惨事の解剖学

20年経った今でも、イラクはブッシュの誤った戦争の代償を払っている

20年前の2003年3月19日、アメリカが主導する連合軍がイラクに侵攻した。前例のない、力による主権国家指導者転覆を正当化するため、アメリカ人たちとその同盟国のイギリス人たちは、サダム・フセイン大統領が大量破壊兵器を所有し、それを使用する準備をしていた、そしてアルカイダのアメリカに対する9月11日の攻撃で彼の政権がそれに共謀していたと主張した。  

いずれの主張も誤りであることが判明した。 

911攻撃から1週間後の2001年9月18日、ワシントン駐在サウジアラビア大使のバンダル・ビン・スルタン王子は、ホワイトハウスにジョージ・W・ブッシュ米大統領を訪問した。 

ブッシュ大統領の国家安全保障会議メンバーだったブルース・リーデル氏が後にこう回想している。大統領が大使に、911攻撃の背後にはイラクの存在があると考えていると語ったとき、「バンダル王子は目に見えて困惑していた」 

リーデル氏はこう言った。王子は「ブッシュ大統領に対し、サウジアラビアは、(死亡したアルカイダの指導者)ウサマ・ビン・ラディン氏とイラクとの間に協力関係があったという証拠は何ひとつ持っていない。実際には、彼らの間にあるのは敵対者としての歴史だと語った」 

しかし、ブッシュ大統領は「イラクの独裁者サダム・フセインに取りつかれており、911攻撃の首謀者についてアメリカ国民を意図的に誤解させた... そしてその結果、アメリカはアルカイダに殺された人々の仇を取るようなふりをして、イラクに戦争を仕掛けたのだ」 

2021年9月11日に Lawfare のブログに掲載された記事で、リーデル氏はホワイトハウスでブッシュ大統領と面会した後、次のように記した。「バンダル王子は私に対し個人的にこう言った。サウジアラビアはブッシュ大統領がイラクに取り憑かれていることをとても心配している。またサウジアラビアは警戒している。イラクを攻撃することはイランに利益をもたらすだけであり、地域全体を極めて不安定な状態に陥れると」 

それはその後現実となる予言であり、恐ろしい結果が今日まで続いている。 

これは、アメリカとその同盟国が、今考えれば正当化できないことがはっきりしている侵略行為を正当化するために、どのように情報を改ざんしたり、故意に誤情報を伝えたりしたかの物語だ。 

イラクの人々は大きな代償を払い続けており、それはまた侵略による人的被害の物語でもある。 

米軍が2019年に発表したこの戦争に関する研究で結論付けられているように、アメリカによる侵略と占領の後、数年にわたる内戦と暴動から唯一の勝者が現れた。それはイランだ。 

戦争へと至る曲がりくねった道 

2001年9月11日 

「では、ニューヨーク市からの中継画像に行きましょう。どうやら飛行機一機がニューヨーク世界貿易センターに衝突したようです…現時点では情報が限られており、負傷者については分かっておりませんが、明らかに大災害となる可能性があります…」

―9.11テロ攻撃に関する最初期の報道の1つである午前8時52分のFOXニュース。 

2001年9月11日

「UBLだけではなく、S.H.を同時に攻撃。短期的な標的が必要、大々的に、全てを掃討する。そうしなければ、有用なものを攻撃することはできない」 

―ドナルド・ラムズフェルド米国防長官の補佐官スティーブン・カンボーン氏は、ペンタゴン攻撃後のラムズフェルド長官の最初の考え(すなわちオサマ・ビンラディン氏とともにサダム・フセイン氏を攻撃すること)を記録している。 

2002年9月14日

「ジョージ・ブッシュ大統領がトニー・ブレア首相と話したとき、私も大統領執務室にいました。そして、トニー・ブレア氏と9.11について話している最中に、大統領が『我々はイラクも攻撃する』と言い出しました。ブレア首相は全くあっけにとられていました。時が経った今は、もちろん、理解してくれるでしょう」 

―元CIAの分析官で2001年に大統領の国家安全保障会議顧問を務めたブルース・リーデル氏は、2021年のスピーチにて、9.11米国テロ攻撃の3日後のジョージ・W・ブッシュ大統領とトニー・ブレア首相の電話会談をこう振り返る。 

2001年9月18日

「9.11の1週間後、サウジアラビア大使のバンダル・ビン・スルタン王子がブッシュ大統領に会いにホワイトハウスに来ました。リチャード・チェイニー副大統領と(元米国国家安全保障問題担当大統領補佐官のコンドリーザ・)ライス氏も同席していました。私のメモには、大統領は『明らかに、本件の背後にはイラクがいるはずだと考えている。バンダル王子に対する質問に、大統領の偏見が現れている』とあります。バンダル王子は目に見えて困惑していました。彼はブッシュ大統領に、サウジアラビアにはビンラディン氏とイラクが協力しているという証拠はないと言いました。実際、彼らは歴史的に敵対していたのです」 

―元CIAの分析官で2001年に大統領の国家安全保障会議顧問を務めていたブルース・リーデル氏は、2021年の9.11記念日に記した文章において、イラクの関与を米国が示唆し、これに対してサウジアラビアが困惑した旨を回想している。 

2002年11月8日

「安全保障理事会は…イラクによる安保理決議の不履行、ならびに、大量破壊兵器および長距離ミサイルの拡散が国際の平和と安全に対してもたらす脅威を認識し、イラクに対して安保理の関連決議によるその軍縮義務を遵守する最後の機会を与えるとともに、このため、決議687(1991)およびその後の安保理決議によって確立された軍縮プロセスの全面的かつ検証された完遂をねらいとして、拡充された査察体制を構築することを決定する」 

―英国および米国が起草し、安全保障理事会が全会一致で採択した国連安全保障理事会決議1441。 

2003年2月3日

「(イラクの)隠蔽工作の基盤について、週末に更なる情報を発出しました。わが国の安全保障サービスの誠実さについて、人々が多少なりとも理解してくれることを願っています。彼らがこれを公表したり、この情報を提供して、でっち上げたりしているのではありません。これは彼らが受領した情報であり、それを公共に伝えているのです。昨年公開した関係資料においても、また週末に発表した資料においても、膨大な量の隠蔽と欺瞞が行われていることは非常に明白です」 

―トニー・ブレア首相による、「怪しい資料」として知られる資料の公開に際して下院で行った演説。 

2003年2月5日

「同僚の皆様に、英国が昨日配布した最終文書に注目していただきたいと思います。イラクによる隠蔽活動が素晴らしく詳細に記述されています。サダム・フセイン氏が生物兵器を保有しており、さらに多くの兵器を迅速に製造する能力を有している点で疑いの余地はありません。そして彼は、大規模な死と破壊を引き起こす可能性がある方法で、かかる致死性の毒や病気を散布する能力も有志知恵ます…私は(また)、イラクとアルカイダ・テロ・ネットワークとの間の不吉な結びつきにも注目していただきたいと思います…イラクは現在、アブ・ムサブ・ザルカウィ氏が率いる危険なテロリスト・ネットワークを抱え込んでいるのです」 

―コリン・パウエル米国務長官による国連安全保障理事会でのプレゼンテーション「イラク、武装解除の失敗」 

2003年2月7日

英国首相官邸は昨夜、英国政府のイラクに関する(諜報資料に基づいているとされる)最新文書の大部分が、(数年前に出版されたものを含む)学術論文から引用されていることが明らかになり、国際的に大恥をかいた。

–ガーディアン紙「専門家『英国の戦争関連資料は虚偽』」

2003年2月17日

「イラクをめぐる西側諸国の同盟分裂と、今週末に世界各地で起こった大規模な反戦デモは、地球上には未だ超権力が2つ存在することを思い起こさせる。すなわち、米国、および国際的世論の2つである。ブッシュ大統領は、粘り強い新たな敵と正面切ってのにらみ合いを行っているように見える。敵とはすなわち、手にした証拠に基づき戦争反対を叫んで街にあふれた、ニューヨークをはじめとする世界の数十の都市の数百万の人々である」 

―2月15日に世界中で3000万人以上の人々が来るべきイラク侵攻への抗議のデモ行進を行った後、ニューヨーク・タイムズ紙。 

2003年3月7日

「3ヶ月の強制的査察の後、我々は今日まで、イラクにおける核兵器プログラムの復活の証拠や兆候の発見には至っていない」 

―国際原子力機関(IAEA)のモハメド・エルバラダイ所長。 

2003年3月17日

「国連安全保障理事会は責任を果たしていません。だから、我々は自らの責任のために立ち上がります。ここ数日、中東では自らの役割を果たそうとしている数カ国の政府があります。彼らは、平和的な軍縮が進むよう、独裁者対してイラクを去るよう求めるメッセージを、公的にも私的にも発信しています。彼は今のところ拒否しています。数十年にわたる欺瞞と残虐行為のすべてが、今、終わりを告げました。サダム・フセイン氏およびその息子らは、48時間以内にイラクを去らなねばなりません。拒否した場合、軍事衝突が起こることになります。その開始時期は我々が決めます。自身の安全のため、ジャーナリストや査察官を含むすべての外国人は、直ちにイラクから立ち去ってください」 

