
デビット・カンプマン
ドイツ・シュヴェツィンゲン:パレスチナ人の脳神経外科医であるモハブ・ムーサ博士は、戦争で避難を余儀なくされるまでウクライナに住み、仕事をしていた。現在、彼とその家族はドイツに避難している。
紛争が始まって以来、400万人以上がウクライナから逃れてきた。そのうちの30万人以上がドイツに到着している。ウクライナには数万人の中東出身者のコミュニティがあり、避難民の多くが中東出身者である。
ガザ地区のラファから来たムーサ氏は、戦争の恐ろしさを肌で感じてきた。ガザの状況が改善される見込みがないため、彼は出発を決意した。
「私は、自分のスキルを向上させ、妻と子どもたちに安全な家を提供したかった」と、彼はアラブニュースに語った。ムーサ氏は2016年、ウクライナ東部のハルキウ(ハリコフ)大学に登録した。
妻と3人の子供もすぐ後に続いた。4人目の子どもはそこで生まれ、ウクライナ国籍を取得している。
ムーサ氏はロシア語を学び、ハルキウ市内で働き始めた。ウクライナは彼の新しい故郷となった。「ウクライナという国も好きだが、ハルキウは、個人的にとても愛着のある街だ」
「人もいいし、外国人のコミュニティもある。ハルキウは基本的にすべてが美しい」
しかし、ムーサ氏が逃れた新しい世界は崩壊した。紛争が始まる前日までは予想もしなかったことだ。
「友人とコーヒーを飲んでいたら、戦争が始まるのかと聞かれた。私は彼に『まさか』と答えた」
その翌日、彼が住む郊外の一角にミサイルが直撃した。「妻と子どもたちを起こし、学校に避難した」
状況が日に日に悪化する中、彼と妻は子どもたちを守るために街を離れることにした。
持てるものだけを持ち、列車を予約してウクライナ西部の都市リヴィウに向かった。
30時間かけて到着したが、そこも安全とは程遠かった。スロバキアまで乗せていくことを提案した怪しい業者たちは、彼らの足元を見るのに余念がなかった。
「彼らは外国人に2500フリヴニャ(約85ドル)を請求した。通常は500フリヴニャだ」とムーサ氏は言った。子供もおり、夜は氷点下になる状況で、彼は要求を飲んだ。
何とかスロバキアのブラチスラバまでたどり着いたが、そこで「小さな子供たちに大きなストレスがかかり始めた」という。
助けの手を差し伸べてくれた人々とのポジティブな思い出もあるとはいえ、ムーサ氏はスロバキアにおけるウクライナ人以外の外国人の扱い全般を「恥ずべきもの」と表現する。
EUは、ウクライナから来る難民は自由に旅行できると保証している。にもかかわらず、ブラチスラバの主要鉄道駅の職員は、ムーサ氏がウクライナ人でないからという理由で、チケット代として77ユーロ(約84ドル)を支払うように主張した。
「私は彼女になぜかと聞いた。私はウクライナからの滞在許可証を持っていたし、末っ子もウクライナ人だ」。それでも、彼は支払わなければならなかった。「彼らは恣意的に行っていた」
一家の旅はまだ終わっていなかった。いくつもの駅を経て、ようやくドイツ南西部のカールスルーエという街にたどり着いた。彼らはそこで避難民登録を行い、避難所を提供された。最初はハイデルベルク、次にシュベッツィンゲンに移動した。
ムーサ氏は、子供たちに戦争の現実を隠すことに全力を尽くしたが、それはほとんど不可能なことだったという。
今、彼が望むのは、子供たちが教育を再開し、外で遊ぶことだ。「ドイツ語の勉強を始めれば、もっと社会に溶け込めるだろう」
ウクライナに住んで6年になるが、ムーサ氏はドイツに留まり、そこで自分の職業を実践することを決意している。
そのためには、できるだけ早くドイツ語を習得し、資格を取って仕事を始めたいと考えている。「生産性のない人間は社会のお荷物になってしまう」