地勢が変化する中、しぶとく存在し続けた。ジュッバとシュウェイミスで目にできる驚くべき岩面彫刻が語るもの、それは、その変化はゆっくりではあるものの、最終的には容赦ない環境災害に直面した、人間の決断、創意工夫そして適応の物語だ。

サウジアラビアがユネスコに提出した推薦文書から明らかとされるように、ほとんど不可能な賭けに立ち向かった、これら初期アラブ人が今日届けてくれるのは、気候変動という差し迫った見通しに直面する世界への、特別な希望のメッセージだ。

「岩面彫刻に貢献した文化は、変化する気候や、激しく変動する水の利用可能状況に適応した。」ユネスコから引用した記述である。

「砂漠化の可能性、帯水層の低下、火山の爆発、そして今日のアラビアを特徴づける不可逆な変化に対し、社会が影響を及ぼし続けたことが図書館に記録されているように、岩絵からは、固有の証拠が手に入る。」

「悪化する環境に対し、人間が影響を及ぼしたというたぐい稀な記録」、この彫刻は、「最悪の変化に直面する中で、回復力と決断を包括的に表している」も同然だ。

ジュッバとシュウェイミスでは、自分たちの痕跡を世界に実にはっきりと残した人類が存在したことが、その彫刻のみならず、遺跡に捨てられた粗削りな道具からも窺い知ることができる。例えば石鎚は、数千年前に人の手によって作り出され、最後はその手に握られた。

これらが創り出されてから長い年月が過ぎた今日、この岩の絵図が遠い将来に対する伝言を意味していたのか、あるいは、それらを制作した人々のみにとっての実用的精神的目的を果たすことを意図していたのかを知ることは不可能である。

サンドラ・オルセン (Sandra Olsen) は、アメリカ人考古学者で、ジュッバとシュウェイミスの岩絵について非常に詳細に研究している。この中にはおそらく縄張りを示すものもある。また勝利のお祝い、野生動物の報奨金、長く忘れていた神に対する崇拝、あるいは中には、存在の記録を残す、つまり「わたしはここにいたんですよ」と認めてもらうという、単純ではあるが人間の不可欠な要求の産物に結びついているものもあるかもしれない、と彼女は話した。

「考古学者として、私たちは、自分たち独自の冷静で、科学的で、非宗教的な考えを、この人々が行っていたことに対し押し付けてはいけません。また、彼らの宗教上の信念を過剰に解釈することを試みるべきでもありません」、と彼女はアラブニュースに話した。

「でも、このたくさんの彫刻の背後には、宗教上精神上の目的があると言ってまったく問題ないと、私は思います。」

米国の考古学者サンドラ・オルセン氏がハーイル地方の岩絵の秘密について解説する。 (リチャード・T ・ブライアント)

シュウェイミスとジュッバでは、時間が止まっている。ラクダと牛を集め、そして弓矢で武装し、革ひもにつないでその役目を果してくれる、飼いならした狩猟犬の助けを借りて、ライオン、ヒョウ、ダチョウといった獲物を狩猟する、古代の光景を目にできる。こうした絵図には、カナーン犬がどのようなものであったかが描かれている。カナーン犬はもともと野生で、古代にベドウィンが飼いならすことは難しい種であるが、今なお存在している。この絵図は、人類と、「人間の親友」との協働関係を視覚的に表現した最古のものであると考えられる。

また、踊り子の絵図もある。2009 年から 2011 年、オルセンと彼女のチームは、様々な異なる技術を用いて岩絵の写真を撮影した。オルセンにとって喜ばしいことに、踊り子はまるで生きているかのようだった。

「私たちは、いくつかの異なる技術を使って、仕事の半分に取り組みました。光に注目するのであれば、日中よりも夜間の方が絵図をずっと良く見ることができます。

「私たちはたき火をしました。火明かりが岩絵に揺らめくと、それはアニメーションとなったようで、人物が動き、踊るようでした。アーティストが、彼らの作品をどんな風に見て欲しいのかを明らかにすることは困難です。けれど、明るい日の下よりも、火明かりで見る方がずっと良い、とは言える、私はそう思います。」

ジュッバのある岩肌には、初期人類の重要な発明の一領域が採択されたという証拠が描かれている。それは車輪で、馬が引く二輪馬車に表現されている。横から見た様子は描かれていないものの、上からの概略が描かれている。

これは外部の人間に対する警告であったかもしれない、とオルセンは考えている。「これは、スウェーデンからモンゴル、ユーラシアのステップから中央アジア、インド、北アフリカ、そしてアラブにわたって見受けられる様式です。『ここは我々の土地だ。我々には馬車がある。我々はこの地を征服している。気をつけた方が良い』、ということを簡潔に描いたものである、と私は考えています。」 

しかし、彫刻の多くは、伝統のお祝いと維持に関するものだ、と彼女は考える。「これらがどういった位置づけであったのかを考える必要があります」、と彼女は話した。「中には、広告塔のようなものもあり、それは誰もが目にすることができたはずです。ちょっとした窪地、踏み固められた道から離れたところにあるものあり、おそらくより秘めやかなものだったのでしょう。」

どちらの場合でも、多大な時間と労力が制作には注がれたことだろう。生き残ることだけでも十分な仕事であった、歴史の一時期に行われたのである。興味深いことに、未完成のものもまたある、とオルセンは話した。それは、この向こうにいるアーティストが、「時に起きて、出発し、この場所に二度と帰ることがなかった」をことを示唆するかのようである。

未完の作品のところへ戻ることが叶わなかったアーティストの運命については、知る由もない。「たいてい、彼らは戻ってきました。彼らはある特定の道を旅していました。移動するは、動物の大群を追いかけていたためです。なぜなら、彼らが狩猟者だったからであり、あるいは羊、ヤギ、牛を飼っていて、それと共に始終移動する必要があったからです。」

もちろん、太古以来、ベドウィンの部族民のことはよく知られていた。しかし、ジュッバの古代彫刻については、オアシスを訪れた初めての西洋人旅行者 2 人が、19 世紀に偶然「発見」して以来、古物商のみが知っているに過ぎなかった。1879 年、イングランドでアラブ産の種馬飼育場を創設したレディ・アン・ブラント (Lady Anne Blunt) が、夫のウィルフリッド (Wilfrid) と共にジュッバを通り過ぎた。ハーイルに馬を買い付けに向かう道中であった。

1879年に、イギリスでの種馬用のアラビア馬を入手するため、夫のウィルフリッドと一緒にハーイルにやってきたアン·ブラント夫人は、西洋人として初めてジュッバの岩絵を記録した。(Alamy)

ウィルフリッドはアマチュアの考古学者で、初期の碑文を探していた。回顧録では、彼の妻が目もくれなかったものを、彼は街の上の岩に見つけた。「砂岩のいたる所に見られる単純なデザインのいくつかで、ラクダやガゼルが描かれていた。」

これらの「単純なデザイン」は、「サウジアラビアのみならず、アラビア半島と中東全域における、最も大きく、最も豊かな岩絵群」で、「世界で最も魅力的で最も大きい岩絵遺跡」と後にユネスコが評価することとなった。

オーストラリア人考古学者で、岩絵の専門家ロバート・ベドナリック (Robert Bednarik) によると、これは、「世界で最も素晴らしい岩絵で」、8,000 年前の新石器時代の岩板である。彼は、マジッド・カーン博士と協働し、共著による数多くの論文がある。ここが発見されて数か月のうちにシュウェイミスを訪れた。

事実、サウジアラビアのこの場所が、2015 年にユネスコの世界遺産リストに登録された後すぐに、オーストラリア ロックアート アソシエーション (Australian Rock Art Research Association) の会報の中で彼が書いたように、「現在知られている最も優れた新石器自体の岩絵、非常に数多くの、骨身を惜しまず制作された壮大な彫刻、それがシュウェイミス遺跡です。」

2,000 以上の岩絵遺跡のうち、さらに大きな場所が、サウジアラビアには少なくとも一か所ある。それは、王国の南西部、ナジュラーン市の北 50 から 130 キロメートルに位置する。にもかかわらず、「見た目の雄大さという観点で、シュウェイミスが抜きんでている。」

意外なことに、シュウェイミス村の近郊、ジャバル・アル=マンジュールとジャバル・ラアト の岩に刻まれた秘密は、2001 年まではサウジアラビア当局にすら未知のままだった。ヒジャーズ山脈の東側面、近づきにくいハラット・カバール (Harat Khaybar) 溶岩地帯という遠く離れた場所に、この証拠があったからである。

現在、世界で最も大きく、重要な古代の岩絵群の一つと認められるものの発見の物語は、アラムコ・ワールド (Aramco World) の 2002 年版に収められた。

2001 年 3 月、あるベドウィンが、地元の学校教師マブーブ・ハバス・アル=ラシーディ (Mahboub Habbas Al-Rasheedi) に、ラクダを放しながら彼の目にした岩の彫刻について話した。マブーブと彼の兄弟は、数日を使ってこの地域を探索し、「岩絵の彫刻がどんどん見つかることに目がくらむ思いがした。」そこには、人間、チーター、ハイエナ、犬、牛、アイベックス、馬、ラクダ、そしてダチョウの絵図があった。

その話は本当だ、とカーンは話した。「私は、そのベドウィン、アル=ラシーディ、そしてハーイル地区の考古学主任に会いました。主任は、私たちをその地に連れ、さらなる調査と研究が行われました」、と彼は話した。

膨大な年月の間に岩肌上に形成した緑青、そしてその地で発見された文化的人工物の分析を含めた一連の年代決定技術により、「シュウェイミスは王国最古の岩絵遺跡で、現在から 14,000 年前のものである」、ことが明らかとなった。