―テレビ演説にて、サダム・フセイン氏に最後通牒を突きつけるブッシュ大統領。 

2003年3月19日

「同胞の皆さん。現在時刻において、アメリカ軍および連合軍は、イラクの武装解除、イラク国民の解放、そして重大な危機から世界を守るための軍事作戦の初期段階にあります。私の命令により、連合軍はサダム・フセイン氏の戦争遂行能力を削ぐため、軍事上重要な標的を選定して攻撃を開始しました。これは序章であり、この後は広範かつ協調のとれた作戦が続きます」 

―ホワイトハウス執務室から国民に向けた演説において、ブッシュ大統領は「イラクの自由作戦」開始を発表した。 

暴かれた嘘 

2003年5月29日

2003年7月17日、英国政府が大量破壊兵器に関する書類を「捏造」したと主張した生物兵器の専門家で国連の武器査察官のデビッド・ケリー氏が、オックスフォードシャーの自宅近くの森で死亡しているのが発見された。彼の死は自殺と断定された。

2003年7月17日、英国政府が大量破壊兵器に関する書類を「捏造」したと主張した生物兵器の専門家で国連の武器査察官のデビッド・ケリー氏が、オックスフォードシャーの自宅近くの森で死亡しているのが発見された。彼の死は自殺と断定された。

「その書類作成を担当する高官の1人は、実際には政府はその45分の数字が間違っていることを、それを挿入することを決める前でさえ知っていた可能性があると述べた。この人が言うには、公開日の1週間前は、実際にはむしろ当たり障りのない草稿だった。既に公に知られている以上のことは述べておらず、英国首相官邸の情報源によると、もっと誇張し、よりエキサイティングに作り、より多くの事実を明らかにするよう命じられた」 

–ラジオ4の番組「Today」に出演した、BBCの記者アンドリュー・ギリガン氏。 

2003年6月25日 

「私が文書を『誇張した』という話は真実ではない。私が『諜報機関に圧力をかけた』という話は真実ではない。我々が何らかの形で、諜報機関が適切と考えていたよりも45分における指揮統制点を増やしたという話は、真実ではない」 

–英国外務委員会に証拠を提供した、ブレア氏の報道官だったアラステア・キャンベル氏。 

2003年7月7日

2017年3月にロンドンの帝国戦争博物館で開催された反戦運動に関する展示「People Power: Fighting for Peace (人の力:平和への戦い)」で展示された、燃え盛るイラクの油田の前で自撮り写真を撮るトニー・ブレア氏を描いた作品。

2017年3月にロンドンの帝国戦争博物館で開催された反戦運動に関する展示「People Power: Fighting for Peace (人の力:平和への戦い)」で展示された、燃え盛るイラクの油田の前で自撮り写真を撮るトニー・ブレア氏を描いた作品。

「我々は、この『45分の主張』は裏付けのない単一の情報源から出た機密情報に基づいていたため、その書類の中で強調されていることを正当化できなかったと結論づける。政府は、なぜこの主張が特に強調されたのかを説明するべきだ……我々は、イラクの大量破壊兵器計画のさらなる証拠が明らかにならない限り、9月の同文書でなされた主張に対する動揺と不安は継続し、払拭される可能性は低いと結論づける」 

–英国下院外務委員会の報告書「イラク戦争に行く決断」 

2004年1月28日

「最も懸念すべきことに、我々は皆間違っていたことが判明した」

–イラク侵略後に大量破壊兵器の証拠を発見できなかった、1,400人の強力なイラク調査グループの責任者としてCIAに任命されたデビッド・ケイ氏による、米国上院軍事委員会に対する証言。ケイ氏は2004年1月23日に辞任した。 

2004年1月29日

2005年5月、イラク・エルビル訪問中に、クルド人の指導者マスード・バルザニ氏と米兵と写真に収まるコンドリーザ・ライス米国務長官。(AFP)

2005年5月、イラク・エルビル訪問中に、クルド人の指導者マスード・バルザニ氏と米兵と写真に収まるコンドリーザ・ライス米国務長官。(AFP)

「我々が知っていたことと現場で見つけたことの間に違いがあるという証拠を、我々は持っていると思う」 

- イラク侵攻を提唱し、米国国家安全保障担当大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライス氏。 

2004年3月3日

2003年11月27日、イラクを突然訪問し、バグダッド空港に駐留する米軍に感謝祭の七面鳥を提供するジョージ・W・ブッシュ大統領。(AFP)

2003年11月27日、イラクを突然訪問し、バグダッド空港に駐留する米軍に感謝祭の七面鳥を提供するジョージ・W・ブッシュ大統領。(AFP)

「アメリカ国民に何もかも打ち明けることだ。(ブッシュ大統領は)『我々は間違っていたし、その理由を突き止めようと決意している』と言うべきだ」

–イラク調査グループ責任者を辞任した後のデビッド・ケイ氏。 

2004年3月17日

「戦争の準備段階で、サダム・フセイン氏とイラク人は国連の査察に協力していた……約700件の査察が行われたが、大量破壊兵器は発見されなかった」 

–国連監視検証査察委員会委員長を務めた、ハンス・ブリックス氏。 

2004年7月7日

イラク侵攻に向けた米国の諜報機関の失態に関する上院特別委員会の批判的な報告を提出するパット・ロバーツ上院議員(左)とジョン・D・ロックフェラー4世。

イラク侵攻に向けた米国の諜報機関の失態に関する上院特別委員会の批判的な報告を提出するパット・ロバーツ上院議員(左)とジョン・D・ロックフェラー4世。

「情報機関が2002年10月に発表した国家情報評価における主要な判断のほとんどは、『イラクの大量破壊兵器のための継続的計画』であり、その根底にある諜報機関の報告書を誇張しているか、裏付けられていないかのどちらかである」 

–米国議会上院情報特別委員会による、「イラクに関する米情報機関による戦前の情報評価に関する報告書」 

2004年7月22日

2003年7月21日、モスルを訪問するポール・ウォルフォウィッツ米国防副長官。彼は、ブッシュ政権で最初にイラク侵攻を主張したメンバーの一人だった。

2003年7月21日、モスルを訪問するポール・ウォルフォウィッツ米国防副長官。彼は、ブッシュ政権で最初にイラク侵攻を主張したメンバーの一人だった。

「ポール(・ウォルフォウィッツ米防副長官)は、イラクは対処すべき問題であると常に考えており、これをイラク問題の対処法としてこの出来事を利用する一つの方法と見なしていた」 

–同時多発テロに関する独立調査委員会報告書の中で、コリン・パウエル米国務長官が出した声明。 

2004年10月6日

イラクのアルカイダの指導者であるアブ・ムサブ・アル・ザルカウィ。米国主導のイラク侵攻後初めてイラクに入り、シーア派に対するテロ作戦に乗り出した。彼は2006年6月7日、米軍の爆撃により死亡した。(AFP)

イラクのアルカイダの指導者であるアブ・ムサブ・アル・ザルカウィ。米国主導のイラク侵攻後初めてイラクに入り、シーア派に対するテロ作戦に乗り出した。彼は2006年6月7日、米軍の爆撃により死亡した。(AFP)

「CIAの報告書は、イラク侵攻前にブッシュ政権が主張していたように、サダム・フセイン元イラク大統領がアブ・ムサブ・ザルカウィ氏を匿っていたという決定的な証拠を発見していない」 

–ロイターの報道。 

2005年3月31日

ブッシュ大統領は、イラクの大量破壊兵器に関する戦前の情報を検証する独立委員会の共同議長として、民主党の元上院議員のチャック・ロブ氏(左)と元裁判官のローレンス・シルバーマン氏を指名した。(AFP)

ブッシュ大統領は、イラクの大量破壊兵器に関する戦前の情報を検証する独立委員会の共同議長として、民主党の元上院議員のチャック・ロブ氏(左)と元裁判官のローレンス・シルバーマン氏を指名した。(AFP)

「諜報機関は、イラクの大量破壊兵器に関する戦前の判断のほとんどすべてにおいて、完全に間違っていた。これは重大な諜報活動の失敗だった。その主な原因は、情報機関がイラクの大量破壊兵器計画に関する良い情報を収集できなかったこと、収集できた情報を分析する際の重大な誤り、またその分析のどれだけが良い証拠ではなく仮定に基づいているかを明確にできなかったことである」 

