砂漠の嵐:30年後
1991年2月28日、第一次湾岸戦争の勝利によりイラクをクウェートから撤退させることには成功したが、このことがこの地における更なる紛争の引き金となっていった。
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第一次湾岸戦争の始まりを目にした者はほとんどいなかったが、テレビを持っているほとんどの人はその展開を目にした。爆弾に次ぐ爆弾、銃撃に次ぐ銃撃が毎晩夕方のニュースで流れたからだ。
100万人以上の兵士、数千機の航空機、そしてミサイル、軍艦、戦車、砲兵隊が激しく衝突したこの戦争の厳然たる特徴は、初めて世界に生中継されたという点である。
しかしサウジアラビア人にとっては、この戦争はテレビの中だけのものではなく、実体験をともなうものとなった。王国の兵士と空軍が最前線に立ち、リヤドその他の都市に数十発ものスカッドミサイルが降り注いだのである。また、イラク軍がサウジアラビア領内に侵入したこともあった。
サダム・フセイン率いるイラクの脅威にさらされたサウジアラビアその他の湾岸諸国が受けた最大のトラウマは恐らく、アラブ国家が他のアラブ国家に反旗を翻すことはないと思われていたにも関わらず、その兄弟的な絆が断ち切られたことだろう。
サダム・フセイン率いるイラクの脅威にさらされたサウジアラビアその他の湾岸諸国が受けた最大のトラウマは恐らく、アラブ国家が他のアラブ国家に反旗を翻すことはないと思われていたにも関わらず、その兄弟的な絆が断ち切られたことだろう。
1990年8月2日、サダムが南の小さな隣国であるクウェートに侵攻、占領した時にこの戦争は始まった。そして30年前の1991年2月28日、42日間の空爆と米国主導による連合軍の地上攻撃により、わずか100時間で終結した。
それは戦争にしては短かった。サダムの侵略は、独裁者の殺人的な冒険主義に憤った湾岸諸国を含む米国主導の連合国の圧倒的な武力行使によって迎え撃たれたのである。
8年におよぶ紛争の末、やっと1988年8月20日に終結したイラン・イラク戦争に比べれば、確かにこの戦争は短いものだった。イラン・イラク戦争では両国合わせて50万人もの死者が出たという推定もあり、かつては石油が豊富だったイラクも財政難に陥ったのである。
1988年の時点で、理性的なオブザーバーは次に何が起こるかを全く予想できなかった。8年におよぶ大虐殺の後、サダムが再び戦争を起こそうと考えるなどとは、間違いなく誰も予想しなかったのである。しかしサダムは南の小さな隣国であるクウェートに侵攻し、第一次湾岸戦争とそれに続く悲惨な連鎖を引き起こした。
石油が豊富なイランのクゼスタン州を併合するという野心を表明したが、それに失敗したこの独裁者は、今度はクウェートをイラクの19番目の州にしようとした。
イラクの指導者が小国を併合しようとするのは、記憶の限りでも初めてではなかった。1961年には、クウェートがイギリスの保護国として62年をすごした後で独立したわずか1週間後、1958年にイラクの君主制を倒したカシム大統領がこれを侵略すると脅したのだ。クウェートがオスマン帝国のバスラ村の一部であったことから、カシム大統領はクウェートがイラクの「不可欠な一部」であると主張した。しかし、イギリスがクウェートを守ろうとすぐに3,000名の軍隊を派遣したため、カシム大統領はこれを思いとどまった。
しかし、サダムがこのような危険な土地の奪取に踏み切った動機は、恨み、自暴自棄、自己欺瞞というよりも歴史的前例によるものである。イランを倒せなかったため、多くのイラク人は屈辱を受け、イラク国家は貧困に陥り、何十万人もの復員兵は既にほとんど存在していない雇用市場に参入することができなくなっていた。サダムは、イランとの戦争でイラクを支援したアラブ諸国(クウェートとサウジアラビア)に、自国の不安定な状況を責任転嫁しようとしたのである。
このとんでもない裏切りに直面してもなお、湾岸諸国はこの危機を平和的に解決しようとした。しかしサダムは血を流すことに固執した。これは法外な策略であり、失敗することは間違いなかった。そして彼は失敗した。しかし第一次湾岸戦争の終結は、イラクとこの地域全体にとっては、その後数十年に及ぶ破滅の序章にすぎなかった。
戦争の前触れ
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1979年にサダム・フセインが政権を握ったとき、イラクは無借金状態になっていて、外貨準備高は350億ドル、石油収入は1980年だけで260億ドルに達していた。
しかし1980年9月22日、この独裁者がイランに侵攻し、イラク経済に壊滅的な打撃を与えた8年間に及ぶ戦争を始めた時、すべてが変わってしまった。
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1984年7月、8年間にわたる戦争の中盤、イラン・イラク間の国境で衝突する両国の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
戦闘が長引くにつれ、石油収入は枯渇し、イラクは保有高を使い果たした。国際的な貸し手たちに敬遠されたフセインは、同情的な湾岸諸国に融資を要求した。戦争が終った頃には、イラクは周辺の国々に400億ドルの借金があった。
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1980年11月、ヨルダンで開催されたアラブ·サミットでのイラクのサダム·フセイン大統領。(ゲッティイメージズ)
イランとの戦争前、イラクの石油輸出規模はOPEC加盟国の中ではサウジアラビアに次ぐ規模であったが、1979年には日量330万バレルを輸出し、OPEC全体の11.4%を占め、214億ドルを稼ぎ出していた。
しかし、開戦からわずか3年後の1983年には、石油輸出量は日量74万バレルにまで落ち込み、わずか70億ドルの収入にとどまった。
「皮肉なことに、イラク国内で戦争が続き、石油収入が減少し続けるにつれ、イラクの石油という収入源への依存度は高まっていった。これは、この減少しつつある収入で、対外債務を返済するために必要不可欠な軍事的・非軍事的輸入品の支払いをしなければならず、また、新たな借入をするためにも必要であった」と、イラク出身の著名な経済学者アッバス・アル・ナスラウィは、1994年の著書「イラク経済:石油、戦争、破壊、発展と展望、1950-2010年」に書いている。
「このようなイラクにおける石油生産の姿の変化がもたらした重要な影響は、近隣諸国、特にサウジアラビアとクウェートが喜んで提供していた財政支援に対し、イラク政権の依存度が高まったことであった。」
クウェートとサウジアラビアは、イラクに代わって石油の日量約30万バレルを生産・販売することに合意したが、サウジアラビアは国際金融市場でイラクの信用力を高めるための措置を講じ、イラクがサウジアラビアの領土を横断してパイプラインを建設することを許可した。
クウェートとサウジアラビアもまた、一連の融資に合意した。戦争中にイラクを浮揚させるのに役立った寛大さだが、最終的には裏目に出ることになった。サダムは、自らの政権の生き残りを助けた二カ国に反旗を翻し、イランの膨張主義に対抗したイラクに感謝する国からの贈与とみなされるべきだとして、負債を帳消しにするよう湾岸諸国に要求した。
イラクの不幸は、戦争のせいではなく、危機の際のクウェートによる石油の増産による「石油市場の肥大化」が原油価格を抑制し、イラク経済の回復を妨げていたことにあると付け加えた。
1990年を通して、イラクはOPECに生産量を制限するように圧力をかけ続けた。サダムがクウェートとアラブ首長国連邦に対して軍事行動を取ると公然と脅した7月17日には、対立が一層高まったがこの脅威は、サダムがクウェート国境に10万人の軍隊を集結させたときにさらに強まったのだった。
しかし、7月25日までにOPECとの間で妥協案に達し、危機を鎮静化させることができたように見えた。クウェートとアラブ首長国連邦(UAE)が石油の減産を決定し、世界価格を押し上げたことに、世界中は目を向けた。
その日の正午、バグダッドでエイプリル・グラスピー駐イラク米国大使がサダムに召喚された。グラスピーのワシントンへの電報にあったように、フセインが米国大使を呼んだのは初めてのことであり、彼女の報告書はイラク大統領の心境に関して素晴らしい洞察を与えてくれた。
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2時間に及ぶ会談の間、彼の態度は「礼儀正しく、合理的で、温かい」ものだったが、すぐに米国、クウェート、アラブ首長国連邦に対する不満を列挙し始めた。フセインは、イラクが深刻な財政難に陥っていることを認めた。彼曰くイラクのイランに対する勝利は「アラブ世界と西洋に歴史的な違いをもたらした」のだから、イラクは、第二次世界大戦後の西欧における米国の援助プログラムであったマーシャル・プランに似た援助を受けるに値すると述べた。
サダムは、それなのにアメリカ政府は「原油価格を下げてほしい」と訴え、アメリカ政府内の「一部の人々」はイラク政府の後継者についての情報収集さえしていたと苦言を呈した。またUAEやクウェートに言及し、「イラクに損害を与えている国々」を米国が奨励していると述べた。
グラスピーは「この時点で 、サダムが自由無くば死するに如かずと考えるイラク人の誇りについて長々と話した」ことを報告した。そして、イラクは「米政府が飛行機やロケット弾を飛ばしてイラクを深く傷つけることができることを知っている」が、それでも「米国がイラクを、論理を無視しなければならない屈辱的な状況にまで追い込まないことを求めている」とサダムが語ったとグラスピーは述べている。
大使はフセインに、なぜクウェートとの国境にこれほど多くの共和国軍の部隊を配置したのかと質問した。するとフセインは 「彼ら(クウェートやUAE)に我々の苦しみの深さを理解させる方法が他にあるのか」と聞き返した。
会談で米国が主に理解したのは、「イラクは友好を望んでいる」ということだった。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙は、当日から始まったOPEC諸国の会合でイラクが成功したように見えたのは、エジプトのホスニ・ムバラク大統領がイラク、クウェート、サウジアラビアとの和平交渉を急速で進めたため、アラブ湾岸地域の緊張感がかなり薄れたからだと報じた。
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1990年7月24日、危機的状況の平和的解決を模索していたエジプトの指導者ホスニ・ムバラク大統領を歓迎するサダム・フセイン。(AFP)
1990年7月24日、危機的状況の平和的解決を模索していたエジプトの指導者ホスニ・ムバラク大統領を歓迎するサダム・フセイン。(AFP)
また、「ムバラク大統領は、イラクがクウェートやアラブ首長国連邦との石油政策をめぐる相違点を平和的に解決することに合意したと述べた」とタイムズ紙は報じた。7月28日、OPECが石油価格の上昇を望むイラクの意向に沿った減産に正式に合意した後、産油諸国はサウジアラビアのヒシャム・M・ナザー石油相が「歴史的な合意」と呼んだこの合意を歓迎した。
「非常に自信を持っている 」とナザー石油相は述べ、「目的を達成するだろう 」と付け加えた。
