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任天堂の開発者の訃報を受け感慨にふけるサウジのゲーマーたち

上村雅之氏は新生の業界で革命的な役割を果たした先駆的なプロジェクトエンジニアで今日まで続くゲームの遊び方を形にした一人だ。上村氏は12月6日に78歳で死去した。(提供)
上村雅之氏は新生の業界で革命的な役割を果たした先駆的なプロジェクトエンジニアで今日まで続くゲームの遊び方を形にした一人だ。上村氏は12月6日に78歳で死去した。(提供)
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11 Dec 2021 11:12:49 GMT9
11 Dec 2021 11:12:49 GMT9
  • 子ども時代の素晴らしい思い出は、ファミコンとスーパーファミコンを設計した上村雅之氏への最大の賛辞であるに違いない

ジェッダ:サウジのビデオゲームファンは今週、マリオやゼルダら旧友と共にバーチャルの思い出をたどり、大切な子ども時代の思い出や経験を振り返った

ゲーマーたちの回想のきっかけになったのは、任天堂の創生期のゲーム機とゲームを成功させた功労者の訃報だった。上村雅之氏は新生の業界で革命的な役割を果たした先駆的なプロジェクトエンジニアで今日まで続くゲームの遊び方を形にした一人だ。上村氏は12月6日に78歳で死去した。

1980年代初頭、上村氏はゲームの遊び方を変え、ゲームをゲームセンターから家庭に移す流れをつくった。任天堂の当時の社長、山内溥氏から、テレビでゲームセンター並みのゲームができるゲーム機を作ってほしいという要望を受け、上村氏は後にファミコン(ファミリーコンピュータの略称)になる商品の開発に取り組み始めた。ファミコンは1983年に日本で発売され、数年後、ニンテンドーエンターテインメントシステム(NES)と呼ばれる再設計バージョンが米国などで発売された。上村氏はファミコンの後継機であるスーパーニンテンドーエンターテインメントシステム(SNES)の開発も主導した。

それ以降、ビデオゲーム技術は飛躍的に進歩し、現代のゲーマーは上村氏のゲームへのはかり知れない貢献に感謝している。その影響と遺産は今でも見られる。

NESの発売を機に家庭用ビデオゲーム機は世界じゅうで大きな人気を集めた。サウジアラビアも例外ではなかった。1980年代と1990年代初期はサウジアラビアの週末と言えば家族で集まるのが普通だった。週末に親族が昼食に訪れると、少年たちは子ども部屋に駆け込み、旧式の箱型テレビに近い席に陣取った。

子どものとき、両親がクローゼットの一番上の棚からビデオゲーム機を取り出すのを待っていたことをよく覚えている。1週間ずっとこの瞬間をワクワクして待っていたのだ。箱についたほこりを拭い、正方形の灰色のゲーム機を慎重に取り出し、ケーブルをテレビに接続した。コントローラをほどき、ゲームカートリッジのコネクタに息を吹きかけてゲームの不具合の原因になる(と思い込んでいた)ゴミがついていないことを確かめた。そしてローテクそのもののじゃんけんでゲーム機を最初に使う人を決めた。

最初のプレイヤーというのは厄介なものだ。それにもかかわらず、私たちはみんなそのスリルに興奮して画面に張り付き、難しいレベルをクリアし、ゲームに勝つ、あるいは負けるさまを見守った。ある同僚はいつも「あれは黄金時代だった」と言っている。

当時プレイしたゲームの多くは、伝説化している。「スーパーマリオブラザーズ」「ゼルダの伝説」「悪魔城ドラキュラ」「テトリス」「ロックマン」「パンチアウト!!」「魂斗羅」「メトロイド」。「ダックハント」は、プレイヤーがライトガンを使って忠犬が追い立てたバーチャルのアヒルを撃つことができるゲームだった。これらの大作は、サウジで人気を集めたゲームのほんの一部にすぎない。

ムハンマド・A・ザイン氏はジェッダ出身の29歳のエンジニアで熱心なゲーマーだ。初めて任天堂のゲーム機を目にしたのは1995年か1996年、彼が4歳か5歳のときだったという。発砲スチロールで保護されたパッケージや、最初の頃は「スーパーマリオランド」「テトリス」などで遊んだことを覚えている。

「1996年以降、任天堂のゲーム機はほぼ全部買いました。すべてはゲームボーイ版が発売された『ポケットモンスター ピカチュウ』のためでした」とザイン氏はアラブニュースに語った。「聞いてくれたおかげで、今ものすごく懐かしさに浸っています」