–2004年2月6日に大統領令で設置された、大量破壊兵器に係る米国の情報能力に関する委員会の結論。

2005年9月8日

「私は米国を代表してそれを世界に発表した者であり、(それは)私の経歴にいつまでも残るだろう。非常に辛かった。今も心苦しい……諜報機関の中には当時、その情報源の中には良くないものがあり、信頼するべきではないことを知っていて、声を上げなかった者たちがいた。私は打ちのめされた」 

–米国国務長官を辞任した後、コリン・パウエル氏はABCニュースのバーバラ・ウォルターズ氏に対し、2003年2月に国連安全保障理事会で行った、イラク侵攻を訴えた演説を後悔していると語った。 

2007年11月6日

2008年3月18日、イラクのバラド空軍基地で米兵を前に演説するディック・チェイニー米副大統領。(AFP)

2008年3月18日、イラクのバラド空軍基地で米兵を前に演説するディック・チェイニー米副大統領。(AFP)

「リチャード・B・チェイニー氏は、合衆国副大統領の職を忠実に遂行するという憲法上の誓いに違反し…イラクに対する米軍の使用を正当化するためにイラクの大量破壊兵器の脅威を捏造し、わが国の国家安全保障上の利益を損なう方法で、米国市民と議会を欺くための諜報プロセスを意図的に操作した」 

–25人の民主党員と1人の無所属下院議員が共同提案し、デニス・クシニッチ下院議員が提出した、当時現役のリチャード・チェイニー副大統領に対する弾劾決議案。司法委員会が審議しなかったこの決議は、2009年に失効した。

2016年7月6日

2003年8月19日、ロンドンの高等裁判所の前に集まった1万人以上の反戦デモ参加者。イラクの大量破壊兵器に関する主張がトニー・ブレア政権によって誇張されていたことを明らかにした後に死亡が確認された兵器専門家のデビッド・ケリー氏の自殺についてハットン調査団が調査を行っている。(ゲッティ)

2003年8月19日、ロンドンの高等裁判所の前に集まった1万人以上の反戦デモ参加者。イラクの大量破壊兵器に関する主張がトニー・ブレア政権によって誇張されていたことを明らかにした後に死亡が確認された兵器専門家のデビッド・ケリー氏の自殺についてハットン調査団が調査を行っている。(ゲッティ)

「我々は、軍縮のための平和的選択肢が尽きる前に英国がイラク侵攻に参加することを選択したと結論づけた。当時の軍事行動は最後の手段ではなかった……イラクの能力に関する判断……は、根拠のない確信と共に提示された」 

–ブレア氏の後任だった当時の英国首相ゴードン・ブラウン氏が提唱し、ジョン・チルコット卿が委員長を務めたイラク調査委員会の報告書。 

カリフォルニア州立大学歴史学部准教授 イブラヒム・アル・マラシ氏

 

 

その後 

2003年4月2日

「OK、兄弟、着いたぞ。さあ、どうする?」 

― 米国第3歩兵師団がバグダッド中心街を掌握した後、ウィリアム・ウォレス中将は多国籍軍陸上部隊本部に指示を求めた。 

米国の軍事計画担当者は、30年間の大半にわたってイラクを支配していたサダム・フセイン大統領を打倒するには70~120日かかると推定していた。しかし実際には、イラク軍を敗北させ同大統領を潜伏生活に追い込むのには3週間しかかからなかった。 

「イラク解放作戦」の開始を告げる銃弾が発砲されてからちょうど3週間後の4月9日、独裁者はバグダッドのアダミヤ地区に現れ、テレビカメラの前で支持者らに呼びかけた。公の場に姿を見せたのはこれが最後となった。 

同日、バグダッドの抵抗軍は崩壊し、首都は米国の手に陥落した。あちこちの街頭でイラン国民が祝い始めた。 

4月9日、象徴的な出来事が起こった。バグダッドのフィルドス広場にあった高さ12メートルのフセイン像が群衆に襲撃され、最終的には通りかかった米海兵隊のM88装甲回収車によって引き倒されたのだ。 

その後、フセイン大統領は姿を見せていなかったが、12月13日、7ヶ月間にわたる逃亡の末、米軍の特殊部隊によって発見された。バグダッドの北西150キロメートルに位置する出身地ティクリートの近くの農場の地面に掘られた穴の中に隠れていたのだ。身なりを乱し、髭を大量に生やし、混乱した状態だった。 

米国では、フセイン体制の指名手配犯の顔を載せて彼らにかけられている賞金を宣伝する55枚組のトランプが発行されていた。その中のスペードのエース、サダム・フセイン大統領の賞金は2500万ドルだった。 

しかし、フセイン大統領の隠れ場所を米国に教えた人物(同大統領の身内でボディーガードだった)は何の報酬も貰えなかったと言われている。逮捕されて尋問された後に初めて場所を明かしたからだ。 

サダム・フセイン大統領の息子であるクサイとウダイ(ハートのエースとクラブのエースだ)にかけられた賞金はそれぞれ1500万ドルだった。二人は7月22日、モースルの邸宅に隠れていたところを米軍に襲撃され、投降を拒否したため殺害された。クサイの14歳の息子ムスタファも同時に死亡した。 

この邸宅の所有者(元体制支持者で彼らを匿っていた)は、彼らを裏切ったことで報酬を全額受け取ったと言われている。

5月1日、ブッシュ大統領は再びテレビに登場した。湾岸から帰還したばかりの空母エイブラハム・リンカーンの飛行甲板からの放送だった。 

星条旗が鮮やかに描かれ「任務完了」という言葉が書かれた大きな横断幕の前に立った大統領は、「イラクにおける主要な戦闘活動は終了した」と発表した。 

歓声を上げ喝采する乗員らに対し、大統領はこう言った。「イラクの戦いにおいて米国と同盟国は勝利した」 

これは、大統領自身、そして何千人もの米国人やイラクの家族を苦しめることになる思い上がった主張であったことがやがて明らかになる。 

この一応の勝利のために連合軍側が払った犠牲は軽かった。5月1日までに死亡した米兵は172人、イギリス兵は33人、クルド人のペシュメルガ戦闘員は約24人だけだった。 

2003年5月1日、カリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に向けて出航する原子力空母USSエイブラハム・リンカーンにて、国民に向けて演説を行うジョージ・W・ブッシュ米国大統領。(AFP)

2003年5月1日、カリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に向けて出航する原子力空母USSエイブラハム・リンカーンにて、国民に向けて演説を行うジョージ・W・ブッシュ米国大統領。(AFP)

もちろんイラク側については、軍でも民間でも話は別だった。戦闘員の死者は4万5000人にも上り、民間人の死者は7200人と推定された。 

しかし、この戦争は終結にはほど遠かった。間違いの悲劇のせいで犠牲者は増え続けることになる。 

サダム・フセインの打倒まで容易な段階だったと、アメリカ人たちは痛いほど明確に思い知ったのだった。 

イラクに長年圧制を敷き、イラク北部のクルド人たちを容赦なく迫害してきたサダム・フセインの時代の終焉を悲しむ者は国の内外にほとんどいなかった。 

1980年のサダム・フセインによるイラン侵攻は、血生ぐさい戦争となり、8年後に膠着状態となるまでに少なくとも50万人のイラク人と同数かそれを越える人数のイラン人の命を奪った。1990年には、サダム・フセインは、油田を奪取しようとクウェートに侵攻し、地域全体を破滅の瀬戸際に立たせた。 

しかし、追放された独裁者サダム・フセインの与党バース党が無力化され、イラク軍全体が解体され、米国が戦後のイラクについて何ら計画を有していなかったことから生じた2003年の真空状態の中で、イラクは何年も続く騒乱、派閥間の暴力、内戦状態に陥ってしまった。これは、ダーイシュの出現、イラクの内政におけるイランの影響力の密やかな強まりに最適の状況となった。 

ダーイシュの出現

ダーイシュの出現

米陸軍の上層指導部によって2013年に委託され最終的に2018年に出版されたイラク戦争の遂行についての驚くほど率直な研究書2巻は、戦争を始めた政治家たちが決して認められなかったことを認めていた。 

イラク戦争の人的、物的コストは「驚異的」だった。しかし、この研究書には、イラク戦争の最も「核心的な結果」は「戦略地政学的帰結」の文脈の中にあり、「イラクはもはや脅威ではなく、地域を攪乱するイランの影響力が急速に拡大した」と付け加えれている。 

実際、「血気盛んで拡大志向のイランが唯一の勝者であると思われる」と、この研究書は結論付けている。「伝統的にこの地域でイランの拮抗勢力だったイラクは、控え目に言っても弱体化されてしまい、最悪なことにイラク政府の主要素がイランの便益のために代理人のように機能してしまっている」と、この研究書は続けている。 

