河原町(日本): ここでは時が止まったかのようだ。
女性たちが小さな輪になって座り、静かに、丹精込めて、オレンジ大の玉に一針一針、模様を縫い付けている。
輪の中心には、四国の南西部で1000年以上も受け継がれてきた日本の伝統工芸、讃岐かがり手毬の名人、荒木栄子さんが座っている。
「手鞠」と呼ばれるそれぞれの玉は芸術品であり、蛍の花や重なり星といった詩的な名前を持つ色鮮やかな幾何学模様が施されている。手鞠の玉は完成までに数週間から数か月かかる。中には何百ドル(何万円)もするものもあるが、もっと安いものもある。
この万華鏡のような玉は投げたり蹴ったりするものではない。健康と幸福への祈りを込めた家宝となる運命なのだ。西洋の家庭では絵画や彫刻のように大切にされるかもしれない。
手毬のコンセプトは、優雅な非現実性、実用性のない美しさであり、その美しさは非常に手間をかけて作られることでもある。
「何もないところから、こんなに美しいものが生まれる。喜びをもたらす。手作業でしか作れない美しいものがこの世にはあるということを覚えておいてほしい」と荒木さんは言う。
天然素材
手鞠が生まれた地域は綿花の栽培に適しており、雨が少なく温暖な気候であった。この質素な素材を使って、球状の作品は今も作り続けられている。
手鞠保存会の事務局も兼ねる荒木さんの工房には、繊細なピンクやブルー、鮮やかな色、そしてその中間の微妙な色合いまで、140色もの木綿糸が並ぶ。
女性たちは、サボテンに棲む虫が分泌する赤い染料、コチニールをはじめ、植物や花など自然の材料を使って糸を手で染める。 藍色は何度も染め重ねて、限りなく黒に近づける。 黄色と青を混ぜると、美しい緑色になる。 染め色を濃くするために、大豆の汁を加える。
工房の外では、さまざまな黄色の糸で編まれたボールが陰干しされている。
玉の作成と刺繍
刺繍の施されたボールの基本となる型作りから、この大変な作業は始まる。 炊いて乾燥させたもみ殻を木綿の布に包み、糸を巻きつけていく。
すると、まるで魔法のようにボールが手の中に現れる。 それから刺繍が始まる。
玉は驚くほど硬いので、一針一針、集中力を要し、時には痛みを伴うほど力を込める必要がある。モチーフは正確に、均一に作らなければならない。
玉には、縫い目を導く線が引かれている。赤道のように玉の周りを一周するものや、上下にジグザグに走るものなどがある。
新しい世代にアピール
最近では、日本人だけでなく外国人にも手鞠が再評価されつつある。キャロライン・ケネディ氏は10年前に駐日米国大使だったときに、手鞠作りのレッスンを受けた。
東京羽田空港の免税店で日本の手作り工芸品の販売促進に携わる中村好江氏は、手の込んだ繊細なデザインが気に入って手鞠を置いていると言う。
「遠い昔には日常的に作られていた手鞠も、今ではインテリアとして使われるようになりました。讃岐かがり手鞠は、世界で唯一無二の存在であると強く感じます」と彼女は語った。
荒木さんは、モダンで歴史を感じさせる新しいデザインをいくつか考案した。例えば、クリスマスツリーの飾りとしてなど、玉をより日常的に使えるようにしようとしている。ストラップにぶら下げたミニチュア玉は、サイズが小さいため製作は難しいが、1個1,500円(10ドル)程度で購入できる。
荒木さんのもう一つの発明品は、小さな磁石で開閉するパステルカラーのボールの集合体である。甘い香りのハーブを詰めてアロマディフューザーとして使うこともできる。
世代から世代へと受け継がれる伝統
ゆっくりと話し、いつも考え事をしているかのように首をかしげている上品な女性、荒木さんは、東京で教えるために頻繁に旅をしている。しかし、ほとんどの時間は、青いペンキが剥げ落ち、木製の枠が古びた大きな窓のある廃園となった幼稚園を改装したアトリエで制作やレッスンを行っている。
彼女は、金属工芸作家としてキャリアをスタートさせた。夫の両親は、手鞠が現代で衰退し、消滅の危機に瀕していた時代に、その芸術を復活させるために尽力した手鞠師であった。
彼女の記憶では、彼らはストイックな人たちで、褒めることはほとんどなく、いつも叱られていたという。これは、歌舞伎の演技から邦楽まで、生涯を捧げることを要求される多くの日本の伝統芸術の継承に共通する、愛のある厳しい指導法である。
現在、伝統的な手法で手鞠を作れるのは、女性ばかり数十人だけだ。
「最も難しいのは後継者の育成です。 通常、後継者の育成には10年以上かかりますので、この技術をずっと続けてくれる人を見つける必要があります」と荒木さんは言う。
「手毬作りで苦労しながらも喜びを感じられるようになると、人々は続けようという気になるものです」
AP