両遺跡を何度も訪れ研究しているカーンにとって、「遺跡が世界遺産リストに登録された時が、自分の 40 年間の研究において、最も感動的な瞬間だった。」

この写真のように、シュウェイミス付近では、今日のアラビア半島では珍しいがかつては半島全体に広く生息していた、ベゾアールと呼ばれる野生のヤギが描かれた岩が多く見つかっている。(サウジアラビア観光局)

この写真のように、シュウェイミス付近では、今日のアラビア半島では珍しいがかつては半島全体に広く生息していた、ベゾアールと呼ばれる野生のヤギが描かれた岩が多く見つかっている。(サウジアラビア観光局)

1879年に、イギリスでの種馬用のアラビア馬を入手するため、夫のウィルフリッドと一緒にハーイルにやってきたアン·ブラント夫人は、西洋人として初めてジュッバの岩絵を記録した。(Alamy)

1879年に、イギリスでの種馬用のアラビア馬を入手するため、夫のウィルフリッドと一緒にハーイルにやってきたアン·ブラント夫人は、西洋人として初めてジュッバの岩絵を記録した。(Alamy)

アーティストAmanda Zimmermanによるグラフィック描画は、ロックアートの細部を適切に表現している。(サウジアラビアの)ジュバで、王として知られる人物と戦士が描かれた。(写真Richard T. Bryant)

ジュバで、投げ棒と思われるものと弓を持つ狩人が描かれている。

シュウェイミスのこの場面では、犬と共に狩りをする弓を持つ男の姿が描かれている。

強烈な印象を与えるこのジュバのロックアートは、女王として知られる人物を描いている。

シュワイミスのこの狩猟風景は、かつてアラビアの森林でライオンが歩きまわっていたことを思い出させるものである。

アルウラ:へグラ

副見出し:古代ナバテアの都

現在のヨルダンに位置する、洞窟に作られた古代の街ペトラは、ナバテア文明が残した巨大な勇んで世界的に有名です。

しかし、貿易大国として最盛期であった3,000年前、約2世紀に渡ってアラビアを支配したペトラに住んでいた人々については、まだ謎が多いままだ。

世界各国同様、サウジアラビアも現在はコロナウイルスの感染拡大のため国境を閉鎖しており、これは5月17日まで続く見込みだ。コロナウイルス発生以前、長い間扉を閉ざしていた同国は、世界的な観光地として開国する準備を進めていた。コロナ禍が収束すれば、ペトラから南に500kmの道のりを旅して、かつて国際貿易で栄えた、洞窟に作られた姉妹都市へグラの魅力を発見できるようになる。

へグラは、紅海から約200km内陸に入った、ヒジャーズ山脈南東の広大な平野に位置し、数千年にも渡って毎年春から初夏にかけてこの地に吹く北西風によって、ドラマチックに形作られた山塊を個体、または集合体で成す砂岩の丘が点在している。

ヘグラの岩に彫り出された100以上の墳墓の大部分が、美麗なファサードを有している。3番目の墓にはナバテア語の碑文が刻まれている。 (サウジ観光省)

この北西風が生み出したのは、ナバテア王国の歴史が刻まれた巨大なキャンバスだけではない。現在のアルウラから北東10kmのところには、何百年も風に吹かれ続けて、象の形となった3層の岩がある。

へグラで見られる記念碑や銘刻の多くは、紀元前1世紀から西暦75年の間に作られたものだが、この地で最近発掘された陶器などからは、少なくとも紀元前2~3年に人が居住していたことが示されている。

ナバテア人について知られているなかで最も古い歴史上の記述は、カルディアのヒエロニムスだ。彼はギリシャの聖人で、ギリシャの征服に度々失敗したアレクサンドロス大王と同じ時代の人間だ。

迷信の地としてベドウィン族から避けられていたへグラは、コーランの中で偶像崇拝を行っていたアルウラのサムード族を改宗させようとしたが叶わなかった預言者サーレハにちなんだ街として、マダイン・サーレハ(サーレハの街)として後に知られるようになった。

古代学者たちは、何世紀も経てへグラの構造がほとんど残っているのは、ベドウィン族が呪われた地として居住するのは危険だとしていたことが役に立ったと見ている。

へグラは、西洋人で初めてこの地を訪れたイギリスの探検家、チャールズ・モンタギューによって1880年代に「発見」された。1888年に出版された彼の著書「アラビア砂漠の旅行」には、巨大なネクロポリス、古代の街を囲み、高くそびえる砂岩の面を彫って作られた死者の砦を偶然見つけたと書かれている。

イギリスの探検家チャールズ·モンタギュー·ダウティは、ヘグラを旅した最初の西洋人であり、1888年刊行の著書「Travels in Arabia Deserta」(アラビア砂漠の旅行)にナバテア人の墓の印象を記録した。(Getty Images)

「キャラバンの街、アル・ヒジルに残る古代文明」についてモンタギューは、「土でできたその街並みは再び荒野の風塵となる。彼らの物語は、この不吉な地の荒々しい岩山にある、何とも読みづらい殴り書き、そして荒れ果てた山の中で旅人が恐々と見上げる、今や孤立した岩となった慰霊碑にしか残っていない」と記している。

ヘグラには、紀元前1世紀から西暦75年の間に岩石を彫って造られたとされる慰霊碑が100個以上ある。4つの主なネクロポリスのうち、31個の墓があるQasr Al-Bintは、遠くからも、そして近くから見ても視覚的に最もドラマチックだ。多くの墓は、正面に怪物、鷲、また動物や人間の顔が彫られている。

ヘグラの壮大な墳墓群の1つ、カスル·アル·ビントには西暦0年から58年までの31の墳墓が現存している。(Getty Images)

墓の正面に見事な彫刻があるのはペトラも同じだが、へグラの場合はその多くにナバテア語の碑文があり、そこには死者の名前や、かつてへグラを故郷とした人々の人生について、文が刻まれている。

ヘグラの墳墓には、怪物、人間の顔やワシの彫刻、その他の動物の小さな像で飾られているものもある。 (サウジアラビア文化省)

岩の墓の他に、ここには2,000か所以上の埋葬地もある。

近くにあるのがJabal Ithlibで、最も高い100mの砂岩が露出している。墓はないものの、壁龕、祭壇、そして多くに碑文が刻まれた、神を崇める石の彫刻が点在する信仰の場であった。岩の内側には「トリクリニウム」と呼ばれる3面の間があり、ここで崇拝者らは集まり、儀式の食事をしていた。

ヘグラが位置する大平原には砂岩の露頭が点在している。その中でもジャバル·イスリブは特に印象的で、岩から彫り出された一連の聖域、壁龕、祭壇がある古代の宗教聖地である。(アル·ウラー王立委員会)

現在では、ナバテア人の故郷へグラに残っているものは少ない。街を作った土レンガは太陽によって干され、はるか昔に砂の中に沈んだ。しかし、2002~2005年に行われた物理探査では、興味深い地下構造物の証拠が見つかった。今でもその市壁の形は見て分かる。

モンタギューが訪れた以降も、へグラは学会の外ではあまり知られていなかった。しかし今、この商業の中心だった街は1,600年の眠りから目覚めた。歴史上最も徹底的な考古学的調査が行われた。アルウラ渓谷の古代遺跡をグローバルデスティネーションとして再建する、文化と遺産を軸とした見事な開発の中心地として、間もなく世界中から旅行客を歓迎できるようになる。

建築家で遺産保護専門家として、へグラが2008年にユネスコ世界遺産に登録された際、サウジアラビアを支援したシモン・リッカ氏は、「私にとってサウジアラビアの入り口がへグラでした」と語る。リッカ氏は、同国にある5つのユネスコ世界遺産のうち、4つの推薦に関わった。

パリに拠点を置くコンサルタント会社RC Heritageの共同創業者でもあるリッカ氏は、「2006年に初めて(へグラ)を訪れた」とし、「サウジアラビアの古代遺跡局が1980年代前半に行った先駆的な遺跡の調査と保護活動のおかげで、遺跡の周りには保護柵が作られましたが、人はいませんでした」と話す。

「本当に素晴らしい経験でした。ペトラには行ったことがあり、数年間に渡って中東で暮らし、仕事をしていましたが、サウジアラビアについてはあまり知りませんでした。」

同氏はユネスコ事務所の壁にかけられているへグラの墓の写真を見たことがあったが、まさか自分がそこに行くことになるとは想像もしていなかった。しかし、岩や砂漠が満月の光に照らされていたある夜、彼はその地にいたのだ。

「ワクワクしました。」「単純ではありますが、何かを発見するんだと感じました。馬鹿げていて子供じみているのはわかっています。しかし、まだあまり知られていない土地に行くことができるというのは私の仕事の特権の一つであり、素晴らしい経験でした。」

へグラには、紀元前1世紀に遡る、見事な慰霊碑が良い状態で残っている。ナバテア時代以前の碑文や壁画が50以上もある遺跡には、何十もの古代の井戸も見られる。この、ナバテア人の水に関する革新的な知識こそが、アルウラ渓谷をイエメンやインドのお香やスパイスを売買するキャラバンたちの大動脈として繁栄するオアシスへと変化させたのだ。

今でもへグラの北、アルウラでは農業が続いている。現代の農家らもナバテア人の命を支えた地下水を頼りとし、古代から残る井戸の一部も使っている。

約400年にわたり、現在のサウジアラビアを予示するほどの規模の巨大な王国を指揮し、その言語がアラビア語の進化にとって最後の飛び石となったナバテア人の起源は、謎に包まれている。紀元前311年、カルディアのヒエロニムスによって記述されたのが初めてで、それ以前はどの文書にも言及されていない。