イラク侵攻後の余波の経緯は、イラク人が民主主義をもろ手を上げて歓迎するものと思い込んでいた米政権の不手際と失敗のカタログである。自分たちを縛り上げまとめ上げていた無慈悲な鎖から解放され、数十年にわたって耐えてきた抑圧の報いと力を求める、多様な派閥に分断されたイラン国民の底意を、米政権は見過ごしていた。 

結果論ではあるが、2001 年 12 月 28 日に、米中央軍のトミィー・フランク司令官が、キャンプ・デービッドでブッシュ大統領とドナルド・ラムズフェルド国防長官に示したイラク侵攻の4段階計画は危険なほど考えの甘いものだった。 

第1段階から第3段階までに問題は無かった。意欲を持ったパートナー国や支援国と連合体を構築し、「イラク社会やイラク軍のいくつかの部分に無抵抗を促すための心理的軍事的欺瞞作戦」に着手し、最終的に、イラクに侵攻して、まだ消えて無くなっていない軍部隊をすべて撃破し、「イラク政権指導部を除去する」計画である。 

しかし、第4段階の、新政府への権力の移行を含んだ、いわゆる戦闘後の「安定化作戦」は別の問題だった。 

米陸軍の明確な分析が指摘しているように、この重要な段階については考慮が足りていなかった。考慮されている部分も、一連の的外れな想定により、根本的に台無しにされていた。 

その中で特に肝要なのは、「米軍は解放者として歓迎され、イラク軍は、より見識のある新政府の下で治安維持に役立つはずだ」という部分だった。 

その結果、「イラク軍の撃破と政権交代の強要という当面の目標」に焦点を置いた米軍は、「まさに直面しようとしていた複雑な第4段階への準備が不完全」だったのである。 

「イラク国民は多国籍軍を歓迎し、迅速に通常生活を再開するだろうという過剰に楽観的な戦略評価」によって誤った方向に導かれた多国籍軍の司令官らは、「広範囲の治安悪化と略奪行為」に直面し驚愕した。それと同時に、バグダッドとアンバールで抵抗する残存勢力との戦闘は継続し、北部の大部分は未だ確保されていなかった。 

当初は、暖かい歓迎という予想は正しいようだった。 

「サダム・フセインがもう権力を掌握していないことが明らかになった時点で、イラクの市民たちはバグダッドやその他の解放された地域の街頭で熱狂的なパーティを開始した」と、この作戦の米陸軍による公式分析には述べられている。 

しかし、祝祭はすぐに何か別のものに姿を変えてしまった。多国籍軍は、「その後の社会秩序の完全な消滅に対しては不備」で、政権崩壊後数日で、「バグダッドと他の地域は混沌状態に陥ってしまった」のだった。 

バース党やイラク政府事務所、警察署と病院を含む公共施設への襲撃と略奪が行われ、時として放火もあった。略奪者らは、バグダッド国立博物館に押し寄せ、値段がつけられないほど貴重な工芸品が数百点も盗まれ、その多くが後に国際市場に出回った。 

そこかしこで暴動が広がり、米軍には、多国籍軍を挑発し暴力を行使させようと画策する試みと映った模様である。 

4月9日のバグダッド陥落から10日以内に、様々な宗派の宗教主導者が、全国の都市で権力の座を得ようと策を弄し始めた。 

イラク侵攻後の占領下の混乱を代表するものは、軍政から文民統制への移行を支援するために米国防省が急遽開設した「復興・人道支援室(ORHA)」である。 

資金不足、人材不足のORHAは退役したジェイ・ガーナー元将軍の指揮下に置かれた。2008年に戦闘研究所によって発表された評価書には、ガーナー元将軍は、「61日間で、組織を構築し、機関間の計画を立案し、そうした計画をアメリカ中央軍と調整し、配下のスタッフを占領地域に展開することになっていた...ほぼ遂行不可能な任務の寄せ集めだった」と述べられている。 

遂行不可能 ― そして、結局は無意味だった。 

ジェイ・ガーナー

ジェイ・ガーナー

フィルドス広場でサダム・フセインの像が引き倒されてから2日後、ガーナー元将軍は、4月11日のバクダッド到着から3週間を経ずして解任された。そして、ORHAは、連合国暫定当局(CPA)に置き換えられた。 

CPAの指揮を執ることになったのは外交官から実業家に転身したポール・ブレマー氏である。ブレマーは、ブッシュ大統領によって、5月9日に急遽駐イラク大統領特使に任命されたのだった。ブレマー氏は、ラムズフェルド国防長官の「権威、指示、管理」に従いつつ、命令による統治を行う権限を与えられていた。 

数日後、ブレマー氏は大惨事を招く2つの思い切った命令を発した。 

解任された前任者のガーナー元将軍は、最大30万人のイラク軍人を採用し、国家再建並びに法と秩序の回復に役立たせようと計画していた。また、中間レベルのバース党の管理職だった人員を呼び戻し政府の運営に充てる心づもりだった。 

ガーナー元将軍は、また、国家の運営をイラク人の手になるべく早く戻すために、民主的な選挙を行うことも計画していた。後になってガーナー元将軍が言明したように、ブッシュ大統領からコンドリーザ・ライス国家安全保障問題担当補佐官、ラムズフェルド国防長官、ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官まで、全ての関係者の承認を得ていた計画だった。 

「出来るだけ早期にイラク人たちの手に意思決定を委ねること、そして、それを何らかの形で選挙を通して実現することが私の最優先事項でした」と、ガーナー元将軍は2004年3月にBBCに語っている。 

「私は、ただ、私たちが確固たる方法で案内し手助けして、イラク人たちがすぐにでも自らの運命を担うようになることが必要だと考えたのです」 

しかし、5月12日にバグダッドに到着したブレマー氏は異なる考えを持っていた。 

2003年5月18日、イラク北部の都市モスルの警察署を訪問する途中、サダム・フセインの汚された壁画の前を通り過ぎるイラク連合国暫定当局の新しい代表ポール・ブレマー氏(中央)と米軍司令官デビッド・ペトレイアス少将(左)。(AFP)

2003年5月18日、イラク北部の都市モスルの警察署を訪問する途中、サダム・フセインの汚された壁画の前を通り過ぎるイラク連合国暫定当局の新しい代表ポール・ブレマー氏(中央)と米軍司令官デビッド・ペトレイアス少将(左)。(AFP)

4日後、ブレマー氏がほぼ最初に為したことは、「イラク社会の脱バース化」という第一番目のCPA命令の発出だった。 

大学や病院を含め全ての中央省庁や機関の「執行部上位3層」の全員の審査を行い、バース党との関連が発見されれば、「その職位から解任し、将来の公共部門での雇用を禁止する」ことになったのだった。 

多数の人々が職務柄党員にならざるを得なかった事情を考慮しない、十把ひとからげの命令だった。一夜のうちに、イラクの社会機構は、公務員や官僚に始まり医師、教員に至るまで必要不可欠な数万人の人材を失ってしまった。 

だが、本当の火種となったのは、CPAが1週間後に出し、イラク軍を解散させた命令その2「Dissolution of Entities」だった。 

訓練を受けて武器も持っている30万人の兵士が突然、母国の再建に携わる代わりに無職となったのだ。彼らは怒り、街に繰り出した。 

怒った兵士の多くが反政府活動に加わり、それがまたたく間に広がった。最終的に数万人のイラク人と4000人のアメリカ兵士の命が失われた。後日そうした事実が明らかになったとき、ブレマー氏は命令に従っていただけだと語った。 

2007年9月のニューヨーク・タイムズのオピニオン記事に、彼はこう記している。「今では、サダム・フセインの軍を解散させる決断は誤りであり、開戦前の米国の計画に反し、私自身が下した決断だったという見方が広く受け入れられている」 

ポール・ブレマー

ポール・ブレマー

「そうした方針は米国政府のトップにいた制服組と非制服組によって入念に検討された。そして、それは正しい決断だった」 

作戦を評価した米軍の報告書が2019年に公表されたが、ブレマー氏の意見には賛成していない。 

報告書にはこう書かれている。「イラクのスンニ派の多くが政権からの転落に憤りを覚えていたのは確かだが、連合軍が最終的に、イラク政府でスンニ派が多数を占めることの価値を認めるだろうと期待していたスンニ派もいたのだ」 

しかし、ブレマー氏の最初の2つの命令によって「そうした希望的観測が失われ、ほとんどのスンニ派が占領軍に反感を抱くようになった。その結果、連合軍の追放を目論む、市民権を剥奪されたイラクの元兵士やバース党の幹部、スンニ派に大衆の支持が集まった」 

スンニ派の部族と連携せずに、ブレマー氏のCPAがシーア派の指導者に働きかけているという認識が広がったことが、事態をさらに悪化させた。 

2巻からなる軍の報告書にはこう書かれている。「スンニ派の指導者は当然、自分たちが連合軍の側にいると考えていた。イランという共通の敵を抱えていたからだ。スンニ派がイラク政府を掌握するという(期待された)連合軍の決断の対価として、彼らはシーア派のイラン人をイラクから追い出し、石油の利益を米国や味方の勢力と分かち合おうとしていた」 

