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アヤソフィアの地位変更で過激派の歓心買うエルドアン氏

トルコの行政最高裁は先週、6世紀の建造物アヤソフィアを博物館とした決定を無効とした。この結果、モスクへ逆戻りする道が開かれることとなった。(資料/Ozan Kose/AFP)
トルコの行政最高裁は先週、6世紀の建造物アヤソフィアを博物館とした決定を無効とした。この結果、モスクへ逆戻りする道が開かれることとなった。(資料/Ozan Kose/AFP)
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14 Jul 2020 11:07:57 GMT9

【リヤド】トルコの街々でいま口々に語られていること。「イスタンブール掠奪に加担したかい?」だそうだ。コンスタンティノープルがメフメト二世によってイスラム暦857年(西暦1453年)に征服されてから、その民がさいなまれたオスマン帝国による掠奪や人殺しの話をしているのである。オスマン帝国といえば、掠奪が性分のように慣れ親しんでいたが、帝国の支配が及ぶかぎりその蛮行は続いた。

「豹はまだらの皮を変ええない」とは、どれほど時が過ぎゆこうと変わらず人の口に上っている言葉だ。いまトルコのエルドアン政権がアラブ世界に対しておこなっている所行は、かつてのオスマン帝国に倣ったものだ。その根っこの部分は帝国の野心でもあり、かつまたトルコ共和国の軍門にくだる諸国の富を吸い上げたいという意思の表れでもある。その手口は、あるいは過激派集団のイデオロギーを利用してアラブ諸国の不和をあおるものであったり、暴力を招く宗教的情意をそそるものであったりだ。

今回の動きの真意は、イスラム過激派の心を動かすあるイメージを前面に出して彼らを取り込むことだった。が、そんなものはイスラムの精神とは縁もゆかりもないものだ。(資料/AFP

トルコ政府が宗教がらみでおこなう所行すべては、みずからの立ち位置への支持を着実に取り付け、われこそイスラムの拠点であると示そうとするものだ。

トルコ政府は自国民の心情を操っている。トルコ国民は、一見すると敬虔で品格のあるイスラムふうの表層と、理念とはほど遠い現実とがごっちゃになるようたくみに仕向けられている。さもあろう。トルコが実際におこなっている現実とは、イスラエルと緊密な関係を求めたり、無辜のアラブ人民に数々の犯罪を犯すことだからだ。その犯罪の数々は、たとえば、アラブ人を傭兵として利用したり、アラブ領内で軍事作戦を実行して諸国の富に手を突っ込んだり、さては供物を差し出せと要求して経済をも疲弊させたりといったことだ。

トルコ政府のもくろみはようやくにして露呈したとはいえ、まだまだ人々の信仰心に乗じることはやめていない。

72日、トルコのNGOが提起した訴件を審議した同国行政最高裁判所は、1934年の閣議決議を無効とし、ユネスコ世界遺産に指定されたアヤソフィアはイスラム教徒の礼拝所として再スタートを切ると裁定した。(Ozan Kose/AFP

先週、トルコの最高行政裁判所は全員一致の裁定により、トルコ政府がイスラム暦1353年(西暦1934年)に定めた、アヤソフィア(一名、ハギア・ソフィア大聖堂)をモスクから博物館とするという決定を無効とした。破廉恥極まる情意の操作にほかならない。ことにも、祈りを求める声が上がり現にアヤソフィアでの祈りが許可された後であるだけになおさらだ。

この動きの背後には、イスラム過激派の心を動かすイメージを前面に出し彼らを取り込みたいという真意があった。が、イスラム精神とは縁なきその実態は隠されたままだ。

とはいえ、歴史を変更し、あるいは枉げる試みを政治がすればそれは危険なゲームだ。事実が明るみに出れば、その事実がそのまま政治に累を及ぼすからだ。自国の政治的利益に供するため歴史歪曲をおこなう政府。トルコはそれを地で行く国だ。

アヤソフィアについては2つの歴史的な問題がある。それぞれの答えを見れば、いまトルコ政府がやっていることの意味は白日の下にさらされる。

第一に、預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の御代よりこのかた、賢明なるカリフらのもと、また後のウマイヤ朝・アッバース朝の時代にせよ、その支配せる国々で啓典の民(キリスト教徒およびユダヤ教徒)の信仰の場の神聖性をなみするような真似をイスラム教徒がすることは決してなかった。オスマン帝国が支配するまでは。

