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イマーム・ムハンマド・ビン・サウードは、いかにして人民のために大望に満ちた未来を築いたか

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22 Feb 2023 04:02:57 GMT9
22 Feb 2023 04:02:57 GMT9
  • 歴史家たちは、1727年2月のイマームの治世の開始をもって、第一次サウード王国が始まったと認識している。
  • この歴史的な転換点への認識を高めるため、2022年サルマン国王が「第1次サウード王国建国記念日」を制定した。

ジョナサン・ゴーナル

ロンドン: 1725年、イマーム・ムハンマド・ビン・サウードが父の死によって歴史の表舞台に出た時、このディルイーヤ首長国の新たな治世者がもたらすことになる中央アラビアの運命の変化を予見できたものはほとんどいなかった。

イマーム・ムハンマドは1679年、何百年もの間大きな変化のないディルイーヤに生まれた。

ディルイーヤは、主要な交易路とメッカ巡礼路の交差する重要な都市ではあったが、何百年にもわたり、オアシスの町が寄せ集まった小さな都市国家の一つに過ぎず、それぞれのオアシスの忠誠と敵対とがたえまなく変化する不安定な状態に置かれていた。

統一勢力が現れない中、入植者どうしの対立や部族間の意見の対立が紛争へと発展することがしばしばで、常に情勢は不安定であり、都市の発展は妨げられていた。

しかし1727年、イマーム・ムハンマド・ビン・サウードが権力を手にした後、ディルイーヤ、そしてより広域に渡るアラブ社会にとって、世界は大きく変化することになる。

ディルイーヤは15 世紀、後にワディ・ハニファとして知られるようになる肥沃な川岸に、バヌ・ハニファ族のマニ・アール・ムライディによって建設された。約300年にわたり、指導者たちはマニ・アール・ムライディにならい、ディルイーヤの安定した影響力の拡大に貢献した。

1720年、サウード家の創始者であるサウード・ビン・ムハンマド・ビン・ムクリン王子に指導者としての権力が引き継がれた。彼は 1725 年に亡くなるまでディルイーヤを統治したが、おそらく彼の残した最大の遺産は、1727 年に彼の後を継いだ息子、イマーム・ムハンマドであっただろう。

イマーム・ムハンマドはディルイーヤに新たな目的を与えた。 彼は、ディルイーヤが小さな都市が寄せ集まった少国家であるがために受けていた制約を振り払い、人民ために大望に満ちた新しい未来を築くことを決意した。

今日では、1727 年 2 月にイマーム ・ムハンマドの治世が始まった時をもって、第一次サウード王国が誕生したと認識されている。これを端緒として、1932 年 9 月 23 日のサウジアラビア王国の創設への道が開かれることになった。

イマーム ・ムハンマドは父の傍らにあって政治というものを学んだ。彼は父の治世を通し父を支える重要な役割を担い、1721年にディルイーヤがアル・アハサーのバヌ・ハリド族に攻撃されたとき、指導者としての気概を証明した。ムハンマドは父の軍隊を率いて勝利をおさめ、ディルイーヤの地域的な地位を強化した。

1725年に父が亡くなると、イマーム・ムハンマドはザイド族に属するワトバン一族のザイド・ビン・マルハン王子を支持することを誓い、彼が勝利を収めた後、暗殺者によって翌年王子の短い治世が終わるまで、忠実に王子に使えた。

1727年、イマーム・ムハンマドは指導者としての座についた。イマーム・サウードの息子として、その地位は当然のものではあったが、彼は周囲からの人望も厚かった。公式の建国記録にあるように、アラブの年代記編者たちは、「ディルイーヤの人々は、彼の能力に全幅の信頼を寄せており」、「彼の持つ指導者としての資質がディルイーヤを統一し紛争から開放するだろう」と記録している。

イマーム・ムハンマドは既に「献身、善良さ、勇敢さ、他の人に影響を与える能力」といった多くの資質で知られており、彼の手に権力が移ったことは「ディルイーヤの歴史だけでなく、ナジュドとアラビア半島の歴史の中でも画期的な瞬間」だった。

イマーム・ムハンマドは既にその行動力で知られていたが、賢明な指導者であることも証明した。

イマーム・ムハンマドは、数世紀に渡る口論とつまらぬ対立を終わらせると決意し、最終的に広域にわたるアラブ王国を建国する目的をもって、まずは近隣のナジュドの町々から政治や行政を統一することに着手した。

ディルイーヤ・ゲート開発局が発行した公式の歴史文書が証明しているように、「それは簡単な仕事ではなかった」が、イマーム・ムハンマド・ビン・サウードは、1765 年に彼死を迎えるまでに、中央アラビアが今までに経験した中で最大の王国の礎を築いた。

イマーム・ムハンマドは、計画的に権力が継承されることの必要性をはっきりと意識しており、最後の贈り物として彼の息子、イマーム・アブドルアジーズに権力が平和的に移譲されることに心を砕いた。イマーム・アブドルアジーズのもとで、ディルイーヤの領土と影響力は引き続き拡大していった。

イマーム・アブドルアジーズは、ディルイーヤにナジディ建築の粋を集めた独特なアトゥライフ王室地区を築いた。ここは、2010 年にユネスコの世界遺産リストに「卓越した普遍的価値」を持つ場所として登録され、今日ではディルイーヤ・ゲート・プロジェクトの中心地であり、世界中の旅行者が遺跡と文化を見に訪れる所となった。

1803年には、イマーム・ムハンマドの孫であるイマーム・サウード・ビン・アブドルアジーズが父から権力を引き継いだ。彼の治世中、アラビア半島の大部分へと支配地域が拡大し、聖都であるマディーナやメッカからオスマン勢力を追放するなど、第一次サウード王国は黄金期を迎えた。このため彼はサウード大王として歴史に名を残すことになった。

しかし、広大かつ攻撃的なオスマントルコ帝国に対抗することは、ディルイーヤの破滅につながることになる。

サウード大王が 1814 年に亡くなると、イスタンブールの怒りはサウード大王の長男で後継者のイマーム・アブドラに向けられることになった。オスマン帝国は、ディルイーヤがアラビアにおけるオスマン帝国の権威にもたらした脅威を取り除くため、膨大な軍隊を派遣した。

紅海からナジュドの中心地にかけて、長期間にわたって数々の血みどろの戦闘が繰り広げられた後、1818年、6 か月にわたる籠城の末、ついにディルイーヤは陥落した。この籠城戦ではイマーム・ムハンマドの夢を守るために多くの人々が命を落とした。

第一次サウード王国の第 4 番目にして最後の統治者であるイマーム・アブドラ・ビン・サウードは、鎖につながれてイスタンブールに連行され、そこで処刑された。

しかし、団結と独立の種は蒔かれた。種は、1824年から1891年にかけ、リアドに本拠地を置く第二次サウード王国の形で新たに芽吹き、その後アブドルアジーズ王がナジュドとヒジャーズを統一し、1932年サウジアラビア王国が成立した。

イマーム・ムハンマド・ビン・サウードが1727年に第一次サウード王国を建国して以来始まった歩みを完成させたのが、世に広くイブン・サウードとして知られる人物である。

2022年1月27日、王国の歴史の転換点への認識を高め、「何世紀にも渡って続いた分裂、意見の対立、安定の欠如を終わらせ、アラビア半島に団結と安全をもたらした」指導者たちの叡智を称えるため、サルマン国王が「第1次サウード王国建国記念日」を制定した。

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