ところが、スンニ派の部族指導者たちは、シーア派がイラク暫定政権で多数派を占めるのを米国が容認しようとしていることを悟った。すると、「彼らはすぐさま連合軍に反旗を翻した。そして多数が他のスンニ派の抵抗勢力やテロ組織と手を結び、イラクのスンニ派地域から連合軍を暴力的に排除しようとした」 

その後の数年間、ブレマー氏とCPAには多くの問いかけがなされることになる。 

「侵攻計画にあったように政権を転覆して暫定政権を樹立する代わりに、米国のバース党排除の強い方針やイラクの安全機構全体を解体するという決断によって、イラク国家という大きな仕組みが実質的に崩壊した。国家統治と安全保障の空白が生まれ、その穴埋めに6~7年を要した。 

「これらのことが大きな要因となり、また、不首尾に終わった再建の努力と満たされなかった人民の期待も合わさり、イラクは完全な内乱・内戦状態に徐々に陥っていった」 

血と涙の収穫 

「破壊され占領されたイラクは、国家と非国家の間でさ迷っている。サダムを追放すれば解放と繁栄、自由が約束されていると聞かされたイラク人が当初抱いた慎重な楽観論は、最初の自動車爆弾で脆くも崩れ去った。待ち望んだ平和は来ない、それどころか、占領によってさらに悪いものが解き放たれたということが明らかになったのだ」 

―ガイス・アブドゥル・アハド『生まれ故郷の異邦人』ハッチンソン・ハイネマン,2023年3月 

2003-2006―騒乱と宗派抗争 

2003年8月7日:バグダッドのヨルダン大使館で爆弾が爆発し、17人が犠牲になった。この事件は、連合軍やシーア派を標的とした英語名「一神教・ジハード集団」(TJT)による一連の暴力の始まりであった。TJTはヨルダン生まれのサラフィー主義(イスラム原点回帰主義)者でジハード(聖戦)主義者、アブー・ムスアブ・アッ・ザルカーウィーによって創設された。 

2003年8月19日:バグダッドに新たに開設された国連本部へのトラック爆弾による攻撃で、22人が犠牲になった。死者の中にはセルジオ・ビエイラ・デメロ国連駐イラク特別代表も含まれていた。国連職員はイラクから退避した。 

2003年8月28日:自動車爆弾による自爆攻撃で、イラクの著名なシーア派の政治家、ムハンマド・バーキル・アル・ハキーム氏および他100名近くが犠牲になった。場所はシーア派のもっとも重要な聖地とされるナジャフのイマーム・アリ・モスクであった。 

2003年10月から11月:ラマダン攻撃の最中、複数の場所で騒乱が起き、10月末までにアメリカ兵117名が殺害された。ブッシュ大統領が同年5月1日に終結を宣言した戦闘による死者を2名上回る数である。 

2004年3月2日:TJTがバグダッドとカルバラーでシーア派の礼拝者を攻撃し、占領開始以後最大となる140人が犠牲となった。 

2004年3月31日:ファルージャでの騒乱で4名のアメリカ人民間請負業者が殺害され、燃やされて切断された遺体が橋から吊るされたことで、ファルージャでの最初の戦闘につながった。その結果アメリカ人27人とイラク人数百人が死亡したが、騒乱はこれで収まらず、地域全体で連合軍への攻撃が数多く発生した。 

2004年4月:バグダッドの西30キロにあるアブグレイブ刑務所(以前はイラク政権の管轄下にあったが、米軍に管理権が移った)でイラク人受刑者が拷問と辱めを受ける写真が現れた。この件に刺激され、イラクでアルカイダによる外国人の誘拐と殺害が相次いだ。 

2006-2008―内戦 

2006年2月22日:サーマッラーのアル・アスカリ聖廟をアルカイダが爆破したことで、イラクでシーア派武装組織によるスンニ派への暴力の波が起きた。数百人が犠牲になり、数十のモスクが被害を受け、聖職者が誘拐され、殺害された。スンニ派武装組織は報復し、イラクは内戦状態に陥った。 

2006年6月7日:TJT(2004年から「イラクの聖戦アルカイダ」と改称)の創設者、アブー・ムスアブ・アッ・ザルカーウィーがアメリカによる空爆で殺害される。 

2006年7月9日:バグダッドのハイイ・アル・ジハード地区でマフディー軍の民兵が40人以上のスンニ派市民を殺害した。 

2006年11月23日:バグダッドのサドルシティのシーア派コミュニティで自動車爆弾と迫撃砲により、死者200名以上、負傷者数十名が出た。 

2007年1月10日:ブッシュ大統領が「増派」、騒乱沈静化のためにイラクに追加人員2万8,000人を派遣することを発表した。 

2007年2月3日:バグダッドの野外市場、サドリヤー・マーケットでトラック爆弾による自爆攻撃が起き、シーア派地域で3週間に4つの攻撃が続いた中でも最大の被害を出した。

2008年1月7日:バグダッドのアドハミヤで、自爆攻撃により14人が犠牲になった。死者の中には、スンニ派地域でアメリカの支援を受けてアルカイダと戦っていた武装派諸集団「覚醒」の内の1つのリーダー、リヤド・サマライ氏も含まれていた。

2013-2017―ダーイシュとの戦闘 

2013年4月8日:シリアへ版図を広げるジハード主義者の組織、「イラク・イスラム国」は「イラク・レバントのイスラム国」(ダーイシュ)へと改称した。 

2013年7月21日:ダーイシュはイラク治安部隊と戦い、領土を拡大するための12か月間にわたる作戦、「兵士の収穫」を開始した。 

2014年1月から8月:ダーイシュはファルージャとモスルを掌握し、アンバールとラマーディーの一部、シンジャールとズマールを制圧した。その結果、数千人のヤジーディーの人々が避難を余儀なくされた。また、ダーイシュはシリアとイラク国境の検問所も手中にした。 

2014年8月から9月:アメリカはヤジーディー保護のため、イラクでのダーイシュ撲滅を開始し、ダーイシュとの戦いを目的とした国際的連合軍の組織を発表した。 

2015年3月から12月:イラクはダーイシュに対する大規模攻撃を開始し、ティクリート、ラマーディーおよびバイジにある同国最大の精油所を奪還した。クルド軍がシンジャールを奪還した。 

2016年6月26日:アメリカおよび連合軍による空襲に援護されて、イラク軍がファルージャを奪還した。 

2016年7月6日:ダーイシュの自爆攻撃で、バクダッドで250人が死亡した。 

2016年10月16日から2017年7月9日:長く激しい戦闘の後、イラク軍はモスルからダーイシュを駆逐した。 

2017年6月21日:米軍の支援を受けたイラク軍はモスルの大ヌーリー・モスク近くの要塞に最後の抵抗を行うダーイシュの戦闘員を閉じ込めた。この場所では2014年6月、アブー・バクル・アル・バグダーディーがイスラムのカリフ統治領樹立を宣言している。 

2017年12月9日:イラクのハイダル・アル・アバーディ首相が対ダーイシュの勝利宣言を行った。 

2019-2021―抗議デモと緊張 

汚職や公共サービスの貧しさ、2003年以降アメリカが課した宗派に基づく政治システムに対する一連の大規模な抗議デモは、イランが支援する武装組織の助けを借りた政府によって暴力的に抑え込まれた。死者は数百人、負傷者数万人、逮捕者は数千人にのぼった。 

2019年12月31日:イラクとシリアの拠点がアメリカの空爆を受けたことへの報復として、イランが支援するシーア派武装組織「カタイブ・ヒズボラ」がバグダッドのアメリカ大使館を攻撃した。 

2020年1月3日:イランの特殊作戦部隊であるコッズ部隊のガーセム・ソレイマニ司令官がアメリカのドローン攻撃で殺害された。ソレイマニ司令官の車列はバグダッド空港を出発して、イラクのアーディル・アブドゥルマフディー首相との会談に向かう途中だった。ソレイマニ司令官とともにイラクの民衆動員部隊(イラク政府の支援を受けた複数の武装集団から成り、ダーイシュとの戦闘に加わった)のアブ・マフディ・アル・ムハンディス司令官も殺害された。 

2020年3月から9月:イラク全土でテロ事件が続き、30人以上が犠牲となった。3月11日のタージ基地攻撃ではアメリカ人2人、イギリス人1人の兵士が死亡し、アメリカは報復としてイラク中部のカルバラーにあった「カタイブ・ヒズボラ」の施設を空爆した。イラク政府はアメリカの空爆を非難した。 

