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2カ月目に突入したガザの戦争は、高齢者と新生児を貧困と避難生活に追い込んでいる

2023年12月6日、エジプト・カイロ東部の新行政首都(NAC)病院。イスラエルとパレスチナのイスラム主義組織ハマスの紛争が続く中、ガザから避難してきた23歳のパレスチナ人女性シマー・アブ・ハテルさんが、治療を受けている生後38日の未熟児の娘、キンダちゃんを見守っている。(ロイター)
2023年12月6日、エジプト・カイロ東部の新行政首都(NAC)病院。イスラエルとパレスチナのイスラム主義組織ハマスの紛争が続く中、ガザから避難してきた23歳のパレスチナ人女性シマー・アブ・ハテルさんが、治療を受けている生後38日の未熟児の娘、キンダちゃんを見守っている。(ロイター)
2023年12月7日、ガザ地区南部のラファにあるアブ・ユセフ・アル・ナジャール病院で、イスラエル軍による家屋への攻撃で死亡したパレスチナ人を追悼する男性。(ロイター)
2023年12月7日、ガザ地区南部のラファにあるアブ・ユセフ・アル・ナジャール病院で、イスラエル軍による家屋への攻撃で死亡したパレスチナ人を追悼する男性。(ロイター)
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08 Dec 2023 04:12:11 GMT9
08 Dec 2023 04:12:11 GMT9
  • 事態の沈静化の兆しが見えないなか、パレスチナ人はわずかな食料や清潔な水だけで、しばしば路上で、爆弾や砲弾が降り注ぐ夜、泣き叫ぶ子どもたちをなだめながら生活している。

ガザ:ガザで2カ月に及ぶ戦争が続いた結果、多くの人々が家を失い、イスラエルの激しい爆撃によって、すでに狭いこの飛地のさらに小さなエリアに詰め込まれている。老人や新生児も同様に、がれきの中のテントで生活している。

ガザ地区では、61日間に及ぶ戦闘で家を追われた3人の女性が、空爆と砲撃の中を転々とした後、避難所と安全を必死に求めている。

ザイナブ・ハリルさん(57歳)は、イスラエル軍の戦車が南部のハーン・ユーニスに押し寄せる中、4度目の移動を試みている。イスラー・アル・ジャマラさん(28歳)は、短期間で終わりを迎えた休戦が始まった夜に生まれた幼い娘の世話をしながら、テントで暮らしている。

そして、マイ・サリムさんはエジプトとの国境を歩きながら、自分と家族がそこを越えて永続的な避難生活を強いられることを恐れている。

境界を超えたハマスの襲撃により、イスラエル側の発表によると民間人を中心に1200人が死亡した。10月7日、イスラエル軍のジェット機が報復攻撃を開始したとき、ガザの230万人の大半はハマスの襲撃のことさえ気づいていなかった。

イスラエル軍は、ガザを支配しイスラエルの破壊を狙うイスラム主義運動であるハマスの壊滅を誓っている。彼らは、同組織が武器、司令部、戦闘員を民間人の間に隠し、「人間の盾」として利用しているという。ハマス側はこれを否定している。

ガザ住民の5分の4が避難を余儀なくされ、その多くは何度も避難を繰り返している。彼らの家、会社、モスク、学校は損害を受け、破壊され、あるいはイスラエルの攻撃を前にして危険すぎるとして放棄されている。ハマスが統治するガザの保健当局は、これまでに1万7177人が死亡したと発表している。

事態の沈静化の兆しが見えないなか、パレスチナ人はわずかな食料や清潔な水だけで、しばしば路上で、爆弾や砲弾が降り注ぐ夜、泣き叫ぶ子どもたちをなだめながら生活している。

「新しく母親になった女性は、自宅で、母親や家族と一緒に子供を育てるべきです」と、ガザ中心部のディール・アル・バラにある病院周辺に設けられたテントの中で、ジャマラさんは、生まれたばかりの小さなイスラーを抱いて言った。

ジャマラさんの家が砲撃された後、一家はシュハダ・アル・アクサ病院の外に作られた仮説キャンプに移ったと彼女は言う。小さなイスラーは11月24日、1週間の休戦が始まった夜、そこで生まれた。この休戦は、紛争が緩和されることへの希望を抱かせた。

しかし1週間後、戦闘は再開された。家族はテントで暮らし続けている。砂の上にカーペットを敷き、イスラーは小さな簡易ベッドで眠っている。

ガザの他の人々と同様に、彼らは食糧や必需品を手に入れるために苦労している。「私たちがどれだけ困っているか見てほしい。ミルクもない。粉ミルクもない」とジャマラさんは言う。

たとえ、戦争がやっと終わったとしても、自宅が砲撃された彼女はどうすればいいのかわからない。「私たちはどこに留まるのだろう? どこで赤ん坊を育てられるのか? どこに住めばいいのだろうか?」

爆撃

ハリルさんは、ガザ北部のビーチ難民キャンプに近いガザ市郊外のシェイク・ラドワンに住んでいた。10月中旬、イスラエルは住民対し南へ行くよう勧告を始めたが、一方で領土全体にわたる空爆は続けられた。

彼女はそこを離れたくなかった。人生で最も難しい決断だったという。彼女は最終的に、爆撃の影響を回避できる思われる近くの避難所に移ったが、10日以上にわたって空爆が激化したため、さらに移動することを決めた。

「激しい空爆の中、恐怖、絶望、居場所のなさ、悲しみが入り混じった旅」だったと、彼女は避難所を転々とした経験を表現した。

イスラエル軍がガザ市に押し寄せ、アル・シファ病院を包囲したとき、彼女は友人とその家族とともに南へ向かった。彼らは歩いたり、ロバが引く荷車に乗ったりしながら移動した。

前線を横切るとき、彼らはイスラエル兵から「少し歩いては停止を命じられ、また歩いては停止を命じられ」ることを4時間以上繰り返したという。

彼女は最終的にハーン・ユーニスにある学校に身を寄せた。そこは約30人規模の避難所として使われており、彼女の姪たちもすでにそこにいた。「この戦争では、爆弾で死なない人は病気、悲しみ、絶望で死ぬ」と彼女は言った。

しかし、イスラエル軍は今、ハーン・ユーニスの人々にも退去を命じており、ハリルさんは新しい居場所を探さなければならない。

逃げることができる唯一の大きな町は、エジプトとの国境に位置するラファだけだ。ガザの住民のほとんどは、1948年の戦争で現在のイスラエルから逃れてきた、あるいは故郷を追われた難民の子孫である。

多くの人々は、自分たちが再び難民となり、ガザから完全に追い出されることを恐れている。

国境フェンスのそばを歩きながら、サリムさんは友人とエジプト側を覗き込んだ。彼女はガザ市の自宅から逃げ出し、最初はヌセイラト、後にハーン・ユーニスに移り住んだが、イスラエル軍が人々に再び移動を命じた後、最終的にラファにたどり着いた。

「私たちにとっては、ここが最後の目的地です。もし彼らが私たちを強制移住させようとするなら、私たちはここを離れない。彼らはここで私たちを殺すことができるが、私たちの土地や人生を捨てることはしない。私たちは、ここを去らない」と彼女は言った。

ロイター

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