へグラにある墓の多くは、1世紀から4世紀の初めに彫刻、使用されていたが、この地への入植は紀元前4世紀ごろに遡る。ナバテア人は4世紀に入ってからもしばらくの間ヘグラに居住していたことを示す証拠が出てきている。しかし、この地の支配及び有益な交易路は、領土全域が皇帝トラヤヌス軍による侵略、そしてローマ帝国の属州、アラビア・ペトラエアに包摂され、突然終わりを迎えた。

ヘグラの墳墓の内部。ジャバル·アル·アマールにあるこの墳墓は西暦60年に「ワブの娘ヒナット... ...そして彼女の子供たちと子孫のために、永遠に... ...ナバテア人の王マリク王の治世21年目に」造られたもので、80人以上の遺骨が埋葬されていることが判明している。(アル·ウラー王立委員会)

近年、へグラ及びアルウラ渓谷全体の考古学的調査が行われるまで、アラビア半島におけるローマ帝国の影響が、アカバ湾口よりはるか南にまで伸びていたことを示す証拠はなかった。しかし、防壁に囲まれた野営地が古代の街の南端に発見されたのは、2千年にわたりへグラという世界遺産の秘宝を覆い隠していた砂を掘った仏-サウジ共同チームの努力によって現れた、驚くようなストーリーの一部に過ぎない。

この発見は、ローマ帝国の地図を塗り替えたとリッカ氏はいう。

「ローマ帝国がこれほどアラビア半島の南に進出していたことは誰も知りませんでした。要塞の発見は、古代サウジアラビアが孤立した土地ではなく、より広い世界の一部であったという認識を強めました。」

アルウラ渓谷には、アラビア半島に出現し、衰退していったもう一つの王国が残した第二の城砦がある。1744~1757年の間、ダマスカスを越えてメッカに向かって渓谷を通る昔の巡礼ルートで旅人を守るため、オスマン帝国は要塞を建てた。要塞は、シリアの巡礼ルートに沿ってメッカを行き来する巡礼者らが立ち寄っていたBir Al-Naqaの井戸の近くに建てられた。

その近くには、オスマン帝国によって造られた、ダマスカスとメディナ間、1,300kmを繋ぐヒジャーズ鉄道の駅がある。鉄道は1901年に建設が始まり、1908年に開通したが、オスマン帝国支配に抵抗するアラビアのロレンス、そしてアラブ軍によって繰り返し攻撃され、第一次世界大戦以降は使われなくなった。

ヘグラには、オスマン帝国がダマスカスからマディーナへの巡礼者の便のため建設した古のヒジャーズ鉄道の、駅と残骸が保存されている。同路線は1908年に開業したが、第一次世界大戦中に繰り返し攻撃された後、放棄された。(Getty Images)

戦争中に爆撃された車両や機関車の残骸は、今でも砂漠にある。現在、復元されたアルウラの駅舎には観光客向けの博物館や施設が入っている。

ユネスコの文書には、ヒジャーズ鉄道は「アラブの独立とオスマン帝国の終わりを記す、アラブ及びトルコにとって歴史的に重要」だと記されている。

アルウラ渓谷には、ユネスコ世界遺産には登録されていないが、他にも素晴らしい光景が観光客の訪れを待っている。へグラから南へ約200km行くと、土のレンガや岩で作られた、複雑な小道、そして今や屋根がほぼ無くなった建物から成るアルウラの旧市街がある。1980年代に最後の住人が去ってからゴーストタウンとなっている、約900軒の家がひしめくこの街は、かつてはメッカに続く巡礼ルートの中間地点として数百年にわたり活気に溢れていた。

そのすぐそばには、夏の間に旧市街の住人らが避暑地として利用していた、椰子の木の緑が豊かなオアシスの端に古代ダダンの街がある。後にリヒャン王国となる、岩で作られたダダンの都は、紀元前9~8世紀初めに作られたといわれている。

1326年、有名なモロッコ人旅行家のイブン・バットゥータが、ラクダに乗ってアルウラの旧市街を旅した。アルウラの人々のもてなしに関する彼の思いは、昔の見張り塔に新たに刻まれている。

「巡礼者は、余計なものは信用できることで有名な街の人々に預け、必要なものだけを持っていけば良い。」

廃墟の街アルウラは、イスラム教の歴史において重要な位置づけがある。630年には、預言者ムハンマドがメディナからタブークの戦いに向かう際、街を通ったとされている。

街がいつ作られたのかは不明だが、13世紀にはすでに存在し、最後の住人が近くにある現在のアルウラに移住した1983年までは人が住んでいたということは確かだ。

へグラの過去全てが、アルウラ渓谷の未来に欠かせない役割を持っている。2017年に設立された王立委員会は、アルウラ開発に向けて、「アルウラ地域を世界的な文化及び観光の訪問地に変革させる、サウジアラビアを支援する」目的で2018年にパリに作られた仏Afalulaと連携を取っている。

2019年のインタビューで、アルウラ王立委員会の最高執行官であるアミール・アル・マダニ氏は、アルウラ計画を、「同地域の遺産を広め、アルウラを国内有数の文化の都にするため」の「王国の旗艦プロジェクトの1つ」とした。

委員会とフランスのパートナーが目指しているのは、アルウラが博物館、遺跡、そして高級ホテルと独自のネットワークを持つ、「生きた、オープンな博物館」として生まれ変わることだ。

へグラの宝に加え、アルウラでは観光客がリゾート施設、ホテル、その他世界クラスの施設を利用できるようになる。へグラから車で約45分で行けるシャラン自然保護区にはこの一帯の中で最も印象的な顔相や砂漠の居住地のいくつかを見ることができる。同保護区には、高級リゾートが何軒か置かれることになっており、その中にはルーヴル・アブダビを設計した仏建築家ジャン・ヌーヴェルや、その他にもヨルダン人建築家オマール・アル・オマーリが手がけたものもある。

他にも、高級ホテル経営グループ、Aman Resorts and Hotelsもアルウラに進出を計画しており、2023年までに、エコにフォーカスしたホテルを同エリアに3軒オープンする予定だ。高級テント型キャンプ、砂漠スタイルの農園をテーマとしたものと、3つめはアルウラの遺跡近くに建てられる。

他には、Studio Gio Formaが設計した巨大な鏡のキューブでできたマラヤ・コンサートホールがある。アラビア語で「反射」を意味するマラヤと名付けられたこの施設は、コンサート会場と展示センターであるだけでなく、息をのむようなアルウラの景色と一体化して見えるように設計された、それ自体がうっとりする芸術作品なのだ。

ヘグラの保護区域は、大規模な文化的観光地として開発されているアル·ウラー渓谷内にあり、付近のリゾート施設、各種フェスティバル、世界最大の鏡張りの建物である壮麗なマラヤコンサートホール等で楽しむことができる。(アル·ウラー王立委員会)

Winter at Tantoraフェスティバルに代表される通り、アルウラのビジョンの中心にあるのは、芸術・文化活動だ。毎年行われる同イベントだが、コロナ禍で延期となっている。フェスティバルは、何世紀にもわたり、アルウラ旧市街の住人たちが季節の変わり目を記してきた日時計にちなんで名付けられた。2018年に規模を拡大して再開され、8週間にわたる世界的ミュージシャンの公演で、アルウラの存在を世界に示した。RCUは、アルウラをテーマとした芸術作品を旧市街で公開するため、アーティストも招いた。

過去の栄光と同じく、アルウラ地域とその建築物の宝は、サウジアラビア、そして世界全体の明るい未来の一部だ。

「アルウラは全世界にとってのチャンスです」とアル・マダニ氏は話す。「これは、サウジアラビアだけでなく、国際社会全体にとっても知識の発展なのです。」

古代のキャラバンがかつてこの地に商売をしに訪れたように、アルウラ、生まれ変わったへグラも、再び世界中から旅行者を引き寄せるだろう。

サウジアラビアにとって、輝く過去の発見は、黄金の未来を開くための黄金のチャンスなのだ。

ヘグラの岩に彫り出された100以上の墳墓の大部分が、美麗なファサードを有している。3番目の墓にはナバテア語の碑文が刻まれている。 (サウジ観光省)

ヘグラの岩に彫り出された100以上の墳墓の大部分が、美麗なファサードを有している。3番目の墓にはナバテア語の碑文が刻まれている。 (サウジ観光省)

イギリスの探検家チャールズ·モンタギュー·ダウティは、ヘグラを旅した最初の西洋人であり、1888年刊行の著書「Travels in Arabia Deserta」(アラビア砂漠の旅行)にナバテア人の墓の印象を記録した。(Getty Images)

イギリスの探検家チャールズ·モンタギュー·ダウティは、ヘグラを旅した最初の西洋人であり、1888年刊行の著書「Travels in Arabia Deserta」(アラビア砂漠の旅行)にナバテア人の墓の印象を記録した。(Getty Images)

ヘグラの壮大な墳墓群の1つ、カスル·アル·ビントには西暦0年から58年までの31の墳墓が現存している。(Getty Images)

ヘグラの壮大な墳墓群の1つ、カスル·アル·ビントには西暦0年から58年までの31の墳墓が現存している。(Getty Images)

ヘグラの墳墓には、怪物、人間の顔やワシの彫刻、その他の動物の小さな像で飾られているものもある。 (サウジアラビア文化省)

ヘグラの墳墓には、怪物、人間の顔やワシの彫刻、その他の動物の小さな像で飾られているものもある。 (サウジアラビア文化省)

ヘグラが位置する大平原には砂岩の露頭が点在している。その中でもジャバル·イスリブは特に印象的で、岩から彫り出された一連の聖域、壁龕、祭壇がある古代の宗教聖地である。(アル·ウラー王立委員会)