ネタ・クロフォード

ネタ・クロフォード

「唯一の勝者イラン」 

6月20日、ワシントンDC:2012年6月20日にワシントンDCで開催された外交問題評議会で発言する米陸軍参謀総長レイモンド・T・オディエルノ氏。オディエルノ氏は、軍事予算の削減、アジア太平洋地域への注力、さまざまな状況に対応できる柔軟な部隊の創設について語った。(ゲッティイメージズ/AFP)

6月20日、ワシントンDC:2012年6月20日にワシントンDCで開催された外交問題評議会で発言する米陸軍参謀総長レイモンド・T・オディエルノ氏。オディエルノ氏は、軍事予算の削減、アジア太平洋地域への注力、さまざまな状況に対応できる柔軟な部隊の創設について語った。(ゲッティイメージズ/AFP)

2008年から2010年までイラクで米軍を指揮したレイモンド・オディエルノ退役大将は2013年、イラク戦争の指揮に関する詳細な評価を依頼した。 

学ぶべき教訓を明らかにするために行われるこのような評価は、米軍では一般的に行われている。 

しかし、1,364ページに及ぶ報告書『イラク戦争における米軍(The US Army in the Iraq War)』は、冷静かつ驚くほど率直な評価を下し、イラク、米国、そして同地域の同盟国の利益を損なった性急に構想され実行された悲惨な出来事の「唯一の勝者は、血気盛んな拡張主義のイランのようだ」と結論付けている。 

このレビューの多数の研究者、著者、編集者は、主に陸軍の戦略研究所と米陸軍士官学校から集められ、何千時間ものインタビューが実施され、何万ページもの文書(その多くは今も機密扱い)を丹念に分析するという、長く、込み入った作業が行われた。 

国防省の出版準備・安全保障審査室が最終的に2巻の報告書の出版を許可したのは2018年のことで、調査結果は物議を醸した。 

第1巻のエグゼクティブ・サマリーにあるように、オディエルノ氏は「これまでタブー視されてきたテーマについて丁寧に取り上げるよう、著者たちに挑んだ」のである。 

そのため、著者らは一切容赦しなかった。 

従来は軍事的な問題に固く限定していた研究範囲から外れ、著者たちは政治的な領域に踏み込み、その結果「陸軍の研究としては読者が珍しいと感じる、批判的な論調を呈する評価」となったのだ。 

簡潔に言えば著者らは、ある脅威をイラクから取り除くために、侵略後に行った米国の稚拙な計画と実行によるイラク占領は、別の脅威を強めたに過ぎないと結論づけたのだ。 

それまでイランにとって地域における対抗勢力であったイラクは、「よく言えば弱体化し、悪く言えば、政府の主要な部分がイランの利益のための代理人として機能するようになった」のであった。 

2022年1月1日、バグダッドで、イランの軍司令官ガーセム・ソレイマニ氏とイラクの民兵組織司令官アブ・マフディ・アル・ムハンディス氏が米軍の空襲で殺害されてから2年の節目に合わせ、デモと象徴的な葬儀に参加するイラクの元準軍事組織​ハシュド・アル・シャアビのメンバーと支持者たち。(AFP)

2022年1月1日、バグダッドで、イランの軍司令官ガーセム・ソレイマニ氏とイラクの民兵組織司令官アブ・マフディ・アル・ムハンディス氏が米軍の空襲で殺害されてから2年の節目に合わせ、デモと象徴的な葬儀に参加するイラクの元準軍事組織​ハシュド・アル・シャアビのメンバーと支持者たち。(AFP)

その結果、「イランの不安定化する影響力は、イエメン、シリア、そしてその他の地域にも急速に広がっていった」 

2022年1月27日、サウジ主導の連合軍の自国への介入に抗議するため首都サヌアに集結し、武器を掲げる、イランが支援するイエメンのフーシ派武装組織。(AFP)

2022年1月27日、サウジ主導の連合軍の自国への介入に抗議するため首都サヌアに集結し、武器を掲げる、イランが支援するイエメンのフーシ派武装組織。(AFP)

2003年の侵攻以来、イランがイラクの政治にどれだけ浸透していたかは、2020年1月3日午前1時頃、バグダッド国際空港を出発した2台の車列が、米国の無人機からヘルファイアミサイルの一斉攻撃を受けたことで明らかになった。 

イラク軍統合作戦部隊のメディアオフィスが公式Facebookページで公開した、2020年1月3日にバグダッド国際空港の道路で米軍の攻撃を受けて破壊され、炎上する車両の写真。(写真提供:イラク軍/AFP)

イラク軍統合作戦部隊のメディアオフィスが公式Facebookページで公開した、2020年1月3日にバグダッド国際空港の道路で米軍の攻撃を受けて破壊され、炎上する車両の写真。(写真提供:イラク軍/AFP)

10人が死亡したが、攻撃の主な標的は、イランのイスラム革命防衛隊(IRGC.)の特殊作戦部門であるクッズフォースの司令官、カセム・ソレイマニ氏だった。ソレイマニ氏は、2003年のイラク侵攻後、イラクに誕生した複数の親イラン民兵の徴兵、訓練、資金提供の責任者であり、そこから生まれた政党の政策も指示していた。 

ソレイマニ氏の暗殺とそれに至る出来事は、2003年以降の数年間、イランの工作員とその代理組織がイラクで何のお咎めもなく活動していたことを浮き彫りにした。 

米国政府は2019年12月27日、イランの代理組織カタイブ・ヒズボラによる、キルクークにあるイラク軍基地へのロケット攻撃で米国の民間業者が死亡したことに端を発した一連の出来事によって、行動に移さざるを得なかった。 

2009年9月27日、テヘランから南120キロに位置するコムで行われた戦争演習で、試験発射されるイランの短距離ミサイル(トンダル)。(AFP)

2009年9月27日、テヘランから南120キロに位置するコムで行われた戦争演習で、試験発射されるイランの短距離ミサイル(トンダル)。(AFP)

その2日後、報復として米軍機がイラクとシリアの複数のカタイブ・ヒズボラ基地を空爆し、25人の過激派兵士を殺害した。この空爆はバグダッドでの抗議行動を引き起こし、大晦日にはカタイブ・ヒズボラのメンバーを中心とする大群衆が米国大使館に押し入ろうとした。 

2020年3月13日に撮影、イラクのバービル県(首都の南)にあるジュルフ・アルサハル地区の、ハシュド・アル・シャアビ(人民動員隊)準軍事組織の強硬派であるカタイブ・ヒズボラが支配する軍事化地帯で、米軍の空爆でできたクレーターの写真。(写真提供:AFP)

2020年3月13日に撮影、イラクのバービル県(首都の南)にあるジュルフ・アルサハル地区の、ハシュド・アル・シャアビ(人民動員隊)準軍事組織の強硬派であるカタイブ・ヒズボラが支配する軍事化地帯で、米軍の空爆でできたクレーターの写真。(写真提供:AFP)

米情報機関によると、前週の事件の背後にはソレイマニ氏がおり、彼は当時バグダッドでさらなる騒乱を引き起こし、米国人の命を危険にさらしていた。 

2019年12月31日、週末にイラク西部で行われた空爆で親イラン派戦闘員が死亡したことに対する怒りをあらわにし、バグダッドの米大使館の外壁を突破し、防弾ガラスを叩き割る、「ハシュド・アル・シャアビ」のメンバー。(AFP)

2019年12月31日、週末にイラク西部で行われた空爆で親イラン派戦闘員が死亡したことに対する怒りをあらわにし、バグダッドの米大使館の外壁を突破し、防弾ガラスを叩き割る、「ハシュド・アル・シャアビ」のメンバー。(AFP)

ソレイマニ氏は以前にも米軍に狙われたことがあった。2007年1月、イランから国境を越えてイラク北部のクルド人都市エルビルに向かうソレイマニの乗った車列を、米軍の特殊部隊が追跡した。 

その時にはソレイマニ氏は見逃された。しかし、当時米軍の統合特殊作戦司令部のトップであったスタンリー・マクリスタル大将は、2007年のあの夜、ソレイマニ氏を「排除すべき正当な理由」があったと後に記している。「当時、彼の指揮下で製造・配備されたイラン製の路傍爆弾が、イラク全土で米軍の命を奪っていた」 

2009年12月2日、アフガニスタン・カンダハールにあるカンダハール空軍基地で軍人を前に演説するアフガン駐留米軍の司令官スタンリー・マクリスタル大将。(AFP)

2009年12月2日、アフガニスタン・カンダハールにあるカンダハール空軍基地で軍人を前に演説するアフガン駐留米軍の司令官スタンリー・マクリスタル大将。(AFP)

しかし、2019年までにますます血の気を増したソレイマニ氏は、米国との関係をあまりにも悪化させてしまった。 

2018年1月23日、イラク南部の都市バスラを訪問した際、記者会見を行うイラクのハシュド・アル・シャアビ(人民動員隊)のナンバー2であるアブ・マフディ・アル・ムハンディス氏。(AFP)

