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サッカー、野球、移民でつながっている日本とブラジル

東京の北西約90キロ(55マイル)の大泉町で経営するブラジル料理店で記念撮影をする、ブラジル生まれで現在日本に住む、瀬間仲ノルベルト氏と姉のシルビア氏(2022年5月31日、火曜日)(AP)
東京の北西約90キロ(55マイル)の大泉町で経営するブラジル料理店で記念撮影をする、ブラジル生まれで現在日本に住む、瀬間仲ノルベルト氏と姉のシルビア氏(2022年5月31日、火曜日)(AP)
東京の北西約90キロ(55マイル)にある大泉町という町で、ブラジルで一般的に見られる食べ物や飲み物、商品を販売しているスーパーマーケットに向かって歩く女性。(AP)
東京の北西約90キロ(55マイル)にある大泉町という町で、ブラジルで一般的に見られる食べ物や飲み物、商品を販売しているスーパーマーケットに向かって歩く女性。(AP)
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04 Jun 2022 04:06:54 GMT9
04 Jun 2022 04:06:54 GMT9
  • ブラジルは日本国外では世界最大の日系人人口を抱えている

大泉町(日本):ブラジルのサッカー代表チームは、どこでプレーをしても注目され、応援する際にもしばしば感情移入されやすい。カタールで開催されるワールドカップに向け、両国の代表が月曜日に東京で対戦するとき、日本の一部の人々にとってその愛着はより深いものになるだろう。

地理的にも遠く、文化的にも異なるブラジルと日本だが、1世紀以上にわたる移民(そして移民の帰還)の歴史によって結ばれている。1888年にブラジルで奴隷制度が廃止されると、日本人やその他の国の人々が、ブラジル南部のコーヒー農園で奴隷に近い状態で働くために採用された。

ブラジルの日系人人口は200万人と推定され、日本国外では世界最大の日系人居住地である。ここ数十年の間に数十万人の日系ブラジル人が日本に出稼ぎに戻り、町や都市の様相を変えている。

日本はサッカーでブラジルと12回対戦しているが、勝ったことは1度もない。20年前に元ブラジル代表MFのジーコ氏を代表チームの監督に起用した。これまでにも三都主アレサンドロ氏のようなブラジル出身の選手を何人か起用してきたが、今回は明らかなコネクションはない。

ブラジルで、日本人のルーツを持つ母の元に生まれ、16年前に仕事のために来日した瀬間仲シルビア氏は、「試合を見に行けるかどうかわかりませんが、ブラジルを応援するのは確かです」と述べた。

「ブラジル代表のシャツを着て、日本の国旗を持つかもしれません」

瀬間仲氏は、弟のノルベルト氏を追って日本に渡った。そこで弟は、サンパウロ近郊の日本人街で磨いた能力を生かして、中日ドラゴンズでプロ野球選手として活躍していた。ブラジルでは、野球をする人はほとんどいない。

「ブラジルでは、野球は日本の遊びだと思われているのです」と、ノルベルト氏は語った。世界で最も有名なサッカー大国で育ったにもかかわらず、ノルベルト氏は「サッカーの経験はゼロ」だったという。

「毎週末、野球をしていたので、サッカーをする時間がありませんでした」とシルビア氏は語った。

ノルベルト氏は姉よりも長く日本に滞在し、東京から北西に約90キロ離れた小さな町、大泉町にその根を下ろし、人気のブラジル料理店「カミナルア」を経営している。

店の入り口にある小さなギャラリーには、彼が昔着ていた中日ドラゴンズのジャージ(背番号65番)、キャップ、グローブ、バット、そして新聞の切り抜きなどが展示されており、小さな町の有名人となっている。彼は日本の高校に通い、日本語を流暢に話し、かっての左打ちの一塁手で知られていた。

「私の人生の半分はブラジルで、半分がここ日本で過ぎました。でもサッカーでは、ブラジルでの方が多くプレーしましたね」と彼は語った。

日本には外国籍を持つ人は2%程度しかいない。だが、大泉町をはじめ、移民を受け入れてきた小さな町は違う。大泉町の人口4万人のうち、市役所の発表によると、20%が外国生まれで、半分強が日系ブラジル人である。

次いでペルー人、ネパール人、ベトナム人と続く。市内には約32の国籍の人がいるという。

スーパーマーケットや引越し業者などの店舗には、ブラジルの国旗があちこちに飾られている。ブラジルで人気のある食べ物や飲み物はすべてここにある。美味しいピーナッツ菓子「パコキータ」や、黒豆の煮物「フェイジョアーダ」の缶詰、人気のソフトドリンク「ガラナ」などだ。