確かに、数日の間に紛争の脅威は後退したように見えた。7月31日、イラクとクウェートの代表団は、ムバラクとサウジアラビアのファハド国王が仲介した会談のためにジッダに向かった。国王は代表団を迎え、会談初日の後、アル・ハムラ宮殿で代表団のための夕食会を開催した。
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1990年8月9日、イラクのクウェート侵攻についての協議を目的として緊急開催されたアラブ首脳会議に出席するためにカイロに到着したサウジアラビアのファハド国王を歓迎するエジプトのホスニ・ムバラク大統領。(AFP)
地元メディアは、主に楽観的な姿勢を見せていた。サウジアラビアの新聞紙アルヤウムは、今回の会談は「アラブ連帯の進歩を阻害する可能性のある相違点からアラブ国家を遠ざけるためのアラブ指導者の目標の達成に間違いなくつながる」と記述した。
しかし、そのような楽観論は見当違いであったことが判明した。8月1日、会談は膠着状態に陥った。ワシントンでは、ジョン・H・ケリー米国務次官補がイラクのモハメド・サディク・アル・マシャット大使を召喚し、「紛争は平和的に解決しなければならない 」と警告した。
この問題は、過去5年間で外国の石油への依存度が高まっていた米国にとって致命的なものであった。1985年には日量510万バレルだったアメリカの輸入量は、1990年4月には平均830万バレルにまで増加し、その半分はOPEC産油国からの輸入となっていた。
ブッシュ大統領の国家安全保障顧問、ブレント・スコウクロフト氏は後に、米国はイラクと湾岸諸国の間の紛争を 「OPECの支配をめぐるサウジアラビアと過激派との争い、また、生産量を維持し価格を適正に保つか、あるいは先進国を圧迫するかの根本的な争いである 」との見解を持っていたと回想している。
7月、イラクの姿勢とクウェートとUAEに対するあからさまな脅しに動揺した米国は、UAE軍との合同演習のために、「同盟国を励まし、サダム・フセインを抑制する」目的で2機の空中給油機と数隻の軍艦を湾岸に派遣した。
しかし、クウェートでさえ、8月の初めには「侵略の可能性は当時、ほとんどの人が拒否していた」と、1990年の夏にクウェート国立博物館に勤務していたアメリカ人保存修復家のカースティ・ノーマン氏は振り返っている。
「サダム・フセインの政権は以前にも姿勢を変えて脅しをかけていたし、当時の石油の権利と価格をめぐる意見の相違が戦争に発展するとは到底予想していなかった」と、彼女は1997年に雑誌『Museum Management and Curatorship』に書いている。
8月1日付のニューヨーク・タイムズ紙は、「緊張にもかかわらず......ブッシュ政権内では、イラクはクウェートを威嚇して石油価格やその他の紛争を解決しようとしているが、クウェートへの大規模な攻撃は計画していないというのが一般的な見方である」と報じている。
最後にタイムズ紙は、「イラクがクウェートに侵攻する可能性があると主張したのは、政権内のごく少数の専門家だけである」と結論づけている。
しかし、少数派が正しかったことが判明した。1990年8月2日未明、イラク軍は国境を越えてクウェートに侵入した。
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1984年7月、8年間にわたる戦争の中盤、イラン・イラク間の国境で衝突する両国の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
1984年7月、8年間にわたる戦争の中盤、イラン・イラク間の国境で衝突する両国の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
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1980年11月、ヨルダンで開催されたアラブ·サミットでのイラクのサダム·フセイン大統領。(ゲッティイメージズ)
1980年11月、ヨルダンで開催されたアラブ·サミットでのイラクのサダム·フセイン大統領。(ゲッティイメージズ)
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1990年8月9日、イラクのクウェート侵攻についての協議を目的として緊急開催されたアラブ首脳会議に出席するためにカイロに到着したサウジアラビアのファハド国王を歓迎するエジプトのホスニ・ムバラク大統領。(AFP)
1990年8月9日、イラクのクウェート侵攻についての協議を目的として緊急開催されたアラブ首脳会議に出席するためにカイロに到着したサウジアラビアのファハド国王を歓迎するエジプトのホスニ・ムバラク大統領。(AFP)
クウェート侵略
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1990年8月1日の夜更け、サウジアラビアの将官で王子のハーリド·ビン·スルタンはリヤド近郊の農園にある自宅で、防空本部で一日を過ごした後に友人達をもてなしていた。
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砂漠の嵐作戦で、アラブ合同軍の司令官を務めたサウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将。背後には、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将。(ゲッティイメージズ)
ロンドンに本部を置く国際的な防衛と安全保障のシンクタンクである、英国王立防衛安全保障研究所 (RUSI)のジャーナル1993年に寄稿された記事の中で、「あの8月の夜、戦争は私の意識から最も遠い存在でした、」と将官は思い返した。「電話が鳴った時は、夕飯にバーベキューを行った後にコーヒーを飲んでいて、そこでクウェートが攻撃を受けているという知らせを受けました」
彼の最初の反応は「信じられなかった。アラブ人は否定するかもしれませんが、通常ならアラブ人は互いを侵略したりはしません」
2021年2月16日、アルアラビヤ放送とのアラビア語のインタビューで、サダム・フセイン氏の娘であるラガド・フセイン氏は、父親はなぜクウェート侵攻を決断したのか、そして彼の決断は間違いだったと思うかと尋ねられ、父親を非難することを拒んだ。
「彼らは私たちに対して罪を犯し、私たちは彼らに対して罪を犯しました」と彼女は言った。「双方が互いに相手に対して間違いを犯したのです。兄弟同士が争い、相手に対して罪を犯したということです」
「これは簡単な局面ではありませんでした」と彼女は続けた。「私たちはクウェートとは友好的な兄弟のような関係でした。クウェートの家族には私たちの友人たちもいました。この決断は家族としての私たちには簡単なものではなく、おそらく父にとっても簡単なものではなかったと思います」
イラクは当時、孤立していたと彼女は述べた。「そして私たちは何百という殉教者を出しました。メディアは相手方の殉教者にしか言及しませんでした。殉教者たちの魂に神のご加護がありますように。彼らも多くの殉教者を出しましたが、双方が失い、双方がそれぞれの血を流して代償を払ったのです」
複数の戦車が8月2日の早朝に国境を越えてクウェートへ侵攻し、午前4時までにはイラク特殊部隊がダスマン宮殿の入り口に到着していた。
ジッダでは、アラブニュースのハーリド·アルミーナ編集長が早朝の電話で起こされた。「アラブニュースでテレタイプライターのオペレーターを務めるモハメド·アリが電話口にいた、」と彼は回想した。
「当時はテレタイプライターがニュースを知らせてくれていました。あるときは情報をぽつぽつと、またある時は洪水のように。アリは、クウェートがイラク軍隊に侵略されているとの情報がぽつぽつ入ってきている、と伝えてきたのです」
アルミーナはオフィスに午前6時ごろ到着した。「私たちは報告書を読み始めました。当時、情報のやりとりはとても速いとは言えませんでした。インターネットもなく、携帯電話もなかったのです」。直接話を聞くため、「クウェートにいた友人の一人に電話しました。彼は『うん、イラクの戦車が通りに見える』と。そのまま彼の電話が切れるまで、接続を3時間半保ちました」
その後、撤退するイラク軍に油井が破壊されて燃え続ける中、アラブニュースは開放されたクウェートに入る初の新聞社となる。
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湾岸戦争時に取材と報道を行っているアラブニュース。左から、ワヒブ・グラブ、マハー・アッバス、カリード・アルマイーナの各氏と、サイード・ハイダー東部地域局長。爆発時に割れたガラスが飛散する危険を減じるために窓には目張りがされていた。
湾岸戦争時に取材と報道を行っているアラブニュース。左から、ワヒブ・グラブ、マハー・アッバス、カリード・アルマイーナの各氏と、サイード・ハイダー東部地域局長。爆発時に割れたガラスが飛散する危険を減じるために窓には目張りがされていた。
奇襲攻撃はクウェートにとっては7か月間に及ぶ辛い占領の始まりであり、サダムがサウジアラビアや他の湾岸石油国に押し寄せるのを防ぐ為、多国籍軍達がいかに必要な力を蓄えられるかを競う争いでもあった。
イラクの捕虜によるその後の報告によると、サダムの特殊部隊にはダスマン宮殿の制圧と、クウェートの首長サバーハ·アル=アフマド·アル=ジャービル·アッ=サバーハの捕獲または殺害という任務が課されていた。
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1991年9月28日、ホワイトハウスの南側芝生広場にジョージ・H・W・ブッシュ 米国大統領と共に姿を見せた亡命中のクウェート首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ殿下。(ゲッティイメージズ)
すんでの所で警告を受けた首長とその家族達は直ちに宮殿を去り、車でサウジアラビアの国境までの70キロを走行した。だがアッ=サバーハ一家の全員が生きたまま逃げられたわけではない。短時間ではあったが宮殿の掌握をかけた血濡れの戦いで発生した犠牲者の中には、抵抗しながら亡くなったと報告されている首長の弟、シェイク·ファハド·アル=サバーハもいた。
戦闘機とヘリコプターを後ろ盾に10万人以上のイラク軍と700両の戦車が国境を越えて流れ込んできた事で、少数で大幅に劣るクウェートの軍勢は大いに不意を突かれた。
1992年4月に終結した湾岸戦争に関する米国国防総省の徹底的な報告では、「クウェート軍の抵抗は統制がとれておらず」、そして「各個人の勇敢な行動にも関わらず、クウェート部隊は絶望的に敵わなかった」としている。
敵わなかったかもしれない、だが勇猛果敢であった。イラク飛行場の悪天候により、地上のクウェート空軍を破壊する任務を負った飛行中隊の離陸が約1時間遅れ、クウェートのパイロット達はその短い猶予に乗じて飛行した。
小規模なクウェート空軍は、イラク軍を運びながら国境を越えるヘリコプター航空隊への攻撃に集中した。その様子を一人の目撃者は蜂の群れに似ていたと表現している。ミラージュF1戦闘機と米国製のドグラス社A-4 スカイホークを飛ばし、クウェートのパイロット達は20機以上のヘリコプターと、少なくともロシア製戦闘機を7機、そしてイリューシン軍用貨物機を撃ち落とした
