

東京:太平洋戦争に従軍した日本の元パイロットは、現代の日本が平和で戦争がないことを大切に思っていると言っている。
「日本人として、日本が今日のような国になったことを本当に嬉しく思っている」と上野竜熊氏は水曜日、日本外国特派員協会での記者会見で述べた。「人々は平和に慣れているが、これは私が育った環境とは全く異なるものだ。戦争がなく平和が保たれていることは、最も素晴らしいことだと思う」
「神風特攻隊」のパイロット候補生だった上野氏は、自分と同僚たちは「国に奉仕し、命を捧げるのが義務だ」と教えられたと述べた。現在、彼は政府は戦争を回避し、外交手段で問題を解決するためにできる限りのことをすべきだと考えている。
「西側の人々は、なぜ国が若者にそのようなことを強いたのか理解しにくいだろう」と彼は述べた。「当時、私たちは教育を通じて幼少期から国に仕えることを教えられてきた。さらに、両親や教師も幼少期から国の重要性を強調していたため、私たちは国のために死ぬことが義務だと信じていた。当時、死の概念は既に私たちの日常的な感情に根付いていた」
中国の一部となった満州の辺境地にある軍事施設で育った彼にとって、祖国である日本に仕えることは自然なことだった。彼は「軍隊生活への憧れ」があったと語る。しかし、15歳で入隊した後、それは過酷な生活であり、身体的な懲罰は日常茶飯事だったと認めている。
戦争が終わった時、彼はマラリアに罹っており、何が起こったのか理解できなかった。「8月15日(日本の降伏の日)の午前11時ごろ、高熱が出たため、部隊を離れて宿泊先に帰らなければならなかった。その頃、戦争終結の天皇の勅令が発表されたが、何が起こっているのか本当に理解できなかった。午後4時ごろ、まだ熱があった時、同僚が戦争が終わったと伝えてくれたが、私は応答できなかった。何が起こっているのか理解できなかった。ただマラリアから生き延びようとしていた。」
彼は次の日に事態を理解した。同僚たちは特攻隊員として死ぬ覚悟をしていたため、戦争が終わったと知らされた時、「現実を受け入れるのが大変だった」と述べた。
「私が受けた最後の命令は、自宅で待機することだった。パイロットたちは帰還し、自宅で待機するよう命じられた。私は冗談半分で、今でも待機モードだと言っている。なぜなら、その状態から解放されなかったからだ。」
戦後、パイロットの上野は木工職人として働き、建設現場で働いた。「私は祖国再建のために働き、それが私の人生の仕事だった。」
上野は毎年、東京の靖国神社を訪れ、戦没した戦友に敬意を表している。「戦友で亡くなった人は30人以上いるので、本当に彼らに敬意を表し、魂の安らぎを祈りたいと思っている。そして、私がそれを続けているからこそ、彼らは上から見守ってくれて、私を生かしてくれていると思う。」