2018年1月23日、イラク南部の都市バスラを訪問した際、記者会見を行うイラクのハシュド・アル・シャアビ(人民動員隊)のナンバー2であるアブ・マフディ・アル・ムハンディス氏。(AFP)

ソレイマニ氏とその一行は空港で、カタイブ・ヒズボラの創設者であり、イラクの人民動員部隊の副長であるアブ・マハディ・アル・ムハンディス氏によって出迎えられた。米国や他の国からテロリストに指定されているアル・ムハンディス氏は、大晦日の米国大使館包囲事件の現場で、イランの支援を受けた他の民兵指導者とともに写真に収まっていた。 

2007年7月2日、バグダッドのグリーンゾーンでの記者会見で、イラン製とされる道路に仕掛けられていた致命的な徹甲爆弾「EFP」(左端)を含むイラク武装勢力が使用した爆発物を展示する米軍の爆発物の専門家。(AFP)

2007年7月2日、バグダッドのグリーンゾーンでの記者会見で、イラン製とされる道路に仕掛けられていた致命的な徹甲爆弾「EFP」(左端)を含むイラク武装勢力が使用した爆発物を展示する米軍の爆発物の専門家。(AFP)

アル・ムハンディス氏も無人機攻撃で殺害され、2020年2月、米国は後継者のアフマド・アル・ハミダウィ氏もテロリストに指定した。 

人民動員隊(PMF)は、ダーイシュとの戦いを共通の目的に、数十の民兵の多様な集まりを集めた傘下組織として、2014年にイラク政府によって結成された。しかし、カタイブ・ヒズボラをはじめとする多くの民兵は、イランによって設立され、資金を提供されており、イラク政府からではなく、イラン政府から命令を受けていると見られていた。 

米国人にとっても、また自国がイランの衛星国になりつつあると懸念するイラク人にとっても、ソレイマニ氏が公然とバグダッドに飛び、首都バグダッドの通りを走り、サダム・フセイン時代の亡命者でイランと強いつながりを持つアーディル・アブドゥルマフディー首相との会談に向かうことができたことは、イラク侵攻後、2003年にイラクを独立・民主国家として再興しようとしたが失敗したという事実を明確に示すように見えた。 

2019年8月8日、イラクのアデル・アブドルマハディ首相の報道機関がFacebookページで公開した配布資料の写真に写る、首都バグダッドの大統領府でのインタビュー中のアブドルマハディ首相。(AFP)

2019年8月8日、イラクのアデル・アブドルマハディ首相の報道機関がFacebookページで公開した配布資料の写真に写る、首都バグダッドの大統領府でのインタビュー中のアブドルマハディ首相。(AFP)

1979年の革命の頃から、イランはフセイン氏に反対するイラクのシーア派民兵を支援し始めていた。これらの民兵の多くは政治的な活動を展開し、2020年のウィルソンセンターの分析によると、「2017年までにイラクにはイランと関係のある政党が少なくとも10あった」という。 

2018年4月21日、バスラ市でのキャンペーン集会で演説する、バドル組織の責任者であり、主にシーア派のハシュド・アル・シャアビ準軍事組織のリーダーであるハディ・アル・アメリ氏。(AFP)

2018年4月21日、バスラ市でのキャンペーン集会で演説する、バドル組織の責任者であり、主にシーア派のハシュド・アル・シャアビ準軍事組織のリーダーであるハディ・アル・アメリ氏。(AFP)

2018年、イラクの議会選挙を前に、8つの親イラン派が合併し、バドル軍団の事務局長ハディ・アル・アミリ氏率いるファタハ同盟を結成した。これは「イランの亡命者によって結成され、当初IRGCによって資金提供、訓練、装備、指導を受けたイラクで最も古いイランの代理組織」である。 

他のファタハ同盟の創設メンバーグループは、いずれもイランと関係があり、カタイブ・ヒズボラ、アサイブ・アール・アフル・ハック、カタイブ・イマム・アリなどが含まれていた。 

イラクの選挙を2カ月後に控えた2018年3月、米国のマティス国防長官は、米国が「イランが資金を使ってイラクの選挙に影響を与えようとしている気がかりな証拠」を入手したと述べた。 

2005年7月26日、バグダッドで、イラクの新憲法制定を担当する議会委員会の71人のメンバーによって起草されている新しい憲法のページが掲載された政府発行の日刊紙を読む男性。(AFP)

2005年7月26日、バグダッドで、イラクの新憲法制定を担当する議会委員会の71人のメンバーによって起草されている新しい憲法のページが掲載された政府発行の日刊紙を読む男性。(AFP)

イランの代理民兵組織とその政治部門のイラク政治への関与は、2005年に採択されたイラク憲法の多くを無意味なものにしているように思える。例えば第7条では、「人種差別やテロリズムを採用、扇動、助長、美化、促進、正当化する団体や計画は禁止する」とし、「イラクの政治的多元主義の一部となることはできない」と定められている。 

第9条では、「軍隊の枠組みを超えた軍事民兵の結成」を明確に禁止している。しかし、イラクには国家公認のイランが支援する民兵があふれているだけでなく、彼らが街頭に出て政府軍とともに2019年の抗議デモを弾圧し、その過程で数十人の抗議者を殺害したことも明らかになった。 

2004年9月12日、イラクの首都中心部のハイファ通りで起きた米軍と武装勢力の衝突で、燃える米軍戦車の上で喜びをあらわにし、アルカイダ工作員と疑われるアブ・ムサブ・アル・ザルカウィの組織である「タウヒード・ワル・ジハード(統一と聖戦)」と書かれた黒い旗を振るイラク人。(AFP)

2004年9月12日、イラクの首都中心部のハイファ通りで起きた米軍と武装勢力の衝突で、燃える米軍戦車の上で喜びをあらわにし、アルカイダ工作員と疑われるアブ・ムサブ・アル・ザルカウィの組織である「タウヒード・ワル・ジハード(統一と聖戦)」と書かれた黒い旗を振るイラク人。(AFP)

米陸軍士官学校戦略研究所の研究教授で、ワシントンDCのニューライン戦略・政策研究所の所長であるアジーム・イブラヒム博士は、1月にアラブニュース調査研究ユニットが発表したイラクのイラン民兵に関する独占論文で、イラクの再建と復興に向けた国際的な努力は、 「二つの要素によって致命的に損なわれた」 と記した。 

2014年8月31日、キルクークの南約88キロ(55マイル)にあるサラフッディーン県トゥズ・クルマトゥで、ダーイシュの戦闘員との激しい衝突の中、写真に収まるシーア派聖職者ムクタダ・アル・サドル師傘下のサラヤ・アル・サラーム(平和旅団)のイラク民兵戦闘員たち。(AFP)

2014年8月31日、キルクークの南約88キロ(55マイル)にあるサラフッディーン県トゥズ・クルマトゥで、ダーイシュの戦闘員との激しい衝突の中、写真に収まるシーア派聖職者ムクタダ・アル・サドル師傘下のサラヤ・アル・サラーム(平和旅団)のイラク民兵戦闘員たち。(AFP)

1つ目は、後にダーイシュとなるイラクのアルカイダによるスンニ派のテロ活動である。もうひとつは、「イラン・イスラム革命防衛隊が主に調整・指揮するシーア派のテロと民兵による暴力」である。 

民兵組織の中には、「当時のイラク首相ヌーリー・マーリキー氏の直接的な認可のもと、特殊部隊という便利な名称で活動していたものもあった。 

2009年12月16日、バグダッドで行われた記者会見で話すイラクのヌリ・アル・マリキ首相を撮影したイラク首相府の配布写真。(写真提供:イラク首相府/AFP)

2009年12月16日、バグダッドで行われた記者会見で話すイラクのヌリ・アル・マリキ首相を撮影したイラク首相府の配布写真。(写真提供:イラク首相府/AFP)

「イラクを守るために市民を動員するという名目で、国家は民兵組織の育成を許可したが、その多くは既存のIRGCの偽装グループや、イエメンやシリアでも戦っていた宗派民兵によって組織されていた」。 

「ダーイシュとの戦いが進むにつれ、IRGCとイラン国家のイラクに対する影響力は、より明白で否定できないものになった」とイブラヒム博士は付け加えた。 

ソレイマニ氏は「戦場で重要かつ公然の役割を果たした。彼はイラク軍の人物(その多くはIRGC主導の民兵組織)だけでなく、イラク大統領や首相とも定期的に会談していた」 

2016年2月11日、テヘランで行われたイスラム革命37周年を記念する祝賀イベントに出席したイラン革命防衛隊コッズ部隊の司令官、ガーセム・ソレイマニ将軍。(写真提供:AFP)

2016年2月11日、テヘランで行われたイスラム革命37周年を記念する祝賀イベントに出席したイラン革命防衛隊コッズ部隊の司令官、ガーセム・ソレイマニ将軍。(写真提供:AFP)