Ahmad Al-Jaber空軍基地のパイロットたちはイラクの航空機に滑走路を爆撃され空港が機能不全に陥った後も、パイロット達は戦い続けた。イラクの地上部隊がクウェートの空軍基地をやっと制圧して初めて、パイロット達は航空機をサウジアラビアに飛ばした。その後、彼らは祖国の解放に向けた連合での奮闘において勇敢な役割を果たすこととなる。
生存者達もサウジアラビアに渡り、クウェート市から約230km離れたハフルアルバティンで再編成するまで、圧倒されたクウェート部隊は孤立して走り続けながら何度も戦った。
1995年に米軍の軍事専門誌Armorに掲載された報告では、橋の戦いの物語が伝えられた。イギリスのチーフテン戦車を装備した2機の戦車で構成された大部隊、第35シャヒード旅団は、Al-Jahraの町の西にあるハイウェイ70とその周辺で起きた一連の戦闘でイラク勢に大量の犠牲者を出した。
一日の大半で敵軍の戦車を多数破壊し、いくつかのイラク軍部隊の動きを封じ、その過程で数えきれない程のイラク軍兵士を殺害した。更に夜に向けて同旅団はサウジアラビアの国境にむけて撤退まで行い、そこで翌朝安全な場所へ渡る前に防御姿勢を取った。
クウェートの一日がかりの征服劇で発生した両国の戦闘死傷者の正確な数は不明だが、ある推定では、約300人のイラク人と400人以上のクウェート人の戦闘部隊が殺害されたと示されている。
攻撃から数日以内に、数千人の外国人を含むクウェートの人口の多くが国から逃れた。エアインディアはクウェートとイラクから10万人の市民を連れ帰る為、インド政府は2か月以上をかけて、史上最大の空輸として歴史に残る合計約500便を運航した。
欧米の石油関連労働者とその家族を含む他の外国人達はそれほど恵まれてはいなかった。約4,000人のイギリス人と2,500人のアメリカ人がまとめられ、その一部はイラクに連行された。そこでサダムは主要な軍事目標への空中攻撃を阻止するべく、人間の盾として彼らを利用したのだ。
クウェートでそれまで5年間働いていたアイルランド系オーストラリア人の会計士、ジョン·レビンス氏は、午前5時40分に友人からの電話で侵略について知ることになる。
「街の中心にあるアパートメントの8階にいました、」と彼は思い起こした。「窓の外を覗くと、共和国防衛軍の歩兵が向かいのサウディア航空事務所の外に駐屯していた警察官をまとめて、武器を取り上げているのを見ました」
遠くで銃声が聞こえたが、彼によると共和国防衛軍は遭遇した外国人たちに対して「極めてプロらしく対応した」という。やがて共和国防衛軍は撤退していった。だがそれが徴兵されたイラク軍に入れ替わり「略奪が始まったのはその時だった」
興味深いことに、とレビンスが回想する。「イラク勢は電気や水、電話線等を遮断するも、欧米の大使館には手を出しませんでした。イラクの一地域としてはクウェート市に大使館は必要ないからと、彼らは職員たちにバグダッドへ移動するよう伝えていました。ですが外交官たちは危機的な状況でも自国の国民に対して領事館としての責任を背負っていると言い、残りました」
米国と英国の大使館職員達は水と食料の非常用備蓄で生き延び、ファックス回線を介して通信し、イラク人が人質の外国人全員を解放しおえた1990年12月の第一週まで、彼らは市内に留まっていた。
イラクが8月に5歳のイギリス人少年、スチュアート·ロックウッドとサダムがポーズをとっている映像を公開した時には、サダムの売名行為が裏目に出た。少年の父親は侵略時にクウェートで化学技術者として働いていた。見るからに怯えた少年は大統領の膝に座ることを拒み、サダムが少年の髪を手で乱す映像で、独裁者サダムは国際社会から軽蔑される事となった。
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イラクで働いてた父親を持つ、怯えた様子の5歳の英国人少年と共に撮影した写真を公開したことで逆効果となったサダム・フセインの宣伝行為。(シャッターストック)
イラクで働いてた父親を持つ、怯えた様子の5歳の英国人少年と共に撮影した写真を公開したことで逆効果となったサダム・フセインの宣伝行為。(シャッターストック)
一部の外国人たちは侵略が発生しているにも関わらず、この渦中に飛び込んできていた。まだ襲撃開始から間もないころ、ロンドンからクアラルンプールへ飛行するブリティッシュ·エアウェイズの149便が、予定されていた燃料補給の為クウェートに着陸した。乗務員たちはこの国が侵略されていたとは気が付いていなかったようだ。
それは300人の乗客と乗組員達、そして一人で搭乗していた10歳のアメリカ人少女にとっては4ヶ月間の試練の始まりであった。その多くがサダム·フセインの「お客様」として、クウェートやイラク周辺を移動で行き来させられた。
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1990年10月3日にイラク軍の拠点を視察している (イラク国営通信社による説明) サダム・フセイン大統領。(AFP)
乗客の一部はイラクで人の盾となってしまった。そのほかの者達は拷問または疑似処刑の対象となるなか、一部の女性達は強姦された。乗客達はクウェート兵の即決処刑や、クウェートの民間人を乗せた車を戦車が踏み潰す事件など、残虐行為も目撃した。
1990年12月にクウェートから去ることができたレビンス氏は、1995年にMiddle East Quarterly誌に掲載された記事で、侵略に抵抗した勇敢な一般クウェート人の物語を語った。
彼は「1990年から91年のクウェートの抵抗という未だ語られていない、重大な国際危機の物語を正当に評価する言葉を見つけるのは難しかった。」と記している。
レビンス氏はクウェート陸軍の中佐でクウェート人の同志たちに敬意を表したAhmad Ar-Rahmaniの言葉を引用した。「クウェートでは子供から老人まで全員が抵抗した、」と彼は言った。「イラクが政府を結成するために必要な操り人形になるクウェート人は誰もいなかった。全クウェート人が抵抗していた」
反逆行為は、占拠初日の朝からクウェート中で現れ始めたスプレーでの反イラク落書きやデモ、仕事復帰の指示に対する拒否、侵略者達の盗みや後に石油備蓄を破壊した際の妨害、占拠者に対する公然の軍事攻撃など、幅広かった。
「多くのクウェート人は女性達が抵抗の基幹となっていたと認めている、」とレビンス氏は書いた。一部の女性達は検問所を通過して武器や弾丸等を密輸し、またその他の者達はより危険な活動にも参加していた。
その一人が「抵抗の偉大なるヒロイン」と称される30歳のAsrar Al-Qabandi氏だ。彼女は初の任務の一つの中で、王室の子供達15人を秘密裏に国外に連れ出した。彼女は1990年11月の初週に捕らえられ、鎖に繋がれ拷問を受けた後、1991年1月13日、または14日に遂に処刑された。
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1991年1月にイラク軍によって処刑された、クウェートの偉大な女性レジスタンス闘士として知られるアスラール・アル=カバンディ氏。
1991年1月にイラク軍によって処刑された、クウェートの偉大な女性レジスタンス闘士として知られるアスラール・アル=カバンディ氏。
1990年11月22日にサウジアラビアにいたアメリカ外交官達からワシントンに届いた電報では、侵略と「その後に続くイラク人達によるクウェートでの残虐行為が、クウェート人達を文字通りサウジアラビアへ追いやった。何千人という難民たちとクウェート政府の大部分が支援と食料を求めてサウジアラビアに辿り着いた。サウジアラビアはそのいずれに対しても寛容な対応を続けている」と報告されていた
サウジアラビアにとってクウェート人達を保護するのは、クウェートの歴史的な名誉に対する恩返しであった。報告書では「世紀の初めにサワード王室がサウジアラビアから亡命中に受けた、サバ一族(とクウェート人)からの支援を公然と振り返り、この危機的状況で助けを必要とする友を援助すると明らかにした」と付け加えている。
これはサウジアラビア史の基礎となった出来事への言及であった。1891年、強力なオスマン帝国との数十年にわたる紛争によって弱体化した第二次サウード国家は、敵対するラシード王朝によってリヤドから追放された。サウード一族は、クウェートの統治者であったSheikh Mohammed Al-Sabahから保護を受けたが、その中にはAbdul Aziz bin Abdul Rahman bin Faisal Al-Saudという名の、世ではIbn Saudとして良く知られる若い男がいた。彼は1902年に自身の生得権を取り戻してサウジアラビアを独立国家へ導くべく、少部隊の戦士達を率いてリヤドへ向かうのだった。
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1910年、イブン・サウード (左側)とクウェート首長シェイク・ムバラク・アル=サバーハ (中央)、ウィリアム・シェイクスピア隊長撮影。
そしてほぼ90年後の現在、王国はその恩返しをする立場となったのだ。
「侵攻が始まったとき、サウジアラビアへやって来た大勢のクウェート人がいました」とジッダでシェフをしているサウジアラビア人のハトーン・マジディ・アルトクヒ氏は当時を振り返る。イラクがクウェートを侵攻した時、彼は12歳で、家族とリヤドで暮らしていた。
「政府が彼らにアパートを無料で提供していました。そうした建物を通り過ぎるときのことを、今でも憶えています。両親は私たちに、そこにはクウェートの人々が匿われて安全に暮らしているのだと必ず言うようにしていました」
「当時、サダム・フセインがクウェートの人々に何をしていたかという話をたくさん聞き、私たちは震え上がったのを憶えています。一番恐ろしかったのは、もし彼がサウジアラビアに侵攻したてきたら……これが私たちにも起こりうるのだということでした」
イラクの全く予想外の武力侵攻に直面して、サウジアラビアは、クウェートに支援の手を差し伸べているときでさえ、国中が自国の脆弱性について思案しているのに気付いた。
「ファハド王が私を合同軍司令部長に任命したとき、」とカリド王子がRUSIの回顧録内で思い起こす。「司令部要員の様子をうかがいました。彼は私のすぐ側に居たので、感じ取るのは容易な事でした。私のスタッフ全員が副官となり、恐ろしい独裁者を止めるための複雑な作戦を計画しようとしていたのです」
将官が念頭に置いたのは「北部一帯が完全に無防備な状態のサウジアラビアを直ちに保護する事」であった。イラクはサウジアラビアの同盟であるはずが故に、王国はその国境北部にたった二旅団しか配置していなかった。それはまさに膨大なイラク軍が今、集結している国境だった。
もしサダムがその時攻撃してきていたならば、「1990年8月と9月の神経をすり減らす日々の中で、私たちができた事はほとんどなかっただろう。サダムを東部地域から追い出すのは、砂漠の嵐作戦よりもはるかに困難な任務だったはずだ」と後に将官が認めている。
サウジアラビア軍を基準にして比較すると、世界で4番目の規模となるサダムの軍は厄介だった。「私達はこの事について、一番よくわかっていました。サダムの軍の構築を手伝ったのは私達だったからです、」とカリド王子は記している。「私たちは人員的、そして武器的にも圧倒的な優位性と直面していました。[さらに] 湾岸協力会議の勢力は、この力関係を変えられる程強くはなかった」
