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「イスラム世界の救い手としての日本」―サウジのKFCRISがイスラム世界と日本の関係進化について議論

東京における1938年5月12日の日本初のモスク開設は、イスラム世界の救い手だとする日本の意図の象徴とみなされた。(AFP)
東京における1938年5月12日の日本初のモスク開設は、イスラム世界の救い手だとする日本の意図の象徴とみなされた。(AFP)
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08 Jun 2022 11:06:32 GMT9
08 Jun 2022 11:06:32 GMT9

ダイアナ・ファラー

サウジアラビアのファイサル国王研究センター(The King Faisal Center for Research and. Islamic Studies=KFCRIS)は7日、オンライン講義「イスラム世界の救い手としての日本―1900~1945年の国境を越えた国家主義と帝国主義」を開催した。

講義では、同センターのアジア研究プログラム代表であるムハンマド・アル・スデル氏が司会を務めた。講演者はボアジチ大学(トルコ)のアイシェ・セルチュク・エセンベル名誉教授。

エセンベル氏は、日本の国家主義者の一部が第二次世界大戦前、自らを世界のイスラム教徒の救い手であると表現した経緯について解説した。彼らは1900年から1945年にかけて、イスラム教の人々を大日本帝国への協力者として引き入れ、西洋の大国と対抗しようとしていた。

同氏は講義で、日本の帝国主義的戦略が形成される過程で生まれた、国外に離散したイスラム活動家と日本のアジア主義者の知識人との知的かつ政治的な出会いの複雑さについても解説した。

「日本には、自分たちが、イスラム教徒の人々を搾取、抑圧する西側の帝国主義国とは違い、イスラム世界の特別な友人であるという側面を積極的に教え込もうとした時代がありました」。エセンベル氏は、講義の参加者にこう語りかけた。

20世紀初頭、西洋の植民地主義を批判する汎イスラム教の超越主義者とイスラム教徒の国家主義者が、政治的な安息の地として選んだ東京に大挙して集まった。同氏によると、東京は、「20世紀初頭の政治的移民にとってのパリになっていた」という。

また、同氏は、常に「最初のイスラム教巡礼者」として紹介される日本人初のイスラム教徒のムスリム名は、ウマル・ヤマオカ(ウマル山岡光太郎)だったと説明した。

1909年、山岡はサウジアラビアに到着し、メッカとメディナの重要人物と出会った。エセンベル氏は、山岡は現地でイスラム教だけではなく、政治についても議論したと述べた。特に、将来の世界のイスラム教徒と日本との関係や、アラブの重要人物と日本との友好な関係を構築することを話題にしたという。

同氏は、日本のイスラム教徒と学者たちが常に、「イスラム教と、東アジアの深遠な宗教的伝統との関連性と類似性を見出そうとしていた」と説明した。

日本人のイスラム教指導者であるタナカ・イッペイ(田中逸平)は、特に道徳規範や個人倫理の面で類似性がある神道とイスラム教の精神の繋がりについて研究した。エセンベル氏によると、日本人のイスラム教への改宗が容易なのは、神道とイスラム教がそのような類似した背景を持つためだという。

東アジアでは、移民や難民に加えて中国系のイスラム教徒が、日本のイスラム共同体を形成するのに寄与した。彼らは、神戸、東京やその他の日本の植民地に、離散者のイスラム共同体を作った。

20世紀初頭、日本人による最初のイスラム教巡礼(ハッジ)がメッカとメディナで行われた。最初の日本人イスラム教徒による大規模な巡礼は、1910、1924、1934、1936年に行われた。

エセンベル氏によると、中国の国家主義者も当時、イスラム教の聖地への中国人巡礼団を組織し、自らをイスラム教徒の救い手だと表現する日本の意図に対抗した。

東京における1938年5月12日の日本初のモスク開設は、イスラム世界の救い手だとする日本の意図の象徴とみなされた。

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