ヘグラが位置する大平原には砂岩の露頭が点在している。その中でもジャバル·イスリブは特に印象的で、岩から彫り出された一連の聖域、壁龕、祭壇がある古代の宗教聖地である。(アル·ウラー王立委員会)

ヘグラの墳墓の内部。ジャバル·アル·アマールにあるこの墳墓は西暦60年に「ワブの娘ヒナット... ...そして彼女の子供たちと子孫のために、永遠に... ...ナバテア人の王マリク王の治世21年目に」造られたもので、80人以上の遺骨が埋葬されていることが判明している。(アル·ウラー王立委員会)

ヘグラの墳墓の内部。ジャバル·アル·アマールにあるこの墳墓は西暦60年に「ワブの娘ヒナット... ...そして彼女の子供たちと子孫のために、永遠に... ...ナバテア人の王マリク王の治世21年目に」造られたもので、80人以上の遺骨が埋葬されていることが判明している。(アル·ウラー王立委員会)

ヘグラには、オスマン帝国がダマスカスからマディーナへの巡礼者の便のため建設した古のヒジャーズ鉄道の、駅と残骸が保存されている。同路線は1908年に開業したが、第一次世界大戦中に繰り返し攻撃された後、放棄された。(Getty Images)

ヘグラには、オスマン帝国がダマスカスからマディーナへの巡礼者の便のため建設した古のヒジャーズ鉄道の、駅と残骸が保存されている。同路線は1908年に開業したが、第一次世界大戦中に繰り返し攻撃された後、放棄された。(Getty Images)

ヘグラの保護区域は、大規模な文化的観光地として開発されているアル·ウラー渓谷内にあり、付近のリゾート施設、各種フェスティバル、世界最大の鏡張りの建物である壮麗なマラヤコンサートホール等で楽しむことができる。(アル·ウラー王立委員会)

ヘグラの保護区域は、大規模な文化的観光地として開発されているアル·ウラー渓谷内にあり、付近のリゾート施設、各種フェスティバル、世界最大の鏡張りの建物である壮麗なマラヤコンサートホール等で楽しむことができる。(アル·ウラー王立委員会)

アハサー: オアシス

地上の楽園

気軽にアハサーを訪れる人にとっての課題は、まさしく文字通りに、木を見て森を見ることである。

世界最大で、そしてほぼ確実に最古であるこのオアシスには、250万本以上のヤシの木が存在する。そして、ユネスコ世界遺産に登録されているこの遺跡は、総面積85平方キロメートルにも及ぶ、少なくとも12の要素から構成されており、「起源となる新石器時代から現在までのオアシスの歴史の全ての時期を代表する物質的痕跡を保存している」というこの「連続した文化的景観」は、一見すると、簡単には理解できないものだ。

文化遺産を専門とするイタリア人建築家のPanaiotis Kruklidis氏は、2015年から2016年の間、2018年に世界遺産登録されることになったアハサーの推薦文書を作成するために招集された専門家チームの一員であった。このとき鍵となったのは、より俯瞰的な視点を持つことであった。

「オアシスの詳細や個々の区画の構成は確かに理解していましたが、壮大な全体の大きさはまだ把握できていませんでした。」と彼は振り返る。

「私たちがそれを発見したのは、オアシスの中心にあるJabal Al-Qarahという丘に登ろうと決めたその日のことでした。その洞窟の中に定住していた最初の住人にとってはおそらく神聖な場所でした。」

この見晴らしの良い場所から、「ようやくオアシス全体の偉大さを賛美することができた。」

1965年に撮影された、オアシスの一部の航空写真。(サウジアラムコ)

地図とノートを片手に、ヤシ林や庭、水路などの広大な形状を見下ろしながら、チームは「泉、きれいな水の水路、排水路からなるオアシスのあらゆる要素の生命線である複雑な水のシステムを追うことができたのです。」Kruklidis氏にとって、そのパターンは「主脈と二次脈からなる葉っぱの自然な形状」を想起させるものであった。

アル·アハサをユネスコの世界遺産に指定する文書の作成に貢献したイタリアの建築家、パナイオティス·クルクリディスのノートからのスケッチ。

それから、Kruklidis氏らは地上のオアシスの探索に着手し、すぐに、一部の学者の中で人類が初めてナツメヤシを養殖していた場所だと考えられている場所の美しさを発見した。

アハサーは、現在のサウジアラビア東部にある紀元前3千年紀に栄えたディルムン文明と関係している。また、この場所は一部の考古学者によって、神話上のシュメールの楽園、今から約4800年前にウルクの伝説の英雄ギルガメッシュ王が生命の木を求めた場所である神々の庭があった場所である可能性が見いだされている。もう一つの世界遺産であるウルクの古代遺跡は、現在のイラク南部、ユーフラテス川の東側、アハサーの北西約750キロメートルに位置している。

「私たちは偉大なオアシスの中で『迷子になる』ことにして、ヤシの木の高さが際立っていたプライベートガーデンに入りました」と、Kruklidis氏は振り返る。彼らが最初に気付いたのは、「情熱的な農家が庭を手入れしていること」であった。「世代から世代へと受け継がれてきた伝統的な方法の古代の知識は、神話と時の経過の魅力を映し出していた。」

夕方になると、ヤシの木の間から差し込む弱い光が、水面に長い影を落として踊る様子を映し出し、その細部が浮かび上がり始めた。オアシスの重要な要素を図で記録する役割の一部を担っていたKruklidis氏は、「遠い神話の時代の迷宮のような水路や噴水を思い起こさせる、木に実った果実の色の多様性、儚く香り高い緑の背景、そして水の上に差しこむ光」に心を打たれた。

「まだディルムンの時代にある神々の庭を見ているようだった。」

Kruklidis氏にとって「おそらくここから、私たちが知っているような地上の楽園のアイデア、イメージが発展したのだろう」と信じるのは容易いことであった。

アハサーを含むサウジアラビアの5つのユネスコ世界遺産のうち4つの遺産の推薦文書に携わった遺産保護の専門家Simone Ricca氏は、このオアシスは「概念的に理解し、把握するのには最も複雑な場所」だと述べた。

ユネスコに「進化する文化的景観」として登録されているこのオアシスは、「人間と自然の相互作用の産物」である。オアシスは自然の特徴なのではなく、人工的に作られたものであるため、文化的景観というコンセプトにとっては絶好の例といえる。

アル·アハサのヤシの森は、「世界でも最大級の規模であり、伝統的な技術に基づく栽培と維持活用システムの歴史的特徴を、何千年もの間、継続的に技術を進化させながらも、大規模な形で変わらずに維持している唯一の場所なのです」(サウジアラビア観光省)

アハサーは少なくとも8,000年の間使用されながら、カルデア人、アケメネス朝、アレキサンダー大王、ローマ帝国、オスマン帝国などの時代を超えた大国の栄枯盛衰を見て生き延び、すべての来訪者に耐えながら長生きしてきた。

重要なことは、時が止まった断片的な遺跡に過ぎない多くのユネスコの世界遺産とは異なり、アハサーは継続的に使用され、繁栄と進化を続けているという点である。

「1980年代以降に作られた新しい排水・水管理システムでさえも、この進化しているコンセプトの一部なのです。」とRicca氏は述べている。

「何が凄いかというと、アハサーにはまだ250万本のヤシの木があり、200万人近くの人々が住んでいるのです。」

「この相互作用は知的に挑戦的で、興味深いものです。観光客にとっては、視覚的にはわかりにくいかもしれませんが、進化する文化的景観のコンセプトの中心となるものです。」

このユネスコの世界遺産には、たくさんの古代の泉と井戸のシステムによって供給される3つのオアシス、3つの城、伝統的なヤシ林の村Al-Oyoun、歴史的なQasariyah Market、Jawatha Mosque、2つの保護された遺跡、21平方キロメートルのマングローブに囲まれたAl-Asfar湖、そしてEastern Oasisからの水が18キロメートルの水路を通って流れ込む歴史ある大水域がある。Al-Asfarは独特の自然生態系をもっており、2019年にはサウジアラビアから国の自然保護区に指定された。

アル·アハサのオアシスのにぎやかな市場。1937年にこの写真を撮影したのは、英国の外交官の妻であり、サウジアラビア建国の祖であるイブン·サウード初代国王が公に接見した最初の欧州人女性、ジェラルディン·レンデルである。(オックスフォード大学中東研究センター)

12の構成要素の中で最大のものはEastern Oasisで、南北9キロメートル、東西12キロメートルに広がり、38平方キロメートルに渡って鬱蒼としたヤシ林と庭園がほぼ三日月型に密集しており、複雑に入り組んだ運河のネットワークによって水が供給されている。その中心にはJabal Al-Qarahと呼ばれる岩群があり、その頂上からは素晴らしい周囲の緑の海を見渡すことができる。北西には20平方キロメートルのNorthern Oasisがあり、そこでは歴史的な村々が点在している。

アハサーは、西のAl-Ghawarの岩石砂漠と東のAl-Jafurah砂漠の砂丘の間に位置している。古代におけるこの地への定住、そしてそれが現在も存続しているのは、近代になってサウジアラビアにもう一つの自然の恵みをもたらしたAl-Ghawarの泉による豊富な水の供給があったためである。アハサーが世界最大のオアシスであるように、Al-Ghawarは世界最大の油田である。

何世紀にもわたって、アハサーのオアシスは、北、東、南から押し寄せるAl-Jafurah砂漠の砂の移動の脅威にさらされてきた。ユネスコの推薦文書には、「北風、北西風、南風が周期的に強く吹くため、オアシスを取り囲む砂は移動性があり、何世紀にもわたって耕作地を侵食し、オアシスを危険にさらしてきた」とある。

