マドリード:日本の萩原淳子が、スペインの伝統的なフラメンコ界に波紋を投げかけた。
南東部の町ラ・ウニオンで8月に開催された 「カンテ・デ・ラス・ミナス 」フェスティバルの閉会式で、「ラ・ユンコ 」の芸名で活動する48歳の彼女がこの栄誉に輝いたことが発表されると、拍手と野次が入り混じった。
「とても驚きました。信じていましたが、信じられませんでした」と、20年以上住んでいる南部の町セビージャからAFPに電話で語った。
東京近郊の川崎で生まれた萩原は、受賞者として名前が発表されたとき、「頭が真っ白になった」ので、野次に気づかなかったと語った。
「踊っているときは、自分が外国人だとは思いません。そんなことは思いません。思い浮かびません。私はただステージにいて、ギターを聴き、歌を聴き、そして感じたことを踊りで表現するだけです」と彼女は付け加えた。
1961年に創設された 「カンテ・デ・ラス・ミナス 」フェスティバルは、毎年開催されるフラメンコ・フェスティバルとしては世界で最も重要なものとされている。舞踊だけでなく、歌、ギター演奏、楽器演奏にも賞が与えられる。
批評家たちは異口同音に萩原を支持した。
「古典主義であること、ギャラリーのため、つまり大衆のために踊っていないこと、そして最後に、彼女のトレーニングの素晴らしさです」
萩原がフラメンコに魅了されたのは、14歳の時、スペイン人選手がこのジャンルのギター音楽を使用した体操選手権を見た時だったという。
「フラメンコ・ギターの音とメロディー、リズムが大好きになりました」と彼女は言う。
当時はインターネットもなかったので、レコードをレンタルしている店に行って、唯一手に入るフラメンコのCDを借りた。
「聴いてみたけど、ギターはなく、ただ歌っているだけだった」と彼女は振り返る。
「フラメンコのパフォーマーはよく声がかすれていて、とても深くて、怖かったんです」と彼女は笑いながら付け加えた。
萩原は東京の早稲田大学で教育学を学び、フラメンコ・サークルに入り、フラメンコのレッスンを受け始めた。
しかし、彼女はもっと必要だと感じた。
2002年、彼女は自分の情熱を追求するため、アンダルシア南部の州都であり、フラメンコ発祥の地でもあるセビージャへ、世界をまたにかけた劇的な移住を決意した。
両親の反対を押し切っての移住だった。
「日本ではテクニックや振り付けを学ぶことができますが、もちろんフラメンコは文化であり、生き方です」
「父はとてもとても怒りました。父はとてもとても怒って、3カ月間私と口をききませんでした。母は 情けない、情けない と言っていました」と萩原は語った。
スペインではフラメンコに打ち込み、一流の教師からダンスを学び、スペイン語に堪能になり、海岸沿いの町タリファ出身のアンダルシア人男性と結婚した。
彼女はセビージャでパフォーマーとして徐々に名を上げ、フラメンコを教えるようにもなった。
多くの外国人がそうであるように、彼女も最初は地元の人々の活発な話し方に驚いた。
「みんなケンカしているのかと思ったわ!」。と萩原は言った。
違いは他にもあった。
「日本の文化では、気持ちを隠すことに重きを置いていますが、フラメンコでは、気持ちを見せなければなりません。日本では内面、フラメンコでは外面なんです」
AFP