日本語やポルトガル語の看板も多い。ショッピングモールでは、日本語、ポルトガル語、英語、中国語でアナウンスしているところもある。アメリカや移民の多い国ではよくあることかもしれないが、均質な日本では珍しいことである。

「まるで空港にいるようです」とシルビア氏は述べた。

大泉地区では、多くのブラジル人が地元のスバル自動車工場などにきて就職している。シルビア氏は語学学校を経営し、自身が英語を教え、他の人がポルトガル語や日本語を教えている。日本で生まれた子どもを持つ親は、その子どもがポルトガル語か日本語のうち、どちらか欠けている方を学ぶことを望み、移住してきた大人たちは日本語か英語を勉強する。

シルビア氏の元で英語を学んでいる10代の生徒、片岡タチアネさん、ジュリアーヌ・ソアレスさん、榎本ニコルさんの3人は、言語のごた混ぜの好例である。彼女らは日本で生まれ、ブラジルを短期間訪れただけであるにも関わらず、ポルトガル語を母語とし、日本語の上手さはまちまちである。

タチアネさんは日本語を「全く」話せないと言い、ニコールさんは流暢に話すことができる。ジュリアーヌさんはその中間だ。

「話すのは怖いけれど、だいたいのことはわかる」と、ジュリアーヌさんは述べた。

ジュリアーヌさんとニコルさんの両方が、来年、ブラジル南部のクリチバの大学に進学することを希望しており、これまでの人生を日本でだけ過ごしてきた後に、事実上外国人としてブラジルに行くことになる。1歳年下のタチアネさんは、まだ決断していない。

3人に、自分をブラジル人だと思うか、それとも日本人だと思うかを聞いた。3人ともが「ブラジル人」だと答えた。

シルビア氏は、「みんなブラジルに帰りたがるけれど、実際にそうする人は多くないです」と説明した。「彼らの多くがここに残ります。私は2年か3年いようと思っていましたが、まだここにいます」

シルビア氏は、人々は共通点を多く持っているにも関わらず、自分たちの間に違いを見いだすという、人間が持ち得る傾向についてそれとなく述べた。ブラジル生まれの「純粋なブラジル人」である父親は、日本人社会からはよそ者と見なされ、必ずしも歓迎された訳ではなかったと彼女は語った。

「ブラジルで野球をやっていたのは日系人ばかりでした。父は彼らに受け入れてもらえなかったのです。たとえブラジルにいても、ブラジルで生まれても、彼らは自分たちを日本人と考え、混ざろうとしませんでした」と彼女は語った。

サンパウロのリベルダーデ地区にある日本移民博物館には、初期に移住した日本人たちの厳しい生活が記録されている。彼らは奴隷制度が終わった際に、黒人と褐色人の多かったこの国を「白くする」ために、ブラジル政府によって取り入れられたのである。これは、20世紀初頭のブラジルでよく知られた優生学運動の一環だった。

このことは、ブラジルが「人種民主主義」であるという一般的な概念、つまりこの文化の多くの根底にある俗説が誤りであることを示している。

日本へ帰国したブラジル人たちは、それぞれの障害に直面していた。ルールを知らない、守らないといった、自ら作り出した問題や、言葉の壁からくる問題などである。また、いくつかの問題は、日本の島国的な性質が関係しているかもしれない。

「日本人は外国人に慣れてきたと思いますが、私は時に、問題は自分たちのせいでもあると思います」と、シルビア氏は述べた。「私たちは外国人なのだから、彼らの文化を尊重しなければなりません。彼らが私たちに慣れるのではなく、私たちが彼らに慣れなければならないのです」

シルビア氏は、弟よりも自分の方がブラジルに戻って生活する可能性が高いと述べ、その理由は家族であるという。「日本人はすごく働くので、多分ブラジル人の方が人生を楽しんでいるでしょう」と、シルビア氏は述べた。しかし、生活の質の問題に関しては、日本が勝っているという。ブラジルでは肌の色に関連した社会的不平等が非常に大きいと、彼女は指摘する。

「私は日本の文化の方が好きです。ここでは、人々はお互いを尊重し合っていますし、努力すれば仕事が見つかり、家や車など、欲しいものを買うこともできます。ブラジルでは、それはもう少し複雑なのです」

ノルベルト氏はより断固とした態度だったが、葛藤もしていた。

「私はブラジル人ですが、もうブラジルの文化には慣れていません。自分の国の文化よりも、日本の文化に慣れてしまっているのです。でもサッカーに関しては、100%ブラジル人なのです。ちょっと紛らわしいですよね?」

AP

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