第二に、メフメト二世の時代にコンスタンティノープルを征服した後で祈りの声を響かせること、またハギア・ソフィア大聖堂をモスクに変えてしまう条件とは何であったか。

預言者ムハンマドの御代、イブン・サアド(イスラム暦230年・西暦845年没)はその書『タバカート』にこう記している。ムハンマドは、バヌー・アル=ハーリスの司教、ナジュラーンの司教、またその他聖職者や帰依者に次のように書き送ったという。「大なり小なり掌中にあるものすべてを守れ。その財産、その祈り、その聖職者などすべて、全能なる神と預言者(彼に平安あれ)の庇護のもとにある。任を解かれる司教や、修道院を追われる僧や教会を追われる司祭は絶えていない」と。[アリー・ムハンマド再編(アル=ハンジー書店(カイロ), 2001)]

異教徒の宗教儀礼や礼拝の場や信仰心を尊重しながらともに暮らしていく、というムハンマドの書いた内容は、全イスラム教徒の拠るべきしきたり、法となった。

ムハンマド以後も賢明なるカリフらはこの寛大で情け深いしきたりを守ってきた。二代カリフのウマル・ビン・アル=ハッターブは、エルサレムの民に対し『ウマル憲章』なるものを定め先例に倣った。いわく、「仁慈あまねく慈悲深き神の御名において。こは、アッラーのしもべにしてエルサレムの民の信心深き者らの長ウマルより平安・保護を約束するもの。ウマルは民の暮らし、財産、教会、十字架の保護を約束するのみならず、病める者も健やかなる者もその宗教社会全体を庇護した。民らの教会はすべてにせよ一部にせよ占領も破壊も解体もされぬ。その十字架も財産も奪われることはない。宗教を無理強いさせられることもなければ何人も傷を受けることもない」

アヤソフィアを宗旨変えさせた真のねらいは、イスラム過激派の心を動かし、その実イスラムの精神とは乖離した実態を隠蔽することで、過激派をエルドアン氏側に取り込むことだった。

タラール・アッ=トゥリーフィー

ウマルがイスラエル・ロッドの民に向けて誓約したのと同じころ、イヤード・イブン・ガナムも似た内容をアッ=ラッカの民およびオデッサ司教へ対し送っていた。ハーリド・イブン・アル=ワリードがダマスカスを制圧したおり、その民へ書いた内容がこうだ。「仁慈あまねく慈悲深き神の御名において。この書はハーリド・イブン・アル=ワリードよりダマスカスの民へ送る。イスラム教徒の入城より、民らは身の安全、財産の安全、寺院の安全、城市の安全を与えられ一切こぼたれることはない。その約定はアッラー、アッラーの御使い、カリフ、イスラム教徒の意を体し得られる。」[アフマド・ビン・アビー・ヤクーブ、タリーフ・アル=ヤクーブ著、アブドゥルアミール・ミハンナー編(Al-Aalami Lil Matbouat刊(ベイルート), 2010)、サイード・イブン・バトリーク『アフリクス』、アッ=タリーフ・アル=マジュムー アラー・アル=タフキーク・ワル=タスディーク(Jesuits Printing Press刊(ベイルート), 1905)]

預言者ムハンマドおよびその継承者らの慈悲と品位と高貴がにじむおこないであった。

メフメト二世は対照的にその帝国の兵らとともにコンスタンティノープル入りした際、民へ恐怖を植え付けた。さらに兵らに対し何日も市街の掠奪を許した。

アヤソフィアとは、東ローマ皇帝ユスティニアヌス一世の治政下である西暦532年から537年にかけて建造されたキリスト教教会、ハギア・ソフィア大聖堂のことだ。オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させるまでキリスト教会でありつづけた。メフメト二世は大勝利の余勢を駆ってキリスト教会をイスラムモスクへと転換させたが、イスラムの教えに挑む行為だった。

メフメト二世はコンスタンティノープル入城当初からハギア・ソフィアをイスラム化し内部で最初の祈りをおこなった、とどの歴史の本にも書いてある。啓典の民を敬え、と預言者ムハンマドとその継承者たちがその親書にしたためた教えを破廉恥にも踏みにじる蛮行であった。

トルコやさてはアラブの歴史家の中にもこのことを誇らしげに語る者も多いには多いが、イスラムの道に外れた行為であるだけに恥ずべき行為というのが真実だ。歴史家のアルベルト・オルテッリは書いている。「キリスト教世界では最高の礼拝の場であったハギア・ソフィア大聖堂はそのようにしてイスラム教徒にとっての偉大な礼拝施設となった。ハギア・ソフィアにまさる魅力をもった建物など西欧にはなかった。ルネサンスの時代に大教会がいくつも建造されるより以前は、ハギア・ソフィアこそがいずこのキリスト教徒の注目も集めていた。そのハギア・ソフィアがイスラム化されたのだからその重大さたるや推して知るべしである。

