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メッカへの歴史的なルートは、ハッジ巡礼者たちの信仰への献身を示している

1948年のハッジに参加した巡礼者たち。彼らはイスラムの都市と王国の間のコミュニケーションを築きながら、時代を超えて旅を続けてきた。(AFP)
1948年のハッジに参加した巡礼者たち。彼らはイスラムの都市と王国の間のコミュニケーションを築きながら、時代を超えて旅を続けてきた。(AFP)
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06 Jul 2022 10:07:32 GMT9
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  • イスラム教徒がメッカに向かうには、古代の巡礼者たちの危険な旅を想起させる、4つの主要なルートが存在する
  • 現代ではこれらのルートは廃れてしまったが、その多くは現在の道路や高速道路と重なっている

ラワン・ラドワン

ジェッダ:何世紀もの間、何百万人ものイスラム教徒が、イスラム教「5つの柱」の一つであるハッジ(大巡礼)を行うために、メッカの街まで長距離の旅をしてきた。広大なアラビア砂漠を横断し、東の果てから半島の北と西に至る伝統的なルートが確立され、それは時の試練を乗り越えてきた。

近隣地域からのハッジへの歴史的な陸路は、好意的な商業ルートや文化的・商業的交流の結果として、長い時間をかけて具体化された。このような、何世紀にもわたって深く根付いてきた文化的・宗教的伝統は、イスラム文明の最も重要な物質的痕跡の一つをなしている。

巡礼者は、ラクダ、馬、ロバなどの隊列を組んで何カ月も旅をし、井戸、池、ダム、そして旅行者が設置した休憩地点などに立ち寄り、最も有名なハッジのルートを進んだ。そして、これまでの何百万人もの巡礼者の足跡をたどりながら、生涯に一度の精神の旅を全うするのであった。

「そして、人々に巡礼を呼びかけよ。彼らは歩き、または痩せたラクダに乗って、あなたのもとにやって来るであろう」と、コーラン22章27節には記されている。

学者たちは、5つの主要なルートがメッカに到達したと考えている。6つか7つまであるかもしれないと主張する人々もいるが、それらは副次的なルートと考えられている。なかでも重要な4つのルートとは、ダルブ・ズバイダと呼ばれる北東部のクフィ・ルート、オスマン帝国またはシャミ(レバノン)ルート、北西部のアフリカまたはエジプトのルート、そしてインド洋ルートとも呼ばれるイエメン南部と南東部のオマーンの陸路・海路のルートである。

現在のイラクとサウジアラビアを通る1400キロメートル以上に及ぶクフィ・ルートは、イスラム以前の時代にもメッカへの道として利用されていた。イラクのクーファからメッカに向かい、ナジャフ、アル・タラビヤを経て、アラビア中部のファイド村に至る道は、ズバイダ・トレイルとも呼ばれる。

その後ルートは、西のメディナへ、南西のメッカへと迂回し、広大で危険な砂漠の砂地であるエンプティ・クォーター、マダイン・バン・スレイム、ダット・イルクを経てメッカに至る。

ズバイダ・トレイルは、アッバース朝のカリフ、ハルン・アル・ラシードの妻ズバイダ・ビン・ジャファールにちなんで名付けられたと歴史家は考えている。この古道は交易路としても知られ、アッバース朝カリフの時代、西暦750年から1258年にかけては重要性を増し、繁栄した。

このルートは、エジプトルートと同様、ユネスコの世界遺産候補であり、イスラム教の支配者たちもこの道に注目した。これらの支配者たちは、この道に沿ってプールや運河、井戸などの建造物を設置した。

メッカへ至るルートの中には、イスラム教以前の時代までさかのぼるものもある。ズバイダの水路(右)は1255年以上にわたってマッカの巡礼者や住民を潤してきた。(ユニバーサル・ヒストリー・アーカイブ/AFP)

また、バリケード、橋、城、砦、モスクなども建設された。研究者たちは、巡礼者たちがハッジの旅の思い出として道中の岩に刻んだイスラム教の碑文や記念の文字を数多く発見している。

時代とともに、これらの建造物の多くは劣化したり、空襲で破壊されたりしたが、アラビアの歴史と遺産を照らし出す遺跡が多く残されている。

西側からは、エジプト、スーダン、中央アフリカ、モロッコ、アンダルシア、シチリアからカイロを経由してやってきた大勢のイスラム教徒のために、エジプトの巡礼ルートが利用された。このルートではシナイ半島を経てアカバに至り、そこで2つの分かれ道がある。最初の分かれ道は、聖地メディナや広大な渓谷をメッカ方面に向かう、砂漠の道である。もうひとつは紅海に沿ってドゥバー、ワジ、ヤンブーを通り、東に向かいフライス、さらに南東に進んでメッカに至る、海岸沿いの道である。

