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「ここにいれば死んだも同然」:中東からの移民とともにヨーロッパを目指すレバノン人

家族と共にヨーロッパに移民しようと試みたザイアド・カレド・ヒルウェ氏(23歳)がレバノン北部の町、トリポリにある両親の家でインタビューに答えている様子。2歳の娘、ジャナちゃんが隣に座っている。2021年12月6日(月)撮影。(AP通信)
家族と共にヨーロッパに移民しようと試みたザイアド・カレド・ヒルウェ氏(23歳)がレバノン北部の町、トリポリにある両親の家でインタビューに答えている様子。2歳の娘、ジャナちゃんが隣に座っている。2021年12月6日(月)撮影。(AP通信)
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11 Dec 2021 01:12:02 GMT9
11 Dec 2021 01:12:02 GMT9

トリポリ・レバノン:ザイアド・ヒルウェ氏は、旅の途中で家族が死ぬかもしれないことをわかっていた。それでも、ヨーロッパのどこかの国の海岸にたどり着き、レバノンで日々直面する屈辱から離れた土地で妻と三人の子どもと新しいスタートを切るためには、そのリスクにも価値があると思ったという。

レバノンの経済破綻はヒルウェ氏を破滅させた。通貨の暴落で、民間の警備会社で働いていた彼の給料は月650ドルから約50ドルにまで落ち込んだ。2年足らずの間にレバノン・ポンドの価値は90%も暴落してしまったからだ。22歳のヒルウェ氏は、とうとう、子供のミルクやオムツを買うこともできなくなってしまった。

だが、今よりも良い未来を願う若き父親の希望は先月、打ち砕かれた。彼らが乗ったイタリアに向かう船が、レバノン郊外の港町トリポリから出港して数時間後に地中海で故障したのだ。脱出の試みは恐怖と共に幕を閉じ、ヒルウェ一家は移民を望む数十名の他の乗客とともに海軍に牽引されて岸に連れ戻された。

長年、レバノンは主にシリアからの難民を受け入れてきたが、今では移民を目指す人々が旅立つ地となっている。今年、何百人ものレバノン人が船でヨーロッパにたどり着こうと試みた。2019年10月以降の壊滅的な経済危機により、人口の3分の2が貧困に陥っているためだ。

彼らの航路は、多くの難民が利用するトルコからギリシャへの主要な海路ほどの規模ではない。けれど、レバノンの人々が、イラク、アフガニスタン、スーダンなど中東諸国の人々と同様に故郷を離れ始めたことは驚くべき変化だ。

海路でのレバノンからの出国は、2020年から例年に比べて増加していると、国連難民高等弁務官事務所の広報担当者リサ・アブー・カレド氏は語る。UNHCRの統計によれば、1月から11月の間に1570人がレバノンから出国、及び出国の試みを行っている。ほとんどの人はキプロスを目指している。出国者の大半はシリア人だが、レバノン人もかなりの数が加わっているとアブー・カレド氏は言う。

「レバノンで生き延びていく方法がないと感じる人々が必死に移民の道を選んでいることは明らかだ」と、アブー・カレド氏。

レバノンでは、不安定な政治状況、新型コロナウイルスによるパンデミック、昨年8月に首都ベイルートの主要港で起きた大規模な爆発事故など、いくつもの危機的状況が集中的に起こっているという恐ろしい状態であり、それが国の財政破綻にさらに拍車をかけている。

ヒルウェ氏は日に日に絶望感を募らせていた。何ヶ月もの間、親戚や友人に金銭的な援助を頼まなくてはいけなかった。ある夜、友人たちとの話の中で、ヒルウェ氏は移民請負業者が人々をヨーロッパに連れて行っていること、すでにヨーロッパに到着した人もいることを知った。

ヒルウェ氏と、親しい友人のビラル・ムッサ氏はそれに賭けてみることにした。ヒルウェ氏は妻と子どもたちを連れていくと決めたが、ムッサ氏は一人で出国し、ヨーロッパに落ち着いてから家族統合のためのビザを申請するつもりだった。

業者に支払う料金は大人が1人4000ドル、子供が1人2000ドルだと言われた。ヒルウェ氏はアパートと車を売り、親戚からも借金をした。それでも全額には満たなかったが、移民業者は値引きをしてくれると言い、14000ドルの代わりにヒルウェ氏の手元にあった10000ドルをすべて持っていった。