「任天堂のゲームが抜群に素晴らしいのは、キャラクターがずっと同じであることです。変わらないけれど、時を経てグレードアップしているのです。NINTENDO64と『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』を例にとりましょう。64以降のゲーム機でもそのゲームは発売され、気づけばずっと同じキャラクターでプレイしていました。グラフィックスが新しくなり、若干の調整が加えられている以外は変わっていないので、同じキャラクターだと感じるのです」

任天堂のゲームで遊ぶ楽しさは時代を超えるとザイン氏は言った。友人や家族と一緒にいつでも楽しめる。とりわけサウジアラビアでインターネットが使えるようになる前は、ビデオゲーム雑誌を手に入れることも困難だった。

「(当時は)ゲームをプレイするたびに何かしら驚きがありました」と彼は言った。「次に何が出てくるのか予想もできませんでした。特にあの頃はゲームのキーとコードが掲載されている月刊の任天堂の雑誌が手に入らなかったのも理由です。入手できても6カ月遅れでした」

その結果、インターネットブームの前の時代はほとんど助けが得られず、ゲーマーはレベルを踏んでゲームをクリアするためにかなり努力しなければならなかった。

リヤド出身で44歳のタレク・セラジ氏は、友人同士それぞれ異なるゲーム機を持っていて、お互いの自宅に行き交代で遊んでいたと語った。

「友人がNESの初代バージョンを手に入れたとき、私は9歳だったと思います」とセラジ氏は言った。「子どもたちはみんな居間にぎゅう詰めになり、『スーパーマリオ』やジェームズ・ボンドのゲーム『ゴールデンアイ 007』に夢中になりました。長い時間一緒にプレイし、相手を負かそうと頑張りました」

公共部門で働く30歳のワエル・A氏はアラブニュースの取材に応えて言った。「任天堂のゲームで遊び始めたのは5歳か6歳のころです。いつも家族と、誰が一番にレベルをクリアするかを競い合っていました。マリオやゼルダをプレイするときなど、特に盛り上がりました」

「一番残念なのは、母がゲーム機の電源を切り、寝なさい、祈りなさい、と命じるときでした。自分にとっては大問題で、今は笑える良い思い出ですが、子どものときは本当に不満でイライラしていました」

任天堂のゲーム機を初めて入手してから20年がたち、今でも任天堂の最新ゲーム機Nintendo Switchで同じゲームをプレイしていると付け加えた。昔のゲームをダウンロードできるのだという。現在はゲーム機のコンセントを抜かれる心配をせずにゼルダをプレイできるようになったと彼は言った。

任天堂のゲームは男の子たちだけのものではなかった。リヤドの民間企業で働く29歳のジョウハラ・マッスード氏は、SNESは子ども時代の根幹をなすもので、今も熱心にゲームをしていると語った。

「このゲーム機からゲームにこだわる人生、中でも任天堂への永遠の愛が始まったのです」とマッスード氏は言った。「SNES以来、任天堂のゲーム機は1世代も逃さずチェックしていますし、一時期は全部持っていたこともあります」

「SNESが歩いたからNintendo Switchは走れたのです。NESやSNESなどのゲーム機をつくった任天堂はゲームコミュニティの定番です」

リヤドの民間企業で働くムーサ・N氏は、ゲーム機設計者の上村氏がゲーム産業に貢献したことで、任天堂ゲーム機と共にとても楽しい子ども時代を送ることができ、今もそれは続いていると語った。ゲームボーイで「ポケットモンスター 赤」をプレイしたのが始まりだったという。ゲームボーイは持ち運べて便利なので気に入っていた。

平凡なプレイヤーから業界の有名人まで、ゲームへの上村氏の貢献は、間違いなく世界の何百万もの人々に大きな影響を与えた。

彼の訃報を受けてサウジアラビアeスポーツ連盟はツイッターにメッセージを投稿した。「ありがとう、上村雅之氏。ゲームコミュニティに多大なる貢献をしてくださいました」

サウジアラビアのトゥルキ・アル・シェイク総合娯楽局長も上村氏を「コンピュータゲームの世界に革命を起こした」人物として称える投稿をした。

ソーシャルメディア上で同様の熱烈な賛辞が急増しているのを見ると、ゲーム業界の立役者の先駆的な仕事がゲーマーに影響を与え続けることは間違いないようだ。

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