
ガザ:ガザで7週間に渡り続いていた爆撃が休戦によって止まった後の25日、タハニ・アル・ナジャーさんは訪れた平穏を利用し、破壊された自宅へと戻った。彼女の家を粉々にしたイスラエルの空爆により、家族のうち7人が死亡し、彼女自身はシェルターへの避難を余儀なくされたとのことだ。
4日間の休戦が開始されてから24時間以上が経過した。その間、何千ものパレスチナ人が共同シェルターや仮設キャンプを出発し、来た時と同じぐらい困難な道のりを戻り、自分たちの家がどうなったか確認しようとしている。
「これからどこに住めば良い?これからどこに行けば良い?材木を集めて避難するためのテントを作ろうとしているけれど、徒労に終わりました。家族が避難する場所を作るために使えるものは何もありません」と、ナジャーさんは自宅の瓦礫やねじ曲がった金属をかき分けつつ語った。
ナジャーさんはガザ南部にあるハーン・ユーニス出身の58歳で、5人の母親である。彼女によると、イスラエル軍は2008年と2014年に起きた2つの紛争の際も、彼女の家を完膚なきまでに破壊していったという。
破壊された自宅では、瓦礫の中で自転車や粉塵まみれとなった布が積み重なっていたが、彼女はその中から奇跡的なほど傷が無いカップをいくつか掘り当てた。「私たちはまた再建する」と彼女は言った。
小さなガザ地区の中に住んでいる230万の人々の多くは、ほぼ絶え間なく降り注いでいた空爆や砲撃が中断したことで、安全に移動し、破壊の規模を確かめ、搬入された支援物資を手にするかもしれない機会を初めて得ることができたのだ。
青空市場や支援物資の倉庫では、何千もの人々が幾らかの支援物資を求めて列に並んでいた。休戦の一環として、ガザで流通する支援物資の量は増えたのである。
10月7日に過激派であるハマスがイスラエルの複数の街を奇襲し1,200人を殺害した後、イスラエルが行ってきた報復は長さ40km(25マイル)のガザ地区において、これまでで最も凄惨かつ破壊的な攻撃となっている。
住宅地区
ハマスが支配する地域におけるパレスチナの公衆衛生当局者たちによると、爆撃によって14,000人を超える人々が死亡し、うち40%が子供だという。さらに、住宅地区の一帯が破壊されるという事例が幾つも起きているとのことだ。彼らによれば公式の死者数に数えられていない、何千もの死体が瓦礫の下にまだ存在している可能性があるという。
イスラエル軍は先月、戦闘が最も激しくなったガザ地区北部を去るよう全ての住民に対し通告した。しかしイスラエル軍は何十万人もの人々が逃げ延びた先である南部をも爆撃し続けた。ナジャーさんの家も南部にあったのだ。
イスラエル軍は民間人に対し休戦期間中、北部に戻ってはならないと告げていた。そのため南部に逃げた人間の多くは現在、北部に残った人間から情報を得ようとしている。
一方で病院用電力、きれいな水、救急車用の燃料、あるいは食料や薬品といったものが不足する人道危機が発生しており、その上、攻撃に伴う封鎖まで起きている。
ハーン・ユーニスの青空市場では、トマト、レモン、ナス、ピーマン、玉ねぎそしてオレンジが木箱に入って並べられていた。青空市場にいたアイマン・ノファルさんによると、休戦前と比べ買えた野菜の量は増え、値段も安くなったという。
「休戦が4日や5日でなく、恒久的に続くことを望みます。この戦争の代償は人々には重すぎます」と彼は語った。
ハーン・ユーニスの国連機関の建物では、人々が調理用のガスを求めて待機していた。何週間も前から供給の不足が始まっており、多くの人々は爆撃の跡地から拾い集めてきた木を燃料に、焚き火で調理を行っている。
モハメド・ガンドールさんは円筒形の金属製キャニスターを補充するため、夜明けに彼と家族が避難している学校で起床し、長い道のりを経て倉庫まで辿り着き、そこから5時間も待ち続けていた。しかし、それでも遅すぎた。「これからガス無しで帰宅することになります」と彼は語った。
しかしエジプトに面したラファ検問所では、11月25日の早い時間に何台ものトラックがゆっくりと国境を越え、ガザに新たに物資を持ち込む様子を見ることができた。
ロイター