イラン・イスラム共和国が米国人の人質を拘留し始まった危機は、40年後の今日もまだ、続いている。
米国の支援を受けていたイラン皇帝、モハンマド・レザー・パフラヴィーの転覆から数ヶ月後の1979年11月4日のことだ。彼が末期癌のためにニューヨーク病院へ入院した後、シャーの引き渡しを求めて学生たちが米国大使館を侵略した。
数十人のアメリカ人が、人質として444日間拘束された。当時、米国機関はシャーと革命のどちらかを選択しなければいけなかった。そのいずれも良い選択とは言えず、テヘランが初期から何を意図していたのか、ワシントンは早々に知った。
学生革命家の暴徒が米国の外交官と海兵隊を連れ回す映像は、これら新リーダーの振る舞いを象徴するものだった。
彼らの裏切りは、今日まで続いている。その危機的場面は、近くでそれを経験した人々にも、遠くから歴史を見守った人々にも、深く植え付けられているのだ。
この事件と、それに続くイスラム共和国による米兵を辱める行動については、未だに感情の高ぶりが見られる。米兵の様子はTVで放映され、最も劇的な事例ではイラクでの兵役中に殺されることもあった。それは40年間に渡って続く、テロと誘拐の脅威を意味してきた。
イラン政権による行為は、時を経るにつれ悪化していった。テヘランは、今年の記念日を嫌悪と軽蔑の中で浮かれ騒いでいる。11月4日は、「National Day of Fight against Global Arrogance(世界的傲慢に対して戦う国家的記念日)」として知られている。アブドルラヒーム・ムーサヴィー最高司令官は、この日にイランの独立が成された、と閉ざされた米国大使館の前で主張した。
核研究に関するイランの権利、そして同国の人権の定義について、米国との論争は勢いを増している。
ヨーロッパは、残されたJCPOAを復旧しようと試みている。しかしこの40周年期間中、イランは未だに1979年と同じように振舞っていることが明らかになった。
テオドール・カラシック博士
444日間の人質事件とは、テヘランの視点から見れば、1979年の革命以来イラン史において重要な期間だった。外交政策と、今日に至るまでの米国との関係を方向付ける出来事となったからだ。
イランは、その無分別な行為を継続するためにこの日を利用している。政治的影響力を得るための人質監禁は、米国および他の国々に対して未だ用いられている、同国が支援する政策だ。
現在テヘランによって拘束されていることが分かっているのは、4人のアメリカ人だ。2人はスパイ容疑、1人は原因不明、そして1人は、敵国との「共謀」の疑いがかかっている。
それに加えて、元FBIエージェントのロバート・レヴィンソン氏もイランに拘留されている。トランプ政権は現在、レヴィンソン氏の安全帰還に関する信頼できる情報に、最大2,000万米ドルの報酬を提示しているところだ。
レヴィンソン氏は、2007年3月9日にイランのキーシュ島で消息を絶った。今日存在する米国捕虜は、イラン政権が国際的な法や行為の秩序を軽視し、40年前と全く変わっていないことを思い起こさせる。
だがさらに重要なのは、イランがこの40周年を、核プログラム促進に利用していることだ。イランは、稼働中の高性能遠心分離機数を2倍に増設していることを発表した。これは、現在機能していない世界列強とのJCPOA核合意から、さらに大きく離れようとする動きだ。同国は今、合意に違反して60個のIR-6高性能遠心分離機を保有している。
ヨーロッパは、残されたJCPOAを復旧しようと試みている。しかしこの40周年期間中、イランは未だに1979年と同じように振舞っていることが明らかになった。この傾向線は、世界の数多くの国々を未だ脅かす、40数年間の困難と危険を説明するものだ。もう一つの記念日ができれば、それは手に負えないものとなる。