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特別レポート:解放されたウクライナ人の証言から明らかとなる戦争と抑留の恐怖

麻酔医オレクサンドル・デムチェンコ大尉、マリウポリのアゾフスタル製鉄所包囲戦中の仮設地下病院にて。(提供写真)
麻酔医オレクサンドル・デムチェンコ大尉、マリウポリのアゾフスタル製鉄所包囲戦中の仮設地下病院にて。(提供写真)
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25 Mar 2023 10:03:39 GMT9
25 Mar 2023 10:03:39 GMT9
  • 2022年5月にマリウポリで捕虜となったオレクサンドル・デムチェンコ大尉が127日間に及ぶ抑留生活について語った
  • ドネツクの元安全技師のルドミラ・フセイノワ氏は性暴力の生存者としての匿名の権利を放棄した

ナディア・アルフォー

キーウ:2022年5月、アゾフスタル製鉄所に立てこもったウクライナ兵の最後のグループがロシア軍に降伏し、防衛側の最後の拠点だったマリウポリでの3ヶ月に及んだ熾烈な包囲戦が終結した。

数百人のウクライナ兵と外国人義勇兵がロシア支配地域の収監施設に移送された。ロシア当局は捕虜たちは国際規範に沿った待遇を受けると確言した。

移送された捕虜の1人、麻酔医のオレクサンドル・デムチェンコ大尉は、包囲戦終盤の数週間、仮拵えの地下病院で働いていた。デムチェンコ大尉は、5月18日、アゾフスタルに増援部隊と共に物資を運び込もうとしている最中に捕虜となった。

「私には命が3つあると思っています」と、デムチェンコ大尉は、マリウポリ陥落後約1年を経て、激しい砲撃とロシア軍の捕虜となった事を思い出しながら、ウクライナの首都キーウでアラブニュースに語った。「捕虜になるまでの命、捕虜の時の命、そしてその後の現在の命の3つです」

サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子とトルコの仲介による捕虜交換で昨年9月21日に解放された約300人(10人の外国人を含む)の戦争捕虜の内の1人がデムチェンコ大尉だった。苦難から徐々に回復しつつある中、デムチェンコ大尉はアラブニュースに自身の体験を語った。

マリウポリは、この戦争の暴力の最悪の象徴となっている。ロシア政権は、2014年にロシアが併合したクリミアへの陸路の要衝としてこの沿岸都市の戦略的重要性を認識していた。

迷路のような地下トンネルを含めて合計4平方マイルの面積を持つアゾフスタル製鉄所は、マウリポリにおけるウクライナ側の最後の抵抗拠点となった。過去1世紀で最大級に惨酷な都市戦闘がここで行われ、数千のウクライナ兵とロシア兵が命を失ったのだ。

ロシアの猛攻が最終的にウクライナ陣地を制圧するまで、地下野戦病院でデムチェンコ大尉は負傷した兵士の治療を行った。「ロシア軍は死に物狂いで攻めて来ました」と、デムチェンコ大尉は述懐した。

その時点で既にウクライナの守備隊側では食料や弾薬、医薬品の不足に至ってた。「カップ半分の水が飲めれば、それは良い日と言えました」と、大尉はアゾフスタルでの最後の数日間の辛酸を思い出しながら語った。

拘束後、捕虜たちはオレニフカ捕虜収容所に連行された。この収容所は、放棄された刑務所だったが、最近になって親ロシア派分離主義者のドネツク人民共和国によって再び使用されるようになっていたのだ。このオレニフカ収容所では、150人を収容するように設計された監房に800人の捕虜が押し込められた。

デムチェンコ大尉によると、食事は腐ったパンと川からくみ上げられた水だったという。大尉の場合は127日間のオレニフカ収容所での抑留中に体重が45㎏減少した。この収容所では、交代制の看守たちによって監視され尋問された。

大尉は、アゾフスタルでの最後の抗戦に消耗しきっていたため、最初の1ヶ月半は眠ってばかりだったと言った。

「私は空想に耽り、将来の計画を立て続けていました」と、大尉は語った。「私の場合、精神状態は問題ありませんでしたが、身体の方が長く続かないのではないかと心配し始めていました」

公的には第120矯正コロニーという呼称のオレニフカに収容されていた数名は、殴打、拷問、強制労働、食事と医療の提供拒否について詳細な陳述をしている。

サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子による仲介が成功し、解放された戦争捕虜たち(英国人5人、モロッコ人1人、スウェーデン人1人、クロアチア人1人、アメリカ人2人)がロシアからリヤドのキング・ハーリド国際空港に到着し駐機場に姿を見せた。サウジアラビア。2022年9月1日。サウジ通信社。