ある軍を除いては、だ。8月2日の早朝、ワシントンでは近東と南アジア問題を担当する国務次官補のJohn H. Kellyが、イラク大使のMohammed Sadiq Al-Mashatに電話を入れていた。国務次官補は、侵略は「国連憲章と常識的な文明行動への違反」であり、イラクは「侵略を止め、その軍隊を直ちに撤退させなければならない」と大使に伝えた。
アメリカは迅速に対応していた。侵略当日のワシントン時間午前9時34分までには、米国の管轄内、米国人または米国企業の管理下にある全てのクウェート政府資産を凍結してイラクの手に渡るのを防ぎ、その他すべての国にも同様の要求をした。同時にイラクの資産を凍結し、すべての商業契約を終了させ、すべての輸出入を禁止した。
アメリカでは軍の準備が既に始動していた。イラクの攻撃から1時間以内には、2隻の空母とその戦闘群が該当の地域へ出向を命じられた。インディペンデンス航空母艦はインド洋のディエゴガルシア島からオマーン湾に向けて蒸気を上げ、ドワイト·D·アイゼンハワー空母は地中海経由で紅海へ向かった。これらは合わせて100機以上の戦闘機を運んでいた。
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砂漠の嵐作戦で、アラブ合同軍の司令官を務めたサウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将。背後には、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将。(ゲッティイメージズ)
砂漠の嵐作戦で、アラブ合同軍の司令官を務めたサウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将。背後には、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将。(ゲッティイメージズ)
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1991年9月28日、ホワイトハウスの南側芝生広場にジョージ・H・W・ブッシュ 米国大統領と共に姿を見せた亡命中のクウェート首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ殿下。(ゲッティイメージズ)
1991年9月28日、ホワイトハウスの南側芝生広場にジョージ・H・W・ブッシュ 米国大統領と共に姿を見せた亡命中のクウェート首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ殿下。(ゲッティイメージズ)
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1990年10月3日にイラク軍の拠点を視察している (イラク国営通信社による説明) サダム・フセイン大統領。(AFP)
1990年10月3日にイラク軍の拠点を視察している (イラク国営通信社による説明) サダム・フセイン大統領。(AFP)
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1910年、イブン・サウード (左側)とクウェート首長シェイク・ムバラク・アル=サバーハ (中央)、ウィリアム・シェイクスピア隊長撮影。
1910年、イブン・サウード (左側)とクウェート首長シェイク・ムバラク・アル=サバーハ (中央)、ウィリアム・シェイクスピア隊長撮影。
偶然にも7月23日からアラブ首長国連邦にあった2機の米国空軍KF-135空中給油機は、同国石油施設の上空で空中警備待機のため飛行していたアラブ首長国連邦空軍の支援にあたる為、その場に留まるよう命じられた。
8月4日、サダムは9名からなる傀儡政権の代表として、二重国籍を持つクウェート軍の中尉、Alaa Hussein Aliを任命した。だがそれはサダムがクウェートをイラクの19番目の州として併合し、カディマ市に改名したと発表した8月28日までしか続かなかった。砂漠の嵐作戦の最中に逃亡したAliはその後、クウェートから欠席裁判で反逆罪による死刑を宣告された。彼は2000年に判決を控訴するため戻り、2001年には終身刑に減刑された。
その後サダムは従兄弟の1人である、アリ·ハッサン·アルマジードを新たな「州」の知事に任命した。アルマジードはバース党の北部局長として1987年から1988年のイラク北部で起きたクルド人の反乱を、残忍な手法で抑圧した事で恐ろしい評価を得ていた。クルド人の間では、彼が民間人の標的に対してサリンやマスタードガスを含む化学兵器を使用したことで「ケミカル·アリ」というニックネームがつけられていた。1988年3月には、ハラブジャの町で約5,000人がガス処刑され、その年の終わりまでには推定18万人のクルド人が殺害されている。
だがアルマジードも遂に裁きを受ける。2003年にイラクが陥落した後、彼は米軍に捕らえられ、非人道的犯罪の罪でイラクの裁判所から死刑判決を受け、2010年1月25日に絞首刑に処されている。
ニューヨークの国連では侵略当日、米国が発起人となった決議が安全保障理事会から一つの反対もなく可決された。その後の5か月間で可決された12の決議の内で初となる、国際連合安全保障理事会決議660とは、イラクに制裁を課して侵略を糾弾し、「イラクが全部隊を1990年8月1日にいた位置に即座に、無条件に撤退する」ことを要求した内容であった。
8月5日の日曜日、ブッシュ大統領は電話外交で1日を終えた後にキャンプ·デービッドからワシントンに戻り、ホワイトハウスの南側にある芝生で記者に対して、世界中で起こっている「集中的な外交活動」について述べた。大統領はアメリカの同盟国はいずれも「イラク軍のクウェートからの完全撤退以下は一切受け入れる意思はなく、傀儡政権は容認しない」と述べた。
「クウェートに対するこの侵略は耐え難いものである」と、彼はサダム·フセインへの明確な忠告で発言を締めくくり、これは世界中のメディアで大きく報道された。
その翌日、ディック·チェイニー米国国防長官がサウジアラビアのファハド国王と面会するためにジッダに出向いた。このすぐ後に有名になる、勲章を持つベトナム帰還兵で中東における軍事作戦を担当していたアメリカ合衆国中央軍(CENTCOM)の司令官ノーマン·シュワルツコフ将軍も彼に同行した。
後にシュワルツコフは、イラク攻撃のタイミングは人々を驚かせたが、偶然にもCENTCOMは過去1年間、今回繰り広げられている状況に非常に似たシナリオの「戦闘作戦」を立てていた、と振り返った。
シュワルツコフ はのちにPBSに「我々は、最初にクウェートを接収することが、湾岸全体を接収するための『イラク勢の』全体的な攻撃の前駆となることを知っていた」と伝えた。「フセインの脅威はクウェート及びアラブ首長国連邦の両国に対するもので、アラブ首長国連邦へたどり着く唯一の経路はサウジアラビアを経由するものだった」
サウジアラビアは非常に攻撃を受けやすくなった。王国へのイラク侵略を阻止するのにその地域の戦力は不十分なのではないかということと、その数を増強することを考える前に、サウジアラビアの許可及び支援が必要であることをアメリカは痛感していた。
「我々が従える予定の軍隊の数が多かったため、サウジアラビアによる入国許可が絶対的に必要であった」とシュワルツコフは後に語った。「そして、彼らの装備を使用することが大いに必要だったため、彼らの承認を得ることが絶対的に必要であった」
最も重要なことに、行動を起こすのに時間が極めて限られているということをアメリカは知っていた。これは、彼らが8月7日のファハド国王との面会へ持ち込んだ強いメッセージであった。
チェイニーは後に次のように振り返る。「世間話はほとんどせず―我々はすぐに本題に入った」。そして国王は2時間の会合中ずっと注意深く耳を傾けた。
「地球半周分の距離を重装備の軍隊に移動させるのは時間がかかるため、十分な時間をもらえなければ、我々が彼らを守ることは非常に難しいということ」をチェイニーはサウジアラビア側に諭した。
次にシュワルツコフ将軍は王国の国境に集まる多数のイラク軍戦車を映したサウジアラビアの航空写真を見せた。実際に、すでにサウジアラビアの領土に設置されているものもあり、例えそれが「何もない砂漠の上」であったとしても、国王は「サウジアラビアの主権が侵害されたと激怒した」
次に将軍は、王国を守るためにアメリカ合衆国が正確にいくつの航空機、軍隊、そして艦艇を連れてきたいかを説明した。それは膨大な数だった。この時点で、チェイニーが間に入り、アメリカ合衆国軍は必要な期間だけ留まり、脅威が取り除かれればすべてのアメリカ合衆国勢力は撤退するということをサウジアラビア側に保証した。
自らの立場の主張を終えたアメリカ側は、国王が王室の何人かと相談をしている間待機した。シュワルツコフによると、アラビア語を話せる駐サウジアラビアのアメリカ合衆国大使、チャールズ·W·フリーマンは、短いながらも盛んな議論中のある時点で国王が「クウェート人はこの問題の結論を出そうとしなかったがために今我々のホテルで暮らしているのであり、私は同じ轍は踏まない」と発言したと、後にCENTCOM司令官及びチェイニーに語った。
アメリカ側は外交ルートを通じてのサウジアラビアの返事には数日かかるだろうと予測していた。しかしシュワルツコフは、「議論の終わりに国王がこちらを向いて、『オーケー』と言ったので、私は危うく椅子から落ちるところだった」と回想した。
それに続く出来事は、第二次世界大戦以来、最も壮観で素早い軍隊、戦車、大砲、艦艇、そして航空機の配置であった。ファハド国王は、サウジアラビアの防衛とクウェート解放の立案指導および実行を手助けする合同軍事司令部となったアラブ軍事組織の司令官にハーリド王子を任命した。
アメリカ合衆国を呼び込むという国王の決断は歴史に刻まれる勇敢な措置であったとハーリド王子は1993年に振り返った。「ムスリムならば、イスラム世界の最も神聖な場所であるサウジアラビア領土に西洋勢力を招き入れる決断を下した先例のない勇気と鉄の意志の真価を認めるだろう」と彼は記した。
将軍が抱えた最も差し迫っていた問題の1つが、「サウジアラビアの土壌及びその土壌のイスラムの性質と、外国勢力の必要性をどのように調和させるか」であった。それには「王国内の大規模な多国籍、多文化的、他宗教的動員が、イスラム及びその聖地や価値に対しての侵略であるとみなされないようにすることが最重要事項だった。イスラムの原理や習慣、そして伝統は尊重され、守られなくてはならなかった。
最終的に、ハーリド王子はサウジアラビアに集合した37もの異なる軍隊の隊員によって示された相互尊重―及び王国の国民の反応―に感心した。
「西洋の寛大さがサウジアラビアの寛大さと一致した」と彼は回想した。「サウジアラビアの国民は臨機応変の処置をとり、それによって私は誇りで満ちた気分だった。彼らは危機を認識し、しかるべきところで大目に見てくれたのである。」
8月9日サウジアラビア時間の午後2時にファハド国王は全国に向けてテレビ演説を行い、そこで侵略を非難し、イラクに対して直ちに無条件で撤退することを要求した。危機を終わらせるための、王国及びアラブ連邦を含むその他の参入者による全ての外交努力を概説した後、彼は王国を守ることの重大な課題に言及し、サウジアラビアの援助要求に応じた「アメリカ合衆国、イギリス、そしてその他の友好的な国々」への感謝を述べた。
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ファハド国王がイラクの「最も恐ろしい武力侵略」を非難したことを報じる1990年8月10日付けのアラブニュース第1面。