過去千年の間、人間はオアシスを維持するために戦わなければならなかったが、それにもかかわらず、その一部は今でも「活動的な砂丘地帯に覆われており、12キロメートルの大きな前線に沿って南に進んでいる。」この砂丘は、「イスラム教黎明期のAl-Ahsa Oasisの重要な歴史的集落であるJawatha地域で、Al-Qarahの北側の以前の集落と庭園を著しく覆っている。」

Eastern Oasisの北にあるJawatha遺跡での調査により、砂漠のオアシスにおける人類の粘り強くも常に暫定的であった存在への足がかりとなる歴史的脅威の証拠が発掘された。

今日では遺跡は砂で完全に覆われており、その下からは古代の農作業、灌漑技術、長い間失われていた集落、そして消えてしまった川の流れに関する証拠が発見されている。

約7,000年前にさかのぼるウバイド期の陶器の発見はまた、アハサー地域が、人類が定住したアラビア東部における最初の地域であった可能性があることを示唆している。

約2,700年前のディルムンの破片、ギリシャとローマの陶器から初期のイスラムの陶器まで、遺跡で発見された他の陶器は、主要な貿易中心地としてのアハサーの長期的で有益な存在を証明している。

古代においても、ユネスコの推薦文書にあるように、アハサーは「世界で最も有名で大きなオアシス」として知られており、ギリシャ、ローマ、中世のアラブの学者や旅行者から称賛されていた。

紀元前7年に出版されたギリシャの歴史家ストラボンによる当時の世界についての記述「Geographica」によると、古代のアハサーはメソポタミア(現在のイラク)と、香辛料、芳香剤、デーツの貿易で結ばれていたという。住民は「バビロニアまで筏に乗って荷物を運び、そこからユーフラテス川を上り、陸路で国中に運んだ」と彼は書いている。

1960年代後半からの大規模な砂漠化防止の取り組みや、新しい水路網の構築を含む配水技術の再編成のおかげで、アハサーは今日も健在で生きた歴史となっている。

アハサーがユネスコ世界遺産に認定された推薦文書の言葉を借りれば、その起源が農業の始まりと一致しているオアシスの進化の進行中の物語は、非常に古代の人間のコミュニティがどのように生まれ、働いていたかを説明し、そしてそれは人間の存在と土地の管理の間における調和とバランスのとれた関係の確立を可能にした技術、手順、原則を理解することを可能にするものである。

アハサーは世界の市場にデーツを供給し続けている。しかし、その最も価値のある成果というのは、大きな環境問題に直面しながらも、何千年にもわたってしぶとく独創的であったアハサーの存在によって現在と未来の両方に設定されたお手本なのかもしれない。

ユネスコの言葉を引用すると、今日、「地球上のいたるところで生態系全体が崩壊の危機に瀕している。オアシスは、資源を枯渇させずに改善することで、環境との相互作用をより良く処理する方法を私たちに示すことができる。気候変動、生態系の崩壊、大変動、文明の終焉などは、砂漠の人々がすでに何度も直面している状況である。」

その引用の中では、アハサーは「オアシスの景観が時間と共に進化する驚くべき例である」とされ、さらには地球上の生命のための貴重な教訓、それ以上のものを有しているとされている。

肥沃な土壌を作るために何世紀にもわたって磨かれた技術は、農業生産、水管理、リサイクル、省エネ、砂漠での生存のため、地球全体にとって優れた実践例を構成し、地球外のものまで含む極限環境への人間の広がりにおける新天地に適用可能な知識を提供するものである。

1965年に撮影された、オアシスの一部の航空写真。(サウジアラムコ)

1965年に撮影された、オアシスの一部の航空写真。(サウジアラムコ)

アル·アハサをユネスコの世界遺産に指定する文書の作成に貢献したイタリアの建築家、パナイオティス·クルクリディスのノートからのスケッチ。

アル·アハサをユネスコの世界遺産に指定する文書の作成に貢献したイタリアの建築家、パナイオティス·クルクリディスのノートからのスケッチ。

アル·アハサのヤシの森は、「世界でも最大級の規模であり、伝統的な技術に基づく栽培と維持活用システムの歴史的特徴を、何千年もの間、継続的に技術を進化させながらも、大規模な形で変わらずに維持している唯一の場所なのです」(サウジアラビア観光省)

アル·アハサのヤシの森は、「世界でも最大級の規模であり、伝統的な技術に基づく栽培と維持活用システムの歴史的特徴を、何千年もの間、継続的に技術を進化させながらも、大規模な形で変わらずに維持している唯一の場所なのです」(サウジアラビア観光省)

アル·アハサのオアシスのにぎやかな市場。1937年にこの写真を撮影したのは、英国の外交官の妻であり、サウジアラビア建国の祖であるイブン·サウード初代国王が公に接見した最初の欧州人女性、ジェラルディン·レンデルである。(オックスフォード大学中東研究センター)

アル·アハサのオアシスのにぎやかな市場。1937年にこの写真を撮影したのは、英国の外交官の妻であり、サウジアラビア建国の祖であるイブン·サウード初代国王が公に接見した最初の欧州人女性、ジェラルディン·レンデルである。(オックスフォード大学中東研究センター)

イタリアの建築家で遺産の専門家であるPanaiotis Kruklidisによる一連の描画は、アラビアの風景とAl-Ahsaアルアーサのオアシスが、新石器時代から4,000年を経て青銅器時代へ、

そしてヘレニズム時代から

中世を経て

近代に至るまで変化した様子を描いている。

ジッダ歴史地区: メッカへの玄関口

現代都市で今も脈打つ古き魂

ロンドンの希少本ディーラー、ピーター・ハリントンは、ジッダの給水システムの近代化を物語る設計書のコレクションを2020年4月に売りに出した。オスマン帝国時代からの古きシステムへのアップグレードは、市を訪れる巡礼者の生活を改善するためにイブン・サウドが1947年に注文し、長年求められていたものであった。

コレクションの中には、工事を請け負った英国の設計会社 Balfour & Sons によって作成された地図があった。この地図は、新しく建設された水道本管の埋没状況を記録するという他愛もない用途のために作成されたものだ。

この1947年の地図は、ジェッダが導入した近代水道システムの技術的記録であるとともに、都市の急速な拡大に対応するため城壁が取り壊される直前の旧市街のレイアウトを伝えている。(Peter Harrington Rare Books、ロンドン)

しかし今となっては、この地図はかつて街を取り囲んでいた大きな防御壁を含むジッダ旧市街のレイアウトを表す最後の地図として、レアで歴史的に貴重な遺産という位置づけになっている。

この図面が完成してから数ヶ月以内には、16世紀にまで遡る古い壁や、数百年の激動の歴史において街への出入りを制御していた4つの門の解体作業が開始された。

また1947年には、サウジアラビアは第二次世界大戦終結による巡礼者増加の恩恵を受けただけでなく、初の石油ブームを経験していた。647年以来、ジッダはメッカへの玄関口であると同時に紅海での海上貿易において常に重要な街でもあったため、急速に繁栄・拡大した。

1952年撮影の、ジェッダの給油所。この時すでに、サウジアラビアはジェッダそして国全体を大きく変えることになる石油ブームの中にあった。(Getty Images)

「ジッダは1947年まで壁に囲まれていました。当時は1平方キロメートル未満の非常に小さなエリアで、南にいくつか郊外住宅地があるくらいでした」と、サウジアラビアによるジッダのユネスコの世界遺産申請準備をサポートし成功させた世界遺産保護の専門家であり建築家のシモーヌ・リッカは言った。

「ジッダは人々が一時的に滞在する都市として巡礼者を受け入れてきました。巡礼者の多くはジッダに数ヶ月泊まりました。そのため、ジッダの家は巡礼者に貸し出すためのフロア込みで建てられ、これが旧市街で今日も見られるユニークな建築物の造形へと繋がりました。」

1956年には石油収入によって国中の近代化プロジェクトや拡張プロジェクトに資金が渡った。ジッダはその境界を広げ、10年も経たないうちに10倍のサイズにまで拡大した。

1970年代の終わりには、埋め立て地にジッダ・イスラム港が建設されたことにより、旧市街が海から切り離され、ジッダの人口は100万人近くにまで増加した。

ジッダの急速な拡大にかかわらず、アルバラドの名称でジッダ市民に愛される歴史地区の保護を強く望んだ多くの個人や組織の献身のおかげで、旧市街はなんとか残された。2014年にはユネスコの世界遺産に「卓越した普遍的価値」を持つ場所として登録され、サウジアラビアでは3番目の世界遺産となった。

預言者の仲間であり3代目の正統カリフ、ウスマーン・イブン・アッファーンが、聖地メッカとメディナに旅する巡礼者の玄関口としてジッダを指定した647年以来、この地はメッカ巡礼と密接に関連してきた。

何百年もの間、メッカに向かう巡礼者は、乗ってきた船をジッダの浅い港に停め、小さな木製のダウ船またはサムブークから降りてきて、狭く賑やかな通りに並ぶ家やスークに宿泊、食料や物資を探し求めた。時が来ると、彼らは徒歩またはラクダに乗って聖なる都までの70キロを旅した。

何世代にも渡るイスラム教徒が、一生に一度の精神的な旅の始まりにて通過した東の門、メッカ門は、今や存在しない。しかし、まるで遥か昔に無くなった防壁に今も守られているかのように、旧市街の道やスーク、建物は、それらを取り巻く現代都市の活気に溢れながらも、かつての生活の記憶を保持し続けている。

都市考古学者によれば、旧市街のレイアウトや、恐らく建築物も、少なくとも16世紀にまで遡るとされるが、ジッダの起源は更に昔に遡る。ジッダの東に位置するワディの古代碑文などの、この地域の考古学的発見は、3000年以上前の石器時代後期からこの地域に人間が住んでいた可能性を示唆する。

