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経済危機の責任は経済学者にあるのか?

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29 Dec 2022 02:12:39 GMT9
29 Dec 2022 02:12:39 GMT9

2023年が近づくにつれて、資本主義、そしてそれに合わせて経済学者についても良く思っていない人の数がますます増加しているのは明らかだ。しかし、経済学者が我が国の経済不振に対して負っている責任はどの程度で、どういう種類のものなのだろうか?
2010年に、強い影響力を持つ、アカデミー賞を受賞したドキュメンタリーは、私たちを自分の金銭的利益にしか関心がないろくでなしとして、そして自分の仕事に対して気前よく報酬を与えてくれる金持ちのロビイストかつ擁護者として描いた。

私たちの申し上げることは政治から予測できる場合が多い。
ある政策を支持する請願書に数百人の経済学者が署名すれば必ず、ほんの数日のうちにその政策を非難する請願書に別の数百人の経済学者が署名するのだ。

さらに、私たち経済学者は、全く資格もないのに政策助言を担い、予想通りに悲惨な結果になることがしばしばだ。

しかし、思慮深い批評家はそれでも私たちには経済政策に対して大きな影響力があると主張し、その結果多大な損害を及ぼし続ける。

だが、数人の有力な人物に落ち度があるのだろうか、それとも絶えずその実践者を惑わす経済学に大きな欠陥があるのだろうか。
私はどちらかといえば後者の仮説を好む。アメリカの民主的資本経済は、少数の国民にしか良い結果をもたらしていない。
2008年の金融危機とその深刻な余波は、資本家をより豊かにさせることで誰もが利益を得るということが偽りであることを示した。

その後の数年の間に、教育水準のあまり高くないアメリカ人は絶望のうちに命を落としたり、自分たちの役に立たない政治体制に反発してポピュリズムに転向したりしてきた。

ほとんどの経済学者はこの危機を予想できなかっただけでなく、いくつかの理由で、それを助長したのだ。

結局、彼らは限られた財界や経営のエリートを富ませ、労働から資本へと収入や富を再分配し、何百万もの職を破壊し、地域社会と住民の生活を空洞化してきたグローバル化やテクノロジーの進歩を高らかに唱道してきた人たちなのだ。

さらにひどいことに、人々の絶望による死を目の当たりにして、犠牲者と彼らを助けようとする人たちを非難する経済学者もいる。

政府や公共の政策決定において様々な役割を担ってきた私の友人であり同僚であるアラン・S・ブラインダーによると、政治家が経済学者の提案を実行することはめったにないそうだ。

それどころか、政治家の経済分析の使い方は、酔っ払いが電柱を使うのと同じで、明かりとしてではなく支えとしてなのだ。問題なのは、全ての経済学者が雇い主を喜ばせる立場を選ぶ雇われ学者であるということではない。もっとも、そうである経済学者がとても多いのではあるが。問題は、すぐれた仕事も選択的に悪用されかねないということだ。

同様に、バラク・オバマ大統領の経済諮問委員会委員長を務めたジェイソン・ファーマンは、経済学者の影響力が強すぎるという考えを拒否し、自分の職業に起因する「力を持つことを夢見ることができるだけ」だと論じた。また、他の政権の経済学者は、自分たちが果たすのはせいぜい悪いことが起きるのを防ぐ消極的な役割だと主張した。
政治家は予算を尊重しなければならないが、彼らは自分のお気に入りの政策は元が取れるという幻想の世界に生きていることがしばしばだ。

大統領経済諮問委員会や連邦議会予算事務局の経済学者は政策決定のプロセスに現実感をもたらす重要な役割を果たす。

私はブラインダーとファーマンは正しいが、常に正しいわけではないと考える。ローレンス・H・サマーズが1999年から2001年まで、ビル・クリントン政権の財務長官だった時、途方もない知性、知識そして説得力を使って、投機資金の国際的な流れや、金融派生商品やその他のよりエキゾチックな金融商品にたいする制約を弱めた。

ブラインダーやジョセフ・E・スティグリッツなど他の経済学者がそういった決定に激しく反対したことは思い出す価値がある。

それ以来多くの人が、そのようなクリントン時代の変化が1997~98年のアジアの金融危機と10年後の世界的な金融危機の両方の一因になったと主張してきた。

以前、ロバート・ルービンが財務長官、サマーズが彼の副官、自由至上主義ビジネスエコノミストのアラン・グリーンスパンが連邦準備制度理事会議長だった時、タイム誌が表紙で3人を「世界を救う委員会」として特集し、彼らが「これまでのところだが、世界的な経済破綻を防いだ」ことに関する記事を揶揄した。