国王は複雑な感性を強く認識した上で、数において優勢であり、百戦錬磨の軍隊を持つイラクに対して、王国単体の力では身を守ることができなかったと強調しつつも、西洋支援は一時的なものであり、「王国が要請すればすぐに」すべての外国勢力は撤収するという保証を示した。
ファハド国王がゴーサインを出して12時間以内に、アメリカ合衆国のF-5戦闘機は7回の空中給油を行いながらヴァージニア州のラングレー空軍基地から直行で14時間飛行を続け、サウジアラビアに到着し始めた。アメリカ合衆国やヨーロッパから駆け付けた航空偵察及び早期警戒機の支援を受けて、8月9日までに、航空機は戦闘派遣隊を乗せサウジアラビア国境に沿って飛行していた。
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1991年、サウジ王立地上軍の閲兵式に望むサウジアラビアのファハド国王と同軍中将のハーリド・ビン・スルタン王子。(ゲッティイメージズ)
ジッダ会議からたった2日後の同日に、ノースカロライナ州のフォートブラッグから15,000人強の第82空挺師団のうち最初の2,500人の団員がサウジアラビアに到着し、ダーランの空港の周りに直ちに防御線を張った。
それはぎりぎり手遅れになる前だった。そのころにはクウェート内のイラク区域の数が4から11に膨れ上がり、アメリカ国防総省の評価で「占領必要条件をはるかに超え」、「サウジアラビアへの即時侵略に乗り出すのに十二分の勢力」だった。
何週間もの間、それは一触即発状態であることをサウジアラビア勢もアメリカ勢も認識していた。シュワルツコフも軍隊の隊員たち自身も認識していたように、もしアメリカ合衆国が十分に戦力を増強させる前にイラク勢力が攻撃してきた場合、第82空挺師団は単なる道路上の「減速用の段差」にすぎないのであった。
悪夢のシナリオは、イラク勢が「その時点で攻撃を続け、油田を襲いダーラン港及びダーランの飛行場を確実に奪取する」ことだったとシュワルツコフは回想する。
もしそうなっていたら「イラク勢は海岸を下りながら襲撃し、ダーランへたどり着けばバーレーンを奪取するのはとても容易なことで、さらに海岸を下り続けてカタールとアラブ首長国連邦も奪取されていたかもしれない」
アメリカ側はサダムが意のままに化学兵器を使用でき、過去にも使用歴があるということを強く認識していた。このとき化学兵器は使用されなかったが、防毒マスクと面倒な化学兵器防護服を着けた連合軍の姿がこの戦争の永久的な象徴の1つである。
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1990年、砂漠の盾作戦時、サウジアラビアの夏期の暑熱に順応しようと、化学戦用防護服とM-17A1防護マスクを装着してキャンプ地周辺を巡回する米陸軍第82空挺師団の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
恐ろしいことに、アメリカ側には「常に核兵器の暗黙の脅威が付きまとった」とブッシュ政権下の統合参謀本部議長コリン·パウエルは湾岸戦争の数年後に述べた。「我々がそれを使用することはなかったとは思うが、イラク側はそのことを知らなかった。そして、挑発が深刻であれば、使用することもあったかもしれない」
アメリカ合衆国軍の配置は早急に進められた。8月11日には軍隊や貨物を乗せたB-52型爆撃機及びC-130ハーキュリーズ航空機が領域内に入った。8月12日に第101空挺師団がケンタッキー州フォートキャンベルから配置され始め、8月14日にはカリフォルニア州南部から戦車、ヘリコプター、そして攻撃機を完備した第7海兵機動展開旅団が東部州のジュバイル港で荷卸しをしていた。
たった3週間でアメリカ合衆国は7つの旅団、3つの空母戦闘群、14の戦闘機戦隊、1つの戦略爆撃機飛行隊、そして1つの地対空迎撃ミサイル防御傘を領域内に配置した。しかし、それはまだ始まりに過ぎなかった。その2か月後にアメリカ合衆国軍は「脆弱性の窓」は閉じられ、サウジアラビアの防衛を成功させられる位置にいると判断した。
戦闘前日、イラク勢は540,000の軍隊、4,200以上の戦車、2,800の装甲兵員輸送車、3,000以上の砲兵、そして無数の対空砲台及び地対空ミサイルシステムを集めた。
対するは、ほぼ同じくらいの数の540,000のアメリカ合衆国軍で、1,736の戦闘機、60のB-52型爆撃機、2つの空母戦闘群、無数の軍艦、そして巡航ミサイルを装備したいくつかの潜水艦によって支えられた。
50か国が連合の旗に集結し、そのうち湾岸諸国を含む38か国がさらに200,000の軍隊、750の航空機、そして1,200の軍艦をささげ、陸海空軍を配置した。
「彼らはアラブ及びイスラム諸国を含む、世界の多様な地域から来た」とアメリカ国防総省の戦後報告には記録された。「彼らの軍隊はアメリカ合衆国軍と並んで戦った。彼らはアメリカ合衆国と同様に危険に直面し、死傷者を悼んだが、忠実であり続けた」
毎日、サウジアラビアは750,000の軍隊に食糧及び何百ガロンもの水を供給するという大いに複雑な物流演習も見事に成功させた。
連合国による財政的な貢献はいつも十分に評価されない。サダム·フセインに対抗するための軍事作戦の610億ドル以上の最終費用のうち、アメリカの同盟国は540億ドルを提供した。それは当時世界で3番目に大きな防衛予算に匹敵する額であった。このうちの3分の2は湾岸諸国によるものだった。
1981年にイラン·イラク戦争に対応するために設立された組織である湾岸協力会議(GCC)に、クウェートとともに加盟していた5か国は「強く反応した」とアメリカ国防総省は後に記録した。サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、そしてオマーンは「戦力を約束」し、基地へのアクセスの拡大と物流の援助を提供した。「これらの貢献」はしばしばイラクによる報復の直接的な危険がつきものであったが、取り組み全体において重要であった。
一方クウェートでは、侵攻に続き、国内にイラク人民軍の義勇兵がイラクの民間および軍事諜報機関のメンバーとともに到着し始めた。アメリカ国防総省による後の戦争評価によると、彼らの任務は「クウェートシティーに厳格な制御機構を設立すること」であり、「彼らは乱暴な残虐行為でその任務に直ちに取り掛かった」
後に、クウェート政府はイラクによる占領中におよそ1,000の民間人が殺害されたと推定した。その間、侵略軍は国の金及び外貨準備高とともに、美術館の宝物や車を含むその他輸送コンテナに詰め込めるものなら何でも組織的に奪った。金及び宝石市場は裕福な商人の家と同様に略奪された。
侵略の25日後の8月25日に、カナダ大使館の職員は窓に石がぶつかる音に驚いた。翌日アメリカ合衆国大使館からワシントンへの特電によってこの話が取り上げられた。
「最悪の事態―広く噂されていた金で雇われた暴徒―を恐れながら彼らは窓の外を見た」。暴徒の代わりに、そこにいたのは「2人の非常に怯えたクウェート人の男の子」で、彼らは占領イラク軍の報復の脅威下にいるにもかかわらず、感謝の贈り物を持ってきたのであった。
「彼らは手にチーズバーガーとピクルスの乗った盆、炭酸飲料の入ったケース、そして氷の入ったクーラーボックスを持っていた」とアメリカ合衆国大使館は報告した。「門の近くに食糧を置くと、彼らは『滞在してくれて本当にありがとう』と叫び、駆けていった」。数分後に、「もう1人、幼く、怯えた男の子が門まで来て、卓上キャンドルの箱を門の間から押し通して、走り去った」
アメリカの人々はこの感動的な出来事を「クウェートの人々がまだあきらめていない」ことと、「最終的なクウェートの勝利の兆しとして、彼らに代わって我慢しようという集団的外交的意欲」の証であると解釈した。
この外電は、イラク勢による大使館の封鎖に逆らったことへの「3人の男児とその家族の意欲」の承認の文言ではとてもアメリカ人らしく締めくくられていた。贈られたハンバーガーは「しかも温かく、きちんと作られたもの」だった。
日を追うごとに、イラク勢は時間が無くなっていった。8月25日に、イラクの旗の立った軍艦がクウェートから燃料を発送しているとの情報に促され、国連決議665は湾で海軍に軍事行動をとらせている加盟国に「すべての内部及び外部への海上輸送」を遮り、貨物を点検するように要請した。のちの決議で、食料品や医薬品を抱えるもの以外のすべてのイラクあるいはクウェートへの貨物機を妨げることになった。
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1990年11月22日、米国大統領ジョージH.W. ブッシュはサウジアラビアに赴き、現地で展開中の米軍と感謝祭を共に過ごした。(ジョージH.W.ブッシュ大統領図書館・博物館)
1990年11月29日に国連安全保障理事会はイラクの侵略への軍事的対応の道を開く決議を通した。決議678はサダムに、決議660に応じる「善意の停止として、最後の1つの機会」を与え、1991年1月15日を期限に設定した。
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1990年11月29日、国連安全保障理事会は、1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しなければ武力行使を容認する決議678を採択した。(AFP)
1990年11月29日、国連安全保障理事会は、1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しなければ武力行使を容認する決議678を採択した。(AFP)
もしそれまでにイラクがクウェートから撤退していなければ、クウェート政府の協力国家は「決議660及び全ての関連決議を支持及び実行し、その地域の国際的平和と安全を再建するための手段をすべて行使する」ことを許可された。
国連期限の1週間前の1991年1月8日に、ブッシュ大統領は武力行使を許可する議会決議を要請した。この決議は1月12日に下院と上院で可決され、1月14日に大統領の署名がなされ成立した。
1月9日にチェイニーは、イラクの元首相で当時副首相であったターリク·アズィーズと面会するためにジェノバへ出向いた。その面会によって何かが変わるということへのアメリカ合衆国側の期待は小さかったが、チェイニーは後に「アメリカ国内でアメリカの人々や報道陣、議会に向かって『ほら、私たちはやれることはすべてやりつくしたのですが軍事力を行使する以外他に選択肢がなくなったのです。』といえることはとても有難かった」と回想した。
砂漠の盾作戦と呼ばれた湾岸での75万のアメリカ合衆国及び同盟国軍の5か月にわたる軍備増強は終わりを迎えた。そしてイラク勢は砂漠の嵐作戦と呼ばれる旋風を受けることになる。
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ファハド国王がイラクの「最も恐ろしい武力侵略」を非難したことを報じる1990年8月10日付けのアラブニュース第1面。
ファハド国王がイラクの「最も恐ろしい武力侵略」を非難したことを報じる1990年8月10日付けのアラブニュース第1面。
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1991年、サウジ王立地上軍の閲兵式に望むサウジアラビアのファハド国王と同軍中将のハーリド・ビン・スルタン王子。(ゲッティイメージズ)