貿易の中心地またメッカの玄関口の役割を担っていたため、ジッダはアフリカやアジアの貿易業者や巡礼者が運んできた文化、料理、スキル、商品の影響を受け、文化のるつぼとなった。多くの訪問者はそのままジッダに住み続けた。

ユネスコの推薦文書によると、その結果は「ユニークな文化的アンサンブル」であり、ジッダ歴史地区の今も残された街並みは「16世紀から20世紀初頭にかけて紅海地域全体とインド洋沿いのルートで行われ、歴史的に重大であった価値観、技術的ノウハウ、建築材料、技法の交わりの産物」だ。

そして、それが表すのは「国際的な海上貿易のおかげで繁栄し、多様な地理的・文化的・宗教的背景を持ち、同地域の激しい気候に対応するための独特で革新的な技術的・美的解決策を備えた街を作るに至った文化的世界」とある。

紅海地域では常に最も重要で大きく、最も豊かな街であったジッダ旧市街の社会的・建築的都市デザインは、他所では既に消滅してしまっており、残された最後の事例だ。「この驚くべき前近代的都市では、離れて建っているタワーハウスや珊瑚石でできた低い家、モスク、リバート、スーク、そして小さな広場が異文化の人々が住む活気に満ちた空間を構成し、現代の都会生活においても依然として大事な象徴的・経済的な役割を果たしています。」

この都市デザインの最も特徴的な例はローシャンタワー様式の家であり、約300軒が今も残っている。経済状況および環境の産物であるこのスタイルの建築は、1869年に開通し、ジッダの東西を繋ぐ重要なポートとして役割を強化したスエズ運河による直接的な影響で19世紀の後半に出現した。

1939年撮影のこの写真には、オールドジェッダに特有のロシャン様式の城館2棟が写されている。(Getty Images)

ジッダの商人がますます繁栄するにつれて、彼らは新しい地位と富を反映してより高く精巧に装飾された家を建てた。6階、7階もある家もいくつかあった。多くの家の中央には、海から吹き込む風を捉えるために屋根の開いた吹き抜けの階段や光井が高く建てられ、熱気を上向きに逃がし建物内の空気の流れをよくする換気シャフトとして設計されていた。

「暑い夏の間、伝統的なジッダスタイルの家の住人はマビート(家の最上階にある寝室)で眠りました。マビートには換気を良くするための大きな窓とスリットがあります」とジッダの住民アーメド・バディーブは言う。彼は2014年にカタールで開催された第38回ユネスコ世界遺産委員会でジッダの申請を通したサウジアラビアチームの一員で、保護活動家だ。

ジェッダウィ・アフマド・バディーブ氏が我々にヘラート・アル= マーズルームを案内する。

ジッダの古い家は、近くで入手可能な材料や輸入された材料で作られており「確実に長持ちし、気候に対応できる形で設計、建設されています」と彼は言う。サンゴの石灰岩を近くの紅海のサンゴ礁から採取し、砕き、湖底の泥や粘土と混ぜてレンガが作られた。

完成した建物は、加熱された石灰岩に泥を混ぜて作られた、ジッダ市民がアルノラと呼ぶ断熱物質を使用して白塗りされ、猛暑の夏の間、建物の中を涼しく保つのに役立った。

彼によると「伝統的なジッダの家は、ファール・アル・ダラジと呼ばれる大きなメインの柱の周りに建てられ、その柱の周りに階段が建てられ、部屋はその横に作られました。」

「各階が機能に合わせて設計されました。玄関にあるディワンはゲストを迎える場所であり、男性専用に設計されました。家の裏側には通常、女性や子供、メイドが住む場所がありました。」

多くの家にはマジュリスと呼ばれるエリアがあり「ディワンに似たスペースですが、マジュリスは2階にあり、木製の座席エリアと枕が壁に沿って設置されており、外側の壁には通りや路地を見下ろす大きなローシャンの窓があります。」とのこと。

今残っている家の前には大体ラワシーン(ローシャンの複数形)という精巧な木製の出窓があり、いくつかの役割を果たしていた。座ったり寝たりするための涼しくプライベートな場所であったり、女性が通りから覗き込まれることなく外の世界を見渡せる聖域だった。ローシャンのデザインは風の通りを作るのに非常に効果的で、人々は粘土でできたポットをその中に置き、日陰と窓からの気流で水を冷却した。

ラワシーンと呼ばれる独特の細かな網目細工を施した精巧な出窓を備えた城館は、ジェッダの歴史的地区の最も印象的な特徴の1つである。(Shutterstock)

「ジッダは文化のるつぼであったため、ローシャンの由来を特定することは困難です」とバディーブは言う。「換気システムは日中家を涼しく保つのに役立ち、複雑なデザインは太陽の光による灼熱の熱を分解するのに役立ちました。」

「居住者は、プライバシーを確​​保しながら穴から外を覗くことができました。外の人は誰が覗いているのか分からないようになっていました。」

主にアジアやアフリカから広葉樹を中心とした木材の輸入したことで、ローシャンの開発からレンガ造りを強化するために木製の梁を使用するタクレルと呼ばれる技術まで、木材はジッダの家の進化において重要な役割を果たした。これによって一部の家を6階や7階まで建てることができたのだ。

木材は、古い建物の多くを飾る大きくて美しいドアにも使われている。もともとは富と名声の象徴で、ほとんどの場合無垢チーク材で作られており、ユネスコの推薦で「アラビア最高峰の大工仕事と装飾」の事例として認められた精巧な彫刻パネルで装飾されている。

ジェッダが主要な貿易ハブとして発展する中で、アジアとアフリカから輸入された木材を素材に精巧に彫られた木製のドアが、旧市街の裕福な商人の家を飾るようになった。(Shutterstock)

2014年にジッダが世界遺産に登録されたことによって、ジッダの歴代市長や、バディーブのようにアルバラドで生まれ育ちジッダを廃れさせないという強い想いを持った多くの人々の長年にわたる保護活動が更に勢いを増した。

「旧市街が壁の外へと拡大したとき、市街の不毛の地に建てる方が簡単で安価でした」とシモーネ・リッカは言う。 「しかし、ジッダに昔から住む家族は古い建物に対して非常に愛着を持っていたので、彼らは引っ越しつつ元の邸宅を所有し続け、街は今日までその活発な雰囲気を維持することができました。」

マズルーム地区に家族の家がまだあるというバディーブ氏は、古いジッダを保護することは簡単ではなかったと語った。 「父や祖父から家を相続した家族の方が多大な労力と時間を使いました。都市開発が発展しジッダが今の大きな都市へと変化する中、旧市街の風景はしばらくの間失われていました。ジッダの家族が引っ越した後、長い間古い家は忘れ去られ、移民が代わりに増えていました。」

ユネスコの文書によると、「1950年代初頭までは、サウジアラビアの大家族や老舗のイエメン、インド、東アジアの貿易商が旧市街に住んでいましたが、巡礼者と石油収入の増加によるジッダの目覚ましい成長に伴って、地元の住民は昔からの住居を離れ、新しく開発された郊外に移動した。」

旧市街の家は現在、「サウジアラビア人の家主から部屋または部屋の一部を借りる独身男性の外国人労働者が住民の大部分を占めている」とその文書は付け加えた。

バディーブによれば、ジッダ歴史地区の保護は、マッカ州の歴代知事によって行われた保護活動のおかげもあるという。保護活動はマジェド・ビン・アブドゥル・アジズ王子が開始し、その後継者アブドゥル・マジード・ビン・アブドゥル・アジズ王子や現州知事ハリド・アルファイサル王子によって引き継がれ、いくつかのジッダに古くから住む家族によって支援されてきた。

リッカはまた、「ジッダの市長モハメッド・サイード・ファルシ博士がモダンな都市を開発しながら旧市街の一部を保存することを決定した」との点を強調した。

建築家から市長となったファルシが就任した1972年から1980年代半ばにかけて市の人口は5倍増加し、彼は現代ジッダの父として広く知られた。2019年に亡くなった際に掲載された死亡記事にあるように、「ファルシ博士が、大いに必要とされていたインフラを整えると同時に、歴史地区を大事に保存し、機能的且つ美しい都市を設計できたのはものすごいことだ。」

この1947年の地図は、ジェッダが導入した近代水道システムの技術的記録であるとともに、都市の急速な拡大に対応するため城壁が取り壊される直前の旧市街のレイアウトを伝えている。(Peter Harrington Rare Books、ロンドン)

この1947年の地図は、ジェッダが導入した近代水道システムの技術的記録であるとともに、都市の急速な拡大に対応するため城壁が取り壊される直前の旧市街のレイアウトを伝えている。(Peter Harrington Rare Books、ロンドン)

1952年撮影の、ジェッダの給油所。この時すでに、サウジアラビアはジェッダそして国全体を大きく変えることになる石油ブームの中にあった。(Getty Images)

1952年撮影の、ジェッダの給油所。この時すでに、サウジアラビアはジェッダそして国全体を大きく変えることになる石油ブームの中にあった。(Getty Images)

1851年に発表されたジェッダの街を描いた版画。ミナレットが城壁の上に聳え立っている。(Getty Images)

1851年に発表されたジェッダの街を描いた版画。ミナレットが城壁の上に聳え立っている。(Getty Images)

1939年撮影のこの写真には、オールドジェッダに特有のロシャン様式の城館2棟が写されている。(Getty Images)

1939年撮影のこの写真には、オールドジェッダに特有のロシャン様式の城館2棟が写されている。(Getty Images)

ラワシーンと呼ばれる独特の細かな網目細工を施した精巧な出窓を備えた城館は、ジェッダの歴史的地区の最も印象的な特徴の1つである。(Shutterstock)

