

カイロ:25年以上前から、エジプトでは神聖なラマダン(断食月)期間中の特別なイベントとして、サッカー大会が人気を博している。
ラマダン中の大会は、サッカー好きの友人同士が集まって試合をし、技を披露し合うことから始まった。時が経つにつれ、それらの試合はより組織的でプロフェッショナルなものとなり、一部は大手スポンサーの注目を集めるまでになった。
カイロの街角でささやかに始まったラマダンのサッカー大会は、エジプト国内の他の地域、さらにアラブ世界諸国へと拡大してきた。その舞台も、路上から青少年センターへ、そしてついには大規模なスポーツクラブへと成長してきた。
「ラマダンのサッカー大会は、首都カイロの路上で始まったもので、選手たち皆自立して生活していました」と、エジプトの新聞アハバル・エル・ユーム(Akhbar El-Youm)のスポーツジャーナリスト、モハメド・エル・サイード氏はアラブニュースに語った。
「様々な地域から来ている若者たちは、出身地域ごとに独自のチームや試合を組織していました。街頭をスタジアムに見立て、ユニフォームなどもありませんでした。チームの結束力があればそれで十分だったのです」
「以前は、ラマダンのサッカー大会はいつもイフタール(ラマダン時の夕食)の直前に行われていました。若者たちはその時間帯の静かな通りを利用して試合を行い、娯楽を求める子供や若年層が観戦に集まっていました」
1990年代にラマダン中のサッカー大会に参加していた有名選手の1人に、ミゾの呼び名でも知られるハテム・フセイン選手がいる。
「(当時)路上でプレーしていましたが、みんなとても真剣でした……競争も激しかったですね」と彼は言う。「私たちはいつもノックアウトマッチ方式で戦っていました。大会終了までにすべてのライバルを倒したチームが優勝となるのです」
「上位チームへの賞品は、各チームが最初に支払った参加費に見合うだけの、象徴的な意味合いの強いものでした。2位と3位のチームには、スポーツ用品一式が贈られました」
カイロ中心部に近いアブディーン地区でラマダン期のサッカー大会を運営するカリム・アル・ビバニ氏は次のように話している。「最初はカイロの路上で、冷たく硬いアスファルトの上で行われていたラマダン期の大会ですが、2000年頃から、青少年センターにより設備の整ったピッチで開催されるようになりました」
「これは、住宅が大量に建設され、路上でサッカーをするスペースがほとんどなくなってしまったことが一因です」
「現在、大会は青少年センターに移っていますが、青少年センターは運動場が広く、照明も強く、設備も充実しています。これらのセンターは大会を組織し、財政的な部分も引き受けてくれています」
ラマダン時期の大会が、人気を得て拡大するにつれて、既存のサッカークラブがこの動きに参加したいと考えるようになったのは当然の成り行きだった。
「過去15年間で、ラマダン時期の大会の中心は主要なクラブに移り始め、クラブを引退した多くの名選手がこの大会でプレーするようになっています」と、エル・サイード氏は語る。特に、人工芝の5人制用ピッチが建設されるようになったことが、この傾向に拍車をかけたとも指摘した。
「引退した選手たちが参加するようになったことで、ラマダン期の大会はエジプト国外に広がり始めました」とエル・サイード氏は言う。
ジャーナリストのマフムード・エッサム氏も、人気のあるベテランのスター選手たちの参加により、ラマダン中の大会は近年ますます大きなビジネスとなり、高額のスポンサー契約を得るようになったと説明する。
「ビッグクラブの場合、スポンサー契約は不動産関係や携帯電話会社など、より大きな企業との間で結ばれることになります」とエッサム氏は語る。「こうした大手とのスポンサー契約は、ビッグネームが大会に参加するかどうかにかかっているのです」