1991年、サウジ王立地上軍の閲兵式に望むサウジアラビアのファハド国王と同軍中将のハーリド・ビン・スルタン王子。(ゲッティイメージズ)
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1990年、砂漠の盾作戦時、サウジアラビアの夏期の暑熱に順応しようと、化学戦用防護服とM-17A1防護マスクを装着してキャンプ地周辺を巡回する米陸軍第82空挺師団の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
1990年、砂漠の盾作戦時、サウジアラビアの夏期の暑熱に順応しようと、化学戦用防護服とM-17A1防護マスクを装着してキャンプ地周辺を巡回する米陸軍第82空挺師団の兵士たち。(ゲッティイメージズ)
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1990年11月22日、米国大統領ジョージH.W. ブッシュはサウジアラビアに赴き、現地で展開中の米軍と感謝祭を共に過ごした。(ジョージH.W.ブッシュ大統領図書館・博物館)
1990年11月22日、米国大統領ジョージH.W. ブッシュはサウジアラビアに赴き、現地で展開中の米軍と感謝祭を共に過ごした。(ジョージH.W.ブッシュ大統領図書館・博物館)
砂漠の嵐作戦
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1991年1月17日午前1時30分、サウジアラビア沖の紅海周辺を航行していたUSSジョン·F·ケネディ空母戦闘群の一部を成すUSSサン·ジャシントからトマホーク巡航ミサイルが発射された。その少し後、アラビア湾の1500キロ東の場所で、USSバンカーヒルが夜空に向けて別のトマホークを発射した。
この最初の数発は、砂漠の嵐作戦の中で発射され、軍隊、機械、兵器の驚くほど複雑な指揮の開始を告げるものであった。
いずれのトマホークも、現地時間の午前3時ちょうどにバグダッドの目標に到達することになる。この時刻はH時間、軍事用語では、砂漠の嵐作戦の空中戦の段階の始まりを意味するものだ。それからの42日間で、イラクの防衛·物流ネットワークは、イラクがクウェートから追い出される地上戦への序章として、体系的に破壊された。
1日目には、バグダッドだけでも45以上の標的を含む指令施設に雨あられのごとく破壊攻撃が行われた。また、電力網、通信、防空システム、飛行場、核·化学·生物兵器研究施設、ミサイル生産·発射場、港、石油精製·流通センター、鉄道、橋なども標的となった。夜明けには、クウェートのイラク軍への空爆が始まった。
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砂漠の嵐作戦での支援任務で、サウジアラビア空軍のF-5EタイガーII戦闘機に随伴する米空軍のF-15Cイーグル戦闘機2機。(ゲッティイメージズ)
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砂漠の嵐作戦時、多国籍軍の爆撃によりイラクのアルカイム過リン酸肥料製造プラントが受けた損傷を示す、米戦闘機からの航空写真。(ゲッティイメージズ)
最初の24時間で7隻の軍艦が116発のトマホークミサイルをバグダッドとその周辺の16の標的に向けて発射し、電力供給に混乱を生じさせ、イラクの指揮統制能力に壊滅的打撃を与えることになった。
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砂漠の嵐作戦時、米海軍の戦闘給糧艦ナイアガラ・フォールズからの補給を受けるペルシャ湾航行中の英海軍駆逐艦グロスター (手前)。(ゲッティイメージズ)
H時間の11時間以上前に、長距離爆撃機B-52ストラトフォートレスがルイジアナ州のバークスデール空軍基地から離陸した。その数時間後、イラク領空に近づくと、軍の通信施設やその他の戦略的標的に照準を合わせてプログラムされた36発の空中発射巡航ミサイルが投下された。
その夜だけでも、爆撃機、戦闘機、攻撃ヘリコプター、電子戦機を含む700機の戦闘機がイラク領空に侵入することになった。
最初の一連の攻撃の1つは、第101空挺師団の米陸軍AH-64攻撃ヘリコプター9機が実行し、イラク南西部の早期警戒レーダー施設を破壊し、非ステルス機が発見されることなく通過できる防御の隙間をこじ開けた。
一方、湾岸や紅海の空母から離陸した米海軍機と海兵隊機は、イラク南部の標的に向かった。西部では、米空軍F-15E戦闘機19機が、イラクのレーダー防衛の中の破壊された隙間を通って、スカッドミサイル施設に奇襲攻撃をかけた。
イラク南東部では、英国王立空軍、サウジアラビア空軍、クウェート空軍などの多国籍軍の複数の機体が、飛行場や港湾施設、防空施設その他の戦略的標的を攻撃した。
イラク空軍の大部分は地上にとどまり、航空機や乗員たちは堅固化掩体に避難したが、多国籍軍の爆弾やミサイルには歯が立たなかった。中にはイランに無事避難した航空機もあれば、一部の航空機は民間人居住区の近くや、多国籍軍の航空機の立ち入り禁止が宣言されていた古代遺跡の影に駐機されたものもあった。
1月27日までに、米国中央軍司令部のシュワルツコフ司令官は、イラク空軍は「戦闘不能」であると発表した。
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砂漠の嵐作戦中、多国籍軍によって破壊されたイラク軍のMiG-25戦闘機の残骸。(ゲッティイメージズ)
砂漠の嵐作戦中、多国籍軍によって破壊されたイラク軍のMiG-25戦闘機の残骸。(ゲッティイメージズ)
過ちは避けられなかったが 、 特にそのうちの1つは他の大半のものよりもひどいものだった。2月13日、米軍のF-117ステルス爆撃機2機が、バグダッドの指揮統制用の掩体壕として特定されていた場所を破壊した。実際には、そこは民間の防空壕であり、多くの子どもを含む約400人が死亡した。しかし、空中戦期が終わる頃には、クウェートに駐留するイラク軍の戦闘効率は半減した。
多国籍軍司令官は航空作戦の前も、作戦期間中も、イラク軍がサウジ国境を越えて奇襲攻撃を仕掛けて来ることを恐れていた。サダムは、多国籍軍の兵力が極端に手薄になっていたクウェート侵攻後に実行するチャンスを得たものの、多国籍軍が安堵したように、彼はそのチャンスを掴めなかった。
空中戦の12日目までには、サウジアラビアの防衛が固まっていたため、このような攻撃は完全に非合理的なものとなっていた。そして、当然のことながら、サダムがその部隊に対して、サウジの国境越えを命じ、戦争中イラクの唯一の実質的な地上攻撃を仕掛ける選択をしたのはこの時だった。
1月29日の暗闇の中、数百台のイラク軍の戦車と機械化部隊が、湾岸のサウジの国境の町カフジから湾岸のワフラまでの40キロの前線に沿って前進した。クウェート占領直後、国境に近いという理由で人々が退避していて無防備だったカフジは、イラク軍に占領されてしまった。しかし、長くは続かなかった。
サウジアラビア国家警備隊の部隊や戦車、米海兵隊がイラク軍の前進を阻止しようと前進する中、多国籍軍は前進し、空からの戦術的援護を利用してサダムに高い代償を払わせた。
航空援護を受けられないイラク軍は、通常爆弾やクラスター爆弾で武装した固定翼機から次々と攻撃を受け、一方フロリダの第1特殊作戦航空団のロッキードAC-130ガンシップ3機は、大砲とガトリングガン式の速射重機関銃を発射しながら、多国籍軍に至近射撃援護を行った。
「地上部隊の根気強い抵抗と多国籍軍の絶え間ない打撃の組み合わせが、イラクの前進を阻んだ」と、国防総省は後に報告した。
翌日の夜、サウジアラビアとカタールの装甲部隊がイラク軍に対する反撃を開始し、1月31日の正午までには「町に残っていたイラク軍を壊滅させ、数百人の捕虜を得た」。
カフジの戦闘は終わった。サダムがこの戦闘で何を得ようとしていたのかは一度も明らかにされていなかったが、多国籍軍の参謀は、イラク軍には死者が出るだけで、サウジアラビアやイスラエルの標的に、それもほとんど非効率的にスカッドミサイルを発射することしかできなかった3週間に及ぶ空中戦後のフラストレーションから、この戦いが発生したのではないかと考えた。サダムは人質も狙っていたのかもしれない。戦争捕虜たちは、この攻撃の主な目的は米軍を捕らえることだったと報告している。
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砂漠の嵐作戦での支援任務で、サウジアラビア空軍のF-5EタイガーII戦闘機に随伴する米空軍のF-15Cイーグル戦闘機2機。(ゲッティイメージズ)
砂漠の嵐作戦での支援任務で、サウジアラビア空軍のF-5EタイガーII戦闘機に随伴する米空軍のF-15Cイーグル戦闘機2機。(ゲッティイメージズ)
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砂漠の嵐作戦時、多国籍軍の爆撃によりイラクのアルカイム過リン酸肥料製造プラントが受けた損傷を示す、米戦闘機からの航空写真。(ゲッティイメージズ)
砂漠の嵐作戦時、多国籍軍の爆撃によりイラクのアルカイム過リン酸肥料製造プラントが受けた損傷を示す、米戦闘機からの航空写真。(ゲッティイメージズ)
![](https://www.arabnews.jp/wp-content/uploads/2022/10/shorthand/77538/n1BHCj9hz5/assets/1vvldVHPSW/gettyimages-615293604-2560x1689.jpeg)
砂漠の嵐作戦時、米海軍の戦闘給糧艦ナイアガラ・フォールズからの補給を受けるペルシャ湾航行中の英海軍駆逐艦グロスター (手前)。(ゲッティイメージズ)
砂漠の嵐作戦時、米海軍の戦闘給糧艦ナイアガラ・フォールズからの補給を受けるペルシャ湾航行中の英海軍駆逐艦グロスター (手前)。(ゲッティイメージズ)
しかし結局のところ、国防総省の後の評価では、「あの交戦での彼の惨敗は、より大きな、究極の敗北の予兆となった」。この戦闘は、「イラク兵の意志の低下を示しているように思えた一方、同時にアラブ合同軍の士気と自信を大きく高めることにもなった」。
とはいえ、多国籍軍は地上攻撃が開始されたときに激しい抵抗に会うことを予想していた。イラク軍は5カ月間の占領期間中、決して怠けていたわけではなかった。1月までには、クウェート部隊の数は約50万人にまで増加し、国防総省の戦後の評価によれば、サウジアラビアとの国境沿いには少なくとも2つの「手ごわい」防衛帯が設置されていた。
これらは、地雷原と油で満たされた戦闘壕から成り、地面に埋め込まれた戦車、戦車や迫撃砲、機関銃巣からの砲撃が交錯する地帯で覆われていた。これらの防衛帯の背後では、「イラク軍の最精鋭部隊で構成された、強力で機動力のある重装甲の反撃部隊」つまり、攻撃者が突破してきた場合に反撃するために配置された共和国防衛隊の部隊が集結していた。
海岸沿いでは、海からの陸海空軍共同の攻撃を想定し、陸と海に地雷を敷き詰めて同様の防御を構築し、その一方でイラク軍は、海沿いの高層ビルの多くを「多層要塞に変え」て、要塞化していた。