7月29日、オレニフカ捕虜収容所で発生した爆発によりウクライナ人捕虜50人以上が死亡したと伝えられ、ロシア側とウクライナ側双方が互いの工作によるものとして非難を応酬した。この事件によりオレニフカ収容所は悪名を馳せた。多くの収容者が焼死していた。

ロシア政府は、ウクライナが自国の捕虜を故意に殺害するために米国から供与されたHIMARSロケットをオレニフカ収容所に向けて発射したのだと主張した。ウクライナはこのロシアの主張を否定し、ロシア政権がウクライナ人捕虜を虐待していたことを隠蔽するために殺害を行ったのだと反駁した。

独立した調査は未だ行われていない。

9月には、捕虜たちの間で、移送されるとの噂が流れるようになった。実際に捕虜たちが移送される日には、デムチェンコ大尉の身体は栄養失調でひどく衰弱し、骨と皮だけになっていた。

フライトの後、捕虜たちはベラルーシ行きの列車に乗り換えさせられた。この列車移動の途中で、1人の男性が客車に入って来て「みんな、もうちょっとの辛抱だ」と言った時、デムチェンコ大尉は解放されつつあることに気づいたのだった。

解放されて、大尉はすぐに自宅に電話をかけた。大尉は、「もしもし」の代わりに「スラヴァ・ウクレイニ(ウクライナに栄光あれ)」という戦時中の挨拶で家族に呼びかけた。

「家族は、『どなたですか?』と返答しました」と、大尉は語った。「私は笑って、『もう私のことを忘れてしまったの?』と言いました」

9月21日の初回以来、現在もう1年以上継続しているこの戦争で捕虜交換はあたりまえの事になった。2022年2月24日に「特別軍事作戦」とロシアが呼ぶ軍事行動が始まって以来、約1,863人の男女が解放されている。

しかし、「捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第三条)」を初めとする国際人道法に反するとされる状況下で数千人が依然抑留されたままとなっている。

ジュネーブ条約によれば、戦争捕虜は常に人道的に扱われなければならない。抑留国の不法な作為や不作為で捕虜を死亡に至らしめたり捕虜の健康に危険を及ぼすことは禁じられており、もしそのような事があった場合には条約の著しい違反と見做される。

この条約は、また、赤十字国際委委員会がすべての戦争捕虜に接触出来るよう、抑留場所がどこであっても訪問出来る権利を赤十字国際委員会に与える事を国際的な武力紛争のあらゆる当事者に義務付けている。ロシアとウクライナはいずれもこの条約の批准国である。

「特別軍事作戦は、国連憲章の基本的な定めに従って行われます。国連憲章では武力行使の脅威がある場合には正当な自衛の権利を国家に与えるとされており、ロシアはそれを行使しています」と、在サウジアラビアのロシア大使であるセルゲイ・コズロフ氏は2月にアラブニュースに寄稿している。

「ご覧いただける通り、ロシアは国際法の真の精神に従っています。西側欧米諸国やその取り巻きによって恣意的に導入された『規則に基づく秩序』の類ではありません」

2022年2月以来両陣営の数千人に上る兵士が捕虜となったが、拘束や抑留中の虐待は軍関係者だけに限定されたことではない。ウクライナ東部の数多くの一般市民にとって、こうした苦難の始まりは2014年にまで遡る。

ルドミラ・フセイノワ氏はドネツクのノボアゾフスクの養鶏場で安全技師として勤務していた。2014年にロシアの後ろ盾を得た分離主義者がフセイノワ氏の町を占領した時、彼女はそれに反対する意思を隠そうとはしなかった。

フセイノワ氏は、さらに、戦闘で離散した家族の再定住支援に深く関与するようになり、また、地元の孤児院の子供たちの世話もしていた。

「孤児たちの状況の目の当たりにしました。飢えていました」と、フセイノワ氏は、再定住したキーウのアパートでアラブニュースに語った。

「当時は予算に余裕がなく、孤児たちを助けることに資金を回せませんでした。孤児たちを残して去ることは考えられなかったので、私は残りました」

2019年10月、フセイノワ氏の生活は根底から覆されてしまった・夫がハリコフに出かけて留守中だったその晩、ドアにノックがあり、数名の男たちが彼女の住居に押し入ってきたのだ。

「私が掃除したばかりの家を何故汚れたブーツで泥だらけにするのかとずっと思っていました」と、フセイノワ氏は語った。

フセイノワ氏は、両手を縛られ頭に袋を被せられた状態で自動車の後部トランクに閉じ込めれて尋問のためにどこかに連行された。

「これは馬鹿げていると思いました」と、拉致を思い出しながらフセイノワ氏は語った。「私は今まで何年もオンラインでもオフラインでも発言してきています。彼らは私が公開しているFacebookの投稿、自宅のウクライナ国旗、私の書籍を根拠に、私を『民族主義者』だと非難しました」

