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パテルノのサウジ訪問で政治的なフットボール

サウジアラビアで公演中のエンリケ・イグレシアス
サウジアラビアで公演中のエンリケ・イグレシアス
21 Jan 2019 09:01:03 GMT9

アラブニュースは1月13日、有名なアメリカンフットボールのコーチ、ジェイ・パテルノの最近のサウジアラビア訪問を回顧したコラムを公表した。コラムのタイトルは「私の王国訪問によりそれまで抱いていた考えがすっかり変わった」というもので、初めて訪問した人から最近よく聞かれる感情である。イタリアのセリエAサッカーリーグのガエターノ・ミッチケ会長も、数日前にACミランがイタリアのスーパーカップのためにジェッダでユベントスと試合を行った際に同様のコメントをしている。

野心的なビジョン30計画の一環として、2016年以降、王国は石油以外にも経済の多様化を目指し、観光客に門戸を開いてきた。初めて、真に国際的な規模でのスポーツやエンターテイメントのイベントを開催している。

パテルノは昨年の12月にサウジアラビアを訪れた。史跡で知られるディルイーヤで開かれたフォーミュラEモーターレースの初戦に参加した。このイベントが開催されたこと、そして成功裏に終わったことは、パテルノにとってだけでなく、サウジの人々にとってもうれしい驚きであった。サウジの人々はここ3年の間に、宗教警察の権限の制限、女性の運転の禁止の終了、映画館の再開など、前例のない変化を経験している。

パテルノも参加しているサウジアラビア人も(来賓を含めて)、サウジアラビアでエンリケ・イグレシアス、デビッド・ゲッタ、ブラック・アイド・ピーズなどの公演を見ることなどまったく想像していなかった。ところがそれがフォーミュラEのイベントで現実のものとなったのである。若者たちはレースのヒーローたちに熱烈な声援を送り、国際的なポップスターと自撮りをしようと躍起になり、数千人の男女が夜中踊りあかしていた。我々はサウジアラビアにいたのだが、実のところどこにいるのかわからないほどであった。

こうした光景を見て、おそらくパテルノはアラブニュースのコラムの中でサウジの人々とアメリカ人には共通するところが多いと言ったのであろう。しかし、彼の見解は、彼の故郷であるペンシルベニア州で政治的なフットボールへと変化した。私はここ数週間、パテルノについての憎しみに満ちた、無知であからさまな人種差別主義者のコメントが、他の点では尊敬すべき米国のジャーナリスト、ブロガー、コメンテーターによりなされるのをフォローしてきた。

もし米国がアメリカ先住民の扱い方だけで判断された場合、アメリカ人はどう感じるだろうか。あるいは、日本への核攻撃やアブグレイブでのイラク人の拷問などの残虐な事件によってのみ判断されたとしたら。

論理は言うまでもなく、プロフェッショナリズムと尊敬は、対象がことサウジアラビアとなると、彼らの頭を刺激するようである。賞賛は、たとえ正当化されるものでも批判され、批判は、それが正当化しようのないものでも賞賛されている。

パテルノは一体どうすれば良かったのか。彼が体験し感じたことに嘘をついて、サウジに関する説明をネガティブなステレオタイプに合わせるべきだったのか。それとも彼の旅行日記を米国・サウジ関係に関する地政学的論文にすり替えるべきっだったのか。

彼の批評家のなかには、サウジアラビア人とアメリカ人が似ているという彼の示唆に縮み上がっている人もいる(サウジアラビア人はみなラクダや魔法のじゅうたんで仕事に行くと信じる人々に対しては、明らかに強引な売り込みかもしれない)。また、彼の経験のポジティブな描写はサウジを売り込もうとする意図があり、「大衆に説明すべきである」と考えている人たちもいる。

この根拠のない批判はすべて煩わしいものだが、それは正直驚くべきことだろうか。最近のアラブニュース/YouGovの世論調査では、アメリカ人の81パーセントは地図上でアラブ世界を指し示すことができず、ほんのわずかの人しかそれを正確に理解していない。多くの人が架空のサルタン国であるアグラバー(ディズニーのクラシック「アラジン」からの)が現実の国であると考え、その市民に対する米国の旅行禁止を支持している。こうした人たちからは客観性のあるやり方など期待することは決してできない。

しかしパテルノへの批判は彼らからではなく、いわゆるメディア専門家からのものであり、それは悲しくかつ憂慮すべきものでもある。

私は王国を批判すべきではないと示唆しているわけではない。実際、アラブニュースは、かつての同僚ジャマル・カショギが犠牲となった残酷な犯罪を最初に避難したものの一人であった。

私はここでアラブニュースを擁護しているわけではない。私たちの記録がそれを物語っているのである。しかし、批評家のプリズムを通してのみ王国を見ることの不公平と不正確さに対して警告を発するのは公平であろう。

もし米国がアメリカ先住民の扱い方だけで判断された場合、アメリカ人はどう感じるだろうか。あるいは、日本への核攻撃やアブグレイブでのイラク人の拷問などの残虐な事件によってのみ判断されたとしたら。

もし物事がうまくいかないときにサウジアラビアが批判されるのが公平であり、また実際にそうであるならば、その時はその改革と進展について議論し奨励することも公平であろう。そしてパテルノが、ほかならぬ米国で、他人の見解に対する寛容さの上に築かれた国で、その見解ゆえにいじめられているのは最高の皮肉ではないだろうか。

Faisal J. Abbasはアラブニュースの編集長

Twitter: @FaisalJAbbas

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