兵站にも多大な労力が費やされていた。イラク軍は「目を見張るような道路システムを構築し、あまりにも数が多いので、それらをすべて破壊することは不可能」であり、通信回線や補給基地を地下に設けた。地下司令部も建設され、1月初旬までには、クウェートとイラクとの国境沿いに、敵は1カ月以上の継続的な戦闘に耐えうるだけの物資を集めたと、多国籍軍の参謀は見積もった。
しかし、そのような物資は必要なかった。世界で4番目に大きい軍隊は、砂漠の嵐作戦の地上戦の段階が始まって数時間以内にクウェートから退避することになるからだ。
Gデーは1991年2月24日の日曜日だ。国防総省の公式な報告書は、一見手ごわそうに思える防御帯の背後に大勢の敵が集まっていたものの、指揮は無能で、敵に対抗しようと隊列を成した軍隊に制圧される実体を描いている。
イラクの前線部隊は「散発的な...ときには激しい抵抗」を見せたが、撤退するか、降伏するか、戦闘を回避するかのいずれかであった。一般的に士気は低かった。攻勢前にサウジアラビアに逃亡した捕虜や脱走兵は、「イラク軍は食料や水の不足、劣悪な衛生環境」、通信や諜報の断絶に阻まれ、混乱状態に陥っていたと表現した。
湾岸から砂漠を越えて内陸へと500kmにわたって延びる前線沿いでは、多国籍軍の前進は計画通りに進んだ。左側では、主に米英仏の歩兵、空挺部隊、装甲師団が、イラクの奥深くまで突進して東に進路を変え、クウェートのイラク軍の大規模な退路を断ち切った。
クウェートとのサウジ国境の中央部に集まったのは、アラブ合同軍の要員だった。サウジとエジプトの装甲·機械化歩兵師団、シリアの歩兵·特殊部隊、クウェートの旅団は、「それぞれの区域で国境を越えるとき、イラク側の戦闘壕、地雷原、障壁、攪乱射撃に遭遇した」が、すぐにイラクの防衛を制圧した。
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1991年2月25日、クウェートの砂漠で、イラク兵捕虜を監視するエジプト軍と米軍の兵士たち。イラク軍は士気の低さに悩まされていると報じられていた。(AFP)
右側では、ワフラ油田を通ってクウェート市に向かって前進していた米海兵隊がいたが、クウェート市に進入し、解放する名誉は、ハーリド王子の指揮下にあり、多国籍戦線の最も右側につけていたアラブ合同軍の手に渡った。
王子の下には、GCCの6カ国を代表する3つのタスクフォースがあった。初日の終わりまでに、湾岸のアイオワ級戦艦USSミズーリとUSSウィスコンシンの16インチ砲の砲火による支援を受けながら前進したこの東部統合戦力郡は、多くの捕虜を奪い、初日の目標をすべて達成した。
2 日目には、地上攻撃は全ての前線沿いで、勢いを保ちながら前進を続けた。イラクの2個の師団が、クウェート市に向かって海岸沿いを前進するアラブ合同軍に対して短時間の激しい抵抗を行ったものの、その日の終わりまでには「戦闘不能」であると評価されることになり、その部門の全ての多国籍軍部隊が目標を達成した。
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砂漠の嵐作戦2日目、1991年2月25日、イラクの地雷原に入り込み爆発するエジプト軍の軽装甲車。(AFP)
しかし、他の点では上手くいっていた2月25日の出来事に、暗い影が落ちることになった。開戦前、イラクの最も恐れられていたスカッドミサイル能力に多国籍軍の参謀の多くは不安を抱いていた。しかし結局のところ、スカッドは心理的な影響以外何も与えることはできなかった。ロシア製の大型ミサイルは、高性能爆薬を満載していたものの比較的原始的なジャイロスコープ誘導システムで制御されており、精度はあまり高くなかった。
スカッドをイスラエルの都市に向けて発射することで、イスラエルを戦争に駆り立て、サダムに敵対するアラブ諸国に葛藤を生じさせ、米国主導の多国籍軍を分断することがサダムの望みだった。それはほぼ上手くいった。
チェイニーは後に「スカッドが飛び始めたとき、当たり前だが、イスラエルは本当に報復したがっていた」と回顧している。イスラエルは米国に対し、サウジアラビア、ヨルダン、シリアの領空に同国の機体を飛行させる交渉をするよう求めたが、「もちろん我々はそれを拒否した」。
イラクは、1月17日の多国籍軍の空爆開始直後から、イスラエルとサウジアラビアの標的にスカッドを発射し始めた。テルアビブ地域を中心にイスラエルを襲った42発のミサイルによる死者は2人にとどまったものの、200人以上が負傷した。
約46発のスカッドがサウジアラビアに向けて発射され、そのうち18発がリヤドを標的とした。ミサイルの多くは目標を大きく外れて飛んだか、米国のパトリオット·ミサイル迎撃システムによって撃ち落とされた。しかし、1月25日にはリヤドのサウジアラビア内務省の建物に1発のミサイルが直撃し、1人が死亡、さらに数十人が負傷した。
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1991年2月25日、クウェートの砂漠で、イラク兵捕虜を監視するエジプト軍と米軍の兵士たち。イラク軍は士気の低さに悩まされていると報じられていた。(AFP)
1991年2月25日、クウェートの砂漠で、イラク兵捕虜を監視するエジプト軍と米軍の兵士たち。イラク軍は士気の低さに悩まされていると報じられていた。(AFP)
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砂漠の嵐作戦2日目、1991年2月25日、イラクの地雷原に入り込み爆発するエジプト軍の軽装甲車。(AFP)
砂漠の嵐作戦2日目、1991年2月25日、イラクの地雷原に入り込み爆発するエジプト軍の軽装甲車。(AFP)
そして2月25日にはもう1発が壊滅的な結果をもたらした。午後8時30分過ぎ、ダーラン飛行場を狙ったスカッドが、米軍の兵舎として使用されていたアル·コバール郊外の倉庫を直撃したのだ。28人のアメリカ人が死亡、260人以上が負傷し、その多くが近くのサウジの病院で治療を受けた。この1回の攻撃で、この戦争全体でのアメリカ軍の犠牲者数の3分の1を占める犠牲者を出した。
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イラク軍のスカッドミサイル1発がサウジアラビアのアルコバールにある米軍部隊を収容していた建物に命中し、28人の米国人が死亡した。これは、この戦争での米国人死亡者数全体の3分の1にあたる。(AFP)
サダムにとって、この攻撃は最後の悪あがきだった。その日の終わりまでに、バグダッドラジオは、敗北した独裁者がクウェートからの撤退を命じたと報じた。翌2月26日、戦闘地域の東側からイラク軍の大規模撤退が始まった。
海兵隊とアラブ軍に一掃されたイラク部隊がクウェート市を拠り所とする中、個々の部隊が「混ざり合い、無秩序状態になった」と、国防総省は後に報告している。午前中ずっと、「軍用車と、乗っ取られたあらゆる車種の民間人車両が、イラク兵やクウェートから略奪した物資を積んで、クウェート市から北の主要4車線道路に渋滞を引き起こした」。
これがバスラとクウェートの間を走るハイウェイ80で、すぐに「死のハイウェイ」として世界に知られるようになった。
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バスラとクウェートシティを結ぶハイウェイ80は、米軍機が撤退するイラク軍を繰り返し攻撃したことから「死のハイウェイ」と呼ばれるようになった。(ゲッティイメージズ)
バスラとクウェートシティを結ぶハイウェイ80は、米軍機が撤退するイラク軍を繰り返し攻撃したことから「死のハイウェイ」と呼ばれるようになった。(ゲッティイメージズ)
退却した部隊がイラクで再編成を行い、効果的な防衛戦を開始するのを阻止するため、彼らは多国籍軍の航空機の攻撃を何度も受けた。この戦闘段階は、後に批判されることになるが、シュワルツコフ司令官に同情心は一切なかった。
彼は後にこう振り返った:「高速道路を爆撃したのは、あの高速道路に大量の軍用装備があったからだ。私は、破壊し得るあらゆるイラクの装備を押さえろと命令した。これらは、イラク軍が後から使えないようにすべき装備だったからだ」。
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「第二に、クウェートから逃げていたのは、クウェート市で残虐行為を行っていた人々だった…これは、単に国境を越えてイラクに戻ろうとしていた無実の人々ではない。これは、クウェート市の繁華街で強姦し、略奪し、捕まる前に国外に脱出しようとしていた強姦魔、殺人鬼、凶悪犯集団だ」。
他の場所では、イラク兵が集団で降伏し、地上攻撃3日目の2月26日の日没までに、多国籍軍はイラク国内数百キロのところまで入り込み、43個師団のうち26個師団を破壊または無効化し、全軍を撤退させ、3万人以上の捕虜を捕らえた
その日の終わりまでに、当初競うように北上し、東へと旋回してユーフラテス川まで進んだ左側と中央部の多国籍軍は、イラク南部とクウェートのサダム軍の行く手を完全に遮り、包囲した。
再びクウェートでは、北部統合戦力郡のアラブ軍が、1つを除いて全ての目標を達成していた。夜が迫ると、タスクフォース·ハーリドはエジプト軍とシリア軍の支援を受けながら、東のクウェート市に向かった。右側の東部統合戦力郡は予定よりもはるかに早く、「非常に上手くいったので、西側の境界線は2度も変更され、目標が4つ追加で与えられた」と、国防総省は報告した。
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その日の終わりまでには、翌日には「汎イスラム部隊がクウェート市に入るための準備が行われた」。2月27日未明、第2武装偵察隊の海兵隊12人がクウェート市内に潜入し、「イラクの敗残兵から散発的な発砲を受けながらも、建物からクウェートとアメリカの歓喜の旗を振る人々の歓迎を受けた」。アラブ軍も、市の西と東に入ると、同様に熱狂的な歓迎を受け、一方のサウジアラビアの特殊部隊はサウジアラビア大使館の安全を確保した。
地上攻撃は2月28日木曜日午前8時に終了した。連合装甲師団が敵地に400キロ以上突っ込んだ、わずか100時間の戦闘の後、大言壮語のイラク軍は崩壊状態に陥った。3847台の戦車、1450台の装甲兵員輸送車、2917の大砲が破壊または確保され、43師団のうちわずか5師団しか攻撃任務を遂行できない状態となり、8万6000人の捕虜が捕らえられたのだ。
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1991年2月27日、多国籍軍によるクウェートシティの解放を喜ぶクウェート人たち。(ゲッティイメージズ)
イラクの軍人と民間人は、その指導者が無謀であるがゆえに、高い代償を払った。ある推計によれば、この戦争では、20万人ものイラク人兵士と、それに匹敵する数のイラクの民間人の命が犠牲になった。それに比べて、多国籍軍の犠牲者はわずかで、敵の行動による直接的な犠牲者は合計でわずか250人にとどまった。
国防総省の評価では、多国籍軍は「軍事史上最速かつ最も完全な勝利」を収めた。その過程で、多国籍軍は「武装したイラク軍をクウェートから追放し、クウェート作戦区域の共和国防衛隊を壊滅させ、クウェートの合法的な政府の再樹立を支援する」という3つの目的を全て達成した。
しかし、サダム·フセインは権力の座に留まった。