ラワシーンと呼ばれる独特の細かな網目細工を施した精巧な出窓を備えた城館は、ジェッダの歴史的地区の最も印象的な特徴の1つである。(Shutterstock)

ジェッダが主要な貿易ハブとして発展する中で、アジアとアフリカから輸入された木材を素材に精巧に彫られた木製のドアが、旧市街の裕福な商人の家を飾るようになった。(Shutterstock)

ジェッダが主要な貿易ハブとして発展する中で、アジアとアフリカから輸入された木材を素材に精巧に彫られた木製のドアが、旧市街の裕福な商人の家を飾るようになった。(Shutterstock)

ディリヤ: アト・トゥライフ

サウジアラビア王国の誕生地

賑やかな近代都市リヤドの中心部にある巨大なキングダムセンタータワーから北西に10kmほど離れたところにあるワディ・ハニファの曲がりくねったところに、かつての首都の遺跡がある。

これこそが、泥レンガの見事な宮殿のコレクションであるアト・トゥリフで、モスクが建てられ、強固な壁で囲まれており、18世紀には、1744年にディリヤのオアシスに設立された第一次サウード王国の中心地になった。

これらを合わせ、2010年に世界遺産に登録されたアト・トゥリフは、ユネスコの推薦の言葉を借りれば、「アラビア中央部で発展した重要な建設的伝統であるナジ建築様式の卓越した例であり、世界の文化的多様性に貢献している」

肥沃な土地と豊富な水源を持つディリヤは、1446年にサウード家の先祖によって開拓された。彼らがもとの定住地であり、アラビア湾沿岸の現在のカティフに近い場所にあるディリヤからワディ・ハニファに移住したとき、彼らは故郷の名前を導入した。

ツライフの日干しレンガ地区は、1818年のオスマン帝国軍に対するディルイーヤの人々の、勇敢だがついに敗れた6か月間の戦いの傷跡を残している。(Historical Diriyah Development Program)

今日では、1818年にオスマン帝国の軍勢の強大な力に立ち向かった誇り高き、しかし最終的には絶望的な運命を背負ったアト・トゥリフの建物のいくつかは廃墟と化している。

ディリヤの第三代イマームであるサウード・アル・カビル(またはサウード大王)の自宅兼政府であり、1750年に工事が開始されたサルワ宮殿などの他の建物は、良好な状態を保っており、印象的なままであり続けている。

しかし、「卓越した普遍的価値」であるとユネスコに認定されたこの遺跡全体は、サウジアラビア王国の発祥の地としてだけでなく、アル・サウード家の台頭と不可能に見えるほど不利な状態での勝利の象徴として、サウジアラビアの人々にとって貴重なものである。

アト・トゥリフは、単に放置されたり、流行の変化の犠牲になったりして荒廃したわけではない。ここは、1818年に大虐殺に終わったディリヤの英雄的な攻城戦の際にオスマン帝国の大砲によって損傷を受けたゴーストシティだ。

攻城戦で、捕らえられた守備兵は首または時には耳のみをはねられ、これらはカイロに送られて賞金と引き換えられた。

半年間の勇敢な防衛の末にディリヤが陥落すると、オスマン帝国に従ってサウジアラビアに対する2年間の作戦で部隊を率いたエジプト人の将軍であるイブラヒム・パシャの命令により、多くのサウジアラビア人が追放され、拷問され、処刑された。

第一次サウード王国の最後の支配者であったイマーム・アブドゥッラーは、民衆の苦しみに耐えられなくなって初めてエジプトにアト・トゥリフを明け渡し、鎖に繋がれてコンスタンティノープルに連行された。

そこで、信心の誓いを捨てたり、オスマン帝国への忠誠を誓ったりすることを拒否した彼は、公の場で斬首され、頭はすり鉢の中で押しつぶされ、遺体は見せしめとして誰もが見ることができるように吊るされた。彼の死刑執行令状は短剣で胸に固定されていた。

ナジュドから撤退する前に、エジプト人はディリヤを荒廃させ、建物や要塞を破壊し、すべてのナツメヤシを伐採した。1819年に英国軍の将校がこの町を訪れたが、彼は「今では廃墟と化しており、虐殺を免れた住民や、虐殺から逃れた住民は、主にリヤドに避難している」と報告した。

バドラン・アル=ホナイエン氏が我々のためにトライフを徒歩で案内し、その古代建築独自の特徴や持続可能となっている理由について解説する。

エジプト軍が撤退してから数カ月の間に、サウジアラビアの生存者たちは街の再建を始めたが、1821年にオスマン帝国の遠征軍によって再び破壊されてしまった。

しかし、それにもめげずサウジアラビアは、今度はイマーム・トゥルキ・ビン・アブドゥッラー・アル・サウードの指導の下で再び立ち上がった。1823年、イマームはオスマン帝国を追い払い、ディリヤとアト・トゥリフが廃墟と化していたため、近くの無傷の守備隊駐屯都市リヤドを第二次サウード王国の首都に選んだ。

サウジアラビアが国家になるまでの道のりには、まだ多くの障壁が存在していた。1834年にはイマーム・トゥルキが暗殺され、長年にわたる内戦が終結したのは、息子のファイサル・ビン・トゥルキ・ビン・アブドゥッラーがエジプトでの捕囚から帰国してサウジアラビアの権威を回復した時であった。しかし、1865年の彼の死後、同国は再び内紛に巻き込まれ、1891年には敵対するラシディ王朝によって国家が転覆させられるに至った。

クウェートに避難したサウジアラビア人の中に、16歳くらいの少年がいた。亡命したリヤドの支配者の息子、アブドゥル・アジズ・ビン・アブドゥル・ラフマン・ビン・ファイサル・アル・サウードは、イブン・サウードとして世界に知られる運命にあった。

彼が1902年に小さな戦士の一団を率いてリヤドを奪還し、サウード家を復活させた話は、イラクにいた英国の政治家ガートルード・ベルが1917年にロンドンに向けて書いた報告書の中で語ったものである。

ツライフの遺跡、1917年。撮影したのは、ジェッダに定住してイブン·サウード初代国王の顧問になった英国の政府関係者、ジョン·フィルビー。(Diriyah Gate Development Authority)

「11年間、アブドゥル・アジズは臥床心胆の日々を過ごしましたが、1902年、ペルシャ湾に面したクウェートのシェイクは、ラシドと敵対していましたが、若い首長を有望な戦力とみなし、彼にチャンスを与えました」と彼女は書いている。

「クウェートから供給されたラクダの騎兵約80名を従えて、アブドゥル・アジズはリヤドを急襲し、ラシードの守備隊を驚かせ、彼の代表を殺害し、奪還した都市で即位を宣言しました」

かくしてサウジアラビアの近代国家が誕生した。それは簡単なことではなかった。

イブン・サウードと彼の旗印の下に群がるようになったベドウィンの部族は、オスマン帝国軍とそれに続くヒジャーズのハシェミット族による彼の領土への一連の攻撃を撃退した。

しかし、イブン・サウードは徐々に支配下の領土を拡大し、1924年には彼の部隊がメッカを占領してハシェミット族のシャリフ・フサインを追い出した。イブン・サウードはナジュド王国とヒジャーズ王国を一つに統合し、1932年9月23日に近代的なサウジアラビア王国の建国を宣言した。

新しいサウジアラビアの首都として、リヤドは繁栄した。1970年代には、大都市の郊外に新しい都市としてディリヤが再興したが、1818年以降は王家の居住地であったアト・トゥリフは、砕け散った城壁の跡で放棄され、二度と利用されることはなかった。

ユネスコにとって、アト・トゥリフは、歴代の支配者によって時代を超えて建設された多数の宮殿の遺跡など、「卓越した普遍的価値」として認定されるにふさわしい多くの属性に恵まれている。

いくつかの建物と城壁が復元されており、その堂々たる全盛期に遺跡全体がどのように見えていたかを知ることができる。

ツライフの歴史保護区は、ディルイーヤをサウジアラビア建国を記念する世界的な文化的観光資産として発展させるプロジェクトの中核となっている。(Historical Diriyah Development Program)

ワディ・ハニファの底から採取された粘土と石灰岩の建築材料の印象的な色と質感を持ち、タマリスクの木材で補強された遺跡全体は、「現代のサウジアラビア王国の直接の祖先である第一次サウード王国の文化と生活様式を示す都市と建築のモニュメント」となっている。

「アト・トゥリフ地区でこれまでに発見された宮殿の数は13件です」と、同遺跡の文化・遺産マネージャーであるバドラン・アル・ホナイヘン氏は述べる。

「宮殿のほとんどは、第一次サウード王国時代に王族のメンバーが所有していました。3人のイマームが住んでいたサルワ宮殿は、1万平方メートルを超え、ワディ・ハニファの美しい景色を見下ろす、地区の中心部にある最も重要な宮殿です」

サウジアラビアのナジュド地方特有の建築ディテールは、サード·ビン·サウード王子の宮殿の慎重に保存された壁に見ることができる。(Diriyah Gate Development Authority)

サルワ宮殿は、1750年頃から工事が始まった7つの建物からなる複合施設で、ナジュド地区全体で最大の宮殿だ。その傍らには、1803年から1814年にかけてサウド・アルカビルの統治下に建てられた国庫であるバイト・アル・マルの遺跡を見ることができる。

アト・トゥリフには、イマーム・モハメド・ビン・サウードのモスクもあるとアル・ホナイヘンは付け加える。「第一次サウード王国のイマームはそこで祈っていたし、その間に多くの政治的な事件が起きた場所でもありあます」。 また、この地域で最も重要なモスクの一つでもあり、一時は 「そこに通っていた参拝者の数は3000人を超え、第一次サウード王国が栄光の時代にいかに大きかったかを物語っています」