「トルコ共和国が1930年にこの祈りの場を博物館に変えてしまってからしたことも同様に、政治的な意味でも文化的な意味でもきわめて重要だった。何世紀にもわたり、この場所は人々の不和のもとであったからだ。」[『ふたたび見出されしオスマン帝国』バサーム・シーハ訳(Al-Dar Al-Arabiya Lil Ulum Nashiroun刊(ベイルート), 2012, 77)]

オルテッリの行間からは、ハギア・ソフィア大聖堂の聖性破壊をトルコ人がどう感じているのかが如実にあぶり出される。トルコ政府としては、キリスト教徒にとってもイスラム教徒にとっても礼拝の場でない博物館にしてしまうよりなかったのである。

イスタンブールを訪れる観光客を引き寄せてやまない6世紀の建造物は1935年以来博物館となった。信仰のいかんを問わず開放されたのは、近代トルコ建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクの系譜を継ぐ政権の閣議決定によるものだった。(Ozan Kose/AFP)

ムハンマド・ハルブは、オスマン帝国の歴史と文明について著した著書でこの一事を誇らしき瞬間と描き、イスラム過激派の情念に通じるところを露呈した。「ビザンツの首都は武力で奪われただけにメフメト二世が「征服王」の名を取ったのもよしなしとしない。占領軍の意を体し街のすべての所有者となるべくしてなったからだ。またメフメト二世には、その寛大さの表れとして、教会の半分をモスクに変え、残りの半分を城下の民へ残すという権利もあった。ヨカリヤ、ハギア、レプス、キラといった修道院がビザンツ遺民の手に残されたのはこういう事情による。」[(第二版)(Dar El-Qalam刊(ダマスカス), 1999, 75)]

ムハンマド・ハルブの本の記述とは矛盾することになるが、捕囚を強制的に奴隷とすることは、コンスタンティノープル攻略以前はイスラム教徒にとって自然な考え方ではなかった。民もその財産もその礼拝の場も何もかもスルタンのものにしてしまうというのは認めがたいからだ。

豹はまだらの皮を変ええない。これを力説したいがためにエルドアン氏は後ろ向きとなった。エルドアン氏はアヤソフィアを祈りの場としこれをモスクに変えてしまうことで世界のイスラム教徒の心を取り込もうとしているが、こんなものはイスラム教の価値観を体現するものではない。イスラムでは啓典の民を強いたり辱めたりすることは禁じているのだから。

トルコは一方で欧州人の心を取り込もうとする気はほとんどない。エルドアン氏の胸中はアラブ圏、イスラム圏に集中している。だから、イスラム教徒やアラブ人の情意に乗じようとするあまり、キリスト教徒の気分を害したり、キリスト教会をイスラムモスクへと無理やり変えてしまうところを当のキリスト教徒たちに見せつけようとするわけだ。

トルコ人にそもそも、そうした決定に賛否を投じる権利などありはしない。世界の人々の権利や思いを保障する法がある以上。国際法がそう定めているからだけではない。預言者ムハンマドやその教友らの理念、それに穏健なイスラムの教えが古来そのように教えてきているからだ、というのが大きい。

ハギア・ソフィア大聖堂はメフメト二世の寄進地の一部であった、などとする文書があるとかと聞くが、それこそ史実がでっち上げられ利用されるゲームの一部というものだ。史実と合わぬ文書を持ち込むなら文書の捏造など造作もないことだ。メフメト二世が最初にコンスタンティノープルに入ったときにハギア・ソフィア大聖堂をモスクに変えると宣言したのなら、そこを買い寄進地と定めるひまもなかったはずだ。メフメト二世にしてみれば規定事項にすぎなかったのだ。

アヤソフィアの一件はわれわれ世界のイスラム教徒の思いを酌むものではない。これは、ちょうどスペイン政府がコルドバのメスキータ(モスク)の所有権をめぐり進めている事態にわれわれが対抗しているのと歩調を合わせる。神の住まう場を売り買いなど何人も想像もしえない。キリスト教徒がアヤソフィアを見る目は、イスラム教徒がコルドバのメスキータに注ぐ目と同じだ。

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  • タラール・アッ=トゥリーフィー氏はサウジアラビアの学者、メディア専門家
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