その表紙は大半の経済学者が反感よりも敬意を感じていた時代の産物だった。

多かれ少なかれ、私たちは、現代経済学は過去の成長を束縛する、多くが科学ではなく偏見や神話に基づいた規制を一掃する道具を与えてくれた、という考えを渋々受け入れた。今誤りを認めるのが望ましいと思う。

ジョー・バイデン大統領はクリントンやオバマのようには経済学者の意見に従わない。

アンガス・ディートン

この以前の出来事は例外的だったということを認識することは重要だ。もう一人の大変名高い経済学者で現在財務長官を務めるジャネット・イエレンは、同じような影響力や権力を持っていない。

ニューヨーク・タイムズのエズラ・クラインが述べているように、彼女は「内部での議論で実際に影響力を持っていて、他の何人かもそうなのだが、経済学者は会議での支配的な意見ではなく、多くの意見の一つである。」

ジョー・バイデン大統領はクリントンやオバマのようには経済学者の意見に従わない。その上、イエレンやサマーズは実際、例外的な事例である。理論経済学者は通例は財務長官にはならない。

ジョン・メイナード・ケインズは、人生の多くを政策立案者の助言に費やし、ある程度の効果を収めたが、経済学者の影響力について異なる見解を持っていた。彼は次のように書いている。「経済学者や政治哲学者の考えは、正しい時も間違っている時も、通常考えられている以上に影響力が大きい。実のところそれ以外に世界を支配しているものはほとんどない。」彼が「間違っている」という言葉を含めていることに留意してもらいたい。生き延びて繁栄するのは良い考えだけではないのだ。

例えば、テキサス州の共和党員で2013~2019年に下院金融サービス委員会委員長を務めたジェブ・ヘンサーリング下院議員は、政治家になったのは「自由市場の理念を前進させる」ためで、その理由は「自由市場経済は最大限の人々に最大限の利益をもたらす」からだ、と述べている。

ヘンサーリングの見解は、コネチカット大学ロースクールのジェームズ・クワックが「エコノミズム」と呼ぶ、世界はまさしく初歩の経済学の教科書に書かれている通りに動いているという考えの一例である。

そういった教科書は重要なのは明らかである。アメリカでは、大半の将来の政治家、弁護士そしてCEOが含まれる、大学生の約40%が少なくとも経済学の講座を一つは履修するのだから。

左派にも愚かさがある。右派に市場の欠陥が見えないとすれば、左派も同様に、政府が市場の欠陥を確実に修正することを妨げるような政府の欠陥が見えない可能性があるのだ。

政府は、想像上のものであり、十分な情報を持つ国民が選ぶ代表機関であり、独占的な傾向であれ、労働者に対する搾取であれ、過度の所得の不平等であれ、市場の欠陥を是正することを職務とする。

しかし実際には、アメリカ政府はこんな風には働いていない。他国の政府と同じように、しばしば状況を悪化させるし、国民全員ではなく、体制の受益者の恩恵を受けている可能性がある。

私の見解では、現代の主流派の経済学の中心的な問題は、範囲が限定的だということだ。

アマルティア・センの主張によると、この学問が道を誤ったのは、イギリスの経済学者ライオネル・ロビンズの有名で現在支配的な、経済学を乏しい資源の競合する末端間での配分とする定義によってである。

このような定義は、アメリカ人哲学者ヒラリー・パトナムが「アダム・スミスが経済学者の任務に不可欠であると考えた、社会福祉の理にかなった人道的な評価」と呼んだものに比べると、ひどく範囲が狭くなってしまった。

センはロビンズの定義を、19世紀後半から20世紀前半にかけての経済学者アーサー・ピグーの定義と対比しているが、ピグーはこう書いている。「経済学の起源は、驚嘆ではなく、むしろ貧困地帯の下劣さやしぼんだ生活の惨めさに抵抗する社会的な熱意だ。」経済学は貧困や欠乏に伴う下劣さや惨めさの背後の要因を理解しそれをなくすということでなければならない。再びだが、ケインズの「一般理論」にはうまくまとめられている。

彼はこう主張している。「人類の政治的問題は、以下の三つをどう結びつけるかだ。経済効率、社会的正義そして個人の自由だ。」

私たちはケインズが挙げた三つのうち、最後の二つを放棄してしまったようだ。私たちは人間の幸福の尺度としてお金だけに執着している状態を乗り越える必要がある。私たちは社会学者の考え方をもっとよく知る必要がある。

そしてとりわけ、私たちは哲学者により多くの時間を費やし、以前は経済学の中核を成していた知性の領域を取り戻す必要がある。

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