その時代、モスクはまた、「法学、シャリーア、カリグラフィーの授業を行う、知識と教育の最も重要な学校の一つでした」

泥レンガで作られ、雨で浸食されやすいこのような建物を維持することは、継続的な作業である。

「アト・トゥリフの泥レンガの建物は250年以上そこにあり、浸食、オスマン帝国による残忍な侵略、他の多くの問題に耐えてきました」とアル・ホナイヘンは言う。

これは、地元の環境から収集された材料に依存した持続可能性の教訓であり、「泥レンガを使って仕事をし、持続可能性に焦点を当てて、ワジからの石や土を使ったり、サルワ宮殿のような高い建物を作るのに使われた地元の植物や木を使ったりする」訓練を受けている職人によって学ばれているものであると彼は付け加えた。

サウジアラビアのアト・トゥリフの成功したユネスコ申請の準備を支援した遺産保護の専門家である建築家シモーネ・リッカは、「伝統的な建築技術に注意を払って保存されています」と廃墟について語る。

同様に重要なのは、1818年の攻城戦による被害であり、これもまた王国の遺産を暗黙のうちに思い出させるものだ。「もちろん、サウジアラビア発祥の地として歴史的にも重要な場所であることは言うまでもありません」と彼は付け加える。ユニークな建築用チクとノウハウが反映され、「しかし、ここはまた、類稀な泥レンガの村です」と彼は語る。

「宮殿のファサードの高さは非常に印象的で、私たちの泥レンガ建築の中では最も高いものです。このように、これらの素材が力を象徴する建築を生み出す能力が示されています」

三角形の換気口は、ツライフ全体に見られる独特の建築ディテールのひとつで、建物内に空気の流れと低温を作り出すよう設計された、優れた伝統的空調システムの一部を成している。(Diriyah Gate Development Authority)

「非常に印象的で、アト・トゥリフで示された技術は国家レベルではかなりユニークなものです」

ユネスコのリストもまた、ディリヤのアト・トゥライフ地区が普遍的な意義を持っていることを認めている。

王宮の向かいには宗教改革者モハメド・ビン・アブドゥル・ワハブが住んでいたブジャイリの集落があり、彼はここで生活し、説教し、死んだ。指名文書に記されているように、1725年から1765年までの40年間を支配したディリヤの初代イマームであるモハメド・ビン・サウードとこの説教者との間で1745年に結ばれた同盟の後、「改革のメッセージはアラビア半島とイスラム世界に響き渡った」という。

典型的なナジュド風デザインのドア。ディルイーヤ、ツライフの王室区域に隣接するブジャイリ地区にて。(Shutterstock)

ワハブが大切に保存していた小さな泥レンガ造りのモスクは、ナジュド地域の特徴である単一の四角いミナレットを持ち、未だにアト・トゥライフの向かい側のワディ・ハニファの土手に立っている。

リッカにとって、アト・トゥライフとその周辺で生まれつつあるディリヤゲートの文化的発展は、歴史的建造物が現代世界でも通用するような役割を果たして繁栄すべきだというサウジアラビアの究極の決意の表れだ。

「サウジアラビアは当初から、これらの遺跡を訪問者のニーズに合わせて整備し、発展の機会を提供するというビジョンを持っていました」

「このアプローチでは、遺跡はユネスコのガイドラインに沿って保存され、記憶だけでなく収入を生み出すことができる資産であることが実証されます」

1970年代後半、サウジアラビアに2年半住んでいた英国人作家で歴史家のロバート・レイシーは、アト・トゥリフの遺跡を訪れ、「トルコ人が1世紀半前に残したままの姿をほぼそのまま残している」ことを発見した。

「イブラヒム・パシャが去った後、ヤシの木は再び成長しましたが、その葉はゴーストタウンを影で覆っています」と彼は1981年の著書『王国』の中で書いている。

「アル・サウードが毎日400人かから500人のベドウィンを歓待した宮殿があります。近くには、アラビアの最高級馬300頭の厩舎になっていたと言われる馬小屋があります。そこにはモスク、商店、見張り台、家、大都市全体の賑やかな構造物があり、すべてが空に向かって開かれていて、砂を吹き飛ばしたポンペイのように不気味なほど空虚です」

サウジアラビア人は、「可能性のフロンティアの永続的な証として、古い首都の殻を残しました」と彼は付け加えた。

今日、「ディリヤゲート」として知られる野心的なメガプロジェクトの中心地として、アト・トゥリフは再び可能性のフロンティアに立っている。

「これはテーマパークではありません」と語るのは、ディリヤゲート開発局の最高経営責任者(CEO)であり、ディリヤに「世界最大の文化遺産開発」を構築する責任を負うジェリー・インゼリロだ。

「アト・トゥリフは神聖な場所であり、それを保護するために、ネックレスの宝石として位置づけています」と彼は言う。

そのネックレスとは、大規模で活気に満ちたコミュニティと主要な観光地であり、アト・トゥリフ周辺で成長し、ディリヤを大学、住宅、複数のホテル、レストラン、博物館、ギャラリー、その他の文化的アトラクションを備えた生きた文化センターへと変貌させる。そこでは数万人の人々が生活し、仕事をし、くつろぐことができる。

すでに工事は進行中だ。第1期は2024年までに完成予定で、完成すればディリヤゲートにはサウジアラビアや海外から毎年2500万人の観光客が訪れると予想されている。

ケルツナー・インターナショナルの社長として、ドバイのアトランティスやリゾートチェーンのワン&オンリーなどのアトラクションを世界に提供してきたインゼリロは、アト・トゥリフを中心としたディリヤを世界で必見の観光地の一つとして確立することに何の問題もないと予想している。

「私はもともと由緒がなく活用できる要素の少なかった場所を有名に仕立て上げることにキャリアの多くを費やしてきました」と彼は言う。「人々の想像力をかきたてるために、アトランティスのような幻想的な見せかけの場所を作らなければなりませんでした」

「由緒やディリヤなどサウジアラビアが持つ多くの歴史的・文化的な遺跡の豊かさを扱う時よりもずっと難しい運動であると思います。ですから、今の私の仕事はただ単に露出を増やし、言葉を広めていくことです」

世界に広く知られるようになれば、サウジアラビアのユネスコ遺跡は「サウジアラビアにとって、ギリシャにとってのアクロポリスや、ローマにとってのコロシアムのようになるでしょう」と彼は考えている。

「私たちはナイーヴではありません」と彼は付け加える。「私たちは王国が何であるかについての既成の固定観念的な態度や考えがたくさんあることを知っています」

「しかし、私たちの仕事は人々を迎え入れることであり、アル・ウラの美しいナバタイ人の墓、歴史的なジッダ、ハイルの古代のロックアート、アル・アフサとディリヤのヤシの木立などを自分の目で見に来てくださいと言うことです。そして、あなたは驚くでしょう」

ツライフの日干しレンガ地区は、1818年のオスマン帝国軍に対するディルイーヤの人々の、勇敢だがついに敗れた6か月間の戦いの傷跡を残している。(Historical Diriyah Development Program)

ツライフの日干しレンガ地区は、1818年のオスマン帝国軍に対するディルイーヤの人々の、勇敢だがついに敗れた6か月間の戦いの傷跡を残している。(Historical Diriyah Development Program)

ツライフの遺跡、1917年。撮影したのは、ジェッダに定住してイブン·サウード初代国王の顧問になった英国の政府関係者、ジョン·フィルビー。(Diriyah Gate Development Authority)

ツライフの遺跡、1917年。撮影したのは、ジェッダに定住してイブン·サウード初代国王の顧問になった英国の政府関係者、ジョン·フィルビー。(Diriyah Gate Development Authority)

ツライフの歴史保護区は、ディルイーヤをサウジアラビア建国を記念する世界的な文化的観光資産として発展させるプロジェクトの中核となっている。(Historical Diriyah Development Program)

ツライフの歴史保護区は、ディルイーヤをサウジアラビア建国を記念する世界的な文化的観光資産として発展させるプロジェクトの中核となっている。(Historical Diriyah Development Program)

サウジアラビアのナジュド地方特有の建築ディテールは、サード·ビン·サウード王子の宮殿の慎重に保存された壁に見ることができる。(Diriyah Gate Development Authority)

サウジアラビアのナジュド地方特有の建築ディテールは、サード·ビン·サウード王子の宮殿の慎重に保存された壁に見ることができる。(Diriyah Gate Development Authority)

三角形の換気口は、ツライフ全体に見られる独特の建築ディテールのひとつで、建物内に空気の流れと低温を作り出すよう設計された、優れた伝統的空調システムの一部を成している。(Diriyah Gate Development Authority)

三角形の換気口は、ツライフ全体に見られる独特の建築ディテールのひとつで、建物内に空気の流れと低温を作り出すよう設計された、優れた伝統的空調システムの一部を成している。(Diriyah Gate Development Authority)

典型的なナジュド風デザインのドア。ディルイーヤ、ツライフの王室区域に隣接するブジャイリ地区にて。(Shutterstock)

典型的なナジュド風デザインのドア。ディルイーヤ、ツライフの王室区域に隣接するブジャイリ地区にて。(Shutterstock)

クレジット

作家: Jonathan Gornall
記者: Rawan Radwan, Lojien Ben Gassem
エディター: Mo Gannon
クリエイティブディレクター: Simon Khalil
デザイナー: Omar Nashashibi
グラフィック: Douglas Okasaki
ビデオ編集Hasenin Fadhel
ピクチャーリサーチャー: Sheila Mayo 
コピーエディター: Sarah Mills
ソーシャルメディア: Mohammed Qenan
プロデューサー: Arkan Aladnani
主任エディター: Faisal J. Abbas