このコースは、政治情勢や技術の発展によって時代とともに変化し、ある時期にはオスマン帝国やシャミの道と交差していた。

おそらく、最も詳しく描写されたハッジ巡礼の記述の一つは、モロッコの学者であり、探検家であるイブン・バットゥータの写本の中に見つけることができる。この写本の中では、巡礼の旅の様子が豊富な図版と注釈で描かれている。

イブン・バットゥータは、冒険と知識の探求に駆り立てられ、1325年に故郷のタンジェを出発した。地中海沿岸を陸路でエジプトに向かい、宗教と法律の知識を得て、他のイスラム学者と出会う機会を得たのだ。

フランス・パリのムラジャ・ドーソンによる1790年の版画。サウジアラビア・メッカのマスジド・アル・ハラーム(聖なるモスク)の中庭にあるイスラム教の聖殿(カアバ神殿)が描かれている。(写真:ullstein bild/ゲッティイメージズ)

イブン・バットゥータは旅立ちから1年以上経ってから、エジプトのナイル・デルタを経て紅海のアイドハッド港に入り、そこから船で紅海沿岸の対岸にあるジェッダへ向かうという、当時一般的ではなかった道筋をたどった。その後、エルサレム、ダマスカスなどを経て、1326年にレバント巡礼のキャラバンに合流した。

レバントとメッカ、メディナを結ぶこの道は、ダマスカスからダラーを通り、タブーク北部のダット・ハッジ、アル・ヒジュル、マダイン・サレーを経てメディナへ至るものであった。北からの巡礼者は、しばしば聖地に滞在し、預言者のモスクを訪れてからメッカへ旅を続けた。このルートを辿った巡礼者の多くは、何世代にもわたってメディナに定住し、故郷からのキャラバンを歓迎したのである。

古代からイエメンのルートは、アデン、タイーズ、サヌア、サーダの各都市とサウジアラビア西部のヒジャーズ地方を結び、海岸に隣接するルートと、アシール山脈の南側高地を通るルートがある。オマーン・ルートはイエメン・ルートと並ぶ主要ルートともいえるが副次的なものと考えられ、このルートでは巡礼者はオマーンからアラビア海沿岸を通ってイエメンに向かった。

やがて、メッカやメディナへ至る道には、巡礼者の旅を快適にするために、水を供給したり、急速したりする施設が作られるようになった。

エジプト、イエメン、シリア、東アジアからのルートは、支配者や裕福なパトロンによって資金が提供され、何世紀にもわたって存続した。手ぶらで巡礼の旅をする者はいなかった。ある者は旅の費用となる品物を運び、またある者は地方のニュースを伝え、それを地方間で共有した。

新しいエジプト国立文明博物館(NMEC)で展示されている、イスラム教の聖地メッカのグランドモスクにあるカアバ神殿を覆うため織物である「キスワ」の断片。ガマル・アブデル・ナセル大統領の政権下でエジプトが提供した最後のもの(1961年)である。2021年5月26日撮影。(AFP)

何世代にもわたって、学者たちはこの都市を目指し、概念やアイデアを持ち寄り、科学的事業に貢献し、巡礼の歴史的・文化的意義に注目しながら旅を記録してきた。学者たちの多くはメッカに留まった。また、メディナに定住したり、北上してクーファ、エルサレム、ダマスカス、カイロなどのイスラムの重要な都市で研究を続けたりした者もいた。

19世紀の近代化以前は、これらの旅は長くて危険なものであったろう。しかし、実際の儀式は1300年以上前から変わっていないものの、ジェット機が人を運び、バスや車がラクダに取って代わり、インターネットでハッジの予約ができるようになり、メッカに到着するまでの苦労や手段は見違えるほど楽になり、変わってしまった。

これらのルートは半世紀前に途絶えてしまったが、巡礼者の苦難の道のりを象徴するものとして、記録され、記憶として残されている。何百万人もの敬虔なイスラム教徒の精神的な旅の足跡は、永遠に保存されるだろう。

巡礼者たちは、海や砂漠、大陸を越え、今日まで多くの巡礼者たちを連れてきた精神的欲求を共有しており、それは年を追うごとに増しているのだ。

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