一方、イラクにおけるイランの最古の代理組織であるバドル軍団は、「イラク内務省を乗っ取り、PMFの民兵はイラク政府と経済の中枢に定着した」 

シーア派の民兵は、「イラクの将来のためにイラク国家とその支配者たちを手酷く乗っ取り、(そして)イラク国民は、汚職と沈黙の陰謀に駆られた民兵が支配する国家で生きることを宣告されたのです」とイブラヒム氏は述べた。 

さらに、「彼らの経済と税金が民兵を支えています。世界はイラン革命防衛隊のテロと犯罪、そしてイスラム共和国の暴力的な中枢に目覚めつつあります。イラクは10年半もの間、同じような圧力に苦しめられてきましたが、その問題は未解決のままであるだけでなく、あまりにも多くの場合、広い世界から気づかれないままなのです」と付け加えた。 

2003年以来5回目となる、2021年10月のイラク議会選挙の結果ほど、イランの影響力を如実に物語るものはない。 

その選挙は、2019年10月に勃発した広範な抗議行動を受けて、2022年から前倒しされ、宗派主義やイラク政治におけるイランの影響から失業や公共サービスの不備に至るまで、あらゆることに抗議する行進や座り込みやデモ活動が行われた。 

ソレイマニ氏の暗殺を受け、それまで「イランは出て行け」と掲げられていた横断幕は、「イランに反対、米国に反対」という新しいスローガンに変わった。 

2020年1月4日、イラクの聖地カルバラのイマーム・フセイン廟内で、殺害されたイラクの準軍事組織のアブ・マハディ・アル・ムハンディス副司令官、イランのガーセム・ソレイマニ司令官ら8人の棺を運ぶ葬列。(AFP)

2020年1月4日、イラクの聖地カルバラのイマーム・フセイン廟内で、殺害されたイラクの準軍事組織のアブ・マハディ・アル・ムハンディス副司令官、イランのガーセム・ソレイマニ司令官ら8人の棺を運ぶ葬列。(AFP)

バスラやナーシリーヤなどいくつかの町では、ソレイマニ氏とアル・ムハンディス氏の死を悼むために行われた行列をデモ隊が妨害し、ナーシリーヤではイランの操り人形と広く思われているPMFの地元本部が放火された。 

しかし、イランの影響力は衰えることがなかった。イラク議会の329議席のうち少なくとも100議席は、イラン政府の傘下にあるかつながりのある政党に属している。

2003年のイラク侵攻とその余波を生き抜いてガーディアン紙やワシントンポスト紙で報道し、賞を獲得したイラク生まれのジャーナリスト、ガイス・アブドルアハド氏は、20年前の出来事から現在のイラクの危うい状況まで、一直線に描くことができる。 

国連安全保障理事会でジャーナリストの保護について発言するイラク人ジャーナリストで英紙ガーディアンの特派員、ガイス・アブドゥル・アハド氏(右)。2013年7月17日、ニューヨークの国連本部。(AFP)

国連安全保障理事会でジャーナリストの保護について発言するイラク人ジャーナリストで英紙ガーディアンの特派員、ガイス・アブドゥル・アハド氏(右)。2013年7月17日、ニューヨークの国連本部。(AFP)

彼はアラブニュースの取材に対して、「米国がイラクで戦争をしたのは、9.11の後、米国は手負いの雄牛のようだったからだと思います」と語った。 

「サダムは長い間米国人の神経を逆なでしており、サダムはこの地域のすべての隣人から憎まれていました」 

「しかし彼らは戦争の結果を、つまり戦争による混乱がこの地域にどのような影響を与えるかを、計算していなかったのです」 

「おそらく彼らは、イラク人全員が米国の占領を歓迎するだろうと考えていたのでしょう。サダムが残忍な独裁者であったため、皆が祝福してくれると考えていたのでしょう」 

さらに悪いことに、イラクに課された新しい政治制度は「宗派・民族のシステム上に構築されており、人々の宗派的アイデンティティーに基づいて国家機関が割り当てられる」もので、「以前には存在しなかった分断を国内に作り出した」

その結果、「政治家、ビジネスマン、民兵組織司令官がイラク経済を完全に支配する泥棒政治的体制」ができた。これが、20年後経ってもイラクが(年間平均約1000億ドルの石油収入があるにもかかわらず)依然としてあらゆる発展指標において下の方にいる理由だ。

「金はどこに行っているのか。政治家、ビジネスマン、民兵組織司令官が吸い上げているのだ」

「しかし彼らが見落としていたのは、確かに最初の数週間はサダムがいなくなって喜ぶでしょうが、学校も病院もインフラもないことを目の当たりにして、『ああ、米国はイラクを変えてスイスに変えるつもりだ』という全体像が実現しないことを知れば、不満を抱き、怒り、その怒りを米国人に向けるだろうということです」 

「だから、間違いだったとは言いません。しかし、米国人がイラクに押し入り、政権を倒し、翌日には民主主義が生まれると期待したのは、一種の犯罪的怠慢でした」とアブドルアハド氏は述べた。 

2019年には希望の瞬間もあったと彼は言う。「2003年以降に育った若い世代が大人になって、街頭でデモを起こし、『祖国が欲しい』というスローガンを叫んだ」時だ。

「宗派や民族を越えたデモだった。政治情勢を変えることはできなかったが、これが火種となり、前に進む道があること、宗派・民族・部族に関係ない別のアイデンティティーがイラクにあることを人々に示した。これはイラクの将来への希望だ」

しかしこれらのアイデンティティは、新たな分断された政治の場に投影され、「それが後に起こる紛争への道筋を作り出したのです」 

ガイス・アブドル・アハド

「その混乱と無法状態の中で、米国と戦おうとする者は誰でもイラクに来ることができたので、米国の侵攻以前にはイラクに存在しなかったジハード組織が、容易にイラク社会に潜入し、容易に米国を攻撃し始め、完全な内戦を引き起こすという彼らの長期計画を遂行することができたのです」と彼は述べている。 

アブドルアハド氏は、イランがこの状況を利用することは避けられないと指摘した。 

「自分がイラン人だったらと考えてみてください。米国がイラクに侵攻し、隣に15万人の軍隊を配置し、あなたを指さして悪の枢軸の一部だと非難し、『次はお前だ』と言うのです」 

「あなたならどうしますか。米国がイランに侵攻するのを待つのか、それともイラクで米国と戦いますか。そしてこれこそが、この20年間イラクが苦しめられてきた究極の事態であり、イランなどからの部外者が、自分の国ではなくイラクで米国との決着をつけようとしているのです」 

「そしてもちろん、彼らはイラクの政治の一部、秘密諜報機関の一部、経済の一部を支配するようになり、これらはすべて、米国の介入によって起こったのです」 

「イラクに来て支配しようという非道な計画があったわけではありません。しかし米国は、ジハードからイランのイスラム革命防衛隊に至るまで、誰もが埋めた空白を作り出したのです」 

回顧録『あなたの街の異邦人 - 中東の長い戦争の旅』の出版を控え、ロンドンで講演したアブドルアハド氏は今、自国の将来を危惧している。 

「私たちが話しているように、イラクの人々は外に出て、普通の生活をし、コンサートやショッピングモールなどがあります。しかしイラクが直面している課題は、地域全体に影響を及ぼしている環境の崩壊から、テロよりさらに深刻な汚職に至るまで、非常に切迫しています」と彼は述べている。 

「テロと戦うことはできます。モスルのダーイシュと戦うために兵士や戦車を送り込むことはできます。しかし、どうやって汚職と戦うのでしょうか。国家を浄化するにはどうしたらいいのでしょうか。10年後、15年後のイラクをどのように構築し、どのように考えていくのでしょうか」 

「これは、イラクを支配する政治エリートが現在直面している最大の課題である。彼らが、汚職が社会に与える影響に取り組まなければ、暴力と混乱のサイクルに再び突入してしまうでしょう」 

クレジット
執筆と調査:ジョナサン・ゴーナル
研究者: 阿南テロ, ガブリエレ・マルヴィージ, ナディア・アル・ファウワー
エディター:ダイアナ・ファラー
クリエイティブディレクター:オマール・ナシャヒビ
デザイナー , グラフィック: ダグラス・オカサキ
コンサルタント: サイモン・カーリル
ビデオプロデューサー: ハセニン・ファヘル
ビデオエディター:アリ・サルマン
ピクチャーリサーチャー:シーラ・マイヨ
コピーエディター: 岩田明子
英語エディター・タレク・アリ・アフマド
フランス語エディター:ゼニア・ズビボ
ソーシャルメディア:ジャド・ビタール、
ガブリエレ・マルヴィージ
プロデューサー:アルカン・アラドナニ
編集長:ファイサル・J・アッバース