「この国にいれば死んだも同然だし、航路で死ぬかもしれない。でもヨーロッパにたどり着けば、まともな暮らしができる」と、ムッサ氏は言った。

移民業者は彼らに、11月19日、金曜日の深夜0時前にトリポリにあるアブアリ川近くの場所に来るように告げ、70人が船に乗る予定だと伝えた。待ち合わせ場所からは荷台が覆われた野菜運搬トラックに乗せられ、トリポリの南のカラモーンに連れていかれた。

カラモーンにある廃墟となったリゾート地から、荷物を持って木の船に乗り込んだ。0時ちょうどに岸を離れたところで、移民業者が乗船している人々の名前を読み上げ始めた。

乗っていたのは70人ではなく92人で、シリア人とパレスチナ人の難民が24人含まれていた。

だが、すぐにトラブルが発生した。レバノン海軍の船が近づいてきて、引き返すようにと拡声器で命令してきたのだ。船長はそれを無視して西に向かって進み続けた。

海軍は彼らの船の周りをぐるぐると周回し、それによって起こった波で船が揺れ、船内に水が入ってきた。船同士の距離が縮まるにつれ、揺れはどんどん激しくなり、より多くの水が入ってきて船が沈み始めた。乗客たちは悲鳴を上げながらバランスを保つために船のあちこちに散らばり、船が沈まないように荷物を海に投げ入れた。

ヒルウェ氏の妻と子供たちはエンジンの近くに座っていた。船が浸水し始めた時、エンジンから煙がもくもくと出てきて、生後3ヶ月の息子カリムくんの呼吸が止まり、窒息しそうになったという。

「息子は目の前で生死の境をさまよった」と、ヒルウェ氏はカリムくんが息を吹き返すまでのうろたえた心境を振り返る。

「私はシャハーダを唱え始めた」と、ヒルウェ氏の妻、アラー・コドール氏(22歳)は語った。シャハーダとは、イスラム教徒が死が近づいた時に唱える信仰告白の言葉だ。

最終的に船は安定を取り戻し、海軍に追われながら西へと進み続けた。スクリーンを見ていた船長が「レバノンの領海を出た」と叫んだ。同時に、海軍の船は引き返していった。

「すごく嬉しかった。ついにレバノンから出られた、屈辱に満ちた地を越えることができたんだ、と」と、ヒルウェ氏は振り返る。妻と二人の娘、ラナちゃん(3歳)とジャナちゃん(2歳)を抱き締め、その瞬間を祝った。

安心したのもつかの間だった。夜が明ける少し前に、水にどっぷり浸かったエンジンが完全に停止してしまったのだ。船は暗闇と静寂の中で立ち往生し、乗客たちは必死でレバノンにいる親戚に電話をかけ、軍に助けを求めるように頼んだ。

数時間後、ようやくレバノン海軍が到着し、船を岸まで牽引した。

「船が止まった時、すべてが真っ暗になった。絶望的な気持ちだった」と、ヒルウェ氏は語る。「レバノンに戻ってきた時には目に涙が浮かんでいた」

トリポリでは男性は女性と子供と引き離され、何時間も尋問を受けた。移民業者は現在も拘束されているとヒルウェ氏は言う。

トリポリはレバノンでも最も貧困状態が厳しい都市だ。リアド・ヤマック市長によれば、昨年、ヨーロッパに向かおうとしてトリポリの沿岸で溺れて死亡した人も何人かいるという。

去年、キプロスに向かう移民船が燃料が尽きて8日間漂流したこともあった。その間に6人が死亡した。

レバノンの国連平和維持軍(UNIFIL)が残りの乗客を救出し、応急処置を施した後、レバノン当局に引き渡した。

「家族を連れて海を渡ろうとするのは自殺行為だ」と、ヤマック氏は言う。

ヒルウェ夫妻はそうは考えていない。彼らはすでにアパートも車も、ヒルウェ氏の仕事も失った。自分たちと子供たちの命を危険にさらすとしても、ヨーロッパにたどり着く日まで挑戦し続けると彼らは言う。

「この国を出るためならどんな危険も厭わない。ここには何も残されていない」と、コドール氏は語った。

AP通信

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