大阪: 東京や京都を訪れる観光客は気づいていないかもしれないが、日本最大の都市のひとつであり、観光地というよりもビジネス拠点として知られる大阪が、来年の万国博覧会(万博)の開催に向けて準備を進めている。
この都市は数ヶ月前から、万博の赤と青のマスコットキャラクター「みゃくみゃく」で埋め尽くされ、準備に追われている。多くの人々にとって、この興奮は、1970年に日本が主催した前回の万博への郷愁と混ざり合っている。
大阪以外の地域では懐疑的な意見もある。建設費が当初の予想をはるかに上回る高額になっている。準備作業は政治やビジネスにおける内紛によって妨げられている。そして、東京が新型コロナウイルス感染症のパンデミックのさなかにオリンピックを開催した苦い経験から、多くの日本人は、万博というアイデアが今でも適切なのか疑問を抱いている。
しかし、大阪では、多くの高齢者が、このようなイベントはこれまで以上に必要だと話す。
1970年の万博の鮮明な記憶を残している人も多い。特に大阪近郊の小学生が何度も足を運んだことを覚えている。アメリカ館で展示されていた月の石、電気自動車の試作品、イーサネット(LAN)の原型、ヨーグルトやバゲットといった西洋の食品の紹介など、長蛇の列ができた。
海外旅行がまだ夢物語だった時代、大阪万博は一般の日本人にとって、世界中のバンドのライブ演奏を聴いたり、さまざまな国や関心を代表する膨大な数のパビリオンを訪問したりできる貴重な機会だった。
しかし、最も大きな影響は、国際パビリオンや来場者との個人的な交流の機会だったと言える。
「1970年の万博で通訳を務めた経験は、私にとって大きな転機となりました」と、新洋隆弘氏は語る。新洋氏はその後、外務省に入省し、駐ドイツ大使を務め、現在は大阪郊外にある関西学院大学の客員教授である。
「国際協力の力と人間の創意工夫の可能性に目を開かされました」と氏は言う。
1970年から多くのことが変化したが、万博は現在でも変わらず重要であると彼は言う。
「万博が促進する人と人との直接的な交流の価値は、オンラインでは再現できません」と彼は言う。「これらのイベントで起こる対面式の交流、アイデアの交換、そして経験の共有は、グローバルコミュニティに対する理解と評価を深めることに貢献します」
1970年の大阪万博と同様、東京オリンピックの開催から数年後に大阪で万博が開催される。しかし、1964年の東京オリンピックは当時、大成功を収めた人気イベントであったのに対し、パンデミックのさなかに開催された2021年の東京オリンピックは、多くの日本人にとって期待外れであった。
世界博覧会は5年ごとに開催され、最長6か月間開催される。直近では2020年にドバイで開催された。
大阪で開催予定の万博は2025年4月13日から10月13日まで開催され、「私たちの暮らしの未来デザイン」をテーマとしている。主催者は2820万人の来場者、そのうち300万人以上が海外からの来場者を見込んでいる。すでに500万枚近くのチケットが販売されている。
大阪湾に浮かぶ関西国際空港と同じ技術を使って大阪西岸に作られた人工島で、この万博は開催される。この万博では、空飛ぶ車のプロトタイプが多数展示される予定であり、広報担当の吉村幸子氏は、来場者が空港から万博まで空飛ぶ車に乗って移動できることを期待していると述べた。
しかし、主催者側は、最先端技術よりも国際協力に重点を置いていると述べている。
「この万博は単に産業のショーケースではありません。すべての国々が集まり、一つになることが目的なのです」と吉村氏は語った。同氏は、開催予定地を見下ろす高層ビルの最上階にあるガラス張りのオフィスでそう述べた。
2025年国際博覧会の会場は、建設現場の限定ツアーが開始されているものの、一般の人々が大阪での万博の影響を実感できる場所として、1970年万博の会場となったエキスポシティがある。 ここでは、今も残る鉄鋼館を含む没入感のあるエキスポ70パビリオンや、万博「ホステス」が着用したユニフォームなどのエキスポ70の記念品のギャラリーがある。
また、ここを訪れた人々は、近くにある「太陽の塔」(岡本太郎氏によるデザイン)に登ることができる。この塔は、1970年の万博のシンボルだ。また、遊具や足こぎボートのある湖、そして近くには「エキスポレストラン」があり、万博で提供されていたのと同じスタイルの料理が提供されている。
AP