イランの指導者たちは、国民が「アメリカに死を」と唱えることを望んでいるが、全国の町や都市で抗議者たちが代わりに叫んでいる言葉は、「独裁者に死を」だ。
歴史上の多くの抗議運動や革命運動のように、そのきっかけは若い女性の殺害だった。クルディスタン州出身のマフサ・アミニさん(22)は、家族とともにテヘランに向かう途中、服装が「適切」でないとして政府の宗教警察に逮捕された。
アミニさんはバンの中で警察に殴打され、その後、家族は彼女が入院していることを知らされた。アミニさんは昏睡状態に陥り集中治療を受けたが、23歳の誕生日の直前に亡くなってしまった。
アミニさんの処遇は、どの国であっても怒りを買うだろうが、イランでは特に重要な意味を持つ。国際社会の正常な流れの中で近代化を進めると主張する聖職者政府の見せかけの姿とは裏腹に、実際にはイランは恐怖に支配された国であり、女性たちは明らかに二流市民として扱われている。
服装の習慣を強制され、政権の意向に沿う以外の社会参加を禁じられた女性は、イランで最も苦しんでいる人々だ。最高指導者の宗教的な方向づけによるリーダーシップとイスラム革命防衛隊による強制が支配する国家では、体制内に改革の余地はない。
多くの国々では(ここ数年ではスーダンが顕著な例)、専制政治を揺るがす抗議運動の中心は女性であった。イランでも同じことが言えるようだ。女性たちは抗議する群衆を率い、国家によって強制されたベールを燃やし、自分たちの生き方を決めつけようとする国家の権威に反抗しているのだ。
彼女たちの勇気は国際的な注目を集め、世界中の多くの人々の心を掴んでいる。だからこそ、次のように書くのは辛い。彼女たちは、改革運動が自由に芽吹くことを許さない体制からの、強力な反発に直面するだろう。悲しいかな、暴力的な報復は避けられない。
イラン政府は、自国の街頭で公然と暴力を行使しており、それはデモ参加者の殺害に止まることはないだろう。2019年以降、食料品や燃料の値上げに端を発した多数の抗議行動を受けて、政権は数千人のデモ参加者を殺害してきた。政権側の方針は、人々を街頭から追い出し、恐怖に怯えながら自宅に帰らせるために必要なことは何でもする、というものだ。
大きな変化はイランでも起こりうる。それは、通常の政治のリズムによってではなく、時間と偶然の動きによって引き起こされる。
アジーム・イブラヒム
イランは、中東全域の支配地域を目指す計画の中で、その戦術を完成させている。シリアはもとより、イラクやレバノンでのデモに対して、イランが支援する民兵が現地の反対派に対して残忍な報復を行うようになっているのだ。
私は、デモ参加者たちを失望させたり、闘っても無駄だと伝えたくてこんなことを書くのではない。そのようなつもりは全くないし、そもそもデモ参加者たちは、イランに住み聖職者政権が抗議する者たちに対して何をするかを見てきて、反対することやデモの代償を十分に承知しているのである。
それにもかかわらず街頭に出るということは、尊敬すべき勇気の証なのだ。こうした行動は、反感を買っている聖職者と革命防衛隊が押し付ける不当な法制に対し命がけで抗議する人々による、大きな功績と言えるだろう。
大きな変化はイランでも起こりうる。それは、通常の政治のリズムによってではなく、時間と偶然の動きによって引き起こされる。信頼できる報道機関からの情報によると、最高指導者であるアヤトラ・アリ・ハメネイ師が重病である可能性があるという。彼はホメイニ師の死以来権力の座にあり、数十年にわたる弾圧の先駆者・指導者である。もしハメネイ師が死ねば、イランはわずかながら変化の見込みを持つことになる。おそらく次の最高指導者は、今ほど弾圧や殺戮に頼ることはないだろう。
しかし、イランの街角にいる抗議者たちは、そんなことは期待していない。彼女ら/彼らが知っているのは、現在の法制度が残忍で不当なものであり、残酷な男たちによって押し付けられたものだということだけだ。彼らはまず殺せるから殺し、そして自分の地位を保つためにまた殺すのだ。
イランの女性主導のデモ隊は、国に変化をもたらすには自分たちの行動以外には何も頼りにならないことを知っている。そのことを承知で行動していることが、彼女たちの勇気と、耐え難いことを変えるために人々がどれほどの危険にあえて挑もうとするのかを、雄弁に物語っているのだ。