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アラア・アブデル・ガニ
怪我を負ったアスリートは追い詰められたトラのようなものだ…攻撃を受けやすい。しかし、常にではない。
1984年のロサンゼルスオリンピックで、男子柔道無差別級の圧倒的な優勝候補だった山下泰裕は、決勝でエジプトのモハメド・アリ・ラシュワンと対戦する前に怪我をしてしまった。
状況はこの日本人にとって完全に不利だったが、国際試合で5つの金メダルを獲得した男は簡単に負けるつもりはなかった。彼はアリ・ラシュワンを破って自らの力を証明し、金メダルを獲得した。山下は日本人の心を勝ち取り、アリ・ラシュワンはそのスポーツマンらしい行為を世界中で称賛された。
この試合はラシュワンの示した一流の行為でよく記憶されている。彼は山下の右足を狙うことを明確に拒んだのだ。それはラシュワンにとって、この日本の巨人を乗り越える最高のチャンスだった。しかし彼は山下の右足を狙わなかった。フェアプレーに反すると考えたからだ。
「私の信仰とモラルのどちらも、私にそうさせないでしょう」と、ラシュワンは試合後に記者たちに語った。
観客はラシュワンの勝ちに行かない姿勢に困惑させられた。しかしラシュワンの決意が揺らぐことはなかった。すでに怪我を負って故障している対戦相手に対し、何としてでも勝つために激しくぶつかるのは、彼の望むことではなかったからだ。山下の怪我について知っていたかと記者たちに問われ、知っていたと彼は話した。
現在63歳のラシュワンは、そのような勝利は望んでいなかったと話す。「いつの日か、山下が怪我をしていたから勝ったとは言わせたくありませんでした」
その素晴らしいフェアプレーの行為が、ラシュワンとエジプトに世界の尊敬をもたらした。
ラシュワンの心の広さを好ましく思った日本人は、彼のために「国際フェアプレー賞」と呼ばれる新たな賞を考案した。
公平を期すために言うと、例えラシュワンが山下の怪我をした足を攻撃したとしても、彼が勝者となる保証はなかった。山下は史上最も成功した柔道家の一人だった。その輝かしいキャリアにおいて、山下は国際選手権で5つの金メダルを獲得し、注目に値する一期間において引退するまでに連続203の試合に勝利した。ラッシュワンによれば、山下は「当時の全ての柔道家にとって真の象徴的存在だった」
閉会式前の最後の試合であったことも、ラシュワンと山下の試合にメディアがスポットライトを当てる一因となった。またそれは、スポーツにおいて勝者とほとんど同じくらい敗者にスポットライトが当てられた出来事の1つとなった。
何年も経った後、日本政府に「柔道への積極的な貢献と、日本文化をエジプトに伝える重要な役割を果たしたこと」を称えられたラシュワンは、天皇陛下から旭日単光賞が授与された。
こうしてラシュワンは、この名誉ある賞を受けたエジプト人の仲間入りを果たした。他の受賞者には、ナビール・ファフミー元外相や、マフムード・カレーム元駐日大使などがいる。
ラシュワンの妻は日本人で、彼女がラシュワンや子どもたちに対し、礼儀や公正さへの献身を含む日本人の生き方を伝えている。ラシュワン一家は家族として一緒に食事を取るなど、厳格な食習慣を守っている。
ラシュワンは日本語が少し話せるが、彼の3人の子どもたちは日本のTV番組や映画を見て育ったことと、定期的に日本へ行ったり来たりしていたことで、流暢な日本語を話す。
ラシュワンは現在の柔道について、自分が年若い競技者だった頃のそれとは完全に別物と考える。彼が言うには、現在の柔道は競争することや勝つことがより大きな目的となっている。
ロサンゼルスの後も、ラシュワンは1982年および1983年のアフリカ選手権における金メダルや、1985年と1987年の柔道世界選手権での2つの銀メダルなど、数々のメダルに輝き続けた。しかし認めざるをえないことだが、どれもオリンピックでの金メダルほど価値は高くない。
ラシュワンは1992年に引退し、今はエジプト柔道連盟の一員であると共に、国際柔道審判員としてオリンピックでも審判を務める。また、国際柔道殿堂入りも果たした。特に尊敬を集める日本へ定期的に招かれるラシュワンは、若い世代に対して、最も大事なことは互いを尊敬し合うことだと説明する。
ラシュワンはロサンゼルスで金メダルを取れなかったかもしれないが、おそらく同じくらい重要なものを勝ち取った。それは世界の尊敬である。