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イラク軍のスカッドミサイル1発がサウジアラビアのアルコバールにある米軍部隊を収容していた建物に命中し、28人の米国人が死亡した。これは、この戦争での米国人死亡者数全体の3分の1にあたる。(AFP)
イラク軍のスカッドミサイル1発がサウジアラビアのアルコバールにある米軍部隊を収容していた建物に命中し、28人の米国人が死亡した。これは、この戦争での米国人死亡者数全体の3分の1にあたる。(AFP)
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1991年2月25日、クウェートシティ、サウジアラビア装甲部隊が監視する中、白旗を掲げ降伏するイラク軍兵士たち。(AFP)
1991年2月25日、クウェートシティ、サウジアラビア装甲部隊が監視する中、白旗を掲げ降伏するイラク軍兵士たち。(AFP)
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1991年2月27日、多国籍軍によるクウェートシティの解放を喜ぶクウェート人たち。(ゲッティイメージズ)
1991年2月27日、多国籍軍によるクウェートシティの解放を喜ぶクウェート人たち。(ゲッティイメージズ)
余波
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第一次湾岸戦争の最も知られた写真の一つは、1991年4月にNASAのスペースシャトル「アトランティス」が撮影したものである。終戦から5週間後に撮影されたこの驚くべき写真には、退却するイラク軍が放火した油井から、クウェート市周辺の空に濃厚な黒煙が流れ込んでいる様子が写っている。噴煙は何百キロにも及び、大気中5キロの高さまで達した。
サダム・フセインの執念深い環境テロ行為により、クウェートの油井は900以上が損傷し、608が放火され、42が流出した。砂漠に放出された1億5600万バレルの原油は広大な湖を形成し、その多くは地中に吸収されるのに何年もかかった。1991年1月17日に空中戦が開始して間もなく、イラク軍兵士は推定1100万バレルの石油をアラビア湾に流出させた。これは、1989年3月にアラスカのプリンス・ウィリアム湾で座礁したタンカー「エクソン・バルデス」が流出させた量の20倍に相当する。
1月25日、多国籍軍の空襲が強まると、イラクは再びクウェート産原油の湾内への放出を開始した。これは、多国籍軍機がポンプ場や配管を標的にして流れを止めた1月27日まで続いた。クウェートとサウジアラビアの海岸が1,200キロ以上にわたって汚染され、渡り鳥やカメなどの野生生物が壊滅的な被害を受けた。国際的な消防チームが消火するのに8カ月を要した。
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1991年3月30日、クウェート南部のアル=アフマディ油田で、撤退するイラク兵によって破壊された油井で作業するレッド・アデア消防隊の隊員たち。(AFP)
1991年3月30日、クウェート南部のアル=アフマディ油田で、撤退するイラク兵によって破壊された油井で作業するレッド・アデア消防隊の隊員たち。(AFP)
クウェートが戦争で受けた物質的な損害は石油の損失だけではなく、同国の遺産の一部も失われた。侵略軍は、イラク古物局の職員も加わって、クウェート国立博物館の略奪を組織的に進め、バグダッドに出荷するための品々を選び出した。盗品の中には、サバ・コレクション・オブ・イスラム・アート、イスラム美術と歴史の図書3000冊、博物館の考古学コレクション4万点が含まれていた。また、約2万冊からなる国立博物館図書館全体も略奪された。
1991年9月と10月に、国連がクウェートから略奪された物品の返還を監督する新機関、国連財産返還局を設立した後、物品の多くはクウェートに返還されたが、すべてが回収されたわけではなかった。
サダムの執念深い破壊行為や大規模な略奪行為は、第一次湾岸戦争の影響のごく一部にすぎず、その地政学的な影響は今日もこの地域を覆っている。
もちろん、オサマ・ビンラディンとアルカイダの台頭、2001年の米国同時多発テロ、2003年のイラク侵攻、イスラム国の出現など、それ以来、中東を襲ってきた無数の大惨事の原因として湾岸戦争を挙げるのは簡単である。
クウェート侵攻のわずか2カ月前に第17回アラブサミットのためにバグダッドに滞在していた元アラブニュース編集長のハーリド・アルメーナは、「今日のアラブ世界の問題のほとんどは、サダムの侵略の直接的な結果である」と考えている。
「もしフセインがクウェートを侵略していなければ、アルカイダもイスラム国も存在しなかっただろう。クウェート侵攻は、アラブ人が激しく対立し、実際に戦っている姿を見たいと願う人々にとって究極の瞬間だった」
ハーリド王子にとって、この紛争がアラブ諸国間の関係に悪影響を与えたことは間違いない。「フセインによる不文律と呼ばれるアラブの掟への違反、自分の仲間への共食い的な暴行は、アラブの中心的な絆を断ち切ったが、それを修復するには何年もかかるのではないかと危惧している」と、彼は1993年にRUSI誌に寄稿している。
「湾岸諸国と中東の未来には問題が山積しており、これは不幸である。これ以上の問題は必要ない」と将軍は付け加えた。
ロンドンに拠点を置く国際問題シンクタンク、チャタムハウスのイラク・イニシアティブ・プロジェクトの責任者であるレナド・マンスールは、サダムが米国同時多発テロの後の2003年ではなく、1991年に失脚していたら、今日の世界がどうなっていたかは想像もつかないと語る。
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第1次湾岸戦争は、2001年9月11日のアルカイダによる米国への攻撃を含む破滅的状況の連鎖を引き起こしたとして非難されている。(ゲッティイメージズ)
しかし、2003年にアメリカがイラクに介入した際の問題点の一つは、「戦略に深みがなく、終わりがないこと、つまり『衝撃と畏怖』という考えでは、によってすぐに国家を変えられると考えた」ことであった。
イラクの脱バアス化は、「フセインの側近だけでなく、国全体の公務員のトップ層をも排除した」とマンスールは述べている。「これは、米国とその同盟国が犯しうる中でも最も大きな戦略的な間違いの一つであった」
国を再建するための代替案がなければ、その結果として混乱は避けられなかった。
「もしブッシュが1991年にフセイン氏を追い出して排除していたとしても、国家を維持していたらどうなっていたかはわからない。しかし、おそらくイラクは2003年以降、このような軌道をたどることはなかっただろう」
ブッシュ政権の元国務長官ジェームズ・ベイカーは、1991年の戦争から5年後、ロサンゼルス・タイムズ紙に寄稿した記事の中で、米国はサダム・フセインを失脚させるつもりはなかったと述べている。バグダッドへ進撃せず、イラクへの進撃を止めた理由の一つは、「米国とアラブ諸国を含む多国籍軍は、サダムが喫したような大規模な軍事的敗北では、サダムは生き残れないと一様に信じていたからである」としている。
アメリカが多国籍軍を築いた政治的・戦争的な目的はすべて達成されていた。ベーカーは、これ以上進撃すると、米国の国民や政府が受け入れられない規模の犠牲者を出すことになっただろうと付け加えた。イラクの兵士と民間人は、「クウェートの戦場でこれまでになかった獰猛さで、敵による自国の占領に抵抗することが期待されていた可能性がある」
たとえサダムが捕らえられていたとしても、米国は長期にわたる占領と反乱に直面していたかもしれない。「国連安全保障理事会の権限を超えれば、フセインがアラブの民族主義者の英雄になった可能性がある」とベーカーは締めくくった。「突然、世界中に非難されたクウェート侵略から解放するための多国籍軍の戦争は、地域全体の『アラブ街』の視点では、米国帝国主義の戦争に変貌しただろう」
米国同時多発テロの後、そのような懸念は一掃された。ジョージ・W・ブッシュ大統領の政権下にあった多くの人々にとって、イラク問題は、1991年に彼の父が着手した未解決の課題であった。
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2003年5月1日、原子力空母エイブラハム・リンカーン艦上で演説し、イラクでの大規模戦闘の終結を宣言し、「対テロ戦争の勝利」を祝うジョージ・W・ブッシュ米大統領。(AFP)
2003年3月20日、米国主導の多国籍軍によるイラク侵攻作戦「イラクの自由作戦」が始まった。再び「衝撃と畏怖」の空襲を経て、優れた火力を前にイラク軍は崩壊したが、これは100日戦争ではなかった。混沌とした内戦と反乱が続くことになる。
米軍が2011年にようやくイラクから撤退した時には、この紛争は8年8カ月に及び、数万人のイラク人兵士、武装勢力、民間人、そして米軍の4500人の兵士の命を奪った。
それに比べれば、1991年2月24日のイラク戦争終結から30年を振り返ると、第1次湾岸戦争は無邪気な時代のように思える。ハーリド王子が1993年に書いた文章で指摘しているように、第一次湾岸戦争は湾岸諸国の政治、特にアラブと西洋の関係の性質に好ましい変化をもたらした。
「このような関係の歴史があったため、アラブの本能は西側を手の届く範囲に留めておこうとしていたが、この危機はその考え方を変え、『両者は決して会わない』という時代遅れの概念にしてしまった」と彼は書いている。
「アラビア砂漠では、利害が収束すれば東洋と西洋は共に立ち上がり、共に戦うことができることが実証された」
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第1次湾岸戦争中のファハド国王と米軍のノーマン・シュワルツコフ将軍。サウジ王立地上軍中将のハリド王子は、「アラブ世界と欧米は利害が一致する場合であれば助け合い共闘し得ることが、アラビアの砂漠において、証明された」と述べた。(SRMGアーカイブ)
サダム・フセインは2003年12月に米国に捕らえられ、3年後にイラクの法廷で人道に対する罪で有罪判決を受けて絞首刑に処され、1990年に同胞のアラブ人に犯した残虐行為の究極の代償を払うことになった。
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2003年12月13日、数ヶ月に及ぶ逃亡の後、サダム・フセインは米軍部隊に身柄を確保された。故郷のティクリート近くで地下穴に潜んでいたところを発見されたのだった。(AFP)
しかし、彼が自国民とアラブ世界にもたらした戦争が終わって30年後の今も、それ以来、この地域を支配してきた混沌と紛争の中で彼の遺産は生き続けている。
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第1次湾岸戦争は、2001年9月11日のアルカイダによる米国への攻撃を含む破滅的状況の連鎖を引き起こしたとして非難されている。(ゲッティイメージズ)
第1次湾岸戦争は、2001年9月11日のアルカイダによる米国への攻撃を含む破滅的状況の連鎖を引き起こしたとして非難されている。(ゲッティイメージズ)
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2003年5月1日、原子力空母エイブラハム・リンカーン艦上で演説し、イラクでの大規模戦闘の終結を宣言し、「対テロ戦争の勝利」を祝うジョージ・W・ブッシュ米大統領。(AFP)