フセイノワ氏はアイゾリヤッヂィアに連れていかれた。アイゾリヤッヂィアは元々芸術センターだったが2014年に悪名高い抑留施設となり、拷問や非人道的な待遇の疑惑の代名詞にすらなっていた。「アイゾリヤッヂィアに入った瞬間、人間として女性として抑圧されてしまうのです」と、彼女は語った。

その当時フセイノワ氏は60歳近かったが、尋問官の前で衣服を脱がされた。「片手に手錠をかけたままでした。袋は頭に被せられたままでした。私は性的虐待を受けたのです」と、彼女はアラブニュースに語った。

「尋問官たちは笑っていました。笑い声から彼らがまだ若いことが分かりました」

ドネツクのノボアゾフスクの養鶏場で安全技師として勤務していたルドミラ・フセイノワ氏。(AN Photo / ミハイロ・パリンチャク)

イスラム教徒の父親を持つフセイノワ氏は、侵攻以前のドンバスでロシアの支援を受けた反政府勢力によるとされる犯罪への注意を喚起するために、性暴力の生存者としての匿名の権利を自ら進んで放棄した。

「女性はイスラム世界では尊重されています」と、フセイノワ氏は語った。「私たちが抑留中に受けた扱いは、女性の扱いに関わるあらゆるイスラム教の戒律に反しています」

その辛い体験の後、フセイノワ氏は監房に連れて行かれ、そこでもう一人の女性と同居することになった。この監房には、2段ベッドとトイレ、常時点灯し続けているランプが有り、窓は日光を遮るために黒塗りにされていた。各監房には監視カメラが設置されていた。

フセイノワ氏は、被抑留者たちは毎日早朝から日没まで起立させられ、日常的に屈辱的な扱いを受けていたと語った、ある時には、抑留施設の職員の気晴らしのためにネズミの排泄物が混じった小麦を食べさせられたと彼女は述べた。

その後、フセイノワ氏は、ルーツクのSIZO刑務所に移送された。そこでは、睡眠を阻まれたという。「依存症の人たちがたくさんいました」と、彼女は語った。「テレビがずっとつけられていました」

2022年2月のロシアによる全面侵攻をフセイノワ氏が知ったのはSIZOでの抑留中だった。「私は解放の希望を完全に失いました」と、彼女は語った。

オレクサンドル・デムチェンコ大尉。(AN Photo / ミハイロ・パリンチャク)

しかし、その年の10月、フセイノワ氏は突然釈放されたのだった。他の被抑留者とひとまとめにテープで目隠しをされたフセイノワ氏は自動車で運ばれ、最初は地下監房に、そして軍用空港へと移送された。

「自動車は7時間ほどどこに向かうというのでもなく走っていました。看守らは、私たちを地下監房に入れる時、私たちは処刑されるのだと言いました。食べ物も与えられず、水も無く、小麦を一すくい食べさせられただけでした」

しかし、看守らは、被抑留者たちを殺すのではなく、飛行機に乗せ、座席に押し込んだ。彼らは、被抑留者の女性たちに「怖がるな、少し痛いが」と脅すように言ったとフセイノワ氏は述べた。

そして、飛行機はクリミアに着陸した。フセイノワ氏は白い旗を持った出迎えの男性が立っているのを目にした。

解放されてキーウで暮らすようになって数ヶ月が経過した今、フセイノワ氏は未だに抑留されている女性たちを忘れられず彼女たちを助ける方法を模索しているのだという。「彼女たちは忘れられてしまったと感じています」と、フセイノワ氏は言った。「そんなことはないと彼女たちに知ってもらう必要があるのです」

フセイノワ氏と同様にデムチェンコ大尉も抑留によって引き起こされたいくつもの健康上の問題に依然苦しんでいる。とはいえ、大尉は減ってしまった体重を取り戻し、今はかなり健康そうだ。

「人生は続いて行きます」と、戦争、抑留、そして解放のこの1年を振り返ってデムチェンコ大尉は言った。「任務に就いたことを後悔したことは一度もありません。医師らしく言えば、ロシアは麻酔なしで取り除く必要のあるガンのようなものです」

「看守たちは自分たちが何をしているのか知っており、さらに酷いことに、自分たちの行いを楽しんでいました。私は軍務を続けます。ウクライナが勝つま私はやめません」

国連人権高等弁務官事務所は、紛争中に戦争捕虜の拷問を行ったとしてロシア、ウクライナの両者を非難している。国際刑事裁判所は、ウクライナにおける戦争犯罪と人道に対する罪を2013年まで遡って調査している。この調査の主任検察官を務めるカリム・ハーン氏は、戦争犯罪が行われたと考える合理的根拠があると確信しており、「ウクライナは犯罪の現場となっている」と2022年の12月に述べた。

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