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ムバラク氏、後世はほどほどの評価でもおかしくない

27 Feb 2020
エジプト空軍士官ホスニー・ムバーラク氏は大統領になるなど夢にも思わなかった。が、後に30年にわたり母国を統治した。(AFP)
エジプト空軍士官ホスニー・ムバーラク氏は大統領になるなど夢にも思わなかった。が、後に30年にわたり母国を統治した。(AFP)
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今週カイロの病院でエジプト元大統領のホスニー・ムバーラク氏(以下ムバラク)が91歳で亡くなった。エジプト政治の一時代の終焉といえる。ムバラク氏の統治は、2011年2月に同氏がその地位を追われるまで30年続いた。中東が激変を迎えた時期に同氏はエジプトを率い、エジプトの利益を守り抜くだけでなくアラブ世界の盟主としての地位も保守しえたことは同氏の誉れと言ってよい。

ムバラク氏は前任者のアンワル・アッ=サーダート氏(サダト元大統領)の外交政策路線を受け継ぐ一方、1952年の君主制打倒クーデター以降最大となるエジブト経済の復興を見守った。1980年代後半から90年代前半にかけては、同氏の指揮の下でイスラム過激派組織の排除にも成功した。また、1979年のキャンプデービッド合意にもとづくエジプト・イスラエル平和条約締結に始まる米国重視政策もムバラク氏は維持した。このため米政権にとっては中東で最も信頼の置ける協力者の一人と見られた。

弱者に資する日々の糧や燃料や必須公共サービスの質は落とさず見かけの社会的公正を維持するかたわら、同氏はエジプトを社会主義から自由市場資本主義へとゆるやかに転換させることができた。が同時に、経済をむしばむ肥大化した官僚組織の処断はできなかった。経済界の多くで国営企業が大きな地歩を占め、民営企業と競り合うこともやまなかった。

1981年に軍事パレード参加中暗殺されたサダト氏の後を継いだムバラク氏は、傷跡のなお残るエジプトに希望といやしをもたらした。その長期の政権では民主的な改革へとまずまずの歩みを示した。選挙のたびに事実上対抗馬のいない状態で勝利を続けた。1981年からムバラク氏の下野まで同氏が率いた国民民主党(のち解党)は、有力な野党のないなかエジプト政界で与党として定着しつづけた。が、それは政治的自由の代償としてのワンマン独裁体制だった。その結果、政治腐敗や縁故主義がはびこり、貧困・失業・警察による弾圧の高まりにつながった。ムスリム同胞団の活動を抑えたことから対抗勢力が自由に動け、結果としてエジプト社会は宗教性・保守性を増すこととなった。

彼はエジプトが生き残るための根幹は安全と安定だと考え、その両方の保証人役をみずから任じた。

オサーマ・アッ=シャリーフ

ムバラク政権は持てる者をますます富ませ、貧者は困憊した。有力富裕層が新たに勃興してムバラク氏と結託し、同氏は将官らを重要な地位に就かせたり数百万ドル規模の商業プロジェクトをあてがったりして満足させた。同氏の鉄壁の統治はこうした閉鎖的な「仲間」が屋台骨となっていたため実現していたが、こうしたありようそのものが1月25日の蜂起に結びつく引き金役もおそらく果たし、ムバラク政権は崩壊を余儀なくされた。

過半は若く、選挙権もないエジプト国民の起こしたその蜂起がいわゆるアラブの春ではいちばんの盛り上がりを見せた。おりしも、ムバラク氏が息子ガマール氏を後継者に推しはじめていたころだった。ムバラク氏は浮世離れしすぎていて、抗議運動をしている何百万もの人々と折り合おうとしたものの、時すでに遅しだった。

のちに同氏は幾多の罪状で有罪判決を受けた。18日にわたった抗議活動で800人を殺害した、という罪もあった。法廷に置かれた檻の中の病院用移動ベッドに横たわったまま裁判に臨んだムバラク氏の公判は、ムバラク氏以外に国のリーダーを見たこともない多くのエジプト国民が食い入るように見つめた。アラブの春がリビアやシリアでは大混乱へと急降下するなか、その姿はエジプト人・アラブ人をすくみ上がらせるほどだった。

ムバラク氏と息子たちは最終的にはアブドルファッターフ・アッ=シーシー(シシ)新政権により無罪となった。同氏は人生の黄昏をヘリオポリス地区にある豪奢な別荘で過ごした。

ムバラク氏に許しを求める国民が増えるにつれ、同氏が幾分意を得たのは皮肉だ。現政権と照らせばムバラク時代のほうが懐旧の念を呼び起こしたのだ。適度に開放されていたし、表現の自由もあり、経済情勢もまだしもよかった。

政府は3日間の服喪期間を設け、2月26日には、1973年の第四次中東戦争の英雄の一人として軍が栄誉葬を挙行したことから、ムバラク時代は今や国民の共有するレガシーとなった。目下エジプトが直面する課題は多岐にわたり、山積する危機にムバラク氏ならどう対処したろうかと思う者もいる。エチオピアが建造を進め、エジプト国民の生命線そのものといえるナイル川を脅かすグランドルネッサンスダムしかり、隣国リビアへのトルコの侵入しかり、シナイ半島での「イスラム国」との闘争しかり、だ。ムバラク時代が続いていたなら、エジプトは、中東はもとより国際的にも力強く聳え立っていたかもしれぬというわけだ。

ムバラク氏はイスラエルの土を踏んだことがなく、イスラエルとパレスチナが二国共存解決策をもとに話し合いでけりをつけることを支援した有力者の一人であったことも同氏の誉れだ。ムバラク氏が目を光らせていただけに、エジプトも広く世界から敬意を表された。ムバラク氏がシャルム・エッ=シェイフ(シャルム・エル・シェイク)に魅せられなければ、紅海に面したこの地が世界有数のリゾートとなりエジプトのさかんな観光産業にとってドル箱になることもなかった。

後世の史家はムバラク氏に対してさまで辛辣でないかもしれない。アラブの春では民主主義や自由、社会正義はもたらされなかった。中東はなお混迷・不安定に囚われたままだ。ムバラク時代を懐かしむ声もなおエジプト国民の間にはあるのだ。ムバラク氏はエジプトが生き残るための根幹は安全と安定だと考え、その両方の保証人役をみずから任じた。畢竟は、新世代のエジプト人の望みはその先を行っていた。そこまで思い及ばなかったムバラク氏はみずからの望んだレガシーを最後には否定されることとなった。

  • オサーマ・アッ=シャリーフ氏はアンマンで活動するジャーナリスト・政治評論家。ツイッター:@plato010
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